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今日もオレ/俺は恋をする  作者: 秋野ハル
番外編【前日談】
44/57

前日談8話 オレとあいつと……ちょっとだけ、変わった1日と(後編)

 たこ焼きのあともオレたちは商店街中をあっちにこっちにと渡り歩いて、食べ歩いた(主にオレが)。

 コロッケをついばみ、饅頭を頬張り、たまに試食にちょっかいをかけて、その他etc……。

 腹も良い感じに満たされたときに見かけたのは一台の移動販売車。覗いてみるとクレープの屋台なようで、デザートにちょうど良いとオレは早速一本購入してから例のごとく例によって、終斗とベンチに並んで座り食べ始めた。

 ちなみに終斗は『腹が膨れたからもうしばらくはいい』とのことらしい。男のくせに胃の小さいやつだ。

 バナナにチョコケーキにフレーク、そしてたっぷりの生クリーム。薄いクレープ生地でぎゅっと巻かれたそれらのアンサンブルに舌鼓を打ちつつ、ちらりと終斗に目を向けた。

 なにを見つめるわけでもなくただぼんやりと前を向いてる終斗の表情には、まだどこか影を感じる。

 その影の原因はまだ分からないけど、とりあえずなにかしないと始まらない。


「そういえばさ」


 クレープをひとかじりしてから、話を切り出す。

 なにも話さないよりもなにか話した方がマシだろう、それだけの理由で始められる程度には他愛もない雑談だった。


「最近自覚したんだけど、どうもオレ女になってからさ……なんか甘い物が好きになったみたいなんだよね。前よりもちょっとだけ美味しく感じるっていうか……ふと『なんか食べたいなー』ってなったとき、パッて思い浮かぶのが甘い物になってたんだ。男のときは『うわー肉食べたいー!』みたいなのばっかだったのにさ」


 オレが言い終えるとすぐに終斗から返答が返って……こなかった。

 なぜか一瞬だけ、会話に空白が出来る。しかしオレが疑問に思う前に終斗が口を開いた。


「……そうだな、やはり性別で味覚とか変わるんじゃないか? 女性は甘い物好きだって言うし」

「うーん、やっぱそうなのかな。でももしかしたら気のせいかも。ほらなんて言うんだっけ、プ、プ、プラス……」

「プラシーボ効果か」

「そうそれ! 実は味覚のこと気になってネットで調べたこともあったんだけど、変わるとか変わらないとか色んな説があって結局どうなのか分かんなかった。それに味覚だけじゃなくて他にも色々、性別について自分なりに調べたんだけど、なーんか以外と解明されてないことだらけでさ。人の性別がうっかり変わっちゃうこのご時世でも、男女の差っていうのはまだまだ不思議に満ち溢れてるんだなーって。うん、また一つ大人になったねオレ」


 商店街とそこを行き交う人の流れをぼけっと眺めながら語れる程度には、本当に他愛もない雑談。だから冗談交じりに語ってみせたというのに……隣の親友は笑うわけでも茶化すわけでもなくたった一言、静かな疑問を投げるだけだった。


「怖くないのか」

「え?」


 聞こえなかったわけじゃない。怖くないのか、その言葉の意味は分かる。

 ただここでそれを問う意味が分からない。終斗がオレのなにを知りたいのかが分からない。

 だからこその『え?』で、だからこそオレは終斗へと目を向けた。そうして視界に映った終斗は、辛そうに顔を歪めていた。

 違う、そんな顔はしてほしくない。オレの見たかった終斗じゃない。

 だから……だからこそ、オレは終斗をじっと見つめた。その視線にすぐ気づいた終斗がこっちに顔を向けて狼狽の声を上げる。


「あ、その、なんでもないんだ。気にしないで――」

「気にするよ」

「っ……」


 だからこそ、オレは真っ直ぐ問いかけた。終斗にはそんな顔してほしくないから。


「怖いってなにが? オレがなにを怖がるって、終斗は思ってるの?」


 今のところオレが怖いのはお化けと暗いところだけだ。今はそれ以外に怖いものなんて……精々、親友が笑顔になれないことくらいだ。

 交錯するオレと終斗の視線。一瞬だけぶつかり合ったものの、終斗の方がすぐ気圧されるように仰け反って目を逸らした。そしてあいつは観念して話し始めた。


「……だって、自分の好みとかが急に変わったり分からなくなったりしたら嫌だろ普通。だから……」


 オレのことなのにまるで自分のことのように辛そうな様子で話す終斗は、なんともまぁあいつらしい。そういうところが好ましいとも、空気を読まずに思ってしまう。が、それと同時に……。


