コロモダコ・その5
目が釘付けにされているせいで、足音の主は分からない。
それでも、藁にも縋る思いでガオルは叫んだ。
彼の言葉が通じたのか、一際大きな水音を立てると足音が一瞬途絶える。
次の瞬間、少年の視界を埋め尽くしていた『眼玉の怪異』が見えなくなってしまった。
「お、おぉぉ……ワイの眼! 戻っとる!! 見えなくて、見えるようになったわ!!」
傍から聞くと支離滅裂だが、彼の視界から怪異が見えなくなった。
同時に、身体を押さえつけていた『手形』達も乾いたセロハンテープのようにパリパリと割れて力を失う。
これ幸いと、干しブドウになりかけた両目を目一杯に瞬かせ、零れるくらいの涙を溜めた。
自分の涙に勝る目薬は無いだろう。
「くぅ~生き返るでぇ……!!」
「ククク、つくつぐ間抜けだな貴様は……よく見て見ろ。 ソイツのおかげで、命拾いしたらしいぞ?」
「ソイツやて……?」
ネクロに言われて、もう一度、仰向けのまま窓の方へと頭を上げた。
目の痛みが消えたことに舞い上がるあまり、窓へ目を向けるなんて気が重く感じてしまう。
それでも興味の方が勝り、恐る恐ると目を上げていく。
「なんや? こないなカーテン、廊下にあった覚えないで?」
目に付いたのは、窓をべったりと覆う大きな衣が一枚。
正確には、彼の位置からの視界を遮るようにして、窓の表面に布のようなナニカが引っ付いていたのである。
「新聞部の遮光カーテンに似とる、真っ黒な布……やな。 そうとしか言えへん」
大昔は、写真の現像のために一切の光を防ぐ必要があった。
それは今も部室のカーテンとして使用されており、部員として親しみのある墨色のもの。
ガオルが手を伸ばし、質感も確かめようとしたところで背後から声を投げられる。
「けほ……おかげで、あの光から守られた……ということ、でしょうか……」
「クラヤミ! お前も自由になったんか!」
「あ、あの……まだこっちを見ないでください……その、縛られたままなので……」
「どわ、スマンかった!」
「焦るでない。 我が今、外しているところだ」
慌てて目を伏せるガオルの後ろで、するすると布の擦れる音が落ちていく。
次いでコツンと床を叩く音が鳴り、囚われていた彼女が降り立ったのだと知らせていた。
「さて、ソイツも限界だろう。 どうする気だ? クックック」
「せやから、ソイツってなんやねん!!」
「もしかして、ですが……先ほど私の腕を掴んだ方の『べとべとさん』、ですか?」
「これがか!? ウソやろ!? あれはヒトだったはず……」
驚愕で目を丸くするガオルが、床に転がった腕の残骸へ振り返る。
ガオルの連れて来たトラの剥製、ベロが食いちぎったものだ。
太い幹の先に枝分かれする指、黒ずんではいるが爪も確認でき、『腕』と分類して間違いないだろう。
ただし、腕にはタコのようにぷっくりとした吸盤が並んでいるのだが。
そう、タコのような。
「や、なかったな……タコやったわ。 ちゅうことは……?」
止まっていた手を進めると、ガオルの指先にぶにっとした柔らかい感触が返って来る。
ほのかに湿るソレから手を離すと、彼の人差し指の腹には真っ黒なタコ墨が付着していた。
「ははぁ、まるっとするっと全部分かったでぇ。 タコやから張り付けるし、墨で遮光も出来るっちゅうわけかいな」
「身体が柔らかいので、こうして伸びてカーテンになってくれている……ということでしょう」
「フン、ようやく気が付いたのか。 我はあの動画とかいうもので既に気が付いていたぞ」
「せやから、はよ言えや!!」
「それにしても……なぜこのタコさんは私達を守ってくれているのでしょう……?」
クラヤミが不思議そうに窓へ近づくと、カーテンの中央部がもっこりと膨らむ。
そのまま丸みを帯びた部分が溜飲するように下がり、ポトンと黒いナニカを吐き出した。
足元に転がるソレは、彼女にとって非常に見覚えのある三角錐型の物体である。
一目で、クラヤミはなんであるかを理解し、喜びを表す。
「あら……? まぁまぁまぁ! カゲンブさんじゃないですか!」
「ん? あぁ、せやったな……コイツに盗まれとったんやっけ」
「はい! これで私達だけでも現実に帰れますよ!」
「なら早速頼むわ! ネクロの話やと、このタコも長くはもたんらしいしな」
「ほう、なるほどな。 貴様等は、ソレを使って戻っていたのか」
「ワイらはお前みたいに『煙』で戻れんからな。 ちゅうかネクロ、始めからお前が手ぇ貸してたらなぁ……こないな苦労はせんかったんやぞ!」
「まぁ、いいじゃないですか、戻れるんですし。 では、カゲンブさん……よろしくお願いします」
クラヤミが拾い上げた一眼カメラをパシャリと瞬かせると、周囲は一瞬にして光に包まれる。
強い光が写真を焼き付けるように、現実を現像したのだろう。
眩む目を擦ると、子供達は元居た小学校の渡り廊下に立っていた。
「廊下が戻っとる……帰れた! アイツから逃げられたんや!!」
「クックック、それはどうだろうな」
「おい、いいところで水差すなや!」
肩の荷が下りたと全身を伸ばすガオル達だが、ふいに大きな声で跳び上がる。
「あぁ~!! やっと来たにゃ!!」
「ぴぷぅ~!!」
「お、お前らはッ!?」
続きます。




