前日談6話 夏の太陽が照らすのは(後編)
玄関には木製の扉。その壁面は白の漆喰で塗り固められ、屋根には黒い瓦が敷き詰められている。その外観は典型的な日本家屋そのものと言ってもいい……ただし扉は一部腐っているようで壁面も漆喰が所々剥がれ落ち、屋根の瓦も一部砕けてたり抜けてたり。
つまるところ、そこにあったのは異様なまでにぼろぼろな屋敷だった。
そんな物が行楽気分の人々で賑わう場所に建っているのは一見して異様な光景だが、しかしちょっとだけ建物上部に注意を向ければその違和感もすぐに消えることだろう。
『絶叫お化け屋敷・水の妖怪編』
そのネームプレートがでかでかと建物上部に据え付けられた日本家屋の前に昼飯を終えた俺と初穂、そして始の三人がとうとう到着してしまった。
「おお、結構雰囲気出てるね。いいじゃんいいじゃん!」
「しかしプールにこんなのがある時点で、恐怖よりもシュールが勝っている気もするが……」
素直にはしゃぐ初穂と、ついついツッコミを入れてしまう俺。
しかし始の方はというと。
「…………」
一切の無言である。
その口は真一文字に結ばれて、その視線は屋敷に固定されている。どう見ても心配ない……わけないよなぁ。
だが初穂は姉がそんな状態だというのに素知らぬ顔で一歩踏み出し、俺たちへと振り返る。
「それじゃあ私は先行くから。ちゃんと二人も入ってよね」
「え、三人一緒じゃないのか?」
「三人は多すぎでしょ、雰囲気でないじゃん。やっぱりスリルを楽しみに来たんだからちょっと怖いくらいがちょうどいいんだって。始が怖がりな分、終にいはついてあげてたらいいと思うけど」
そう言い残して一人、玄関の前に設置された受付へと向かう初穂……と思いきや、彼女は俺たちの方へともう一度だけ振り返り、実に余計な一言を置いていってくれた。
「じゃ、お先に出口で待ってるから……"本物"に、会えるといいね!」
縁起でもない発言を置き土産に初穂は受付を通り、腐りかけの木製の扉を開けて屋敷の中へと入っていく。
その姿を見送った後、俺が隣の始を見てみれば……彼女は青ざめた顔で生まれたての子鹿のように体をぷるぷる震わせていた。
「始」
「はい」
はい、と来たか。
昼食の頃はあんなに強気だったのにここにきてようやく事の重大さに気づいたらしい。
だから言ったのに……。
とはいえここで引き下がるタイプでもないだろうな、と内心でため息をつきつつも一応はギリギリまで説得を試みる。
「本当に無理しなくていいんだぞ。別に初穂だって本気でお前のこと馬鹿にしてるわけじゃ――」
「だっ……大丈夫に決まってんだろ! それにここで引くのは俺のこ、こか……」
「こらこら。沽券な」
「そう、沽券に関わるからな! そもそも幽霊なんて実際にいるわけないだろ! いるわけ、いる……終斗はどう思う?」
「……あーいないいない。俺も見たことないし」
「だ、だよな! いるわけないよな幽霊なんて! 全く初穂のヤツも変な噂に踊らされて……よし。そ、それじゃあ入るぞ!」
ああやっぱり駄目だったか……。
予想どおりの強気な口ぶりだが予想どおり緊張と恐怖で体がガチガチになっている始は、それでもカチョンカチョンと出来損ないのブリキ人形みたいに固い手足を動かして受付へと向かった。
実のところ……俺は見たことがなかろうとも幽霊の存在自体はありえると考えていたのだが、それを言ってこれ以上不安を煽るのもなんなので黙っておくことにしよう。なんてことを頭の片隅で思いながら、俺も始に着いていく。
