トラニナッタ・その5
立て籠もっていた教室を出ると、生徒達は散り散りに分かれていく。
ガオルの作戦の元、それぞれの役割を全うするために。
だが廊下はいつの間にか霧がいっそう濃く広がっており、どこに骸骨が潜んでいるとも分からない。
この状況下での単独行動は非常に危険であり、本来ならば自殺行為だろう。
その対策としてか、それぞれに剥製の頭を持たせていた。
一人でいるよりは、お供がいた方がいくらか助けになるだろうというガオルの発案だ。
「うぅ……委員長にはカッコイイところ見せようとして見栄を張ったけど……本当に大丈夫かな……今更心配になってきたよ」
立派な角を携えた雄鹿の剥製、その板張りをギュッとハンドルのように握ってゲットが呟く。
いざとなれば、角を振り回す気でもいるのだろう。
だが、肝心の鹿の方は我関せずとばかりに口をモゴモゴと動かし、遠いどこかに視線を送っていた。
「キミさぁ、嗅覚とか自信あるの? 骨の匂いを察知できたりとか……いや、鹿に話しかけるなんて馬鹿みたいだな、ボク……」
「ピィィブゥ」
「え、どうしたの……?」
返事を期待していないゲットであったが、突然目の前から玩具の笛のような鳴き声が発せられる。
最初はゲットも気まぐれに鳴いただけなのだろうと、歩みを再開させようとしていた。
しかし、それを阻止するように首元へサワサワと触れる感触が奔る。
もしや、骸骨か。
そんな考えが一瞬よぎり、彼は髪の毛先を広げるほどにゾワリと背筋を凍らせて、思いっきり跳び上がってしまう。
「ヒェッ!?」
蚤の心臓をバクバクと膨らませ、目をこれでもかと見開くゲット。
そんな彼の視界はどこまで登っていき、止まることはない。
まるで恐怖の余りに幽体離脱し、自分の身体を抜け出てしまったような浮遊感が全身を包んでいた。
やがてゴチンという音と共に、目の前が明滅したように真っ白へ染まる。
「あ痛っ!? あ、あれ……ボク、浮いてる……?」
「プイ!」
「あぁ、そっか……キミもいたんだっけ。 緊張して頭が真っ白になってたみたいだ」
ジンと染みる頭を摩りながら、鹿とは違う鳴き声の持ち主を見る。
というよりも、それしか視界に入らなかった。
綿埃のような白くて丸いフワフワの生物が彼の顔にべったりと張り付き、視界を占領していたのだから。
「名前……えぇっとクラヤミさんは『浮遊兎』って言ってたっけ。 あのぉ、そろそろ降ろしてほしいんだけど……」
毛の中へ無造作に手を突っ込み鷲掴むと、自分の視界を塞ぐ奇妙な怪異を引き剥がす。
触ってみると本体はかなり小さく、驚くほどに軽い。
教室で指摘されるまで、ゲット本人は纏わりつかれていたことすら気が付かないわけだ。
「言ってること、分かるかな? 下、地面を歩きたいんだ……けど!?」
人恋しいのか分からないが、小刻みに震えて必死にしがみ付こうとするフユウサギ。
しかし、このままではまともに進めないと困ったゲットが、身振り手振りで真下へ指を振る。
その指し示す先を自分も釣られ振り向くと、霧に紛れて蠢く怪しい影が目に付いたのだ。
ゲットは思わず息を呑み、その影の様子を凝視する。
大きな一塊ではなく、小さく不揃いなナニカが沢山湧いていた。
「む、虫……!? うぇぇ、キモッ!?」
生理的な嫌悪感を催し、ゴキブリでも見てしまったように顔を青ざめていく。
そして少しでも地上から遠ざかろうと、ゲットは天井に背を預け、手にした鹿の剥製を盾にした。
届きもしないというのにブンブンと牡鹿の角を振ると、団扇のように風が生じて床が露わになっていく。
「ブッ、ブモモ!?」
急速に左右する視界のせいか、焦点の合わない鹿が鼻息荒く困惑した鳴き声を出す。
風が増したおかげか、やがて霧のヴェールが捲れ全貌が見えて来ると、ゲットがまたも悲鳴を上げた。
「ヒィィ!? こ、これも全部骨なの!?」
「プイ!」
あまりの衝撃で洩れるゲットの声へ、そうだと言わんばかりにフユウサギが手の中で暴れる。
この小さくひ弱なフユウサギは、どうも敵対する怪異の接近から逃れるためにゲットを浮かせたらしい。
そして死体へ集るウジ虫のように這う『指の骨』達、それは確かに敵意を放っており、ゲットが落ちて来るのを今か今かと待ち望んでいるようであった。
「や、やっぱり降ろさなくていいよ! さっきの取り消し!! なんなんだよ、こいつら!! 骸骨じゃなくても動くなんて卑怯じゃなかいか!!」
身体の一部位でしかない存在となっても、人の血肉を敏感に嗅ぎつけるその執念深さ。
あれがもしも自分の肌に触れたらと思うと、ゲットは今にも卒倒しそうになるのを堪えるのが精一杯。
だというのに、安全圏と思っていた天井にまで『魔の手』が伸びる。
「……ん? なんか、背中に振動が……」
チョークで黒板を掻くようなカリカリという僅かな振動。
それが四方八方からゲットへ向かって伝わって来る。
まさかと思い、恐る恐る視線を床から上げていく。
真横を向いた時、彼が目にしたのは、天井を蜘蛛のように駆ける『手首の骨』が無数にいたのだ。
「ウソォォ!? こっちにも来るなんて聞いてないよぉ!!」
「ププイ!!」
もはや上も下も逃げ場なし。
そんな絶体絶命の窮地で、フユウサギが導くように鳴くのであった。
続きます。