「ふふっ」


 つい笑いを漏らしてしまった。お化け屋敷で終斗がそうしてくれたように。

 当然終斗は驚きの声を上げた。お化け屋敷でオレがそうしたように。


「なっ……笑うことないだろ……」

「ごめんごめん。ちょっとお化け屋敷のときのことを思い出してさ。あのときはお前がオレのことを笑い飛ばしてたじゃん」

「……そうだっけ」

「そうだよ……変わることは怖くない。そう言ってくれたのもお前だった」


 終斗の目が一瞬揺らぐ。


「そう……だったっけか」

「そうだったよ。だからオレ、"良いこと"を探してみることにしたんだ」

「良いこと……」

「そ、良いこと。例えばさ、このクレープだって……」


 手に持ったクレープを一口かじる。ほろ苦いチョコと甘いクリームが口の中で蕩けて混ざり合い、心まで一緒に蕩けてしまいそうな美味しさだ。

 もちゅもちゅとじっくり咀嚼して、飲み込んで、そしたら自然と顔がほころぶ。


『――お前が笑顔だと、俺も嬉しい』


 その言葉を思い出しながら、オレは素直な笑顔であいつに再び向き合った。

 そう、きっと大切なのは向き合い続けること。変わった自分と変わらない自分をひとつひとつ拾い上げて、ひとつひとつ怖がらずに向き合う。ただそれだけで良かったんだ。


「単なる思い込みかもしんないけど、現にめちゃくちゃ美味しいからオレは今幸せだ。それに女性はレディースディとかあるし、ケーキバイキングなんかも人目を気にせず食べられるし……ちゃんと目を開いて周りを見渡せば、良いことは案外そこら辺に転がってるもんなんだよ。だからさ――」


 オレは終斗に、食べかけのクレープの先端を突き付けて言った。


「――なんでそんな落ち込んでるのか分からないけど、落ち込んでるだけじゃなにも始まらないよ。だから今はオレと一緒に良いことを探そ? そしたらきっと笑っていられるし、笑っていられたらもっと良いことだって見つかるかも。笑う門には福来たるって、昔の人は良いこと言ったよね。とりあえずはほら……このクレープ食ってみ? 美味しいもの食べると笑顔になれるからさ」

「う。でもそれ……」

「終斗は甘い物嫌いじゃないって思ってたんだけど……駄目?」

「……分かった、それじゃあ貰う」


 押して駄目ならもう一押しの精神が幸を奏したのか。

 終斗は観念したようにため息を一つついてから、オレの持つクレープを直接かじる。クレープに刻まれたオレの小さい歯型が、終斗の一回り大きい歯型で上書きされた。


「……甘い」

「どう、どう? 美味しい?」


 待ちきれずにずずいと迫るオレの先で、終斗は正面に顔の向きを戻すと瞳を閉じて心なしかゆっくりと口内のクレープを噛みしめ、飲み込み。

 そして再びオレに顔を向け直してから答えた。


「……うん、美味しいよ。始」


 静かに目が細まり、薄い笑みが作られる。そこにもう影はなかった。

 オレの視界に映るのは月のように淡い光。静かな夜を静かに照らす、綺麗で優しい微笑み。

 心臓が一度、トクンと小さく跳ねた。

 やっと見れた、これが見たかったんだ。


『――お前が笑顔だと、俺も嬉しい』


 ――オレも、終斗が笑顔だと嬉しいから。



   ◇



 あまり遅くまで食べ歩いていると夕飯がお腹に入らなくなる。

 そんなわけでオレは日が暮れる前に商店街から撤収、終斗と分かれて自宅へと戻っていた。

 小さな紙袋を大事に両手で抱えて鼻歌を歌いながら自室へと駆け上がるオレは、すでに自宅に居た初穂やお母さんの目にさぞかしおかしく映ったことだろう。だけど今のオレはそんなこと気にも留めなかった。なぜなら……。

 

 自室に戻ったオレは腰を下ろしもせずに、抱えていた紙袋の中身をごそごそと漁りある物を取り出した。

 茶色の毛玉と例えても違和感のない、ふわふわの毛並みと全体的な丸っこさ。チャームポイントはぴょこんと飛び出た三角耳と、ちょこんと生えてる小さいマズル。

 それは両手に収まる『おすわりわんこ』のぬいぐるみ。ご覧のとおり犬種は柴犬……それもいわゆる豆柴だった。

 なんと愛らしいことだろうか。にへらと頬が緩むオレの脳裏では自然と、商店街の帰り際の出来事が鮮明に映しだされていた。


『そういえば始、なんか欲しい物でもないか?』

『欲しい物?』

『ここを教えてもらったりたこ焼き奢ってもらったり、今日は世話になったからな。それに30分も自転車漕いで食べ歩きだけってのもなんだし、欲しいものがあれば奢ってやる。あまり高いものは無理だがな』


