前日談10話 祭りと恋の始まりと、そして。
――ずっと、あいつの隣にいたいから。
◇■◇
普段渋滞とは無縁な交通量しかないこの地区でも、祭りの当日はさすがに混みあうものだ。どこもかしこもそれなりの規模で渋滞が発生していて、オレの乗る銀のワゴン車もそのうちの一本に捕まっていた。
ワゴン車らしくゆとりのある後部座席の片隅でオレは一人、ただでさえ小さい体をさらに縮こませて座っていた。
ああこの渋滞から、コップの水が溢れそうで溢れないようなじれったさから早く開放されたい。だけど車が進んでしまったら目的地に近づいてしまう……"あいつ"に会ってしまう。いや、会いたいには会いたいんだけど……ただオレ自身が、緊張でどうにかなってしまいそうで。
会いたいけれど、会いたくない。
己の中で生まれる二律背反に、もどかしさばかりが募る。
気休め代わりにふと隣の窓ガラスを覗いてみたら、ガラスの向こうに映るのは祭りの装いをした人とかしてない人とか、とにもかくにも街角を多くの人たちが行き交う現実……だけではない。ガラスに反射する光がそこにもうひとつの現実を、虚像として重ね合わせていた。
街角の上からうっすらと被って映る、白地に青紫のアジサイが映える浴衣を着た女の子。
髪は首元でひと纏めにされていて、小さな花飾りの付いたバレッタからはほんの小指くらいの長さのしっぽがぴょんと飛び出している。
くりっと大きく丸い瞳に、もちもちと柔らかそうな頬。うっすらと日に焼けてそれでもシミひとつない綺麗な肌と、小鳥のように小ぶりな唇。
ガラスは偽物を映しているわけではない。現実の光景を鏡のように反射させているだけだ。向かい合っているのはオレ。お母さんに着付けてもらったオレの姿だ。オレの姿だけど、どう見ても女の子だ。『朝雛始の女装姿』ではなく『女の子の朝雛始』だ。
自分でもそう思えることは恥ずかしいような嬉しいような、でもやっぱり滅茶苦茶恥ずかしくて。すぐにガラスから目を逸らし、体を一層縮こませてしまった。
そんなこんなで20分ほど経ったものの、未だに車はほとんど動いていなかった。想像以上の渋滞ぶりに痺れを切らしたらしく、運転手から声が飛んできた。
ちなみにお父さんは現在会社の飲み会でおそらく一升瓶片手によろしくやっている最中なので、今日の運転手はお母さんだ。
「ちょっとこれは奥に行くの辛いかしら……ねぇ始、もうだいぶ近いしそろそろ降りて行く? その方が早いわよ間違いなく」
その言葉を聞いて車内のカーナビに表示されている時刻を見てみれば、もう約束の刻限も大分近づいていた。慣れない服装なのできる限り徒歩での移動は避けたかったけど、これじゃあしかたがない。
「ん。それじゃあそうする」
小さく頷いてから車を降りる……わっ。
「せっかくの浴衣なんだから、汚さないよう気をつけてね」
慣れない下駄のせいで降りるときに足を踏み外しかけたオレを見て、助手席からお母さんが笑いかける。軽くたたらを踏みつつもちゃんと地面を踏みしめてから振り返り、オレは言った。
「分かってる。それじゃ……行ってきます」
「はい行ってらっしゃい……頑張ってね!」
サムズアップを添えて応援を投げてきたお母さん。
さすがに今回ばかりは頑張る頑張らないの問題じゃないような気もするが……まぁ頑張らないより頑張った方がマシだろう。とりあえず頷いておく。
そして踵を返し、ようやくその場を後にした。
慣れない下駄と慣れない浴衣、それに祭りへ向かう人たちの人混みに悪戦苦闘しながらもしばらく進んでいくと、10分もしないうちに目的地が見えてきた。
とある駅前に建てられた背高のっぽな時計台。レンガで組まれた目立つ外観から待ち合わせ場所によく使われるのだけど、オレたちも例に習ってそこで待ち合わせていた。
頂上に付けられている時計自体はよく見えるのだけどその下は人が多く、オレの待ち合わせているあいつの姿はまだ見えない。
