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今日もオレ/俺は恋をする  作者: 秋野ハル
番外編【後日談後編】
54/57

後日談11話 始まった俺/オレの大作戦


 ここら一帯は昔から日本有数の温泉街として有名だったけど、なまじ人が集まるせいか高度成長期を境に都市開発が爆発的に進み、その結果温泉街の周辺にも数多くの観光スポットが誕生し、今でも生まれ続けている。

 そんな解説を終斗から受けつつその美術館へと赴いたのは、旅行2日目の朝のことだった。

 今日は初春のわりに暖かくなるという話だったけど、まだ昼前ゆえかショートズボンを中心とした薄手の格好では少しだけ肌寒い。


「わー、こう見ると本当に大きいねぇ」


 美術に明るくないオレでも名前くらいは知っている程度に有名な美術館は、その巨大な図体とファンタジックな神殿にも似た外観が合わさり、美術館だと分かっていても入るのが躊躇われるほどの荘厳な雰囲気を醸し出していた。まるでここだけ外国からそのまま切り取ってきたような……

 ピピッ。

 不意に鳴った電子音は、オレの隣で終斗が構えていたデジタルカメラから発せられたものだ。

 長方形の銀のボディ。いかにも持ち主らしいシンプルなデザインラインのそれを眼前から降ろした彼は、若草色の長袖シャツを活かしてパリッと爽やかな、そしてやっぱりシンプルな格好で全身を纏めている。

 自前のカメラを肩に掛けているポーチにしまいつつ、終斗は口を開いた。


「軽く前調べはしてあるが、どうも中東辺りの本物の神殿を模したらしい。しかしさすが美術館というべきか、細かいところまで作りこまれていてこれ自体がひとつの芸術作品って感じだな」


 終斗が感心する一方、オレは言われてみてやっとその造形の緻密さに気づいた。

 ……ってことはもしかして、好みの違いが目の付け所の違いにそのまま反映されてる?


「終斗ってわりと美術品とか好きだったっけ?」

「美術品っていうよりかは造形の深い物、かなぁ。細かいものが好きなんだろう、彫刻とか。逆に絵画なんかはあまりピンと来ないんだよな」

「ああ、ボトルシップとかジグソーパズルとかそういうの飾ってあるもんね部屋に」

「まぁな、眺めているのも自分でやるのも好きなんだ……と、雑談はここまでにしてそろそろ入るか」


 その言葉に頷いてから、二人並んで入館した。

 そうして足を踏み入れて、早速感じたもの。それは外観よりも遥かに濃い異国感だった。

 まず目につくのは館内奥にどんと構える巨大な階段。館内全体が左右対称になっているため、階段も左右から中央の2階に向かって伸びる形となっている。

 白い大理石で覆われた床には案内代わりなのかレッドカーペットが敷かれていて、まだエントランスだというのに教科書でしか見たことのないような彫刻の姿も垣間見えた。

 オレの美術的センスなんて『意味不明な絵は大体ピカソ』くらいのしょっぱいものだけど、そんな感性でもこれはワクワクせざるをえない。

 足早に受付を通り、高いテンションのまま終斗とああだこうだと駄弁りながら(もちろん美術館なので小声で)館内を見て回る。今回は一部の区画で『現代日本人画家展 ~明治から平成へ~』なるものが開催されており、時間の都合上もあってそちらを中心に見て回ることにした。全部じっくり回りきるには、この館内は広すぎたのだ。

 外人の作品は正直よく分からないものも多いけど、ここは描いている人が日本人だからかそれとも時代が今に近いからか、なんにせよ素直にすごいと思える作品ばかりだった。艶やかな和服の女性の肖像、大正の町並みを切り取ったかのような一枚絵、原爆の悲惨さを伝える作品群、高度成長による自然破壊の風刺画……絵画に込められたメッセージや神秘性などに考えさせられたり圧倒させられたりする中で、オレは特にひとつの作品に惹きつけられた。

 その暗闇は完全な黒ではなく、言うなれば藍色。色の付いた暗闇の中それでも存在を示すのは、途切れ途切れにたゆたう雲の群れと……その上にぽっかりと浮かぶ丸い月ただひとつ。

 その光は完全な白ではなく、金色がほんの僅かに混ざっているように見えた。

 暗闇の中に浮かぶ、淡く優しいその輝きに心臓がトクンと僅かに高鳴った。なんとなく、"似ている"気がしたから。

 今までは大体歩きながら見回っていたのに、その一枚に対しては自然と足を止めてただぼんやりと見惚れてしまう。


「始?」


 終斗の声が聞こえてようやく我に返り、あいつに顔を向けようとしたそのとき――


 きゅう。


 偶然……オレの名誉のために言っておくが本当に偶然、腹の虫が気の抜ける音を立ててしまった。

 その音を聞いた終斗は無駄に慈愛に溢れた微笑みを浮かべて。


「……あとで、団子でも食うか?」

「ち、違うよ! 今のは本当に偶然なんだからね!」

「はいはい、昼まではもうちょっと時間あるからな。軽くつまむだけにしような」


 まるで子供をあやすように、ぽんぽんと頭を軽く撫でられる。この男、人を食欲の権化とかと勘違いしてないだろうか。

 自分で言うのもなんだけど、ついさっきまでの自分は乙女心MAXだったというのに!


