逸脱
深く、海の中に潜り沈んでいく。
まにまに身を委ねて、深く、もっと深くへ。
夢裡の波を揺蕩う。近頃、よく夢を見た。
海の底に立つ。
目の前にはまた同じように海が幾重にも広がっている。
現実感が欠遺した世界。それはとても不思議な光景だった。
きっと、ここは夢の中。
過去の記憶が波のように寄せては返し、大きな波頭が飛沫となって消え失せる。
それはまるで大切な記憶が水泡となって消えてしまうようで。
焦燥に駆られ手を伸ばそうとしても決して届くことは無い。
消えたものが大切な事なのか分からない。
夢の中は自由で、何をするにも許されているのに、いつも不自由だった。
だから、早く醒めろとあたしは近衛千寿流を急かし続けた。
「お――――て」
「お――――き――て」
「おきて ちずる!」
小さな少女の声がする。あたしの友だち。シャルちゃんの声だった。
「シャル、ちゃん? んと、んにゃんみゅ……えひひ、おはよ、シャルちゃん」
「おはよ ちずる! あさだよ! は みがいて ごはんいこ!」
瞼を何回か瞬きさせ、意識を覚醒させる。シャルに言われた通り、歯磨きをしに立とうとしてテーブルが目に入る。昨日の三人分の夕食が全て平らげてあった。
(あたし、あれだけの量を食べたんだっけ? あれ、あれって三人分だよね?)
疑問に思いつつも、まだしっかりと覚醒していない頭を掻きながら洗面所へと向かう事にした。
大きな鏡を見る。
そこには寝惚け眼の近衛千寿流が写っている。
何気なしに右手を上げてみた。鏡の中の近衛千寿流は左手を上げる。
慣れないウインクをしてみる。近衛千寿流は反対側の目でウインクをぎこちなく返した。
なんてことのない正常。事象は有りの儘に現実を映し出す。おかしい事なんて何もないはずだ。
じゃあ、なんでこの胸の鼓動は喧しい音を止めてくれないのだろうか。
――ずきりと頭が痛む。
ああ、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。
「今日は少し、体調悪いのかな……」
声に出して冷静に努めるフリをする。
そうだ、今日は夜深ちゃんのところに行くんだったっけ。で、葵ちゃんの容態とか、クラマちゃんのこととか聞きに行くんだったよね。
「シャルちゃん。夜深ちゃん、まだ命ちゃんのところにいるかな? LILLE交換しとけばよかったね。忘れちゃってたよ、えひひ」
「ヨミって だれ?」
シャルからは思いもよらない答えが返ってきた。
――ずきりと頭が痛む。
まだ、少し寝惚けるのかな。
「えひひ、何言ってるのシャルちゃん。夜深ちゃんだよ! ほら、あの背の高いお兄ちゃん!」
「ん シャルル わかんない クラマ しってる?」
――――え?
自分の意志とは関係なく、まるで何かに操られているかのように、シャルの顔が向く方に目線が動いた。
「いえ、私も存じません。千寿流ちゃんのお友だちでしょうか?」
そこには絹の様な綺麗な黒髪に白のリボン。フリルがついたゴシックロリータを思わせる様な、ところどころに装飾のついたメイドドレスに身を包んだ少女が立っていた。
疑問を問いかける黒く宝石のような目。透き通った肌。人差し指を唇に当てる仕草。そのどれもが人形の様な印象を抱かせる可憐な少女だった。
「えと、その、く、クラマ、ちゃん?」
「はい、千寿流ちゃん! おはようございます、よく眠れ……いえ、その様子ですと少し疲れが取れていないみたいですね。少々お持ちください、今、体の温まるホットココアを淹れますので」
そう言うとクラマと思われる少女は、慣れた手つきでおそらく持参したであろうティーカップに、ココアパウダーを入れ始める。
ココアパウダーの甘いにおいが鼻をくすぐる。
何かがおかしい。いや、現に今目の前で起きていることが既におかしなことだ。シャルは夜深を知らないといった。この旅の目的でもあるクラマという少女は目の前にいる。じゃあ、何のためにあたしたちはこのホテルにいるのか。