その姿を探しながら時計台へと進んでいき――見えた。
まだ時計台の下までは少々遠いけど人と人の隙間から一瞬だけ、時計台にもたれかかるあいつの、終斗の姿が間違いなく垣間見えた。そしてその直後、足が止まった。
里帰りしてから祭りが始まるまで、実に2週間近く終斗に会っていない。会いたかった、ずっと会いたかった。
否が応でも鼓動が早まる……けれどこれは、単なるときめきだけじゃない。
今のオレは、『女の子の朝雛始』は終斗にどう見えるのだろう。そう思うと緊張して、怖くなって足が竦む。
でも、奮い立たせる手段はある。お母さんの言葉が頭の中で反響する。
『まずはちゃんと、始自身の気持ちと向き合ってみたら?』
まずは一歩、右足を踏み出した。まずは一歩、踏み出してみるって決めたから。
『この浴衣はちょっとした縁起物なの』
『これ着たらきっと、終斗くん褒めてくれるわよ?』
二歩目三歩目四歩目と、気づけば足が駆けだしていた。駆けだした思いも止まらなかった。
会いたいけれど会いたくない……けれどやっぱりすごく会いたい。『女の子の朝雛始』を見てほしい。
衝動に急かされて、オレは人混みをかき分け避けて、時計台へと一心不乱に向かっていく。
見えた。ジーンズにTシャツ、そしてその上からもう一枚チェック柄のシャツを重ね着してる終斗の姿が。
そして思った。あれ……あんなにかっこよかったっけ?
着ているのはシンプル過ぎるくらいにシンプルな単なる普段着。それに長くも短くもない黒髪、知性と冷静さを兼ね備えた瞳、すっと通った鼻梁、すらりと伸びた長身……どこもなにも変わっていないはずなのに、そんな彼に意識するよりも早く心が惹かれてしまう。
さらに早まった鼓動をエンジンに、逸る気持ちを燃料に、オレの歩みはぐんぐん速まる。
人の波に紛れて見え隠れする終斗。人の波を越えていく度にその姿が大きくなっていく。どんどん近づくあいつとの距離。だけど向こうはまだ気づいてないようでただぼぅっと空を見上げている。
近づけば近づくほど気持ちが惹かれて体が引っ張られていく。カコカコと、床を踏む下駄の音が大きくなってきた。
はたしてオレは最後の人混みを抜けて、終斗のすぐ側まで辿り着いた。手を伸ばせば、声を出せば簡単に届きそうな位置。オレはしばらくぶりにその名を呼ぶ。
「しゅう――」
カコッ!と一際大きな音を立てて、下駄が地面を踏む。
……あ、コケた。
そう思ったときにはすでに、オレの視界はぐんぐん落ちていた。
いやだ、まだ終斗に見てもらってないのに。終斗に褒めてもらってないのに。
そう思ったときにはすでに、オレの体は……なにかに受け止められていた。全然痛くないし、両足だけが地面を踏みしめている。少なくとも地面にダイブしたわけではないのは確かだった。
最初に視界に映ったのは、チェック柄のシャツ。シンプル過ぎるぐらいにシンプルなあいつの普段着。
――まさか。
顔を上げると予想外というべきか、ある意味予想どおりというべきか、オレを見下ろす静かな瞳と目が合うのだった。
●
2週間ぶりに出会った親友は、オレの知っているそいつとは別の生き物だった。
もっと正確に言うならば、一応俺が反射的に抱きとめたそいつが親友であることは理解できていた。だがそれと同時に『なんだこの可愛すぎる生き物は』と思ってしまう自分もいた。
そう。あいつが田舎に帰って以来2週間ぶりに連絡を貰い、2週間ぶりに遊ぶ約束をして、2週間ぶりに出会った親友、朝雛始は……俺の知る彼女よりも可愛くなりすぎていたのだ。
始の髪も、浴衣も、下駄も。全部見慣れない物ばかりで、あいつが全然着ないような女の子らしい物ばかりで。
そのくせしてなんの違和感もなくぴったりと似合っているのだあいつは。月並みな例えだけど、呼吸を忘れてしまうほどに……。
ガシャン!