「むー!」


 そのデリカシーのなさに頬を膨らませて講義するものの、目の前の彼はむしろ幸せそうに頬を緩ませるばかりで効果が全く感じられない。

 むぅ、オレだって食べてばかりじゃないのに……こないだの一件以来、終斗もオレのことを一人の女の子として見てくれるようになったかと思っていたけど、この様子だとオレもまだ一人前の彼女にはほど遠いのかもしれない。

 でもよくよく考えれば、"計画"さえ成功すれば終斗もオレのことを女の子として見直してくれるじゃないのか。

 そう思えば逆に気合のひとつも入るというもの。


「ま、いいや。今日のオレは寛大だからね!」

「?」


 首を傾げる終斗を追い越し意気揚々と先に進む。

 必要なのはまず、終斗の好みを知ることだ。親友として、"男の子"としては幾度となく遊んできたから例えば『どんな遊びが好みか』なんてことはこれ以上ないくらいに知っているけど、オレが求めているのはまた別のベクトルでの好みだ。

 もっと具体的に言えば――恋人に贈られたら嬉しい物とか。

 これまでだって……たとえば誕生日とか、贈り物はする機会なら何度もあった。そのとき話題のCDだったり、一緒に遊べる道具だったり……親友としてなら、何度も贈り物をしてきた。

 だけど……それでも恋人として、どうしたらいいのかはさっぱり検討がつかないのだ。

 オレはオレが思っていたよりも終斗のことを知らない。親友としてのあいつじゃなくて、恋人としての彼のことを。

 こういうことを考えると否応なく思い知らされる事実だけど、知らないのならば知ればいいだけの話なんだ。

 よし、頑張るぞ!終斗に見られないようこっそりと、オレは拳をぐっと握った。



   ◇



 めぼしい物は大体見て回ったけど、館を出る前にオレたちは館内の売店に一度立ち寄った。目的はそこのお土産コーナーだ。終斗いわく、


「一人暮らしでちょっと寂しいから、家に置物が欲しくなるんだよ。たまにな」


 とのことなので、オレも協力してちょうど良さ気な物を物色しているのだ。 終斗の好みを知るのにもうってつけの機会だし。

 さて、そうして一通り見て回ったけれど……お土産は美術館らしく、有名な絵画や彫刻を象った物が多かった。その中でも家に置いておくのにちょうど良いものは、オレから見て3つ。

 ひとつはおそらく世界で最も有名な絵画であるモナ・リザのタペストリー。

 ひとつはシックで和風な雰囲気が素敵な浮世絵の印刷された湯のみ。

 ひとつはキュピズムの絵画をモチーフにした写真立て。なにを描いているかよく分からないからあれだ、多分ピカソのものだろう。

 三者三様違うベクトルで個性を如実に表しているそれらは、終斗の好みを知るのにうってつけかもしれない。あ、そういえばなんかペットボトル大の無駄にリアルなダビデ像なんかもあるけれど……あれはサイズはともかく見た目がちょっとないし除外だ除外。

 運良く3つとも(とついでにダビデ像も)固まって置かれていたので、早速オレは別の一角で物色していた終斗をこっちに呼びつける。


「ほら終斗、このコーナー見て!」

「ん? ……お、中々良い感じのものが揃ってる」

「でしょ、こっから選んだら?」

「ふむ、そうだな……」


 終斗がオレの誘導どおりに動くのを見て、心の中でニヤリとほくそ笑む。計画通り、とはこういうときに使うのだろう。

 男を手玉に取るちょっとした悪女気分だけど、これはこれで中々楽しい――


「これにするか」

「え!?」


 終斗が選んだのはまさかのダビデ像。つまり男の裸体だった。


「ん? どうかしたか」

「あ、いやべつに……いいと思うよダビデ像」

「だよな。値段とサイズのわりにディテールが妙に細かいのが気に入った」

「気に入ったんだ……」


 こういうときに否応なく思い知らされる。オレはオレが思っていたよりも終斗のことを知らない……。

 終斗は結局、ダビデ像をなにも躊躇うことなく購入してきた。

 こうして結果的に一応は、思惑どおりに終斗の好みを知ることができた……しかし、ダビデ像だ。ぶっちゃけ男の全裸像。つまり好みは男の全――いやいや違う、そうじゃないはずだ。終斗は置物が欲しいと言っていた。ならば思い出せ、終斗の家にあった置物を……あ、こないだおじゃましたときには木彫の熊なんかを見たな。十香さんが持ってきてくれたって……木彫の、熊……?

 彼氏のセンスがますます分からなくなってきた。とりあえずオレも、自分のお土産を見ていこう……。

 知恵を絞りすぎたせいか、気づけばお腹も若干減っている。自然と食品土産が固まる一角に足が釣られ、オレは何気なしにモナ・リザの顔が印刷されたチープな饅頭をおやつ代わりに1個だけ購入した。それを見た終斗が一言。


「なんだ。さっきはああ言ってたけど、やっぱり腹減ってたんじゃないか」

「ち、違うよ! いや違わないけどそれはそれだよ!」


 やっぱりこの彼氏、デリカシーが少々足りない。

 しかしこの執拗なまでの誤解は、今までのオレの因果が応報した結果なのだろう。なにかにつけて食ってたのは否定出来ないわけだし。

 こうなったら絶対に計画を成功させて、名誉挽回してやるからな!