はたして俺たちはとうとう、お化け屋敷へと足を踏み入れた。ちなみに入場料は300円である。
玄関に置かれていた、高さ60cmほどの外と屋敷を隔てる仕切り板を跨いで屋敷の中に入ると、さっそく足元に水の感触を感じた。
申し訳程度のプール要素としてどうやら床から4,50cm程のところまで水で満たされているらしい。……ああ、この水を溜めるための仕切り板か。
なるほど。通路に点々と並ぶ灯篭を模した灯りのみがほんのりと視界を照らす薄暗い屋敷内で、足を動かすたびにちゃぷちゃぷと水音が鳴るのは確かに中々不気味かもしれない。
俺がつぶさに観察を行っている隣では、始が床に溜まった水を見て小さく悲鳴を上げていた。
「ひっ……終斗、この水赤いんだけど……」
言われてみれば、灯篭に照らされた水は鮮血じみた綺麗な赤だ。
「おお本当だな。結構凝ってるじゃないか」
「感心するところか!? うぅ……」
幽霊や妖怪の類にあまり興味がなければ恐怖もない俺としては、お化け屋敷のギミックや演出に目が行くのだが、始は真っ当にお化け屋敷を怖がっているようだ。
……多分、お化け屋敷の存在意義としてはあっちが正しいんだろうなぁ。
とはいえこんなところでびくつかれていてはいつまで経ってもゴールできない。
「……とりあえず立ち往生してるのもなんだし、先に進むか」
「お、おう……」
俺が歩き出すと、始が後ろから体を縮みこませてついてくる。
別に先導しようと思っていたわけではないが、始が俺の背後を死守してくるものだから、結局俺が先頭に立ってお化け屋敷を進む形になった。
日本家屋のような外見をしていたわりに、中は人二人分ぐらいが通れる程度の一本道が延々と続くだけの分かりやすい通路だった。
和風の外観に合わせたであろう襖が壁代わりに延々と並ぶ道を、俺と始は灯籠の明かりのみを頼りに歩いていく。
すると数分もしないうちに、最初の仕掛けが現れた。
通路脇に不自然に空いたスペース。そこに溜まっていた水の中からそれは飛び出してきた。
「アァァァァァ」
不気味な唸りを上げながら、ザバァ!と派手な水音を立てて出てきたのは、その一部が水の中に沈むほどの長い黒髪を水に滴らせた袴姿の女性だった。
顔は垂れ下がった黒髪でほとんど隠れているものの、袴の下から垣間見える下半身の方はよく見ると蛇のそれみたいだ。半人半蛇、なにかの妖怪か?
「ひぃ!」
後ろの始はいきなり飛び出してきたそれに、小さく悲鳴を上げて更に体を萎縮させたが……
「アァァァァァ……」
その妖怪?は俺達に向かってただ唸り続けるだけで、それ以上なにかをする気はないらしい。
……あ、というかこれただの人形だ。人が来ると飛びでて唸るようにセットされているのだろう。
とりあえずこれ以上の動きがないあたり、ここの仕掛けは終わりのようだ。
怖がる始を促して先に進もうかと考えていた俺の目に、ふと妖怪の右の壁。その一部分が薄らと光っているのが目に留まった。
近づいて見れば、光っているのは中からライトで照らされたプラスチック素材の看板だった。
そこには隣で未だ唸り続けている妖怪――『磯女』についての説明が載っていた。
「ほら始、これ見てみろ。この妖怪は磯女と言うらしいぞ」
「何でお前はそんな平気なんだよ……」
俺からしてみれば、これひとつでそこまで怖がれるお前の方が不思議だ。
