恐怖
「ぐあぁああぁッ!ぐうぅうッ」
何が起こったのか分からなかった。肋骨が激痛を訴え始めて、ようやく思い切り蹴り飛ばされたのだと理解することが出来た。
背中を摩りながら何とか体を起こす。目の前がチカチカして眩しかった。
「吹っ飛べ、オラぁ!」
捻りを加えたミドルキックが千寿流の横っ腹に突き刺さる。まともにガードをする技術もない彼女はたまらず吹き飛ばされ、ゴロゴロと無様に転がりながら斜面を下っていく。
大の字に仰向け。息をするだけで体中が悲鳴を上げる。ヒリヒリチクチク。きっとお風呂に入ったら痛くて入ってられないんだろうな。なんて、何考えてるんだあたしは。
なんでこんな目に合わないといけないのか良く分からなかった。だって、昨日はあんなに楽しくみんなと遊んでいたのに。今日だってもっと楽しくなるよねって思っていたのに。シャルちゃんの家でお泊り会をするって言っていたのに。パジャマパーティーしようって言っていたのに。何でこうなっちゃったんだろう。
激痛の他にも鈍い痛みが身体中を苛める。原因は何だろうか。痛む頭で考えてみたけれどあたしには良く分からなかった。その答えが見つかったからといって、何がどうこうなるわけじゃないのに。
イラっとした?
あの男に?
それもあるけど、そうじゃない。怒りを覚えたのは星ちゃんの死を目の前で目撃したのに、酷く冷静な自分にだ。
あたしは普段、怒るなんて行為と縁遠い生活を送ってきた。悪口を言われたって、バカにされたって、いじめられたって、好きなものを食べられなかったって、好きなものが手に入らなかったって。それってけっこう普通の事で、別に怒るほどの事じゃないと思っていた。
そりゃ、嫌なことをされたら、口に出して怒ってるって相手に伝えることはある。けど、それも話し合えば解決できる事なんだと思ってた。怒っても本心では許してる。本当の意味で怒ってなんかいない。
あたしはいつもそうだった。
魔獣にクラマちゃんが殺されかけた時は怒るって感情は芽生えたかな?
駄目だ、よく覚えてないや。だってあの時必死だったから。怒るなんてどうでもいい感情の入る余地がないくらいに精一杯だったから。
けど、今あたしは怒っている。
自分自身に。そして、目の前のあの男に対して。
この怒りは何処にぶつければいい?自分が自分じゃないみたいだ。
「下らない。馬鹿馬鹿しいッ!馬鹿馬鹿しいんだよッ!」
逆上して頭に血が上った男は咆え哮る。怒り狂う男の頭にはタイムリミットの三十分という文字はもうどこにもなかった。
男は千寿流に近寄り、泥と血に塗れたその足を振り上げる。
「死ねよ、気持ち悪いな。このガキ、クソガキクソガキクソガキっ!」
我を忘れた男は、身体を手で覆うこともできない無防備な千寿流を、危険なほどに血走った表情で蹴り続ける。少女の悲鳴が次第にかすれ、やがて完全に途絶えても、男の狂気は収まることを知らなかった。
「はぁ、はぁ。何をやってるんだ。私は」
時計を見る。秒針が一周し、分針がわずかに動くのを確認する。二十九分が経とうとしていた。
「くっ、もう時間が無い。さっさとここを去らなければ」
我に返った男は慌てた様子でその場を去ろうとする。しかし、右足が動かない。何事かと視線を足元に移すと傷だらけの少女がズボンの裾を掴んでいたのだ。
ゾッとした。
何なんだこのガキは。
殺したと思っていた。殺してしまったと思っていた。殺してしまったのならもうどうでもいい。この場からさっさと逃げ出したかった。
ターゲットは始末した。金払いは人一人を殺っただけと考えればとんでもない額だ。人の命を奪うことに躊躇いが無いのであれば、百人が百人飛びつく案件だといえるだろう。この先十年は働かずに暮らせる額だ。
嬉しい、楽しくて愉快で笑みが隠しきれない。口を閉じても眼を閉じても、ゲラゲラと笑う心の中の自分が、なんだソレは下らない、と腹を蹴破り全てを嘲り笑う。今なら葬式の最中にも笑みが零れてしまうだろう。良心の呵責など、圧倒的幸福の前には無力極まりない存在なのだ。
けれど、今の彼の胸中にはその幸福以上に支配している何かがあった。
それは、恐怖。
得体の知れない恐怖。
自分の頭では許容しえないバケモノに対する恐怖。
だから、次は理性を以て、純粋すぎる殺意の元、少女の顔に向けて踵を振り下ろした。