 それが事の始まりだった。

 少し申し訳ない気分だったけどこういう場合は多分無碍にする方が失礼だし、例のごとくタダよりもなんとやらということもあり、せっかくなのでありがたく奢ってもらうこととなった。

 そんなわけでまた商店街をあっちにこっちにぶらついては"欲しい物"探しに勤しんでしばらく……オレはピンと来る店と巡りあった。

 そこは一軒の素朴なファンシーショップ。元々食べ歩き目的でしかこの商店街には訪れたことがなかったので、こんな店があること自体オレも初めて知ったのだけど……。


『可愛い……』


 オレは店先のショーケースに並んだおすわりわんこのぬいぐるみたちを一目見た途端、ついつい見惚れてしまった。一瞬だけ、隣に終斗が立っていることすら忘れて。


『ん?お前……こういうの、興味あったっけか?』

『う……実はこないだのクレーンでぬいぐるみ取って以来、ちょっとだけハマっちゃったっていうか……変、かな』


 男のときのオレをよく知っている終斗にはなんとなく話しづらかった趣味だけど、終斗は素っ気ないくらいにあっさりと受け入れてくれた。


『べつに……変じゃないだろ。よし、ちょっと待ってろ』


 そう言い残すとオレの意見も聞かずに、さっさとファンシーショップに入ってしまった終斗。あっという間なものだったからか後を追うのも気が引けて、結局外で待つこと数分。

 店から出てきた終斗が手に持っていたのは二つの紙袋だった。あいつはそのうちの一つをオレに渡してきた。もう一つは姉への土産らしい。

 終斗とファンシーショップ。物珍しい組み合わせで、中身の予想が難しい。


『……開けていい?』

『ん』


 短く頷かれたので、オレは遠慮無くワクワクしながら開けてみた。そしてすぐに『わぁ』と声を上げた。

 小さい豆柴のぬいぐるみ。両手で軽く揉んでみると、ふわふわもふもふ気持ちの良い感触を返してきて、自然と笑顔がこみ上げてきた。小さい心臓がトクトクと小さく躍る。

 ああ、それにしてもただの贈り物がなんでこんなに嬉しいんだろう。これもまたオレの中で"なにか"が変わったせいなんだろうか。わからないけど嬉しいものは嬉しいし、単なる直感だけどこれも間違いなく良いことだから……。


『終斗……ありがとう!』


 だから今は素直に、笑って喜ぼう。


 ――心ゆくまで思い返して、オレの意識はようやく現実へと戻ってきた。

 嬉しかった、楽しかった。今日も終斗と一緒にいられてよかった。

 総称すれば"幸せ"の二文字で収まる言葉を頭の中につらつらと思い浮かべながら、オレは勉強机へと向かった。

 7匹目となる小さい豆柴のぬいぐるみは、夏休み初日に取った……オレがこいつらにハマるきっかけとなった大きい豆柴の隣に並べて置いてみた。

 大小二匹の豆柴に目線を合わせて眺める。終斗と一緒に取ったのと、終斗に買ってもらったのと。

 ……うん、なんか良いな。すごく良い。


「えへへ……」


 思わず笑みがこぼれた。大きいのと小さいの、なんだかオレと終斗みたいだ。なんてことを連想して、また「えへへ」と笑みが一つ。

 と、不意に髪を撫でる感触に首を動かした。夏だから網戸だけ閉めて窓自体は一日中開けっ放しだったのだけど、どうやらそこからそよ風が入ってきたらしい。

 どうも今晩はここしばらくと比べて気温も湿度も低いし、風もよく入ってくるようだ。途切れ途切れに姿を現す涼しいそよ風に誘われるように、オレは網戸を開けると窓から顔を出した。

 数ヶ月前と比べて随分と長くなった髪が、ひゅうと吹く風で梳かされる。その感触を楽しみながら上を見上げれば、大都会ともド田舎とも言えない平凡な町の空には日が落ちて間もないというのに、せっかちな星々が早速ちらちらと瞬いていた。