訳が分からなくなる。
「ちずる どうしたの? むずかしいかお なんか しちゃって ちずる らしくないよ?」
俯いて考えていたらシャルに下から顔を覗かれた。
ドキリと心臓が鳴るのが分かる。暑くもないのに汗が流れた。その目はまるで全てを見透かしているような。
この前見た、裂け目から覗いたブラックホールの様な――そんな心臓を鷲掴みにされるような、恐怖。
「ちずるの いってた ヨミ っていう お兄さん シャルルは しらないよ」
「……」
何も言い返すことが出来ない。
「ちずるの ともだち?」
「え、えっと、夜深ちゃんは、えと、その」
絞り出すように声を出すだけで精一杯だった。
喉がカラカラだ。
ココアパウダーが入ったコップにお湯が注がれる。
カラカラで上手く喋れない。
お湯とココアパウダーが融け合いコップが満たされていく。
カラカラで辛かったから、この場から逃げ出したかった。
「シャルちゃんっ!ごめんっ!あたし、ちょっと外出てきていい?きれいな空気吸いたいから」
そう言って席を立とうとする。
この場所はおかしい。おかしい場所にいるから自分もおかしいと思えてくる。
この場所はおかしい。だからこの場所以外のどこかに行きたかった。
「ちずる どこいくの?」
左手首を握られる。力が入れられているわけでもないのに、首筋に刃物が突き立てられる様な悪寒がした。
「だ、だから、その、き、気分転換。だよ」
振り返りながら努めて冷静に返答する。額に汗をにじませた泣きそうな顔では何の説得力もなかったが、そうしないといけないような気がした。
「だいじょうぶ ほら クラマが ココアいれて くれたよ これのんだら きぶん なおっちゃうって」
「千寿流ちゃん。お待たせしました。どうぞ、お召し上がってください」
目の前に湯気だったココアが入った、お洒落なティーカップが置かれた。
「あ、少し熱いかもしれないので、フーフーしながら飲んでくださいね」
とびきりの笑顔でそう言われる。少しママみたいだなと、漠然と思った。今はその笑顔がなんだか怖かった。
淹れてくれた手前、全く手を付けないのも悪い気がした。そう思い、ティーカップの取っ手に指をかけて持ち上げる。
「でさ ちずる ヨミってだれなの?」
「あ」
ガシャン、と音を立ててココアの入ったコップが砕け散る。中に入った茶色の液体が床のカーペットに染み込んでいく。
まるで、逃げるように深く染み込んでいく。そんな光景を見てどこか他人事のように、まるで自分みたいだなと思った。
「大丈夫です、これぐらいならすぐに対処すれば問題ありませんよ。あ、ティーカップの破片が危ないので触らないでくださいね!」
そう言いながらクラマは備え付けの電話機でフロントにかけ始める。
「で ヨミ って だれ?」
「よ、夜深ちゃんは、そのクラマちゃんを、探してくれるって。話聞いてくれるって。昨日は、その、そういう話だったじゃない」
「ん? クラマは ここにいるよ? おかしくない? ちずる ほんとに ともだち?」
しまった。と思ったときにはもう遅かった。矛盾だ。クラマがいるのにクラマを探している。意味が分からない。
「夜深ちゃんは、その、昨日会ったじゃない。怖い人だったけど、その、優しい人だった、よね?」
「ヨミは こわいひとなの? じゃあ もう あわないほうが いいよ」
「千寿流ちゃん、私はここにいますよ。だから、もうその方のお世話にならなくてもよいのではないでしょうか?」
いつの間にか通話を終えていたクラマがすぐ後ろ、入り口へ向かう通路の真ん中に立っていた。だから、逃げ出したくても逃げ出せなかった。
でも、別にいいと思った。
ほら、あの男には良い印象なんか抱かなかったじゃないか。消してしまいたい記憶なら海に浮かべて攫ってもらえばいい。
そうすれば何も心配いらない。
憂懼も寂寞も流れ去ってしまえばいい。
きっと全て、汚れた漣の音が消し去ってくれる。
何もかも、全て。
LILLEは某SNSです。