「っ!!」
気づけば手に持っていたスマホが地面で悲鳴を上げていて、しかしそのおかげで俺はようやく我に返ることができた。同時に始も体を離すと、すぐさま俺に頭を下げてきた。
「ご、ごめん!」
一言謝ってから、おそらくスマホを拾うためにすぐ屈もうとした始を俺は早口で制する。
「いやいい大丈夫だ、拾う、問題ない」
若干片言な時点で問題ある気もするが、そんなことは気にしない。気にしていられない。
正直なところ自分がいつものすまし顔を保てているか、その自信すらない。始に背を向けてスマホを拾いながら、俺は必死こいて顔面の筋肉に待ったをかける……あ、駄目だ。まだ辛い。
ゆえにスマホを拾ったあとは、いかにもなんでもない様子で立ち上がりつつ、始に顔を向けないよう明後日の方向を向く。
とにもかくにも話さなければ怪しまれる。そう思った俺の口から咄嗟に浴衣のことが出てしまったのはしかたのないことだった。なにせ意識の9割はそれで埋め尽くされているのだから。
「……その浴衣」
「あ、そ、その……お母さんがせっかくだからって。だから、その、せっかくだから……」
「そうか。せっかくだからか」
「そ、そう。せっかくだから……」
早くも会話が途切れてしまった。どうしよう、なんでもいい、なにか言わないと変に思われる。テンパる俺だが、今度は始の方から口を開いてきたことでなんとか事なきをえた。
「あの……えっと……」
よし、あとはこいつの出してきた話題に乗ればしばらくは凌げる。
この際気を逸らせれば多少変な話題でも構わない。そう楽観していた俺は……忘れていた。始が最近徐々に女子力を増してたことを、わざわざ女物の服を今着ているという事実も。
しばらくの逡巡ののちに、始の声が再び聞こえた。
「に……似合ってる、かな」
ん゛。
意識を逸らすどころかど真ん中へと誘導されて、俺は内心で冷や汗をダラダラと垂らさざるをえなかった。
しかし女物の服が似合うかどうかなんて、元男だったこいつが気になるものなんだろうか。でも『せっかくだから』という理由で着てくるぐらいだし、自主的に着たからにはやはり気になるんだろうな……。
なんにせよ今の問題はそこじゃない。怪しまれるのは……今の俺の心境を知られることだけはなんとしても避けなければならない。
ゆえに覚悟を決めて精一杯の平静を保ちつつ、俺は意を決して始へと振り返った。
視界に映る始は何度見ても変わらない可愛さで、気を抜けば俺の顔面はおかしな変わり方をしてしまいそうだ。
ぐっ……頼むから静まってくれよ俺の顔面表情筋……!!
精神力を総動員して頬の筋肉の疼きを止めながら、上から下まで改めて始を観察し始める。
女子にしては短い髪だったはずだが、それでもちゃんとバレッタで留められていた。始も始で浴衣を着るのは恥ずかしかったらしく、頬を赤くして俯きちょこちょこと忙しなく視線を動かしている。始が首を動かす度につま先ほどの長さのポニーテールがちょこちょこ動き、首元からは魅惑的なうなじが覗いていた。
白地に紫陽花を散りばめた浴衣は正直シンプルで控えめ。逆に言えば落ち着いた清楚な印象が素敵で、心が不思議と惹きつけられる。
浴衣にぴったりな下駄や亜麻色のポシェットなんかも全体に合致していて……よしもう無理耐えられない俺の顔面が!