なにもしないと分かっているだろうに未だちらちらと磯女を警戒しつつも、始は看板に近づいて覗き込んだ。しばらく読んでから、一言尋ねてきた。
「……生き血吸うの?」
「らしいな」
「……ていうか、海の妖怪なんだ」
「らしいな。ここプールなんだけどな」
「……ここ淡水なのに、よく生きてられるなこいつ」
「しかも塩素混じってるのにな」
思わず得てしまった明日使わないであろう無駄知識に得したようなそうでないような。なんとも言えない気分を片手に、未だ唸りを上げ続ける磯女を後にして屋敷の探索を再開した俺たち。
だが出てくる仕掛けはどれも最初の磯女と似たような物ばかりで、しかも毎回ご丁寧に解説が書いてある親切仕様だった。
その上通路も相変わらず左右を襖が挟む光景が続くばかりでイマイチ面白みに欠ける。
後半になるといい加減始も慣れてきたのか、新たな仕掛けが出てきても軽く驚く程度で済んでいた。
5つ目だか6つ目だかの仕掛けを難なく通り過ぎたのちに、始が神妙な顔つきで言った。
「……なんかオレ、ちょっと妖怪の事誤解してたかもしれない」
「基本物騒だけどわりと無害なのもいたな、垢舐めとか……」
最早お化け屋敷というよりも、水関係の妖怪博物館と言った方が正しい気がする。これはこれで有りといえば有りなんだが、本来の趣旨的にはどうなんだ……。
「それにしても……まぁ中々にびびらせてはくれたけど、所詮作り物だしこんなもんだなお化け屋敷なんて!」
それでも適度な恐怖と優越感で楽しんでいるやつはいるので、これはこれで案外正しいのかもしれない。
しかしこの子供にも怖がりにも優しい安心設計のお化け屋敷も随分と歩いたな……もうそろそろ出口が見えてくる頃か?
なんて予測しながら歩いていた矢先、注目させるためなのか今までの物よりも少し派手な装飾を施された看板が俺達の目に留まった。
「これは……『この先からは少し深くなっていますので、足元にご注意ください』? ということだから気をつけろよ、始」
「オレだって今読んでるんだけどなんでわざわざ口に出すんだよ!」
念を押すのはいつもの癖だ。つまるところ始のいつもの行いが悪いせいだ。絡まれると面倒だから言わないが。
俺は曖昧に笑ってごまかしながら、看板どおり足元に注意して先へと進む。
着色された水のせいで底は見えないが、一歩踏み出してみれば確かに少し底が深くなっているようだった。もう一歩踏み込んでみればさらに深くなっており、それ以降は変わらない。
結局どのくらい深くなったのかというと、前まではせいぜい俺の膝下までしかなかった水が今では股下近くまで上がってきているほどだ。
次に下ではなく前に注目を向けると、今まで二人分しかなかった道幅が、下が深くなった辺りを境にもう一人通れるくらいにまで広がっていた。
……うん、なにかある気しかしない。
おそらく屋敷の広さと歩いた距離的に、このすぐ先に出口があるであろうことも鑑みれば、ここが最後の大仕掛けだろう。
いくらここが半ば妖怪博物館と化してきてる生ぬるいお化け屋敷でも、最後ぐらいはなにか派手にやらかしてくる可能性だってあるので、俺は警戒を強めておく。
「なんでこんな深くなったんだろ? ま、どうせまたなんかザバーって出てくるだけだろうし、気にすることじゃないか!」
ああやって、油断したところに何かやられたくないしな。
そう、例えば――
バン!!