 対抗心までもを糧にして、オレはより強く決意を固めるのだった。



   ●



 あの陶器のダビデ像は中々に良い買い物だった。なにせ腕に浮び上がるリアルな静脈や瞳の中のハートマークまで出来うる限りの再現がなされているのだ、実に無駄な拘りではあるがその無駄が良い。男の全裸には興味ないし丸出しで飾るのもどうかしてるから、家に帰ったら腰の部分には布でも巻いてやろう。飾るところ?トイレとか丁度良いんじゃないかな。

 なんてことを適当に考えながらやってきたのは、これまた日本で有数の大きさを誇る博物館だった。


「うわすっごい、すごいキモい」

「これは……キモいな。半端ない」


 俺たちの目の前に展示されているのはひとつの水槽。しかしその中に入っているのは水と魚……ではなく、土と木の枝と、やたら触覚の長いかたつむり。正確に言えば、かたつむりの触覚から飛び出す形で寄生して宿主を自由に操るという寄生虫だった。

 この博物館では今、期間限定の特別展示と題して世にも珍しい昆虫たちが数多く収められている。

 綺麗だったり愛嬌があるものもそこそこいるのだが、7割ぐらいは率直に言ってキモい。

 いやそんなキモさというか異質さが昆虫の面白さでもあるんだけど、あくまでも一男子高校生の視点だからなぁ。女性目線だと厳しいものがありそうだ。現に今特別展示が行われているこの区画には、女人禁制でもないのに女性の姿が一人たりとも見当たらない……ただ一人を除いては。


「終斗ー! なんかめっちゃでっかい蜘蛛がいる、かっこいいー!」


 そういえばあいつ、中学生にもなってカブトムシとか嬉々として捕まえに行く虫取り坊やだったなぁ。なんて懐かしいことを思い出しながら、四方八方虫だらけの空間にも臆さずドンドン先へ進む始にオレもついていく。

 博物館には昆虫の他に、博物館らしく恐竜の化石なんかも展示されていた。人の身長の二倍以上の高さを誇る恐竜の化石には言い知れぬ迫力と浪漫を感じるが、それは始も同様らしく二人ではしゃぎながらあっという間に博物館も回り終えた。

 道中、館内のプラネタリウムにて"月"を題材にした作品の上映が行われていたが、時間の都合上これはスルー。始がちょっと興味有りげだったのは気になるが……そういえば、美術館でも月の作品をじっと見ていたような。

 ……博物館抜けたら昼飯かなぁ。なんか丸い感じのもので。

 そうこうするうちにひととおり回り終えて、俺たちは最後に美術館のときと同様、館内の売店へと立ち寄った。

 いわく本物らしい貝や虫の化石とか、天体模型とか、これまたさっきの美術館のように"それらしい"土産物が多い。


「うーん。さっきの美術館じゃ結局饅頭1個しか買わなかったし、なんか欲しいなー……」


 その言葉を聞いて、俺は内心で指を鳴らす。グッドタイミング、始の好みを知るうってつけの機会だ。

 贈り物をする。そう決めたはいいものの、俺は"彼氏として"なにを贈ればいいのかまだ全然分かっていない。親友としてならばぴったりのものを選べる自信があるが……。

 男だった始、女の始。親友の始、彼女の始。今と、昔と……。

 俺の知らない始というのもきっとまだまだあって、今の俺が知らなければいけないのは多分そういうところだから。

 まずは見極める。そのためには……そう、例えばいつもと違って食べ物以外の物を買ってくれれば、分かりやすいと思うのだが……。


「始、どうせならなにか形に残る物とかどうだ? せっかくの旅行なんだし、たまにはさ」

「形に? うーん、そうだな。そういうのもいいかぁ」


 上手い具合に誘導できたらしい。内心でひっそりと、今度はガッツポーズをかましてから俺は始と一緒に土産を選び始めた。


「ほら、このプリズムで出来た土星のミニチュアとかどうだ? ああ、あっちにはティラノザウルスの化石模型なんかもあるじゃないか」

「なんかこう、いまいちピンと来る物がないなぁ……」


 積極的に進めてみるものの、普段から置物の類なんて精々ぬいぐるみぐらいしか買わない始は、どうにもあと一歩躊躇している様子。

 なにか興味を引けそうなものは……あ。


「始、あそこならなにかないか?」

「あそこって……へぇ、特設コーナーなんだ」


 俺が指を差したのは『世界の昆虫グッズ特集』と題された土産が並んでいる一角だった。

 どうやら俺たちも見て回った特別展示に合わせて作られた期間限定のコーナーらしく、よく見れば向こうで展示されていたやつらの姿もちらほらと見受けられる……剥製や模型としてだが。

 昆虫を模したグッズしかないので正直なところ7割ぐらいはアレな見た目だが、始は珍しいものや期間限定という煽りに弱かったはず。普通のグッズよりもむしろこちらの方がワンチャンスあるかもしれない。

 『始が贈られて嬉しいものを探る』という目的としては、キモい虫のグッズから一体なんの情報が得られるんだと思わなくもないが……。

 まぁ、なにも買っていかないよりかはマシだろう多分。

 案の定、さっきよりも興味有りげに特設コーナーを吟味し始めた始。うんうん、あの様子ならなにかひとつくらいは買ってくるかな。一人頷き、一旦始から目を離して俺も別のコーナーを物色し始める。