始も俯いていてあまりこちらを見てないようだし、俺が露骨に視線を逸らしてもきっと怪しまれないだろう。
数秒眺めて顔を逸らし、表情筋を休ませながら感想を考える。
素直な感想は『めちゃくちゃ可愛い』なんだけど、まず言えるわけがない。だからといって『似合わない』は照れ隠しにしても論外だ。『似合ってる?』と聞いてきた以上肯定的な答えが欲しいのは目に見えてるのだから。
必要なのは肯定的な意見と、それでありながら異性を意識させないような……はたして俺は、怪しまれないであろう程度の長考の末に答えを決める。実に無難ではあるがそれでも偽らざる率直な気持ちだった。
「――似合ってる」
●
あ、やばいこれ。嬉しい。嬉しすぎてどうしよう。顔面表情筋がストライキ起こしてる。
似合ってる。そう終斗に言われた途端、俺の頬はへんにゃりと緩んでしまい戻らなくなってしまった。ゆえに俯く以外の選択肢が存在しなかった。
「そ、そっか……」
碌な返しひとつできず、結果的に訪れてしまった沈黙。
どうしよう、なんか喋らなきゃ変に思われる……と、終斗の方から口を開いてくれた。
「……そろそろ行くか。花火が始まる前に場所取りしておきたい」
その声に少しだけ顔を上げると、すでに歩き始めている終斗の背が見えた。
"場所取り"が指しているのは、おそらくここから近所の神社だろう。小高い山の上、長い階段を登った先にある特等席は花火観覧の人気スポットのひとつであり、オレたちも毎年祭りのときはそこで花火を見ていたからだ。
「そ、そうだね!」
頬をぺちぺち叩いて表情筋に喝を入れてから、オレは面を上げてその背を追いかけ始めた。
でもお祭り用装備なオレと普段着な終斗。元々の体格差も手伝って、普通に歩いているだけではその距離がどんどん広がっていってしまう。
あまり離れすぎると人混みに飲まれてはぐれてしまう。急がないと、でも急ぎ過ぎたらさっきみたいにコケちゃうし……。
しかしそんな心配はいらなかった。終斗はオレの方をちらりと見たあと、すぐに歩くスピードを緩めてくれたのだ。
「悪い、歩きづらいよなその服装じゃ。焦る必要もないし、ゆっくり行くか」
「あ、うん。ありがと……」
その気遣いが嬉しくて、また表情筋がサボりだす。
やがて終斗とオレが隣に並んだ。表情筋のせいで俯いた顔はまだあまり上げられないけれど、それでもぽつりぽつりと会話を繋げられる程度には緊張も解れてきた。
「なんか……久しぶりな気がする。こうして二人でいるの」
「確かにな。田舎はどうだった?」
「うーん、何度も行ってるから今更どうって話も……あ、すごい緑がいっぱいだった」
「そりゃそうだろ、田舎なんだし」
他愛もない話のひとつひとつが楽しい。終斗の声を聞けているだけでも嬉しい。
少しずつ、胸の中に暖かい火が灯り"輝き"を増していく感覚。
「それが実はそうでもないんだよ。今回はお父さんの実家だったけど、お母さんの実家がある所はここら辺よりも都会だし」
「なるほど、"田舎"と一口に言っても、実際田舎かどうかは話が別ってことか……お」
終斗がなにかに気づいたかのように立ち止まる。オレもつられて立ち止まり、顔を上げると……いつの間にか視界の先には祭りらしい景色が広がっていた。
柱から柱へと吊るされるたくさんの提灯、道沿いにずらーりと並ぶ屋台の列。太陽もほとんど沈みかけていて、提灯に屋台といった人の手による光源が日光の紅い残滓と混ざり合い、正にお祭り騒ぎのように混沌としながらも眩しく楽しい煌めきをそこら中に放っていた。
もうじき夜になり太陽が完全に沈んだら、今度は夜闇の中で提灯や屋台の輝きが賑やかしく主張を始めるこれまた素敵な光景が広がることだろう。
お祭りでしか見られない光景を堪能するオレの鼻に、ふとこれまたお祭り特有の匂いが届いた。
焼き鳥焼きそばみたらし団子にりんご飴、かき氷にポップコーンにその他諸々、とにかく色んな屋台の名物が混ざった甘くて辛くてなによりも芳ばしい匂いにオレは一目惚れしてしまった。
これだよ!お祭りって言ったらやっぱりこの感じだよ!
