夜深という男
「っは!?」
がばっとベッドから飛び起きる。
寝惚け眼を擦りながら辺りを見渡してみるが、自分の他には誰もいなかった。
テーブルには昨日の二人分の夕食があった。結局食べれたのは自分の分も半分程度で、一食分は丸々残ってしまったのだ。
けれど、ちゃんと食べられなかったことに対して申し訳ないような気持ちを抱きつつも、昨日と変わらない現実だという事に少し安堵した。
「もしかして、夢、だった?」
あんな夢を見たからだろうか。少し頭がくらくらした。
目覚めは最悪だが、悪夢から覚めてくれたのであればどんなに最悪でもどんと来いである。
とりあえず気持ちに整理をつけて洗面所へと向かう。備え付けのアメニティーグッズから歯ブラシと歯磨き粉を選び出し、丁寧に袋を破いていく。
「えひひひ、あたし、もう甘~い歯磨き粉じゃなくて、ミントでも大丈夫だもんね!」
気分を入れ替えようと鼻歌を歌いながら、歯ブラシに歯磨き粉を乗せる。
(そういえばシャルちゃんいなかったな。おトイレかな?)
暢気にそんなことを考えながらゴシゴシと歯を磨く。
それから十分。着替えも終わり、シャルが来るのを待って朝食に向かおうと考えていたが、なかなかシャルが帰ってこない。
トイレにはいなかった。じゃあ、どこに行ったのだろうか。ちなみに昨日の夕食には手を付けられていない。だからお腹が空いて外に出ていったというのは考えられなかった。
さらに十分。もしかしたら先に食堂に向かっていて、お腹を空かせて待っているのかもしれない。可能性としては少々低いものの、このまま待っていてもしょうがないので、食堂に向かう事にする。
予約されている指定席を覗いてみるが、テーブルには誰も座っていなかった。
(シャルちゃん、どこにいったんだろう? あたし、心配だよ)
すぐに戻ってくるだろうと思っていたシャルは、忽然とどこかに消えてしまった。
昨日、眠たいからといって早めに眠りについた。目が覚めたらすでに姿は無かった。シャルは自由気ままな性格ではあるが、千寿流をこんな風に置いて何処かに行ってしまうという事は一度もない。
(もしかしたら、夜深ちゃんのところに先に行っちゃったとか。う~ん、それは無さそうなんだよな~)
フロントにも一通り事情を説明して、今一度部屋の扉の前に立っている。入れ違いでもいいから部屋に戻っていればいいな、と祈るような気持ちでカードを通しドアノブを回す。
「……」
やはり部屋には誰もいなかった。
本人は気付いていないが、千寿流が出て行った時から部屋の配置は寸分も違っていなかったので、一度戻ってきて出ていったという可能性は無いだろう。
(シャルちゃん。どこにいっちゃったの)
ちょっぴり、ほんの少しの不安が芽生えた。
朝一で行くといった手前夜深には悪いが、シャルの方が優先だ。
ひとまずシャルが戻ってくるまで、アニメでも見ながら部屋で待つことにする。アニメなんか見ている場合じゃないと思いつつも、芽生えた不安を摘み取る為に、何か気を紛らわせるものに縋りたかった。
「葵君。もしかして僕たちに何か隠してるのかな?」
黒ずくめの男、夜深は布団から上体を起こした少年に声をかける。少年の言動はどこか拙い。
まあ、それはおそらくまだ、頭の中で整理できていない部分が多いからだろう。敬語も使えるところから、落ち着けば会話での意思疎通は問題ないだろうと判断した。
歳は体を起こしたことで分かった外見から見るに、千寿流と同じか少し下ぐらいか。
「なにも、ない、です」
否定の言葉。何かを恐れているような、そんな震える声。
「葵、鬼竜院さんはあなたの病気を治してくださったのよ。もし何か少しでも気になることがあればちゃんと言うのよ」
「母さん。でも、本当に、何も、ないんだ」
「……」
夜深は考える仕草を取る。少年が何かを隠していること、そして何かを恐れていることは表情からも明白だった。しかし、無理やり聞き出そうというのも、母親が見ている目の前ではやり辛い。
「命さん、少し席を外してもらってもいいでしょうか。ほら、母親の前では言いづらい事もあるでしょ?10分程度で良いですから」
「はい、もちろんです。どうか、お願いします、鬼竜院さん」
そういうと、夜深に一度深くお辞儀をして部屋を出ていく。
階段を下りていく音。命が完全に階下に降りるのを確認してから夜深は葵に向き直る。
「君はもしかしたら、お母さんには言い辛い事があるんじゃないかな?」
「そんなこと、ない、です」
ふむ、と夜深は口元に手を当てる仕草を取る。
「葵君。君の病気はまだ治ってないんだよ。その病気を完治。完全に治すためには君の協力が必要なんだよね」
「でも、本当に、何も無いん、です」
感情を押し殺しているような表情。
しかし、葵は子供だ。努めて冷静に振舞おうとも小さな所作は隠しきれず、何か強迫観念の様なものに取りつかれているだろうことが伺えた。
ともすれば難しくない。
「あのさ、君はさ、お母さんのこと見ていて気付かないかい?」
「そ、それは、ど、どういうこと、なの?」
初めて葵の顔色が変化する。目を丸くして夜深の顔を見て聞き返す。夜深はその表情の変化を見逃さなかった。
「お母さん、君と同じ病気に罹ってるんだよ。気丈に振舞っているように見えるだろ。それは君に心配を掛けさせない為なんだよ」
真っ赤な嘘である。命はトレモロはおろか風邪や熱にも罹っていない。
しかし、夜深は相手が何を思って、何を示せば心が動くのか、人一倍に人心掌握に長けていた。早い話が屋台のくじ引きの様に餌を捲いて釣り上げる。その餌の魅せ方が他人よりも上手かった。
「そっか、分からないなら無理強いも出来ないね。まあ、僕下に降りてるからさ」
少年にとって命は唯一の家族にして最愛の母親である。子供でもある自分が何かしてあげれることなど何もないが、そうであるならば迷惑だけはかけたくないと思っていた。その命にこうして迷惑をかけていると知ったのなら、もう正常な思考は出来ない。
「あ、葵君お腹空いたでしょ。お母さんに体に優しいものでも作ってもらいなよ」
あと一押し。ドアノブに手をかけるフリをしてそう呟く。
「お、お願いですっ! き、鬼竜院さんっ! お母さんを助けてっ!」
ニヤリと口角を上げてそう微笑む夜深。“ああ、落ちた”そう心の中で小さく呟くのだった。