 ほどなくして背中越しに始の声が聞こえた。


「終斗ー、買ってきたよ!」


 よほど良い物を買ったのだろう。正に弾むようなその声音を聞くと、俺もただ純粋にそれを見るのが楽しみになってくる。

 が、もちろん目的を忘れるつもりだってない。さてはて、好みが分かる物ならばいいが……期待と好奇心に胸を膨らませつつ、俺は後ろにいるであろう始へと振り返り――


「そうか、一体なにを買っ」


 ――蜂の子。

 最初に目に付いた3文字だった。


 こほん。

 少しでも平静を取り戻そうと、一度だけ咳払いをする。

 そしてプレゼントを貰った子供のように瞳を純粋な輝きでいっぱいにする始に尋ねる。彼女が見せびらかすように突き出してきたその両手が掴んでいる、もし子供にプレゼントでねだられたらちょっとだけ将来を心配してしまいそうなその缶詰について、尋ねる。


「……まさかとは思うけど」

「買った!」


 買っちゃったか……自信満々に言っちゃうか……。


「すごいよね蜂の子なんて! こんなの滅多に買う機会ないし、つい買っちゃったよ! どんな味するんだろ―、ホテル帰ったら開けよっかな―」

 

 恐竜の化石と相対したときよりワクワクしているようにも見える始を眺めながら、俺は後悔に暮れる。

 いや憶測そのものが外れたわけじゃない、理には叶ってるんだ。珍しいものだし、期間限定のコーナーだし、なにより食える。俺は食いたくないけど……。

 ならばこの惨状は、あのコーナーにこんな爆弾があると予想できなかった俺の作戦ミスだ。始はなにも悪くないし、まぁゲテモノ食いだろうと始は可愛いし……ただ、うん、まぁ、始が食べようともゲテモノはゲテモノだよな……。

 そんな俺の胸中を知る由もない始は、実に可愛くない中身をしているであろう缶詰を持ったまま、実に可愛い笑顔を見せた。


「終斗も一緒に食べようね!」

「それは、無理!」


 全力で断りながらひとつ、俺の知らなかった始について分かったことがある。

 彼女は俺が想定していたよりも、好奇心が止まらない女の子らしい……。



   ◇



 博物館を出た俺たちは、直近のバスに揺られて温泉街へと向かっていた。様々な観光スポットが周辺に点在しているが、ここは本来温泉で有名な地域。ゆえに温泉街こそがこの二人旅のメインディッシュとも言える。

 だったら普通ならもうちょっと浮かれてもいいんだが……あいにくと、若干気分が乗らない。

 結局、碌な情報は得られなかったな……。

 博物館での成果に、俺はついため息をついてしまう。窓際に座っているせいで俺のアンニュイな表情がガラスにうっすらと映り込んでいた。


「はぁ……」

「終斗?」


 今俺たちが座っているのは二人用の座席だ。俺の隣に座る始が声をかけてきたことに気づき、俺は「あっ」と声を上げてしまう。


「いや、今のは……」


 慌てて始へと振り返り弁解しようとするが、その前に始はなにを思ったのか眉を八の字に下げた。

 しかしせっかくの二人旅、俺の私情で水を差すわけにもいかない。俺は急いで言葉を続けようとした、が。


「そんなに蜂の子……いや?」


 あーもーキュンと来るなぁその小首を傾げる仕草!とある三文字がなければもっと良かったのにな!

 それはそれとして、俺は試されているのだろうか。

 楽しい旅行に水を差すなと天使が咎める。こういうときに頼りになるはずの悪魔でさえも、彼氏の甲斐性を見せてみろと天使と一緒になって煽ってくる。

 くっそ分かった、やればいいんだろやれば!男は度胸。すぱっと、勢い良く断言して……。


「は、始と一緒なのに嫌なわけないじゃないか。なんていうか、その、見た目が少し……ほんのすこーしアレだからちょっと戸惑ってだな……」


 ごめんやっぱさすがに辛い。だが辛くても逃げなかっただけマシだと思って欲しい。

 とはいえ結果としてあまりにも露骨に心境が表れてしまったのは、間違いなく失敗だ。当然、始にもそれを見抜かれてしまった。


「終斗、無理してる……」

「うっ」


 罪悪感で胸が痛むが、同時に見抜かれたことに安心してしまっている自分もいた。

 始は優しいから無理強いなんてしないだろうし、流れ的に一緒に食べなくて済むんならそれはそれでだな……。


「でも大丈夫だよ、そんな怖がらなくてもインパクトあるのは見た目だけだから! 意外と癖がないって聞くし、甘露煮だからほとんど醤油と砂糖の味らしいし! 歯応えはぷちぷちっとした独特の物らしいけど――」

 

 間違ったベクトルの優しさが胸にしみた。

 食感とか具体的なイメージが沸きすぎて逆に背筋がざわつく、今宵の悪夢はもうこれで決まりだろう。

 と、不意に車内にバス停の名前を告げるアナウンスが響いた。直後、停車ボタンを押しながら俺は自然な流れという名の無理矢理で始の話を中断させた。


「よし、もう止まるらしいな!」

「え、でもまだ話は終わって……」


 すぐにプシュー!と大きな音が鳴り、バスの停車を告げる。それを聞いた俺は一目散に始を急かした。


「話は後にしてさあ降りようすぐ降りよう!」

「ちょ、ちょっとそんな押さないでよぉ!」


 そんなこんなで蜂の子の話を無理矢理流して、俺たちはバスから足早に降り立った。


「お、中々良い景色じゃないか」

「もう! まだ蜂の子には栄養とか魅力が……わぁ、海だ!」


 俺も、そして先程まで蜂の子に夢中だった始ですらも感銘を受ける景色が、バスを降り立った先には広がっていた。

 水平線を境に二分される青と青。

 上では飛行機雲が尾を引く青空で太陽が燦々と輝いている。

 下ではどこまでも遠くに広がる真っ青な水面が、そして穏やかな波の揺れが太陽の光を反射して、その煌めきはまるで見る度に形を変える宝石を思わせた。

 そこはまだ旬には程遠く、閑散としている春の海だった。都会の喧騒から少し離れた場所、人一人の姿すら見当たらない静かな海は、夏の賑わいとはまた別の趣を感じる。


「ちょっと寄ってこうよ、この季節に海なんて初めて来たし!」

「そうだな、観光スポットとは違うが……こういうのも悪くない」


 本当は単純に旅費の節約と道のりの景色を歩きながら楽しみたい、という理由でここから温泉街までは徒歩を選んだのだけど……出会いはいつだって一期一会。寄り道もまた旅行の醍醐味だろう。