 満天の星空……というにはあまりにも儚すぎる輝きだけど、これはこれで悪くない。

 ふと考えた。終斗もこの星空を自分の家から見上げてたりするのかな。

 もしそうだったら、なんとなく幸せだ。願いというにはささやかな思いと一緒に、オレはしばらく夜空を眺め続けていた。



   ●



 始と分かれて自宅に戻った俺を待っていたのは、閉めきられた部屋で溜まりに溜まった湿気と暖めに暖められた大気のダブルパンチだった。

 普段でも大概だが、"荒れる心"には余計に耐え難い。

 とりあえず家中のベランダから小窓まで一通りの窓を開け放って部屋の換気を試みると、飛び込んできた風が家に想像以上の清涼感を取り戻してくれた。どうやら今宵はここしばらくに比べて随分と涼しいらしい。

 おおよその不快感が消えたところで俺は自室に足を運び電気を点けると、ベッドへと仰向けで飛び込んだ。無遠慮な乗り方のせいでベッドがギシリと悲鳴を上げたが、それを気にする余裕なんて今の俺にない。


「はぁ……」


 ここ1周間で幾度となくそうしたように小さくため息を吐いて、ここ1周間で幾度となくそうしたように両目の上に右腕を乗せた。

 視界から一切の光が消え、全てが暗闇に染まる中、浮かび上がるのは今日一日の出来事。正確には、今日一日の始の姿だ。

 靴を脱ぐときちょっと内股気味だった。気づけば髪が随分と伸びていた。その髪を自然とかき上げていた。汗のしずくが伝う肌はきめ細かく、汗を拭う腕は細くしなやかだった。女扱いされても笑って流していた。甘い物が好きになっていた。可愛い物を可愛いと言った。笑顔が少し、柔らかくなった。

 始から"女らしさ"を感じる度にドキリと心臓が高鳴る自分と、そんな自分を見つめて冷ややかな視線を送る自分が常にいた。

 こんなに変わっていたのか、と思った。こんなに変わっていたのに俺はずっと気づいていなかったのか、とも思った。

 男の始と女の始は、まるで別人のように変わっていた。それでも、得体の知れない存在になった……とは思えなかった。


『――なんでそんな落ち込んでるのか分からないけど、落ち込んでるだけじゃなにも始まらないよ。だから今はオレと一緒に良いことを探そ? そしたらきっと笑っていられるし、笑っていられたらもっと良いことだって見つかるかも』


 始はやはりどこまでいっても始のままだった。いつだって明るくて、どこまでも真っ直ぐで、誰よりも頑張り屋で……今だってちゃんと自分と向かい合って、あいつらしいまま変わっていこうと一歩ずつ進んでいる。


 ならば、それならば――本当に得体の知れない存在になったのは、誰だ?


 なにが『俺は変わらない』だ、なにが『上手に変わればいい』だ。なに一つ守れていないくせに。薄っぺらい口から出た薄っぺらい誓いに向かって、胸中で唾を吐き捨てる。

 結論から言おう……俺は恋をしている。朝雛始に、かつては同性だった大切な親友に。

 1周間、たったの1周間だ。それだけで始を見る目がここまで変わってしまった。あの日を境に自分の思いが塗り替えられていくのをずっと自覚していたというのに、俺はそれをどう足掻いても止められなかったのだ。

 ……いや、それもただの詭弁に過ぎないだろう。ここまできてしまった今、一つだけ理解したことがある。

 それは、これもある種の一目惚れだったということ。

 女になった始と初めて出会ったときから、俺は心のどこかであいつに友情以外の思いを抱いていた。それをどうしても認めたくなかったから、目を逸らしたかったから『俺にとって始は始だ、性別一つじゃなにも変わらないはずだ』と言い張って気づかないフリをするしかなかった。

 お化け屋敷の件は、単にその現実を突き付けられただけ。碌な根拠こそないがそれでも断言できる。俺は間違いなく、遅かれ早かれ自分の気持ちを自覚させられていたはずだ。

 気づいたときには後の祭り。

 その真っ直ぐな瞳が好きだ。未知に物怖じしないその無邪気な好奇心が好きだ。小さい体をうんと使ってめいっぱい自分の感情を表すその姿が好きだ。

 太陽のように明るくて、焦がれるほどに眩しいその笑顔が……なによりも大好きだ。

 好きだ、好き……それじゃあ今の俺の"好き"は、一体なんなんだ?

