深森 三ツ池
謎の奇病『トレモロ』と称される呪いを振り撒く魔獣。
実態は違うものの、感染症に近い形でこの川崎という都市で蔓延した。街で聞く限り、感染したとされる者は、揃いも揃って年端もいかない少年少女だという話だ。
自らは影となり姿を隠し、恐怖と不安を煽る。人の心を扇動して織り込むその姿は醜い人間そのもの。汚れと穢れでドス黒く染まった唾棄されるべき醜悪。
だから、魔獣側に意思があるとするなら、臆病で力を持たない可能性が高い。今のところ死人は出ていない。感染者を複数作り、そしてそのまま放置させている。
魔獣は未解明の部分だらけだ。
例えばの話だが、影が降りまく呪いそのものにも、自我や意思がある可能性もある。あえて感染者を自由にさせ、その感染者を介してこちらの動向を窺っているかとも考えた。
(とりあえずで言ってみた“臆病者”という煽りにも反応してこなかったことから見ると、そこまでの力は無いみたいだけどね)
もちろん、相手が冷静であり、煽りに反応しない可能性も十分にあるが、少年に正体をばらされたという事実を踏まえると、そこまで冷静でいられるとも思えなかった。
おそらく、葵が言っていた影の魔獣は臆病者だ。発見し、追い詰めることができればそれでチェックメイト。夜深はそう考えていた。
「この先の三ツ池っていうところではまだ被害が出てないってことなんだよね。でもネットに載ってる情報だとほかにもあったと思うけど」
「そりゃそうさ。だから、最後の詰めは勘が頼りさ。三ツ池は川崎地区からズレている。拠点を作るなら心理的にズラしたくなるだろう?」
「えと……」
「ほら、誰にも見つからないように何か隠し物をしようと考えた時、自分の手元には隠さないだろ?もちろんあえて逆を選択することもあるかもしれないけど、影という性質上、人が行きかう街の中はあり得ない」
「うん、うん!」
自分に言い聞かせるように頷く千寿流。大丈夫、自分より頭のいい夜深が考え出してくれた答えだ。
あたしはあたしの出来る事をすればいい。難しいことは考えない。全力でシャルちゃんを取り戻す。それだけを考えてればいい。
「ここは昔、横浜と云われ栄えていた街。今はもう人も住むことができない荒れ果てた森だけどね」
「……」
件の森につく。この時点で時刻は十五時付近を指している。
入らずともわかる。この森には誰も立ち入らない。
誰も立ち入らないから誰も被害に遭うこともない。誰も被害に遭うことがないから“誰か被害に遭っても誰も気づかない”。
三ツ池と呼ばれる森は日中というのに先は視えず、どこまでも続く闇が来るものを拒む様に生い茂っていた。
夜深が小型の携帯ライトを点けるとライトを中心に光が広がる。森道は悪路を極める。足元に生い茂る草木や蔦、不自然に切り倒された大木に気をつけながら進まなければならない。注意を払いながらゆっくりと。それでも迅速に。
ライトの光で新たに出来た影が暗くて視えなかった森の実態を暴く。自然特有の人為の加わらない、ある種の超越的な姿がなんだか怖かった。
森に入って二時間ほどが経過した。
歩いていると、頬に冷たい雫が落ちた。ぽつり、ぽつり。空から落ちてきたのは、世界を灰色に塗りつぶす水のカーテン。濡れた服が鉛のように重く肌に張り付き、容赦なく千寿流の体温を奪っていく。
雨音は思考を鈍らせるノイズとなり、二時間という時間を永遠のように引き延ばしていた。
日光の当たらない森での捜索だ。シャルのことが無くても早めに終わらせるに越したことはない。
「雨が強くなってきたかな。もう少しペースを上げたほうがいいかもしれないね」
「ね、ねえ、夜深ちゃん。この森広いよね、こんなに広い森の中から、シャルちゃんのこと本当に見つけられるのかな?」
雨の降る薄暗い森を足元に気をつかいながらの移動は、想像以上に体と心を蝕んでいく。悪路に慣れている探検家でも頭を抱える視界だ。
ましてや、まだ幼く身体も出来上がっていない千寿流には相当な負担となっていた。
「雨も降ってきちゃったし。……それに命ちゃん戻ってくるって言ってなかった?」
口から漏れ出たのは一つの弱音。
トレモロは何一つ解明されていない奇病ではあるものの、死亡者という点では一人も出ていないのだ。聞いた限りの話では、失踪した子供たちはそのまま消えてしまうというわけではなく、数日経つと突如として戻ってくる。という話らしい。
ただし、奇病トレモロに感染して。
「それでもいいのかい? 千寿流ちゃん。君は」
「う、うん。いやだけど」
「大丈夫さ。前も言ったけど件の影は臆病者だ。そして子供ばかりを攫っている。いや、子供しか攫うことができないのさ」
攫われた少年少女は幼いながらも皆、自分の判断ができる程度には自立心が芽生えているという共通点がある。
つまり、自制が利かないほど幼い年齢の子は制御できないし、中学生が被害に遭ったという話も聞いていない事から、力も強くないだろう事が予想できた。
(まあ要するに、付け入る隙がある年齢の子供しか狙えないって話だろう。なに、紐解いていけば何も怖くない話だ)
「まあさ、ちょっとの勇気ってやつで意外と上手くいくものだよ」
「勇気……あたしに一番ないものかも」
足どまりうつむく千寿流。その足元は震えていた。
寒さのせいもあるかもしれない。
恐怖が綯交ぜにその足元を掴んで離さない。
「あたし、怖いんだよっ! 進めば何とかなるって思ってた。シャルちゃんも、クラマちゃんも、みんなすぐに見つかるって思ってた! でも、シャルちゃんはこうしていなくなっちゃった! もう一日だよ!? もう一日経っちゃう! もう、ダメかもしれないのにっ! なんでそんなに夜深ちゃんは冷静なの!?」
耐え切れず口から出たものは弱音だった。
一度口にしたらもう止まらなかった。
矢継ぎ早に言葉が溢れ出した。
夜深に詰め寄る。足元の泥が跳ねるのも構わずに、胸に手を当ててその胸中をさらけ出した。
声は震えていた。
ここ最近の不安や恐怖がどっと押し寄せてきてしまったのだろう。もう、足は動いてくれなかった。
足が疲れたわけじゃない。いや、足も疲れて満身創痍だけど、足の疲れのせいじゃない。
気持ちが、心が限界だった。
そんな千寿流を叱るでもなく励ますでもなく、夜深は彼女の頭に手を置いた。
「僕がいるだろう? 君が何もできなくても、今は僕に任せておけばいい」
「夜深ちゃん……ごめん。こんなあたしで。シャルちゃんを助けたいのに。その気持ちはあるのに」
夜深に当たるのは間違いだ。別に自分が悪いというわけでもないかもしれないけど、でも夜深に当たるのだけは間違いだ。
「そうだよね。ここまで来たもんね。シャルちゃん、待ってるよね。あたしのこと、きっと待ってるよね」
少し気持ちを落ち着けてシャルのことを考える。まだ、歩ける。そう思えた――その時。
――――ぉらぁっ!
突如声がどこからか響いた。
この“誰もいない森”から声が響いたのだ。