 俺たちは道路から短い石段を降りて白い砂浜へと足を踏み入れた。観光地ゆえにゴミのひとつでもあるかと思いきや、とりあえず視界の中にそういったものはひとつもない。これもまた観光地ゆえか、清掃が隈なく行き届いているようでなによりだ。

 春のそよ風に当たり二人で涼みながら、なにをするわけでもなく海を眺める。寄せては返す波の音、遠くに聞こえる、見知らぬ誰かの声。

 なんとなくしんみりとした雰囲気の中で、始がぽつりと話しかけてきた。


「今は静かだけど、夏になったら花火が見れるらしいね。ここ」

「花火か……」


 雰囲気に流されやすい若者らしく、心の中まで若干しんみりとしていた俺は"花火"という単語につい昔の苦い思い出を、始とすれ違っていた頃の夏祭りを脳裏に浮かべてしまう。

 聞けばあのとき、すでに始は俺に異性としての好意を抱いていたらしい。今まで散々思い知らされてはきたが、自分はなんとも不甲斐ない男である。


「あのときの節はなんというか、本当に申し訳ない……」


 思わず口にしてしまった謝罪の意味が分からなかったようで始は「へ?」と首を傾げたが、そのあとすぐに夏祭りの出来事に思い至ったようで、慌てて両手をぱたぱたと振って否定の意を見せた。


「……あ! いや終斗のことを攻めてるわけじゃないっていうかオレもオレで悪かったわけだし、おあいこだよおあいこ! 今はこうして付き合ってるんだからそれでいいじゃん」

「……そうだな、野暮なこと言った」

「もー、終斗は引きずり過ぎなんだよなんでも。思い出は後悔するためにあるじゃなくて、大事に懐かしんで楽しむためにあるんだから」

「う。肝に銘じておきます……」


 反論のしようがないので素直に凹んでおく。

 思い出は懐かしんで楽しむもの……そうだよな。毒にしかならない後悔に引きずられるよりも、笑っていられるが健康に良い。

 ゆえに俺はすぐ、懐かしくて楽しめる話題に切り替えた。


「そういえば夏になったらまたあの浴衣着てくれるんだよな」

「え、まぁ多分」

「良かった。前はちゃん と見れてなかったから、次はしっかりと目に焼き付けておきたい」

「そ、そっか。そう言われると絶対着なきゃだね、えへへ……」


 懐かしくて楽しいというよりもただ単に俺の欲望に忠実なだけな気がするが、始も照れ笑いを見せてくれているし細かいことは棚にでも上げておこう。

 それからしばらく。遠くに見える遊覧船を眺めたり、カモメが魚を採る瞬間を目撃してはしゃいだり。

 ゆったりと過ごしたのち、そろそろ時間が押していることに気づいて俺は言った。このままだと温泉街を周る時間がなくなってしまう。


「始、そろそろ行くか」


 呼びかけると彼女が素直に頷いたので、その手を繋いで歩き出す。

 去年の夏祭りは、自分の恋心に押し潰されそうになりながら、後悔に苛まれながらこの小さな手を取っていた。だけど今年の夏祭りはきっと……いや、絶対に。


「始」

「なに、終斗」

「今年の夏祭りが楽しみだな」

「……うん!」



   ◇



 温泉街。

 俺たちが辿り着いたそこは"古き良き"。そんな言葉がどこよりもよく似合う町並みだった。

 ともすれば迷路の壁のように立ち並ぶ背の低い家々と、そこかしこの軒先に掲げられるレトロな看板。石畳が敷き詰められた道路を行き交う浴衣の人々に、どこからかうっすらと漂う硫黄の匂い……。

 まるで映画の世界に入ってしまったかのような非現実感が、街を歩く俺たちまで否応なしに高揚させる。


「ほぇー、すっごいね。町中に普通に温泉があるんだ」

「本当にな、温泉の街というだけはある」


 無論、始が言っているのは巷でよく見る”スーパー銭湯”的な代物ではない。

 もっと機能の少ない……ただ純粋に温泉を楽しむためだけに用意された施設がいくつもあるのだ。もちろん定食屋などを兼ね備えている大きな建物も多数見受けられるが、中には民家と見間違えそうなくらい地味な銭湯もあったりして眺めているだけでも面白い。


「ちなみにこういう温泉街にある銭湯は"外湯"って言うらしい、旅館の中にある温泉は内湯だと」

「へー、外湯かぁ。それにしても、こんなにいっぱいあるんなら、入浴セットも持ってきた方が良かったかなぁ」

「ま、どのみちゆっくり風呂に浸かるには時間も押してきているしそれはまたの機会に、だな。それに足湯なんかもあるそうだから、そういうのなら用意がなくても楽しめるんじゃないか……あ、ほらあった」


