驚倒
「ダメっ、ミルちゃん!ほんとにっ!逃げてっ!」
「イヤだよっ!茉莉ちゃん、ちょっと黙っててっ!アタシ絶対イヤだからっ」
「……っ」
それ以上、茉莉ちゃんは声を上げなかった。今はそれでいい。茉莉ちゃんには悪いけれど、助けるって決めたからそれ以外のことは考えたくないんだ。それに。
おそるおそる、ちらりと地上に目を向ける。執音くん姿をした“何か”は、立ち尽くすようにこちらを睨み続けているだけだ。
その理由はよく分からないけれど、たぶん、木を登るという動作が出来ないんだ。だから、こちらを睨み続けるしかできない。なら、何も問題ないじゃないか。ロープを切ることに集中できるってものだ。
(くっそぉっ、なんで、こんなに硬いのっ!?)
ロープは尋常じゃないほど強靭で、子供のアタシの力じゃ到底歯が立たない。爪が割れそうになるほどに引っ張っても、ただ手が滑るだけだった。
それでもこんなところで諦めきれない。茉莉ちゃんをこんな場所に放置して帰るなんて絶対に無理だ。
「大丈夫っ、大丈夫だからっ。アタシが、何とかするからっ」
精一杯の声で自分に言い聞かせながら、力任せにロープを握り締める。服が擦り切れ、手のひらが擦れ、爪が割れ、痛みが大きくなっていく。けど構うな。無理なんて思うな。無理なんて考えるな。無理なんて、無理なんてっ!
「ミルちゃんっ!!」
その直後だった。ひときわ大きくアタシを呼ぶ声がしたと思ったら、次の瞬間には身体が宙に投げ出されていたのだ。
(あ、あれ?なんで、アタシ?)
悲痛に叫ぶ茉莉ちゃんがだんだんと遠くなっていく。その光景は、おかしなくらいにスローモーションに視えた。
「あぐぅがっ!?」
地面に身体を強かに叩きつけられる。それを見下ろすのは不敵な笑みを浮かべ続ける執音くんの影。
そして____
「は?へ?と、とる、ね、くん?」
「……余計なことすんなよ」
その表情は剃刀のように尖り、見下しているのも相まって、先ほどの恐怖とは違う色、アタシに敵意という名の刃を突きつけたのだ。
「ぅうぅ、痛ぁ……っ」
その直後、脇腹に激痛が走る。今叩き落されて身体を打った?いや違う、逆だ。激痛が走ったから地面に叩きつけられたのだ。
「運良いなお前。逃げるんなら逃げろよ。その代わり、ぼくたちにもう関わるな」
そう冷たく言い放つと、執音くんは再び闇の中に消えていく。
「とるっ、待っ、待っぎゅぶ!?」
呼びかけようと手を伸ばすも、偽物の執音くんに頭を地面に抑えつけられる。手足をバタつかせて抵抗しようとしても、まるで万力に抑えつけられているように手ごたえが無い。
これで本当にアタシと同じ子供の力なのかと驚愕するばかりだ。
「……」
偽物は言語を介さない。これほどの力があれば抑えつけ、そのまま頭が潰れるまで、力をかけることも可能だろう。しかし、偽物の執音は相変わらず薄笑いを浮かべたまま、眼差しは空虚な闇を映し続けるだけ。押しても引いても変わらない。まるで存在自体が空虚のようだった。
「……くっ、あぐ、ぐへぇ」
言葉を返したいのに、喉が塞がれて声にならない。視界がだんだんとぼやけていく。
(だ、ダメだ。息が苦しい。もう、耐えられ、ない……)
視界が黒に染まり、消えていく____
執音くん、なんで____
薄れゆく意識の中、最後に浮かんだのは疑問。明かされることのない答え。
「もういいですよ。執音くん」
その直後、声が聴こえた。頭にのしかかっていた重力が消え、身体の自由が戻ってくる。
「がふっ!ごほっ、げほっ!」
ミルは芋虫のように転がりながら、思わず飲み込んでしまった泥を吐き出し、ぜえぜえと呼吸を整える。
「げほっ!な、なに、なんなの?」
全身がヒリヒリと痛むが、またいつ抑え込まれるか分からない恐怖が勝り、フラフラとした足取りで何とか立ち上がる。
「は、へ?」
今日何度目になるかも分からない驚き。阿呆のように口をパクパクとさせ、開いた口が塞がらない。
「せん、せい?」
そこに居たのは、アタシの担任でもある西條先生の姿だった。