「もう花火の会場も近いからな。ここら辺からはこんな感じだろう。適当に摘まみながら行くか?」
「うん! すみませーん、焼き鳥ひとつ!」
花より団子とは正しくこのこと。状況が状況だからロマンチックに浸っていたが、オレにとってのお祭りは本来食べ歩きから始まるものだ。
とりあえず手近な屋台に駆け込み、焼き鳥を一本買う。鶏肉を一個食べたらもう一個。一本食べ終えたら別の屋台に駆け込んで新たな食べ物をリロード。
そんなことを繰り返していれば緊張なんてすっかり解けて、お祭りを楽しむ心だけが据え置きで残っている最高のコンディションを取り戻していた。
「あまり食べながら急ぐと危ないぞ」
あっちにこっちに食べ歩いていると、後ろから声がした。振り向けばステーキ串を持った終斗が苦笑を浮かべながら歩いている。
最初は先導されていたはずなのに、今はオレの方がすっかり前に出てしまっていた。そのことにようやく気づき、まぁいいかとあっさり流して、オレは終斗に返事を返した。
「ちゃんと気をつけてるよ。せっかくの浴衣だもん」
「……そうだな、せっかくの浴衣だもんな」
そう、せっかくの浴衣。終斗が『似合ってる』って褒めてくれた浴衣なのだ。オレがいくらドジだろうと、こればかりは汚すわけにいかない。
終斗の褒めてくれた浴衣を着て美味しい物を食べながら進み、終斗と他愛もない話をしてはまた進む。
浴衣以外はいつもと変わらないはずなのに、今年の祭りは間違いなく今までのお祭りの中で一番楽しい。
それじゃあこの楽しさは浴衣のおかげ?確かに終斗に褒められたから嬉しいっていうのはあるけれど、それは多分根本的な理由ではない。
浴衣を褒められると嬉しいのも、いつもより祭りが楽しいのもきっと全部、この胸に灯っている暖かい"輝き"のおかげ。
自分の気持ちと向き合いながら祭りを楽しんでいたら、あっという間に神社が……正確には神社が建てられている山が見えてきた。
あれをぐるりと回り込めば、おそらく長い長い石段が顔を出すはずだ。
オレは手に持っていたりんご飴を食べ終えると、残った串を近くのゴミ箱に捨ててから終斗を呼び止めた。
「終斗、ちょっと待って」
ポシェットからハンカチを取り出して、石段を登る前に一度口をしっかりと拭いておく。
今のオレは慣れない服装だ。石段を登る際に串ものを持っていると万が一コケたとき危ないし、おそらく神社に着いたらすぐに花火が始まるだろう。つまりこれからは口を汚すこともしばらくはないはずだ。
「よし、すっきり!」
ゆえにきっちり口の周りを綺麗にしといて、これで気持ち良く石段を登れるはず……と思ったのだけど。
「……ふっ」
「?」
口を拭き終えたオレを見て、なぜか終斗がくすりと笑う。
その笑顔にドキリとしつつも疑問を浮かべた直後、終斗が言った。
「まだ青のり、頬に残ったままだ」
「えっ……!」
指摘され、慌てて右の頬を拭く。
「違うそっちじゃない。左……じゃなくてお前から見て右だ右……よし、取れたな」
終斗に言われるがままごしごしと拭いたら、ようやく取れたようだった。
一方の終斗は、相変わらずからかうような薄い笑みを浮かべていた。
「ふふっ……浴衣を着ても、始は始だな」
かぁ、と頬があっという間に熱くなる。
頬に青のりが付く程度なら男の頃は全然気にしなかったけれど……なんだか今はすごくみっともないところを見せてしまったような気分だ。
「も、もう……先行くからね!」
恥ずかしさから逃げるようにずかずかと歩いて、先に神社の麓に回りこんだ。
見上げる先にはずーっと遠くまで続く石段と、その奥に小さな鳥居がなんとか見えた。そして思ってしまった。
……あれ、こんなに長かったっけか。
これを今の浴衣と下駄で登るのは、正直少し心許ない。
他の人たちが長い石段に文句を垂れたりあるいは楽しそうに登っていく中、オレだけが立ち竦んでしまう。
どうしよう……ここから裏手に回ればお年寄り向けのスロープもあるけれど、でも今からそっちに行っても花火が間に合うかどうか……。
ただただ一人情けなく悩んでいたオレだったけど、その思考を切り裂いたのは一人の男性の声だった。
「始」
他ならぬ、終斗の声だった。
――え?