 俺が見つけた足湯の店は小ぢんまりとした木造建築。入口近くに足湯と受付、さらにその奥に母屋があるだけのぱっとしない素朴な施設だった。

 しかしこういうところに来たのだ、素朴な方がむしろ雰囲気的に楽しめるまである。

 そんなわけで俺たちは真っ直ぐそこへと向かい、受付で暖かい緑茶と温泉饅頭を受け取って、穏やかに足湯を堪能するのだった。


 そのあとも俺たちは行く先々で土産屋を冷やかしたり、明治から続くらしい老舗の喫茶店で俺たちが生まれる前に流行ったというレトロなアーケードゲームを楽しんだり、やたら色んな店で色々売ってる温泉饅頭を食べ比べてみたり、とにかく目に付くもの全部に見て触れて温泉街を堪能しながら練り歩いていった。

 その一方で、俺のデジカメのフォルダも時間と共に潤いを増していた。なにせ物珍しい温泉街だ、被写体には事欠かない。ほとんど始を撮るためだけに始めたようなものだったが、なんだかんだでわりと真っ当に楽しんでるよなぁこの趣味。そう思いつつ、俺はまたひとつの被写体に対してデジカメを構える。

 覗き込んだファインダーに映っているのは……一体の小便小僧だった。

 数ある外湯のひとつ、その母屋の壁に併設されたそれは温泉街らしく?温泉を局部から垂れ流しているようで、像の小便を受け止める瓶から湯気が立ち上っている。悪乗りだなぁとは苦笑しながらも、一応これも珍しいものなので一枚パシャリ。

 「よし」と呟きながらファインダーから顔を離して始に目を向けると……なぜか始は恐ろしい物でも見たかのように、唇をわなわなと震わせていた。俺の頭にクエスチョンマークが浮かんだ直後、その震える口から震えた声が小さく飛び出した。


「しゅ、終斗、ダビデ像と言いやっぱり、そういうの……」

「え、俺?」


 掠れるような声だったので、精々俺の名前ぐらいしか聞き取れなかったのだが。


「う、ううん。なんでもない。それでも……オレ、信じてるから」

「ええ……?」


 めっちゃ儚げに微笑まれたが、なにをどうしろっていうんだ俺に。しかしこういう表情もアリだな……ってそうじゃなくて。

 これはただの勘だが、なにやらまた妙な誤解を受けている気がしてならない。始に微笑みの理由を問いただそうとした俺だったが、しかし彼女は俺が尋ねる前にぱぁっと表情を明るくして、小便小僧が背中を預ける壁の一部分を突然指差した。


「あ、ヤモリ!」


 強引な話題の切り替えにまた嫌な予感を感じた。やはりあとで問いただそうと思いつつ、とりあえずは始の話に付き合う。

 彼女が差した指の先に張り付いていたのは一匹のヤモリだった。感じで書くと”屋守”、文字どおり害虫から屋を守るすごいやつらしい。ちなみに井を守る方との違いは未だに分からない。


「ああ、ほんとだ。何気に久しぶりに見たな」

「意外と珍しいよねー、こういうの」


 「あはは」と二人で軽く笑い合う。先ほどの妙な雰囲気も薄れ、気のおけない恋人同士の穏やかな時間がようやく戻って――きゅう。


 ……始のお腹が、鳴った音だった。


「えへへ、なんかお腹減ってきちゃった」


 相も変わらず可愛く笑う彼女だけど、腹を鳴らしたその目の前にいるのは屋を守るすごいやつ。

 ……え、まさか昆虫だけじゃなくて爬虫類も守備範囲なの?


「始、お前……いや、お前がなにを食べようと俺は……」

「え、オレがどうしたって?」

「いや、なんでもないんだ。大丈夫、好き嫌いは個性だ。お前はお前自信を誇ればいい」


 彼氏の器というのはすなわち度量の広さなのかもしれない。ゆえに俺は、彼女がゲテモノ食いだったとしても受け入れよう。食べるのに付き合いたくはないけど。ああでも蜂の子食べるって言っちゃったんだよなぁ……。

 安請け合いなんて後悔するためにあるようなものだ。例に漏れず後悔に暮れる俺をよそに、始は困惑しつつもこくりと頷いた。


「え、あ、はい……」


 どうやら始は俺の台詞の意味を飲み込めていないようだったが……今の俺はそれに構っていられる場合ではなかった。ついでに先程まで気にしていたはずのことすらも大体忘れていた。いわゆる『それどころではない』というやつである。

 今の一連の会話によって、俺の中で危機感が膨らんでしまったのだ。


「……とりあえず、行くか」

「あ、うん……」


 意味不明ななにかが積み重なった末の微妙極まりない空気感の中、俺たちは再び歩き始める。

 とりあえず。そう、とりあえずは探さなければいけない。なにをって?それはもちろん……始の好みが分かるものだ。

 今のところ得た情報が蜂の子とヤモリとか、さすがに由々しき事態だろう。なんかこう、ちょうど良い店はないだろうか……


「「あ」」


 辺りを見回しながら彷徨っていた俺たちは、同時にそれを見つけて同時に声を上げた。

 視界に入ったのは小さなアンティークショップだった。文字の掠れた看板に塗装の剥げかけた外装。それだけで随分古い店であることが予測できるが、逆にその古臭さが良い味を出しているようで、洋風の外観だというのにレトロ感が妙に濃くこの温泉街にピッタリとハマっているようだった。

