紅の檻
ここは平塚から少し距離の開いたところにある、今は名も無きとある麓の山道。数十年も前にはここも豊かな緑が育んでいたが、眼下に映る景色にその面影はない。一面視界の開けた荒路が続いているだけだった。
足元の地面がぞわりと蠢いたと思った、次の瞬間にはその場には巨大な黒い影が佇んでいる。巨大な蟹のような形をした魔獣。全体を闇色に染め上げ、確かにこの場に生物として存在する証として、赤い動脈のような線をいくつも体に走らせていた。
「オオオオオオオオッ!!」
「フン」
対峙するのは灰髪の青年、工藤風太。
自身の倍近くはあるであろう体躯を前にしても物怖じすることなく、その鋭き眼光で一挙手一投足を睨み続ける。その表情は微動だにせず、むしろ、少し吊り上がる口角から楽しんでいるかのようにも見えた。
「来いよ。ビビってるってわけじゃねえだろ?」
巨体は一向に動かない。蛇に睨まれた蛙の如く、その実力差を魂のレベルで実感していた。自身では敵うことは無い、いや、動いてしまえば獲られる、と。だからこその奇襲。一撃で仕留めるつもりだったのだろう。
「来ねえのか。戦意が無いヤツを一方的に潰すってのはポリシーじゃないんだが。悪ぃな、放し飼いってのは趣味じゃねえんだ」
そう言い終わるとやにわに駆けだす。
対峙して力の差を感じはしたが、魔獣も黙ってやられるわけではない。風太の突進に合わせて、その巨体からは想像のつかないような俊敏さで、身体を真横に滑らせて攻撃を躱そうとする。
「良いジャッジメントだ」
足払いのフェイントからの、即座に角度を付け、眼球を狙うハイキックに転じる変則ナイマン蹴り。しかし、一瞬ストップが掛かった緩急にも魔獣は反応して回避をしてみせた。
どうやら、この魔獣。パワーはもちろん、スピードにも相当な自信を持っているようだった。
「ギャガガガッ!!ギャッ!?ギャがががが!!」
視界から標的を失う。辺りを必死に探り続けるが目の前にいた自分より下の生き物の姿を見失ってしまう。
「上だ」
たしかに聴こえた上空からの声に、咄嗟に顔を上げ見上げるが。
「行くぞ?」
体を捻りながら、そう人差し指を突きつけ宣言する。
「グゥオォ!?!」
衝撃。衝撃。衝撃。衝撃。衝撃。
四方八方から無数に浴びせ続けられる打撃の雨に視界を維持することも叶わず、逃げるという選択肢すら与えられない。上と下、右と左、前方と後方、あべこべに襲い掛かる拳の嵐。視界は歪み、まるで世界が回転しているように感じたのだろう。魔獣は声にもならない声を上げ、ただ蹂躙されるだけだった。
「灼天戦グ断罪セシ紅ノ帳」
三百六十度全てから降り注ぐ衝撃の雨により、赤と黒の血飛沫が形成する牢獄。どこに逃げようと熱い鉄格子が身体を緊縛し続ける。三百六十度とはいえ拳である以上、間隙はある。
赤と黒が網目状に走る、死の牢獄の隙間から伸びる血に塗れた腕は、まるで罪を裁かれ赦しを請う処刑人のようだった。
魔獣は血反吐を吐きながら充血しきった眼で刮目する。死神の様に突然現れ、目の前に背を向けて立っている一人の男を。
「じゃあな。深淵の底で罪でも数えながらゆっくり休んでろ」
____ブチュ
そう言い終わると同時に形成されていた赤の牢獄がゆっくりと収縮し、魔獣もろとも何もかもを圧し潰すのだった。
後方を確認することもなく、左の袖を捲くり銀時計を見る。
(あれから一か月か)
修行として千寿流たちに一か月の猶予をくれと言った。そろそろ約束の時間だ。スマホに連絡ぐらいは入れておくか。と思ったが生憎ここは圏外。現代では携帯会社の数も減ってしまっており、昔と比べ、電波が受信できる場所も限られている。アイツらには悪いが返信をするのはもう少し先になりそうだ。
正直、あの時からどれだけ強くなれたかは正直なところ分からない。実感が無いわけではない。オレの苦手とするパワーも、手数を損なわない形で発揮できるよう、柔軟性を目指して身に着けることが出来た。
判断力はもちろん、付かず離れずの距離を保つ、オレだけの空間。異能を最大限に生かし、相手の異能を殺す戦い方。それは必然、魔獣との手合いに応用が利く話でもある。
オレに出来ることをやる。
それは今も昔も変わってねえ。ただ、その出来ることを増やしたかっただけだ。オレは馬鹿だから、難しいことを考えたって、とんと答えが浮かび上がることは無かった。けど、案外みんなそうなのかもな。
“思考で追いついた答えが現実に結ぶこと。残念ながらこの世界じゃあんまりないんだよ”
力がありませんでしたなんて言い訳が効かないのは良く分かった。死にたくなるくらいには悔しい。泥水を啜るような気持ちも味わった。
けど、泥水啜ったって何も変わる世の中じゃない。死んで変わるのは自分自身だけ。それはさっきの魔獣も同じ気持ちだったかもしれねえな。