名前を呼ばれたことに疑問を持つと同時、右手を握られる感触が。
「――え?」
その感触に疑問の声を上げると同時、人肌のような体温を右手から感じた。
右手に視線を移すとオレの手を握る、一回り大きい手がそこにはあった。その手から腕へ肩へと視線を移していくと、やがて見えたのはオレから顔を逸らすように前を向く終斗の横顔だった。
つまるところ……今オレは、終斗と手を繋いでいるのだ。
「うぁ……」
さっきとは比べ物にならないほど顔が熱くなってきた……違う、顔だけじゃない。心臓までもが狂ったかのようにけたたましく鼓動を鳴らして、熱を帯びた血液を指の末端に至るまで送り続けていた。
「その……なんだ。危ないだろ、今日コケてたし。べつに、お前が嫌なら離すが――」
「い、嫌じゃない! から、その……」
全身が沸騰するような感覚の中、それでもオレは終斗と手を繋ぎ続けることを選んだ。考えるよりも思うよりも早く、選んでいた。
「……分かった。それじゃあ行くか」
終斗も多少は恥ずかしいのだろうか。あいつにしてはややぶっきらぼうな感じで強く手を引っ張って石段を登り始めた。
その手に引っ張られて、オレも終斗の背中についていく形で石段を登っていく。
小さくて丸っこいオレの手とは対照的な、大きくて角ばった男の人の手。
終斗から繋ぐ手と手を伝わってオレの体へ、胸の奥へと熱が流れ込んでくるような気がする。
その熱も、オレが自身の熱さえも全部吸って。一歩一歩石段を登る度、終斗の体温を感じる度に、胸の中の"輝き"が増していく……いや、もう"輝き"なんて曖昧な言葉でごまかす必要はない。
オレの胸で輝いているそれは……紛れもなくオレに宿った"恋心"だった。
そう、オレは終斗が好きだ。好きになっていたんだ。異性として、恋する相手として。
きっかけはお化け屋敷の一件だったのかもしれない。もっと前かも、後かもしれない。正直どこからが恋だったのか……頭の悪いオレにはよく分からないけど、それでもいいんだ。
だって相手が終斗だから。親友だから知っている、こいつの良いところも悪いところも。
親友だから信じられる――こいつに恋をしたのは、間違いじゃないってことを。
一見知的で冷静だけど、その中に確かな暖かい光を秘めた瞳が好きだ。いつも誰かのことを真っ先に思えるお節介なところが好きだ。隣にいるだけで落ち着いて安心できるその静けさが好きだ。
月のように淡くて、だけどどんなに暗い夜でも照らしてくれるそんな優しい微笑みが……なによりも大好きだから。
暖かい終斗の手を、愛おしいその手を離さぬよう大事に大事に握りしめながら、オレは石段をゆっくりと上がっていく。
●
暖かい始の手から、その暖かさがオレの体の中に流れ込んでくる。
やめてくれ。俺は冷たくありたいのに、こんな暖かさいらないのに。
熱と冷気が胸中でぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、得も言われぬ不快感を感じる。同時に、胸の奥にとごる暗闇から問いかけられた。
――じゃあなんでお前は今、始と手を繋いでいる。
なんてことない。一人で登らせると危ないと思ったから。いつものお節介と変わらない。
――違う、下心を抱いているからだ。繋がなければいけない、ではなく手を繋ぎたい。だから繋いだ。繋ぎたいから離したくない。
違う!意識なんてしていない。未練なんてなにもない。そうじゃなければいけない、そうじゃなければ俺はあいつの親友では……。
石段を登る度に、時が経つ度に自分という存在自体が気持ち悪くて吐きそうになる。そのくせ握りしめた始の手の柔らかさにも体温にも幸福を感じていて、そんな自分を自覚するとさらに気持ち悪くなる。
早く、早く、早く。
急かす心と動かす体が一致しない。なぜなら今の俺は始の手を握りしめているから。
