リビングヘッド・その4(挿絵)
厭な予感がする。
ガオルは眩暈のように揺れる視線をどうにか制し、なんとかクラヤミの言う方向へと移そうとしていた。
だが、彼の本能が警告音をけたたましく鳴らし、絶対に見てはいけないと語り掛けている。
「そ、そこって……どこや」
「ガオルさんの、下……」
ゴクリと生唾を飲み込んだ。
緊張で喉が渇いて仕方がない。
ただ首を下に向けることがこんなにも難しいものなのかと、ガオルは産まれて初めて痛感していた。
だが、目を向けなくとも他の五感がそこにナニカあると告げている。
彼の自慢の嗅覚、鼻をくすぐる獣臭が、間違いなく人では無いケダモノの存在を強く主張しているのだ。
「うぐッ、この臭い……臭うで、目の前に、死が……死が薫るわ……ま、まさか……」
興奮した汗と、ストレスの入り混じった刺激臭。
『死』を連想させるソレを嗅いだ瞬間、ガオルは全身に流れる血が一気に凍り付くのを感じた。
先の見えない絶望の淵に立たされ、その深淵を覗き込もうと、ついに視線を足元にまで下げる。
すると、そこには見覚えのある黄色いまだら模様の毛皮が目に付いた。
「ひぃ! と、虎やッ!? どわぁぁぁ!! なんでココにおんねん!?」
「が、ガオルさん落ち着いてッ……!!」
目と鼻の先、ガオルとほぼ密着するくらいの接近した距離に虎の剥製が浮んでいる。
そして改めてよく見ると、その眉間に皺を寄せた怒りの表情には、鬼の形相が浮んでいるではいか。
あまりの恐ろしさと、突然剥製が現れたことでガオルはパニック状態になり、錯乱したように手を振り回しながら後退って壁へ張り付いた。
これで一時とは言え、虎の剥製とは距離を取れる。
しかしそれは、これ以上の逃げ道が無いという非情な現実の壁でもあった。
「く、来るなッ!! ワイを喰うても、美味くはないでッ!!」
だが、正気を失ったガオルはそれどころではなく、それでも逃げようと壁を手探っている。
もはやクラヤミの声も届かず、彼の眼は涙で曇り、真実が見えていないのだ。
「落ち着いてください……その子、ガオルさんを襲うつもりはないみたいですよ?」
それでも、虎を前にして彼の豹変した彼に対し、クラヤミはもう一度優しい声のトーンで語り掛けた。
彼女の言葉を肯定するように、ガオルのお腹の辺りでツパ、ツパ、とシャツを吸う音が響いて彼の正気を引き戻す。
「逃げな、ひぃ、こっから逃げ……なんやて?」
最初に廊下で遭遇した時と同様に、虎は臭いの染み付いたシャツの執心している。
やろうと思えば一噛みで腸を食い破れるはずなのに、なぜか一向にその気配は無い。
それどころか、虎の頭は恍惚とした様子で耳をピクピクと揺らし、かなりご機嫌なのが窺える。
「こ、コイツ……どういうつもりなんや……?」
「落ち着きましたか? とりあえず……私にも分かりませんが、敵意は無さそうです……今のところは」
「今のところかてなぁ、どないすりゃええねんコレ……」
喉元にナイフを突き立てられているような危うい状態に変わりはない。
ガオルは一安心したように息を整えながらも、冷や汗は止まらなかった。
クラヤミも心配そうな声を掛けてはいるが、猛獣相手には手出しすることも出来ず、遠巻きにガオル達を見守っている。
そんな膠着した状況へ、ついに変化が現れる。
「おわ、どこ行くねん、コイツ……?」
突然口を放した虎に驚いたガオルだが、虎はおもむろに彼の元を離れて近くの机に頭を寄せていく。
ネコが自分の臭いを擦りつける仕草に似ているが、どうもソレとは少し違うらしい。
不思議に思ったクラヤミがポツリと自分の予想を口にした。
「机に、いえ……首の板張りが気になるのでしょうか?」
「板張り? この壁掛けのやつのことやろか……なんちゅうか、首輪みたいで嫌なのかもしれんなぁ。 ネコとか嫌がるやろ」
クラヤミの考察の通り、虎の剥製は首に張り付けられた板材をゴリゴリと机に押し当て、歯がゆそうにしている。
時折、ペロンと長い舌を伸ばして頬を舐めたりもしているが届かない。
もしかすれば板張りをどうにかしたいのだろうか。
だが、身体の無い頭だけの剥製では手も脚も出ず、どうやっても自分では外せないらしい。
「……では、外してあげましょう」
「はぁ!? お前本気で言っとんのか!? コレに触れと!?」
「でも、危険は無さそうですし……なんだか可哀想ですよ」
「ぐぅ……せやな……はぁ~、頼むから噛まんといてや……」
人間の言葉を理解しているのかは定かではないが、諦めて決心したガオルの声を聴くと、虎は甘えたような丸い瞳で彼を見つめた。
そして、ガオルが毛皮と板材の間に手を差し込み、ベリっと音を立てて剥がし切る。
接着してあったようだが、釘打ちされた様子はなく、予想よりも容易く外すことが出来た。
すると、板張りは魔法が解けたようにカランと床へ転げ落ち、反対に剥製頭の方はなおも宙に浮いている。
あくまでも、怪異はこちらの剥製の方であるらしい。
解放された虎は、ブルブルと首を振るって大きく伸びをすると、肩の荷が下りたとばかりに跳ね回っていた。
もっとも、実際のところは手脚が見えないので、首が不自然に上下する不気味な怪現象にしか見えないのだが。
「おっと……ほれ、自由にしたったで。 はよ、どっか行きぃや」
「ふふ、良かったですね……」
これで用事は済んだだろうと、新聞部の扉を少しだけ開けて、出ていくようにガオルが促す。
その言葉を知ってか知らずか、虎の頭はおずおずとその出口へと歩を進めた。
「ほぉ~、これで一安心やな……」
「いえ、ガオルさん……下に……」
「なんやクラヤミ、天丼は一回きりにしとけっちゅうに……って、なんやこれはぁッ!?」
ガオルがお腹を見下ろすと、なんとそこには虎の頭が生えていたのだ。




