影と陰
千寿流が部屋に戻ってきてから一時間が経過した。
「シャルちゃん。どこにいっちゃったの。探しに行かなきゃだめだよね」
クラマがいなくなり、シャルがいなくなった。
クラマとの想い出は思いだせないままだけど、夢で見たあの優しそうなお姉ちゃんなのだろう。あたしの周りから誰かいなくなる。もうそんなのは嫌だった。だから、最低限の準備をして部屋を飛び出した。
とは言っても手がかりは何もない。兎に角、人に訊いたり周りを探しながら夜深の元へ向かう事にした。
「クラマのこと しってるって ほんと?」
シャルは人気のない森の中を歩いていた。辺りには人影はない。
魔獣の繁忙期から外れた森には小動物たちは見かけるものの、好き好んで鬱蒼とした森に入るもの好きな人間はいない。誰もいない森はまだ昼前だというのに木々の影に侵され、全体が昏く寂しい印象を放っていた。
シャルは迷うことなく森を進む。辺りには人影は無い。深い森。誰もいない場所。唯一“何物でもない何か”がシャルの隣に寄り添うように揺れている。
人の形をしていたがそれは影の様に歪み、一定の形を持たず、見ているだけで不安に陥りそうなとても空虚な何か。
傍から見ればそれは幽霊のようにも思えた。
【「ああ、ホントウだよ」】
くぐもった様な二重唱の様な、そんな人間離れした声。
ずっと聴いていれば精神がおかしくなってしまいそうな、不快で不吉な音。
「このさきに いるんだよね?」
【「ああ、ソウだよ」】
影は呟く。
深く昏い深奥に誘う様に、甘美なる誘惑をぶら下げて。
千寿流に対しての後ろめたさはあった。けれど、手掛かりがあるなら飛びつかずにはいられなかった。
千寿流に謝りたい気持ちもあった。だから、クラマを連れて一緒に笑顔で帰るつもりだった。
やがてシャルと影は森の深くに溶けて行き、影さえも視えなくなった。
「森の影。それに……黒い男か。随分とおとぎ話みたいだね。もしかしてだから言えなかったのかい?」
「……」
葵は押し黙ってしまう。全て話すと決めたものの、本当に言ってしまっていいのか決めあぐねている様だ。きっと、話したいけど、話せない。そんな事だろうと思った。
「二者択一。君も生きていれば、どちらかを選ばないといけないそんな岐路に立つ。でもよく考えてみてほしい」
「夜深、さん」
「大丈夫、君に黙っている義務なんかない。自分の母親を救おうって時にそんな下らない約束、守る理由があるかな?」
「そ、そうだよね」
葵が再び顔を上げる。夜深の言葉に全て話す決意を決めたようだ。
「う、うん。えっとね、その影が言ったんだ。君とケイヤク?を結んだって。その、意味は良く分からなかったけど、これを喋ったらお母さんや友だちにも病気がうつるって」
雲散霧消と消えた影。病気というワード。どうやら読みは当たったらしい。
おそらくその魔獣はこの少年の体を媒体として、この川崎という街を自分の支配下にしようとしているのだろう。
(いや、苗床といったほうが正しいか)
具体的な方法は本人に訊いてみるほかないが、トレモロという奇病の正体、その真相が見えてきた。
(そして、人語を発する魔獣。繁忙期ではないとはいえ川崎周辺で魔獣をとんと見かけなかったのはそういうことかもしれないな)
人語を介するとはいえ捕食者と変わりはない。それに外界の者に真面な倫理や説法が通用するとは思えない。夜深は苗床と言ったがそれは途上の話に過ぎない。
彼ら魔の者が何を思って何を目的としているのか、正直なところ不明だ。
さて、あの千寿流とシャルという少女たちをどうするか。
夜深がそう考えていると、下の階から何者かがどたどたと上がってくるのが聴こえた。
「夜深ちゃんっ! いるっ!?」
扉が勢いよく開け放たれると同時に、息を切らせた千寿流が部屋の中に入ってきた。
足元はフラフラで大量の汗を掻いているところから見ると、相当無理をしてここまで走ってきたようだった。
「千寿流ちゃん。葵君もいるし、外のベンチで話そうか。大丈夫、歩けるかい?」
「う、うん、い、行こっ! 夜深ちゃん!」
千寿流たちは命の家から少し離れた木で出来たベンチに腰かけていた。繁華街から少し離れたこの辺りには民家が無い。だから少し大きな声を出しても問題はない。
「よ、み、ちゃ! あ、あだしっ! シャル、じゃんがぁっ!」
息を整えるために胸をぎゅっと抑える。
夜深の顔を見たら堪えていた涙腺が崩壊した。
ある日目が覚めたら目の前からシャルがいなくなった。
フロントに行くと昨日とは違う顔の女性が立っていた。
居ても立っても居られなくなって、何かに駆られるように外に飛び出した。
街行く人は揃いも揃って知らない顔。顔。顔。
まるで自分だけ世界に取り残されたような言い知れぬ恐怖。
だから、逃げるように走り続けた。
そうして、夜深を見つけた。
夜深とは昨日知り合ったばかり、言ってしまえば他人に等しい間柄だ。
加えて細目で高身長でニヤついていて怪しくて黒い。
けれど、今はその不敵な笑みが頼もしかった。
「その様子だと、もしかしてシャルちゃんいなくなったのかい?」
「ぇ゛、ど、どうして、それっ」
当然の疑問。そんな疑問を拭い去る様に、夜深はポケットからハンカチを取り出して、千寿流の涙塗れの顔を拭う。
「だってほら、君から聴かなくてもその顔を見ればわかるよ。僕はよく知らないけど、あの子はきっと勝手に君を置いていくような子じゃない。大丈夫、僕も探してあげるよ」
――嬉しかった。
たまらなく嬉しかった。
あたしは一人じゃない。大丈夫、さっきまでは辛くて痛くて張り裂けそうだったけど。
まだ、頑張れる。そう思えた。




