カミシバイ・その4
黒く波打つ長い身体をグルリと巻き付かせ、大蛇と見紛う大口を開けた怪異がター坊の眼前へ迫る。
ダイコンランを口にしたせいだろうか、その目は狂気に満ちており、少年を頭から丸呑みする腹積もりにしか思えない。
さらに血の気の引いて真っ白い顔色のヤガミンから生気を奪っているのか、喉奥からは生暖かい息遣いが頬に当たり、より生々しい怖ろしさがター坊に襲いかかる。
それは逃れられない恐怖であり、どんなに強がっても身体が反応して、自然と涙が零れだしていく。
彼は今、本能的に捕食者と獲物の立場を決定的なものとして格付けられてしまった。
こうなってはもう、ただ命の糧となるのを待つばかりの、儚い運命を歩むこととなるだろう。
「来るな! オレを喰ったって美味しくないぞ!! ぎゃぁ!?」
狙いを定めた怪異が一瞬だけ首を後ろへもたげると、反動をつけた勢いで獲物に喰らいつこうと歯を立てる。
間一髪、ター坊がすんでの所で首を動かし、かろうじて一撃目を避ける事ができた。
しかし、彼の耳には、床へ鋭く突き刺さる刃物のような音が入り込んでしまう。
ビクビクと横目で見ると、千本通しのような鋭利で悍ましい牙が深々とフローリングを切り裂いているところであった。
「ゾゾゾ~!? こ、こんなのまともにくらったら……」
普段から子供たちが遊び回っても痛まない丈夫な床。
それがこうもあっさりと、まるでソーセージの皮を噛み千切るくらい容易に裂いてしまう怪異。
それが人間の皮膚ならばと考えると、言うまでも無く簡単に破いてしまうのだろう。
その凄惨な光景を想像し、ター坊はみるみるうちに青ざめていく。
「いやだぁ!! オレ、まだ死にたくないよぉ!! やだ、嫌だぁぁ!!」
どれだけもがこうと、蜘蛛の糸にかかった羽虫のように非力な少年。
両手首は既に髪が絡まりほとんど動かず、涙を拭う事すら許されない。
獲物が逃げないと分かっているからだろうか、怪異はわざと焦らすようにギチギチと音を立てて牙を抜き、再びター坊の頭に狙いを定め始めた。
「うぅ、チクショォォ!! せめて大根があれば、力が湧いてくるってのに!!」
だが、どれだけ望もうと頼みの綱のダイコンランは怪異の腹の中。
絶望的な状況に陥り、悔しくて惨めで情けなくて、『もしも』という、ありもしない可能性ばかりが頭を巡る。
昨日の劇的な活躍も嘘のように息をひそめ、ここにいるのはただの小学生の一人でしかないのだ。
少年の心はポッキリと折れ、ついに抵抗もなく為すがままに任せて力を抜く。
そして、ボンヤリと涙で滲んだ景色へ、走馬灯のようにクラスの面々の顔が浮かび出す。
「うぐっ、グス……もう、駄目なのかよぉ……今まで楽しかったぜ、ヤガミン、ガオル、オカマ先生、クラヤミ……え、クラヤミ?」
走馬灯の中でやけにしっりとした輪郭が現れる。
それは興味深そうにこちらを見下ろしており、よく見れば首から下もあるではないか。
「素晴らしい! これがお社に眠っていた怪異なのですね!!」
「おわ!? 喋った!? 本物ってか本人か!!」
「あ、おはようございますター坊さん。 何してるんですか?」
「見りゃ分かるだろ!? 喰われそうなんだから、助けてくれよ!! マジで本気の超ピンチなんだってば!!」
「はぁ、そうなんですか」
朝から眠り続けていたはずのクラヤミの姿がそこにあった。
授業も終わり、教室に誰もいないと思っていたが、ひっそりと眠っていたらしい。
どうやら、ター坊が散々叫び続けたので、流石にその声量で起きたのだろう。
寝ぼけているのかボウっとした顔のクラヤミは、何を思ったのか机に置いてあった飲み物を開ける。
そして、なぜかその中身をビシャリと怪異に目掛けて振りかけた。
「なにしてんだお前!? コイツにそんなことしたって意味ねぇって……あれ?」
液体が髪に触れた瞬間、ギシャァとまるで身体を焼かれたように怪異が悲鳴を上げる。
すると、ギチギチにター坊の身体を締め上げていた拘束が僅かに緩んだ。
その隙を見て、滑らせるようにズルズルと彼の身体を引きずり出す。
「よいしょ、と。 これでいいでしょうか」
「うっひょぉ!! すげぇ、マジで助かったぜ!! でも、なんで弱まったんだ?」
身体の自由が戻ったター坊が、羽根を伸ばすようにウンと四肢を投げ出し解放感を噛みしめている。
じんわりと手先まで血が巡る感覚を懐かしむなか、横目で髪の怪を視界に入れた。
ソレは先程までの威勢はまるで無く、グッタリと重そうな身体を引きずっている。
少年がこうして余裕を取り戻せたのも、もはや憐れみすら感じる程に怪異が落ちぶれているからだ。
「髪に憑くモノですから、髪と同じ弱点だったということですね。 運が良い事に、今日の給食は水分補給用のミネラル水でしたから」
「ただのしょっぱい水だろ?」
「ええ、海水に近いものなら何でもよかったんです。 ほら、海に入ると髪が痛むでしょう?」
「お~そういや、キシキシになるなぁ。 でもさ、もし今日の給食が牛乳だったら、どうだったんだ?」
「それは……諦めるしかなかったでしょうね」
「うげぇ!? マジでラッキーだったぜ……」
痛む小指を摩りながら、ター坊は海水に苦しむ怪異を忌避して距離を取る。
逆に、クラヤミは好奇心を隠しもせず、カメラを手に取りシャッターを切っていた。
「あぁ! 図書室で調べた郷土史の通りです! 何にでも噛みつこうとするこの怖ろしさ! 髪憑く土地神の記述と合致します!!」
「おいおい、弱ったからって油断するなよ……」
続きます。