始が転ばないようゆっくりと手を引っ張って、石段を登っていく。
けたたましく鳴る心臓、緊張と高揚感に火照る体、心の奥底で俺を責めるようにじっと見つめてくる冷たい視線。
狂いそうなほどの不協和音。幸福に過ぎる地獄のような時間は、しかしようやく終わりを告げた。石段を上がりきったのだ。
麓と同じく提灯があちらこちらに吊り下げられ、参道の左右を囲うように屋台の列が展開されている。そして参道の奥では、古ぼけた神社が俺たちを見下ろすようにドンと建てられていた。
やっとついた。俺はすぐに手を離そうとした……が、離れない。解こうと軽く引っ張った手は、しかし始の手も一緒に連れて来ていた。
ここまできて俺はまだ離せないのか。
そう疑いかけたが、違う。力を込めていたのは始の方だった。
その理由を問うために始の顔を伺うと、上目遣いでこちらを見つめている彼女と目があった。
俺と目が合った始は、なにか言いあぐねるように口をぱくぱくと開け閉めして、それを何度か繰り返したあとようやくその小さい口が言葉を紡いだ。
「……あ、あの……その……げ、下駄履きなれてなくて、石段登るのも思ったより足にきて、それにここ結構混んでるし、だから、その……」
そう言われて辺りを見回せば、確かに結構混んでいる。当たり前だ、ここはこの祭りにおける花火の観覧スポットのひとつなのだから。
……そうだ。始本人が危ないというのならしょうがない。
「……そうだな。それじゃあ降りるまではこのままでいるか」
「う、うん……」
――ほら、そうやってまた自分勝手な下心を押し付ける。
そんなものありはしない。階段を踏み外すと危ないから、親友のためを思って一緒に登った。人混みではぐれるとまずいから、親友のためを思って今も手を繋いでいる。
全部親友のため、ただのお節介。
そうでなければ――俺は彼女の隣にいる資格すらないから。
『俺は変わらない。俺はずっとお前の親友でいるから』
いつかの約束を俺は深く深く、消えないように、自分の胸に刻み続ける。
●
未だ握り握られている二人の手と手は、つい離したくなくて咄嗟に出た言い訳のおかげだ。
終斗に引っ張られたまま、オレたちは安全のために石段から数歩離れたところに立って神社に背を向けた。花火は石段側で上がるからだ。
例年どおりに打ち上がるならもうじき始まるはずなので、二人並んで手を繋いだままその時を待つ。
周囲の人たちもそれを感じているのか、めいめいに騒いだり押し黙ったりしながらも一様に空を見上げていた。
空を静かに見上げる中、終斗が言った。
「……中一からだったな。二人でこの花火見に行くようになったの」
言われてみるとそのとおりだ。
中一の夏、今よりも引っ込み思案だった終斗の手を引っ張って見に行ったのが最初。それからオレたちはずっと、毎年こうやって見に来ていた。たしか中二の時は学校の友達なんかも一緒だったっけ。
なんにせよ……前までのオレは花火を待つとき、屋台で買った串ものやら水風船やらを両手にぶら下げて、ああだこうだと喋りながら期待に胸踊らせて待っていた。もちろん面倒だったので浴衣なんて着ていない。
今は真逆。綺麗な浴衣を着て、終斗の手だけを握りしめ、二人で静かに花火を待っている。
だけどこういうのも……うん、いいな。だから今は、この穏やかな時間を楽しもう。
「そうだね……これで4回目だ」
「なんだそんな感慨深そうに。年寄りじゃあるまいし」
終斗の表情を仰ぐと、彼は空を見上げたまま微笑んでいる。
たったそれだけのことが無性に嬉しくて、オレも笑顔を作りながらもう一度空を見上げた。
「最初に言い出したのは終斗じゃ――」
――パンッ。
合図もなしに、夜空で火の花びらが咲き誇った。違う、それ自体が一種の合図だったのだ。
一発目を皮切りに、次々と夜空に花が咲いては散っていく。祭りの目玉イベント、打ち上げ花火が始まった。
