メノウズ・その2(挿絵)
赤ん坊のような小さくまん丸のものから、老人のような枯れ細った枝のようなものまで。
何人もが入り交じったような手の跡が、廊下の床にべとべと色を付けていた。
今しがたまで引っ張り合いをしていた怪異の方とは異なり、水の滴るような湿り気は感じられず、ただただ鉄臭い『血糊』だけを残している。
それが、一手、また一手と、重い身体を引きずるようにガオル達の足元にまで接近していたのである。
「た、大変ッ! ガオルさん、離れてください……!!」
「言われるまでもないわ! うぇ、キモッ!!」
目と鼻の先にまで近付いたからこそ気が付くこともある。
ツンと鼻を刺激する、独特の鉄の香り。
色こそ絵の具のようだが、しかしそれは血を混ぜたモノであると嗅ぎ取れた。
思わず二人はマスクのように口と鼻を手で覆い、喉奥から込み上げる胃液を抑える。
小学生が目の当たりにするには、あまりにも生々しい現実。
脳が理解するよりも早く、身体が拒絶反応を示していたらしい。
そんな意識が鼻に集中している中、突然に眩暈のような頭の痛みを感じる。
『ミィツケタ、ミィツケタ……』
下ばかりを注視していたが、頭に響き渡る声に反応し、跳ね上げた肩と同じように目を上げる二人。
すると、真ん前の窓いっぱいに映り込んで入りきらないほど巨大な瞳と眼が合ってしまった。
ギョロリ動きながらと二人を見比べる眼玉。
新しい玩具を品定めでもするように目を輝かせ、まるで落ち着きがない。
「ま、マズイで……これはホンマにマズイ……!! 完全にロックオンされとる!!」
「どうしましょう……今、下手に動いて刺激すれば、間違いなく狙われてしまいますよね……?」
「クク……見物だな、これは」
「あぁッ!? お前だけ、ズルいで!!」
この場で唯一の余裕を持った声の方を向くと、眼玉の映り込む窓側の壁に背をもたれかかるネクロの姿。
窓から覗き込む怪異からは、死角になって見えない特等席を陣取っている。
彼女は何時の間にそうしていたのか。
まるで始めからその習性を知っていたかのよう。
しかし、今更それを見せつけられたからと言って、真似しようにも怪異に見張られている。
ガオルは憎たらしそうに歯噛みしながら、彼女を睨み付けるしかなかった。
『コッチ、コッチ、コッチキテ……キャッキャッ』
蛇に睨まれた蛙のように、じっとりと額に汗を溜めていると、ふいに怪異が騒ぎ出した。
渦巻くメノウの瞳は、じっとクラヤミを捉えている。
そして、声の指示に従うように、手形達は一斉に彼女の方へと這い進みだしていく。
「アカン! そっちに狙いがいったで!!」
「あッ……!?」
反射神経の鈍いクラヤミは、咄嗟に逃げることが遅れてしまい、脚を躓かせる。
その好機を逃すはずもなく、彼女の足首にべったりとペンキのような手の跡が塗りたくられていく。
一つ、二つ、手形が重なり、見えない力が圧迫していった。
『色』そのものに力が宿っているのだろうか、そのまま掴まれた足首からズルズルとクラヤミが引きずられ始める。
今度は腕を掴まれた時とは違い、何重もの手が相手。
一切に抵抗も虚しいほどに強力らしく、大柄な彼女を軽々と移動させていた。
「あぁ、脚が……!!」
「クソォッ!! あのバケモノの方へ向かっとる!! ベロ! もう一回、やってまえ!!」
「グルルォ……グォン!!」
タコのような腕を咀嚼していたトラの頭が、ガオルの声に呼応して口を放す。
そのまま、彼の指差すクラヤミの足首へと飛び掛かっていった。
「ゴニ゛ャァン!?」
だが、トラの顎は何の歯牙にもかからず空を切る。
勢いに乗って彼女を通り越すと、ぼすんと床に転がってしまった。
逆さまに引っ繰り返ったそのトラは、不思議そうに鼻をヒクつかせて獲物を探りだす。
「な、なんでや!? さっきは、噛めたやないか! なんで、今度はダメなんや!? だったら、ワイが直接……!!」
友を見捨てるわけにはいかないガオルが、クラヤミへと駆け寄り手を伸ばす。
しかし、結末は同じ。
彼の手もあるはずの腕を触れることすらできず、それどころか彼女の足首に触れることすら出来てしまった。
これは腕を掴んだ怪異とは明らかに似て非なる現象、実体のない虚像のような力が襲い掛かっているのだ。
「んな、アホな!?」
「こうなっては……やはり、ガオルさんだけでも逃げてください……!! 掴まれば、私のように逃げられなくなります……!!」
「それしか……ないんか……!?」
意を決したというよりも、諦めたように悟った表情で語るクラヤミ。
彼女はそっと自分の手を突き出すと、ガオルの胸を押しやった。
こうでもしなければ、彼は決して離れようとはしないと分かっているのだろう。
彼の方もそれを察したらしく、目に見えてしおらしく背を丸めて静かに泣いていた。
そうして、ついにクラヤミが窓の縁へと引きずられると、新しい手形が彼女の四肢へと張り付いていく。
「うぐ……あぁ……!!」
よほど力加減を知らないのだろう。
あちこちを鷲掴みにされたクラヤミが苦しそうに呻き、彼女の身体が起こされていく。
十字架に張り付けられたように両腕を伸ばし、身体がピンと立てられる。
顎をグッとしゃくり上げたかと思うと、無理矢理に怪異と見つめ合うように仕向けられていた。
『コッチ、ミテ……コッチ、ミテ……』
「あ、あぁ……あぁぁ!!」
「どないした、クラヤミ!?」
「ハァ、つまらんな。 その女、窮地になれば、なにかしら秘密を暴けるかと期待したのだが……」
「なんやとぉ……って、うぉ!?」
悲しみの眼から一転、怒りを宿してガオルが振り向くと、そこには怪しく『赤い瞳』を輝かせるネクロの姿があった。