 それはそうと、アンティークショップである。なんとなく俺の中にあるイメージはレトロながらも清楚で小洒落た、気品のある静かな店。といった感じだが、ここなら始の好みも見つかるかもしれない。少なくとも昆虫や爬虫類はいないだろう、多分。

 始の顔を伺うと同時、向こうからも見合わせてきてどちらからともなく目が合った。


「入ってみるか」

「入ってみよう」


 はたしてどちらからともなく頷き合い、店に入ることと相成った。

【番外編(中):駄弁る大人たち】


 波を切り海を渡る真っ白い遊覧船。そのオープンデッキに設置されたカフェのテーブルを囲み、二人の女性が談笑していた。

 席のひとつには歳も30半ばだというのにまだまだ若々しく、いつも微笑みを絶やさない始の母、一葉が。その対面には育ちの良さを伺わせる、背筋を真っ直ぐ伸ばした美しい姿勢で席に座る妙齢の女性が。終斗の母、結である。


「そういえば、これっていわゆるダブルデートになるんですかねぇ。うふふ、私たち今すっごい青春してません?」

「そういうの聞くと若さというか、歳の違いを感じちゃう。もうあの人とはどこ行っても代わり映えしないっていうの? 押し寄せるほどの感動みたいなのが全然なくて……」


 わざとらしくため息をついた結。その目の前に突然、にゅっと細身ながらも角ばった手が伸びた。

 紅茶の入ったティーカップをテーブルの上に置くその手の持ち主は、終斗の父であり結の夫でもある有定だ。

 彼は自分のコーヒーを片手に結の隣へ座りながら、相変わらず抑揚の薄い静かな声音で言った。


「……お前は昔からそんな感じだっただろう。二人でどこか行って大げさにはしゃぐお前なんて、俺は未だ見たことがない」

「あら、そうだったかしら。でも言われてみれば、昔はよく二人で映画見に行ってたけど最後に泣いてるのはいつも有定さんだったわね」

「……そんな昔のことはもう忘れた」


 本当は嫌というほど覚えているが、有定はもちろん口にせず無表情を突き通す。夜鳥家の男たちは親子二代揃って、そういう人間だった。

 一見するとお世辞にも熱々とは言えない夫婦。しかしところどころに垣間見える信頼感、正しく長年連れ添ったがゆえの絆は隠すことができない。

 将来、自分たちもこれくらいの熟年感を出せるのだろうか。二人の様子に密かに憧れつつ笑みを浮かべる一葉の下に、彼女のパートナーがジュースを両手に持ちやってきた。 


「ほら母さん、レモネードだ。ちなみに俺はジンジャーエール!」

「ありがとう、あなた。チョイスがなんだか若いわね」

「娘たちもいない、大人だけの観光なんて久しぶりだからな。いわゆるダブルデートというやつだろうこれは! だったら若くなるしかあるまい!」


 どこをどう見ても健康以外の何物でもないがっしりした肉体を揺らして「はっはっはっ!」と豪快に笑いながら、一葉の隣に座る夫の一義。


「やっぱり若いわ……」

「……俺たちが同じ年齢でも、こうはならないだろう。歳ばかりを比べるな」


 年齢差の話題≒結婚までに掛かった月日だ。ゆえに自分が傷つく。

 言外にそんな悲しい事実を述べる有定の心境を察せられる者なぞ隣の妻くらいだ。

 ヘタレな夫に仕方ないと内心でため息をつきつつ、結は話題を切り替える。


「そういえば一葉さんの歳ってまだ36だったかしら? 高校卒業してすぐに結婚するなんて、すごい大胆なことするわよね」


 結局歳の話題じゃないか。そんなことを言いたげな渋い顔をする夫を適当に無視して切り出された話題に、そんな内情を知る由もない一葉は当時を思い出してうっとりとしながら答える。


「うふふ、私が卒業する頃にはもう一義さんとっくに就職してたもの。親だって付き合ってるの知ってたし、むしろ籍を入れない理由がなかったんですよ」

「はっはっはっ、とはいえ一悶着はありましたがな! 親からしてみれば遠くの寮で一人暮らす、おまけに女子校通いの可愛い娘がいきなり成人してる男を連れて『付き合いたい』を飛ばして『結婚したい』と来たもんだ! お義父さんから頬に1発かまされたのも今では良い思い出というやつですな! はっはっはっ!」

「まぁ素敵、ドラマみたいじゃない。あら、でももしかして……うちの終斗にも、こう?」


 結はその細い腕を軽く振りかぶるジェスチャーを見せた。その意味を察するのは容易く、ゆえに有定はもちろん顔を引きつらせた。

 べつに彼女が腕を振る分には痛くなさそうだが、実際「こう?」で振るわれるのは目の前でその丸太のような筋肉を惜しげもなく晒す豪腕だ。

 あんなものが直撃すれば、うちの息子の顔なんて原型すら留めないのではないか……?