「わぁ!」
その一年ぶりの光景に、オレの口から思わず感嘆の声が飛んだ。
赤、青、黄色、白、オレンジ……次々と空で弾ける色とりどりの華やかな光はしかし残光だけを残してあっという間に消え去り、その残光すらもやがて儚く消えていく。
黒一色に染まった空をキャンパスにして描かれる光のアート。高揚感と寂寥感が混ざり合った光景はどこか夏そのものにも似ていて、オレは心をきゅっと掴まれるような普段あまり感じない類の感動を覚えた。
……去年は綺麗だと思っても、ここまで染み入るような気持ちは感じなかったんだけどな。なんでだろう。見ているものは変わらないはずなのに、去年よりもずっと綺麗だ。
こういうものへの感性も少し変わった?そうかもしれない。だけど……一番の理由は間違いなく。
隣を見れば、そこには終斗がいる。オレの一番の親友で……初めて恋した男の人。
ふとオレの胸に小さな願いが大きく灯った。来年も……こうして一緒に見られるかな。
"親友"でしかない頃はそんなもの祈りもしなかった。だっていつも一緒にいるのが普通だったから。空気がなくなることに怯える人間なんていないだろう。
でも今はもっと先に進みたい。そんな欲があるから、普通以外のものを欲してるから。
今はこれでいいけれど、この距離感でも十分幸せだけど。だけど、だけど来年は……。
花火が一旦止んで、静寂という名の間隙が訪れる。
同時に願いは言葉へと変わった。終斗ではなく夜空を見上げたまま、オレは口を開いた。
「ねぇ終斗」
「ん?」
「あのさ……来年もまた――」
●
花火が一旦止んだ空。見上げる先には怖いほど果てしない暗闇が、かすかに瞬く星々と共に広がっている。
俺の心を映す鏡にも見える暗闇の中でも、始の声は燦然と輝く一等星のようにはっきりと聞こえた。
「あのさ……来年もまた、一緒に花火見に行けるといいね」
来年も……か。その言葉に、オレは心の中でそっと祈りを返した。
いつしか一緒にいるのが当たり前になっていた。始と"親友"でいることは当たり前だったから、祈りすらしなかった。空気よいつまでも在れと祈る人間がどこにいる。
だけど今の俺は祈っている。来年もまたこうして二人で見に行けたらどれだけ幸福なのだろう。そんな、俺たちの間柄には相応しくないであろう願いを。
この気持ちを知られるのがどうしようもなく怖い。悲しませたくない。裏切りたくない。どんなに苦しくても、嘘を吐き続けることになっても、それでも……ずっと始の隣にいたい。
これが友情からなのか、恋心からなのかは、もう今の俺には分からない。分からないけど……この気持ちだけは確かだ。確かだから信じられる。
刻み込まれた約束と、一握りの確かな思いを胸に……俺は口を開く。
◇■◇
――初めて恋を知ったとき、戸惑ったけど……嬉しかった。初恋の相手が大切な親友で良かった、そう思えた。
――初めて恋を知ったとき、戸惑って……苦しくなった。なんで初恋の相手が大切な親友なんだ、そう思ってしまった。
「なに言ってるんだ、当たり前だろうそんなこと。だって」
――ずっとあいつの隣にいたい。"親友"よりももっともっと近い隣に。
――ずっとあいつの隣にいたい。せめて"親友"から離れないように。
だからオレ/俺は、恋を――
「俺たちはいつだって"親友"なんだから」
◇■◇
再び花火が上がり始める。空に散るのは輝く火の花。
しかし弾ける快音も、華麗な閃光も、儚い散り様すらも……先程まで感動していた全てが、今は色褪せていた。
違う、褪せているのはオレの心だ。
悲しみも、苦しさも、痛みも、戸惑いすらも浮かばない白紙のキャンバス。
それでもたったひとつだけ、理解できたことがある。
――オレの恋は、間違っていたんだ。
その事実だけが泥のように、シミのように、オレの真っ白な心象風景を汚していた。




