全部先生の手のひらの上
ニヤリと弧を描く先生の口元を視て、恐怖で顔がひきつった。頬を伝う汗が地面に落ちる。それとほぼ同時に縺れた足で後退する。
「だけど、宝城。その選択はナンセンス。二十点、落第点だな」
まだ夜という時間帯ではないが、ここは足場の悪い森の中。おまけにミル自身、よく森には出入りしているとはいえ、こんな奥深くまで足を運んだのは初めてだ。そんな場所で足元も後方も確認せずに動けば必然。
「うわっ!?」
木の蔦に足を絡め取られ、無様に体勢を崩しながらその場に倒れ込む。
「お前、体育の成績は良かったじゃないか。なのになんでそんな情けない格好で、地面に這いつくばってる?お前がそんなんじゃ通知表も改めないといけないじゃないか。なあ、宝城」
「た、体育の成績なんて、関係ない、でしょっ」
必死に泥に濡れた顔を拭い、アタシは何とか立ち上がる。
もしアタシが、先生の問いかけに応えて、もっと寄り添っていたらこんな結末にならなかったのかな。アタシが拒絶し続けたように、心のどこかで行き場のない気持ちがずっと張りつめていたのかな。
それって、きっと当たり前のことなんだよね。人それぞれ、理解してほしくてもしてもらえない秘密を、みんな持っているんだ。
でももう、分からない。
悔しいけど。悲しいけど。これが先生の本心なんだ。そう思えたら、少しだけ気持ちが楽になった。
「なんだ、宝城?逃げないのか?」
アタシが転んだ時も先生は手を出さなかった。それは先生がアタシを試しているからだ。執音くんと茉莉ちゃんが人質に取られているこの状況で、アタシを試している。嘘吐きのアタシを試している。
「……逃げたら、どうなりますか?」
おそるおそる訊いてみる。逃げたくても逃げる事すら決断の出来ないアタシだから。
「何もしない。お前は逃げられない。お前の弱音はこうして具現化した。お前が逃げてもお前の心がお前を引き付けるんだ。人は強い心も弱い心も含めて“人なのだから”。だから、お前は帰ってくるのさ」
先生は空虚な目をしたミルの頭に手を当て、ゆっくりとさすりながらそう言った。
「けどな、逃げるってことは諦めるってことだ。だからお前は諦めなくてはいけない。だがまあ、お前にとっては些末なことだよな」
先生はちらりと執音くんに対して視線を送る。うすうすそうじゃないかって気づいてはいたけれど、その瞬間、予感が確信へと変わった。
初めて会った時、アタシを拒絶したあの執音くんが、先生の言うことを素直に聞くとは思えない。そこには理由がある筈。そしてそれはこの状況からしても火を見るより明らかだ。
ボロボロの執音くん。大木に縛り付けられている茉莉ちゃん。そしてそんな二人に付きまとう偽物の執音くん。恐らく執音くんは、茉莉ちゃんを人質に取られ脅されている。先生は教職だ。だから、四六時中この場に居続けることは出来ない。その見張りとして用意したのがあの偽物の執音くん。といったところだろうか。
たぶん先生は最初に茉莉ちゃんに刃物でも突きつけ脅し、無理やり執音くんに偽物を作らせた。あの偽物が人の弱音から作り出されるのであれば、執音くんが必死になってアタシに呼びかけたことも理解出来る。
偽物についてはまだ分からない事ばかりだし、先生しか知らないことが、まだ隠されているかもしれないけれど。言えることは一つ、全部先生の手のひらの上ということ。
「何を考えている、宝城?」
「い、いえ、何も」
「もうじき日が暮れる。お前には明日も学校がある。今日のところは帰るといい。なに、お前さえ構わなければ明日学校が終わり次第ここで会ってやるよ。今日は少し騒がしいしな」
____ッ!?
今の、聴き逃さなかった。
「今日は少し騒がしい」
“今日は”と確かに言った。つまり、明日は落ち着いて話が出来るということに他ならない。
つまり、つまりつまりつまりつまりつまり。
つまり、そういうこと。
至極簡単、単純明快な答え合わせ。
明日は落ち着いて二人で話せる。二人だけで。それはつまり――
「執音くんと茉莉ちゃんは、その、どうするんですか?」
分かってる。
アタシはもうすでにその答えを知っている。
けど、訊かずにはいられなかった。
アタシの気持ちに気づいて、どこかで思い直してくれたらと。アタシの泣きそうな顔を視て心を許してくれたらと。
人間は過ちを犯し、気づき、罪を償う生き物でもある。だから、先生にも良心というものがあるのだとしたら、訊かずにはいられなかったのだ。




