メノウズ・その5
「ちょ、おい! なんも考えんで飛び出したかて、ワイの二の舞やぞ! どないするつもりや!?」
ズルズルとペンキ跡のような『手形』に引きずられるガオルが、頭上へ向けて大きく叫ぶ。
しかし、声を向けられたマダコはというと、お構いなしに彼を跨いだまま腕を広げた。
「ちゃんと考えてるも~ん! 眼には眼を! 歯には歯を! 手には手を! ということで、いっぱい手を持って来たよ!」
「ソレ、さっきのタコのやつやろ!? ちゃんと動くんやろなぁ!?」
「動くも~ん、ほら! てぃや!」
マダコから放射状に伸びた6本の腕が巧みに揺れると、ガオルに引っ付いていた『手形』を鷲掴んで放り投げていく。
少年から剥がれたそれらは、どれも黒ずんでピクピクと痙攣していた。
そのまま床に転がると、まるで息絶えた虫みたいに丸まって動きを止めてしまう。
「おぉ!? ベロのやつはまったく歯も立てられんかったっちゅうに! どうなっとんねん!?」
「もしかしてですが……あの黒く色づいていることが関係しているんでしょうか……?」
「あったり~! タコ墨を手に擦りつけたんだよ~」
ニッと笑うマダコが、黒くかすれた掌を見せつける。
書道で書きなぐってカスカスになった筆のように、元の手の色が透けて見えていた。
そして、その手を背中のタコの頭の横に持っていくと、漏斗のような部位から新しいタコ墨を吐き出させて補充する。
まさに硯に筆を付けるといった流れなのだろう。
「まぁまぁまぁ! 素晴らしいです! 色だけの存在だからこそ、濁ることが弱点だったのですね!」
「なるほどなぁ、せやからあの引っ付き虫どもがあんな汚れとんのか……のぉ!? ちゅうか、ワイの一張羅まで真っ黒やんけぇ!!!」
「あはは、ごめ~ん!」
タネ明かしを受ける最中に、ガオルがハッとしたように自分の身体を見下ろす。
すると、正月の羽子板で遊んでもここまで汚れないだろうというほどにべっとりと墨汁の染みが広がっていた。
ペンキよりもさらに水っぽい墨なのだから、垂れるなり跳ねるなりで飛び散るのも無理はない。
自由の代償はかくも重いものなのかと、怒るに怒れず涙を呑んで彼は俯く。
そのまま静かに立ち上がると、元気なマダコに小さく礼の手を振り、顔を上げないままうしろ下がっていった。
「くぅ……ワイは手も脚も出んからな。 後は任せたで……」
「うんうん、アタシに任せて! さぁ来い、眼玉ちゃん! ガッちゃん達を苛めた仕返ししちゃうからね!!」
「頑張るにゃ、マダコ~!」
「ぴぴぷぇ~!! ぱふぱふ!!」
どんよりと影が差すガオルとは正反対に、スポーツの応援でもするように盛り上がるガッポリとタイコ。
彼女達の声のおかげか、マダコは巨大な目玉に睨まれようとも、これっぽちも臆することなく堂々と向かい合っている。
なによりも、厄介な『手形』を退けられたことが、マダコへ慢心にも近い勇気を与えているのだろう。
「もうどれだけ手を出したって、アタシには手を出せないもんね~!」
「ククク……さて、それはどうだろうな」
「え……? あの、それはどういう……?」
誰が見ても形勢は逆転した。
そのはずなのだが、ネクロだけは含みのある嘲笑でマダコを見つめている。
自分達には見えない局面が見えているであろう、彼女の不敵な笑い。
それがどうにも気になり、クラヤミはジッと注意深く目の前の動向を観察し始めた。
『ミテ……ミテ……モット、ミテ……』
「その『手』は喰わないもんね~! だって、眼を瞑ったって、ぺたぺた音がするんだもん! 簡単、簡単!」
邪魔をするマダコを敵視するように、怒りで強く発光しだした眼玉の怪異。
直視するのも憚れる光量であり、誰も眼を向けられない。
見てくれと言うのに、本末転倒である。
それでも辛うじて薄目を開けてマダコの動きだけでも視界へ納めた。
「大丈夫みたいですが……あ……!!」
まず気が付いたのは、マダコの背に居座る『コロモダコ』の様子がおかしい事。
身体をポンプのように伸び縮みさせて、必死に踏ん張っているようである。
そして、頭の横についている漏斗から、墨汁のような液体がちっとも出て来る気配が無い。
この灼熱の太陽みたいな熱視線もあり、枯れてしまったのだろう。
「あれ? ねぇ、タコちゃん、墨まだ~?」
少し遅れて、マダコも異変に気が付いたらしい。
慌てて振り向くが、既に遅かった。
乾ききった彼女の手では、迫りくる『手形』を払いのけることが出来ない。
案の定、怒涛の勢いで雪崩れ込んで来る大量のそれを捌ききれず、マダコの脚が掴まれてしまった。
「ひゃぁっ!? あれぇ、なんでぇ!?」
「ぎにゃぁ!? マダコっ、大丈夫にゃ!?」
「ぴぷぇっ!?」
「たいへんです! 助けてあげませんと……!!」
「せやかて、ワイらに何がしてやれんねん! 人間様はなぁ、タコみたいに墨を吹けんのやで!?」
「いえ、一つだけ……出せるものがあります! ベロちゃん!!」
クラヤミは迷うことなく白い細腕を伸ばすと、ガオルの胸に張り付いているトラの剥製の口に目掛けて差し出すのであった。
続きます。




