アタシと少年と少女
「なあ、宝城。何か最近悩んでないか?先生で良かったら相談に乗るぞ?辛いことがあったら相談してくれ。先生、絶対に力になってみせるからさ」
「いえ、その……」
「宝城。逃げるということは諦めることと同義だ。それは敗北。けど、もし何かにぶつかっても逃げることなく立ち向かう。それだけでお前は誰にも負けない。だから、何でもいい、一歩踏み出してみないか?」
「そ、その、本当に、大丈夫です。何でも、ないので」
アタシはそれだけ言って踵を返すと、そそくさと教室を退場する。心配をする先生の視線を背中に受けながら。
「……」
西條望先生。孤立しているアタシを気遣って声をかけてくれる、 大きめの眼鏡と下がり目が優しい印象を与える模範のような先生だ。今みたいに生徒一人一人を気にかけて親身になってくれる、良い先生だと思う。
けど、アタシは西條先生がどこか苦手だった。容姿とか声とかそういうことじゃない。
時折見せる焦点の合っていない視線。前に何を考えているのかと問いかけたこともあったが、愛想笑いを浮かべながら、やんわりとはぐらかされてしまったのだ。
(授業、やっと終わったな)
ミルは廊下に出ると小さくため息をついた。昨日のことを思い出すと、まだ泥で出来た泥濘に浸かっているような気分だ。
昨日は本当に散々だった。お母さんにも怒られた。
でも、それもお母さんの気持ちを考えれば、当然のことなのかもしれない。
やっと帰ってきたと思ったら、びしょ濡れの娘が玄関先で立ち尽くしているのだから。
驚きと心配、そして連絡も寄こさずに、勝手に遊んでいたアタシへの怒り。そんな相容れない気持ちが綯交ぜになった、何とも言えない表情だったのを今でも覚えている。
無事ということがわかるや否や、いつも以上にこっぴどく叱られた。何せ買ってもらったばかりのお洋服を雨でビシャビシャに汚し、あろうことか帰り道で木の枝に引っかけて破いてしまった。これではもう着れない。だから、怒られるのも当たり前だ。
今日は早く帰れと言われている。
帰ったらたぶん勉強だ。
別に勉強はいい。嫌いじゃない。学生のアタシにとって日々の習慣の一部だし、難しい事や憂うことなんてひとつもない。言われたことをただなぞる様に繰り返すだけ。
黙ったままカバンを肩にかけて、どこかぼんやりとした頭で廊下を歩いていると、同学年だろうか?別のクラスの女の子たちが目の前で楽しそうに話していた。
「ねえ、放課後どこ行く?」
「駅前のカフェ新しくオープンしたんでしょ?行ってみよーよ!」
「んー、いいけど今月ちょっと厳しいんだよね。まあ、行くけどさ」
通り過ぎる。
なんてことない会話だ。
なんてことない会話だけど、アタシには関係のない会話。
自分の手元を見下ろす。少し古くなったカバン。アタシの友だちがもしこのカバンなのだとしたら、なんとなく頼りない感じに見えた。
嫌われているわけでも嫌っているわけでもない。でも、どうも自分は彼女たちのように自然に笑えない。話すタイミングも分からないし、話したところで大抵ぎこちなくなって、どこかで沈黙が訪れる。
話したことなんて無いんだけれど。
けれど、時折こうして他人の笑顔を見ると、胸の奥にぽつんと小さな寂しさが生まれる。それはチクチクと縫うように、いつまでもアタシの弱い心を苛み続ける。
きっと、強いと思っていた自分はいつしかどこかに消え、自分でも気がつかないうちに、とんでもなく弱虫になっていた。
(あの子たちみたいになりたいわけじゃない、けど。それでも、アタシも)
言葉にできない感情を押し殺して、アタシは靴箱へ向かう。下駄箱の先では、がやがやと話し合う生徒たちの談笑が耳に入る。下校時の他人の楽しそうな声を聴くのが嫌で、わざと時間をずらしたけど意味はあまりないみたいだ。
外へ出ると空は澄み渡るような青だった。昨日の雨が嘘みたいに晴れた空を見上げ、ふと呟く。
「お洋服のこと、ちゃんと謝らなきゃなぁ」
叱られたのは当然だ。けれど、今のミルにはほんの少しだけ、謝る勇気が湧いていた。自身の傷ついた心の慰め方なら他の人よりも上手い、そんな情けない自慢にもならない自慢を胸に、帰路につくことを決める。
昨日のことは失敗だったけど、それで終わりじゃあない。少しだけ前向きな気持ちで、ミルは家へと足を向けた。
気がつくと道を逸れ、昨日足を運んだ秘密基地へと向かっていた。
「あれ?なんでアタシ秘密基地に来てんだろ」
自分でも知らないうちにアタシは、導かれるように秘密基地へと足を運んでいた。出来心、いや、無意識。どっちなのかは分からない。
でも、気づいた。まだ道中だ。今から引き返して家に向かえば、少なくとも“学校が終わったらすぐに帰れ”という名目は果たせるじゃないか。なら、迷う必要はない。
だというのに、足は一向に止まってくれない。まるで自分の足が自分のものじゃないみたいに、前へ、ひたすら前へと、歩を進め続けた。
きっと、雨でぐちゃぐちゃになった秘密基地が心配でたまらないのだろう。そう結論づけることにした。あーあ、また今日も怒られるんだろうな、と思うと少し憂鬱になった。
「へ?」
目の前の光景に、呆然とする。愕然とする。
「ん?」
「だ、だれ!?」
秘密基地――アタシが長い時間をかけて作り上げた、世界で一番大事な場所に。アタシが唯一安らげる城に、見知らぬ少年と少女がいたのだ。
「るーくんっ!やっぱりここって」
少女が隣にいる男の子に声をかける。ミルの存在を認識した彼は、不意に目を細めた。それは敵意。自身の縄張りを犯す外敵に向けられる猛獣の眼。そう感じた。
「知るもんか。早いもん勝ちだろ。それにこんなボロっちい場所、誰のモンでもあるもんか。下がってろよ茉莉姉。ぼく達だって必死なんだ」
少年は無言のまま地面に落ちていた棒切れを拾い上げる。そして、覚悟を決めたような精悍な顔つきでアタシに向かって突きつける。
「ここはっ!アタシのっ!」
アタシは咄嗟に声を上げた。自分で言っておきながら、この台詞がどこかおかしい気がした。だって、この秘密基地は「誰のものでもない」。木々生い茂る森の中にアタシが勝手に作り上げたものでしかない。けど、そんな場所でも、アタシにとっては。
「アタシの――」




