リビングヘッド・その5
執拗に舐めていたガオルの白シャツ。
それがよほど気に入っていたのだろう、虎の頭は何食わぬ顔でひょっこりとお腹に鎮座している。
ベロベロと口の周りを舌で拭い、機嫌良さそうに毛繕いでくつろいでいるほどだ。
「どないなっとんねん、コイツゥ!? 自分から外せ言うたクセに、自由になった途端、また自分からくっつきよったで!?」
「ガオルさんを気に入ったのかもしれませんね。 そういえば……この子達って生涯死ぬまで動物園で育った野性を知らない動物ですし、元から人懐こいのかもしれないですよ」
あまりのショックで固まっているガオルを放置して、クラヤミはさきほど外された板材のところへ駆け寄る。
そして彼女はそのまま持ち上げ、ほら、と板飾りに印字された文字を掲げて見せた。
「その子の名前、『ベロ』ちゃんって言うみたいです。 この名前、きっと……とっても甘えん坊だったんでしょうね……」
「グナ、グルルナニャ……」
「ほら、ちゃんと『そうだよ』ってお返事してますし」
「アカン、ついていけへん……どっからツッコめばええんや……」
何故かこの状況に順応する彼女や、自分の身に起きた状況を整理しようと、混乱したガオルが唸りながら頭を抱える。
もしかすれば、こんな荒唐無稽な珍事は全て夢かもしれない。
そんな期待を込めて、ギュッと目を閉じ、それからゆっくりと薄目を開いてみても、やはり消えない。
ビクビクと震える手をお腹に持っていくと、ゴワゴワとした堅い毛皮の感触が伝わり、嘘ではないと実感させる。
試しに引っ張っても外れず、完全に服と一体化している様子。
ぶかぶかとガオルのシャツが揺れるだけの徒労に終わる。
どうあがいても現実、諦めたようにガオルが深い溜息をつくと、虎の顎を乱雑にワシワシと撫でてやるのであった。
「グワワ、グニャ!」
「ふふ、喜んでますね……」
「はぁ~……あんなぁ、それどころやないて……野良猫を構うんとは話がちゃうねんで……」
「ほら、害は無いようですし……ね?」
そう言って、クラヤミは虎の可愛らしいピンク色に染まった鼻頭をブニブニと突く。
虎の方は嫌がって、顔を横にブルンと振り払い、『ブルニャグニャ』と下手くそな鳴き声で抗議していた。
「そりゃ、コイツはひょうきんかもしれんけどなぁ……」
『ひょうきん』と評された虎の頭は、ぐわ~っと大きな口を広げて欠伸をひとつ。
その後は忙しそうにベロベロと毛繕いに戻っていく。
もはや威嚇することも、眉間に皺を寄せることもない。
この奇妙な剥製は人が近くにいると安心するようだ。
先程は、『なぜこの人間達は逃げるのか』と、イラついていただけなのかもしれない。
「まぁまぁ……まずは、はぐれてしまったター坊さん達と合流しましょう。 この分なら、他の動物達も人恋しいだけで危険は無いでしょうし……」
「う~ん、さよか? ちゅうか、この霧とコイツら……なんや関係あるんかいな?」
「どうなんでしょう……?」
こうして話している間も、少し開いた部室の扉からは、もうもうと線香の香りが入り込んでいる。
ズカズカと無神経に入り込んで来る灰色のソレは、まるでこの学校そのものを包み込んでしまいたいと言う意思を感じさせた。
「一先ず、コイツらから出とるわけじゃなさそうやけども……せやったら、どっから来とんねんコレ」
「確か……迎賓室で霧に気が付いてから、この子達が動き始めましたから……何かしらの因果関係はありそうですが……」
「なぁ、トラ公……お前、なにか知っとんのやら吐いてみい?」
「グルルナ、オベッ」
しかし吐き出されたのは、『答え』ではなく『毛玉』。
毛繕いで飲み込んだ毛が固まった丸い物体が床に転がっていく。
「ガオルさん、気は確かですか……? 動物が喋るわけないでしょう?」
「う、うっさいわ!! お前かて、さっき話しかけとったやろ!!」
信じられないものを見た、とばかりに引いていたクラヤミを一喝するガオル。
彼の顔は珍しく羞恥の色が浮かんでおり、今にも湯気が立ち昇りそうになっていた。
照れ隠しにガオルがフンと鼻を鳴らしてそっぽ向く。
すると、ちょうどその目線の先には、部室の棚に吊り下げられた黒いカメラの姿。
「せや、クラヤミのオモロイカメラなら何か分かるんとちゃうか?」
「『カゲンブ』さんで、ですか……? いいですけど、撮っても名前しか分からないと思いますよ」
「ありゃ、そうなんか……アテが外れたわ」
「ですが、せっかくですし一枚撮らせてください。 お腹に虎さんを付けたガオルさん、とっても可愛いですし」
「なんやと!? やっぱ、この話はナシや!! そんなもん、絶対に記事に載せるんやないで!!」
学校中の女子に可愛いと連呼される地獄のような絵面を想像し、青ざめたガオルが妄想を振り払うようにジタバタと暴れる。
地団太を踏んでワガママを叫ぶ子供のようにも見えるが、本人にとっては男としての威厳を保つ土壇場なのだ。
しかし、そんな彼の必死の抗議も虚しく、カシャっと薄暗い部屋を照らすフラッシュが無慈悲に焚かれる。
「残念ですが、もう撮ってしまいました」
「おんどりゃ!! 恨むでクラヤミ!!」
「はい、出ましたよ」
差し出されたのは、黒いカメラから吐き出された一枚の即席写真。
その白い縁に浮かび上がる文字をガオルが読み上げる。
「なになに、『リビングヘッド』……って、リビングデッドをモジったダジャレやないかい!! 誰やねん、こないふざけた名前考えたアホは!!」
「さぁ……カゲンブさんでしょうか?」
答えに困ったように、クラヤミはじっと沈黙するカメラを見つめた。
続きます。