 冷や汗を垂らして我が子の命を心配する有定だったが、一義はすぐに「いやいや」と否定の意を見せた。


「終斗くんとは何年も前から付き合いがありますしな、その人柄はよく知っている。今の彼になら文句なしに始を任せられるでしょう……一時期、少々危うい時期がなかったわけでもありませんが」


 快活な語り口調の中、最後の一言だけに垣間見えた重く低いトーンは有定の胃を痛めるのに十分なものだった。


「あら。うちの息子、知らない間に命の危機だったの?」

「ふふ。あの二人も若いから、ちょっと色々あったんですよ。今ではすっかりあんな感じですが」

「そうね、若いものね。色々あるわよね、ふふふ」

「しかしそれを越えてくのもまた若さ。気づけば随分と仲良くなったようで、いやはやなによりだ!」


 談笑してる3人を見る限り、もしかしなくても胃を痛めてるのは自分だけらしい。

 なんというか、辛い。いや朝雛家のご夫婦は良い人たちだしこうして一緒にいることに抵抗はないが、それはそれとしてごく個人的事情により心が辛い。

 傍から見ると先程から変わらぬ無表情だが、結だけはもちろん気づいている。しかし気づいたとて早々助け舟を出さないのもまた彼女だった。どちらかと言えば、Sである。

 夫婦間で静かなSMが繰り広げられていることなぞつゆ知らず、真っ当に仲睦まじい朝雛家の方の妻が新たな話題を切り出す。


「そういえばお二人って幼なじみなんですよね? なんか結婚とかも親公認って感じですんなり進みそうなイメージがあるんですが」

「そうね。まぁ実際、小さい頃からなんだかんだでずーっと付き合いがあって、公認っていうかむしろ若い頃は『こいつらいつ付き合うんだろう』で、付き合ってからは『こいつらいつ結婚するんだろう』みたいな雰囲気だったわもう……ねぇ?」


 言い切ってから、結はにこりと微笑んだ……有定に向かって。Sである。

 だが、どうせこちらに振ってくるんだろう。そう内心で予測できたのは長年の付き合いゆえか。

 キラリと光る細い黒フレームの眼鏡の奥で予め視線を全力で逸らしつつ、有定は用意していた言葉を淡々と述べた。


「……当時は都合が悪かったんだ。働いていたのが今とは別の小さい会社で経済的な余裕も心許なく、そのくせ妙に忙しくて仕事以外のことにろくに首が回らない……」

「だから家庭を支えられるような状況じゃなかった、でしょ? 何度も聞いた。でも同棲だってしてたんだし、個人的にはさっさと腹決めてくれたら話が早かったのよ。ほら、そのせいで朝雛さん家の夫婦とこんなにも歳が離れちゃった。子供は似た歳なのに」

「……それも何度も聞いた。あと歳の差の話は止めろ」

「嫌。付き合う前も含めたら私、10年以上もほったらかしにされたんだもの。ずっと待たされた分、ずっと根に持ち続けるわよ」

「むぅ……」


 すまし顔で夫を弄る妻と、シブい顔で渋い表情を見せる夫。夫婦というよりかはある種の友人関係にも近いその雰囲気を見て……一葉が笑みを一層深くした。


「……それでも結さんは、10年以上待ってあげてたんですよね。ずーっと、有定さんのこと。うふふ」

「む、逆に言えばそのとおりか。それに聞いたところだと外国への単身赴任にも付いて行ってるとか。夫のためとはいえ、中々出来ることじゃないですな!」


 朝雛夫妻に不意を突かれる形で仲の良さを見抜かれた夜鳥夫妻は、思わず二人で顔を見合わせてしまう。

 しかしすぐ二人同時にふっと気を緩めた。先程まですまし顔だった結に、そしていつも無表情なはずの有定にも、優しい微笑みが浮かび上がった。


「まぁ、惚れた弱みとでも言うべきかしらね。こんな人だけど、というかこんな人だから。好きでもなきゃ待たないわよ」

「そうだな……結には随分長いこと待ってもらった。待たせた分は、後悔させないつもりだ……そろそろ弄ることは止めてほしいが」

「だから嫌、というか無理。だって癖になっちゃってるもの」

「……」


 一言二言喋ったら、またいつものすまし顔と無表情に戻っていた。

 だがこれがこの夫婦の愛の形、というやつなのだろう。

 なんとなく隣の夫の顔を見たくなり、一葉は隣に顔を向ける。すると夫の方からも顔を向けてきて、結果的に目と目が合い……先程の夜鳥夫妻と同じく、お互いに自然と笑い合っていた。

 その笑みのまま顔を前に戻して、一葉はふと思ったことを呟く。


「愛の形は人それぞれ、かぁ……幼なじみとも一目惚れとも違うけど、あの子たちはどうなるのかしら」

「そうねぇ。十香の話だと仲自体は意外と進んでるらしいし、この旅行でなんか面白いこと起こらないかしら」

「……結、あまり下世話な話をするな。まだ二人とも年若いんだ……少なくとも終斗は弁えるだろう」

「ふむ。有定さんの言うことも一理はあるが、しかし逆に始は俺たちの娘だ。もしかしたらこの旅行を経ることであいつがもう少し積極的になる可能性も――」


 大人たちが子供たちを肴にやいのやいのと盛り上がるその一方。


「へ……くしゅっ!」

「くちゅんっ! ……二人同時にくしゃみだなんて珍しいね。誰かがオレたちの噂でもしてるのかな」

「いや、普通に偶然だろう……お、遊覧船だ」

「そういえばお母さんたちも遊覧船に乗るって言ってたなぁ。あ、もしかしてみんなあの船に乗っててさ、それでオレたちの話してるとか」

「なんか妙にしっくり来るのが嫌だが、さすがにそんな綺麗に偶然は重ならんだろう」

「そうかなぁ……あ、カモメだカモメ! うわぁ今魚食った、すごい!」


 それぞれの愛の形や思惑とともにもうしばらく、旅行は続く……。

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