 自分の心に問いを投げても返ってくるのは真っ暗闇ただ一つ。

 当たり前だ。自分で理解できないものを自分に問いかけたって、それは壁にボールを投げるようなもの。『分からない』という答えを改めて突き付けられるのが関の山だった。

 分からない。俺の"好き"は、はたして"友情"なのかそれとも"恋心"なのか。

 始は大切な存在だ、と思う。悲しませたくない、とも思う。


 なぜなら俺は始の親友だから――本当に、そうか?


 光を隠した視界に広がる真っ暗闇の中から、己の心へと問いが返ってきた。問いという名の自己否定が、何度も何度も返ってきた。


 大切にしたいのも、悲しませたくないのも、惚れている相手だからじゃないのか?異性として見ているからじゃないのか?


 違う。


 お前が後生大切にしていた"友情"なんてものは、始を異性として意識した瞬間にもうどこかへと消え失せていて、"恋心"などという得体の知れない存在とすり替わっているんじゃないのか?


 違う!


 いくら一人でボールを壁に投げても、ボールだけしか返ってこない。

 いくら一人で暗闇に否定を投げても、自己否定だけしか返ってこない。

 ただただ寂しい壁遊びにいい加減頭がおかしくなりそうになって、そこで俺はようやく思い出した。己の腕をどけるだけで、暗闇は消える。

 腕をどけた、視界が開いた。天井の蛍光灯は相も変わらず明るくて、視界の暗闇はぱっと晴れ……心の奥へと引っ込んだ。それだけだった。

 それでも暗闇の中で不毛な自問自答を繰り返しているよりかはいくらかマシだ。俺は重い上半身を持ち上げて、自分に命令するように声を出した。


「そろそろ家事、しなきゃな……」


 俺がどうしようもない悩みで頭を抱えていようと、日は昇るし月も昇る。

 掃除に洗濯に炊事にと、やらなければいけないことがある以上は、当たり前だが"いつもどおり"にやらなければならない。

 そう、いつもどおりに……俺はできていただろうか。始が望むいつもどおりの、変わらない俺でいられただろうか。


『どう、どう? 美味しい?』

『……うん、美味しいよ。始』


 あのとき、ちゃんとあいつの望む表情をできただろうか。

 できたのならば、まだ隠せる。いつもどおりの俺でいられる。大丈夫……俺は頑張れる。

 無理やり思考を振り切って、さて家事をしようとその場から身動ぎし始めたとき……かさりとなにかが鳴る音と、右手になにかが触れる感触を同時に覚えた。

 まだベッドについたままの右手に視界を向けると、右手はひとつの紙袋に触れていた。どうやら家に帰ってもずっと手に持ったままでベッドに飛び込んだとき、自分の体と一緒にこれも放り投げたようだ。


「……ああ、そうか。まだ開けてなかったな」


 姉への土産。そう嘘をついて買ったそれの封を開けて、俺は中からある物を取り出した。

 茶色の毛玉と例えても違和感のない、ふわふわの毛並みと全体的な丸っこさ。チャームポイントはぴょこんと飛び出た三角耳と、ちょこんと生えてる小さいマズル。

 それは両手に収まる『おすわりわんこ』のぬいぐるみ。犬種はご覧のとおり豆柴……始に上げたそれと、まんまお揃いの代物だった。

 なんとなく始に似ているから手に取って、なんとなくお揃いが欲しかったからこうしてこいつはここにいる。

 こんなこと『男同士の親友』の距離感じゃありえなかった。恋心を否定したがっているくせに衝動的にこんなことをやってしまうなんて、本当にどうかしている。

 そう、俺はどうかしているんだ。自分で自分が分からなくて、自分で自分を信じられない。それでも……。

 手に持ったぬいぐるみを、始に似た小さい豆柴をベッド脇の棚にそっと乗せて一度だけ撫でた。いつかあいつが言ったとおり、もふもふと柔らかくて肌触りが良い。

 ぬいぐるみの真っ直ぐな瞳を見つめながら、俺は自然に呟いていた。


「始……それでも、俺は……」


 あいつが大切なことも、悲しませたくないことも。


『俺は変わらない。俺はずっとお前の親友でいるから』


 ――裏切りたくないことも、確かだから。


「よし……行くか」


 俺はようやくベッドを降りて立ち上がる。同時にひゅうと、外へと誘うように涼しい風が窓から入ってきた。

 振り返ると窓の外は日がもう落ちていて。


「そうか、もう夜か……」


 こんなときはちょっと気取って夜風に当たりながら、まばらな星空をぼんやり眺めているのも悪くないだろう。

 だが……今は、そんな気分になれそうになかった。

 俺は窓に背を向けて部屋を後にし、そうして今日も俺は"いつもどおり"の日々へと戻っていった。

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