それは突然だった。
反射的に肩を竦めてしまうほどに大きな音を立ててただの壁だったはずの襖がガッと開いたかと思えば、その奥の暗闇から無数の青白い手が通路に向かって伸びてきた。
さすがの最終戦、今までの仕掛けに比べてディティールが凝っているようだ。妙に生々しいそれらの手を見て、完全に油断しきっていた始はあられのない悲鳴を上げた。
「ひあああああああ!!」
一方の俺は『ああようやくお化け屋敷らしくなってきた』と妙な嬉しさを抱いてしまっていた。
実のところ俺は俺でわりと驚いていたものの、始のリアクションがお化け屋敷としてあまりにも完璧だったのでつい冷静になってしまったのだ。
それにしてもなんだか女の子じみた悲鳴だなぁ、ああ女子か一応。
なんて他愛もないことを今こうして考えてられるくらいには……だがその余裕は長くは続かなかった。
襖から手が出てきた直後、俺達をさらなる仕掛けが襲ったからだ。俺達の背後から突然響いたのは、磯女が現れたときのような派手な水音。
釣られて振り向いてしまった俺達の目の前に立っていたのは、これまた磯女のように長い黒髪で顔を覆った死に装束の女性だった……が。
磯女と同類と称するには決定的な違和感がある。全体の質感にどことなく生気が感じられるのだ。
直感的に理解した、これは人間が演じているものだ。その証左と言わんばかりに、機械では再現が難しそうな不規則的かつ不気味な動きでふらふらと、左右に体を揺らす女性。
「あわ、あわ、あわわ……」
少しずつ後ずさりながら言葉にならない声を上げる始だが、俺は俺で先程までの余裕を忘れてしまうほど、その異様な雰囲気の女性に目が釘付けられてしまっていた。
しかしすぐに女性は体を揺らすのを止め、急に首を振り上げる。その勢いに釣られて髪の大半が後頭部へと流れていった。
そうして俺達に表情が見えないよう顔を一度ぐっと上に向けてから……一拍置いて、顔を振り下ろした!
「ウアアアアアアアアア!!」
地獄の底から響くような唸りを上げるその顔の全貌が、灯籠の薄暗い光の下に晒された。
血色の失われた青白い顔。にも関わらず瞳は血の赤一色で染まり、鼻は無残に削げて口も大きく裂けたその姿は、正に悪霊と呼ぶに相応しいものだった。
今までの仕掛けが玩具にしか見えなくなるほどに力の入った仮装は、流石に桁違いの迫力だ。
「うぉ!」
これには俺も驚きを隠せず、思わず一歩後ずさってしまう。
しかし意識はすぐに、こういうとき真っ先に悲鳴を上げるはずのパートナーの声がなぜか一切聞こえないことへと向けられた。
もしかして……気絶でもしたのか!?
いやまさかお化け屋敷程度で失神する人間がいるとは考えにくいが、しかし始なら有りえる気もする。あいつ完全に油断しきっていたし。
だとしたら……ここには水が溜まっている、万が一倒れでもしようものなら窒息の可能性もあって真面目にまずい。
俺は慌てて辺りを見回し、始を探す――居た、すぐ足下に。
ギリギリ失神は免れていたものの、始は目の前の悪霊に劣らず血の気を失った青白い顔でその場にへたり込んでいた。
「は、始……大丈夫か、立てるか?」
「あぅ、あぅ」
せめて日本語を喋って欲しかったが、意思疎通が取れないのは大分やばいという解釈で良いはずだ。多分腰も抜けている。
「アァァ! アァァ!」と気合の入った唸りをBGMに、俺は始をどうやって運ぼうかと考え始める。そうしてしばらく立ったまま思案を続けていた俺だったが……ふと気づけば、耳障りなBGMが消えていた。いつの間にか悪霊が唸るのを止めていたのだ。
異変に振り返ってみれば、恐怖の根源たる悪霊が凄惨な顔を心配そうに歪めていて。その開いた口から聞こえてきたのは地獄の底から響くような唸り……ではなく、この場においては逆に異常なほど普通の女性の声だった。
「あ、あの……良ければスタッフルームで少し休みますか?」
顔に似合わず意外な優しさ!人を顔で判断するのは良くないが、今回ばかりは例外として許して欲しい。
しかしとにもかくにも悪霊もとい悪霊に扮したスタッフの気遣いは、俺にとっても始にとっても渡りに船だ。
「あー……すみません、それじゃあお言葉に甘えて」
「えっと……じょ、女性の方なので私が抱えた方がいいですかね」
「まぁ……そうですかね、それでお願いします」
「分かりました……それじゃあ肩、失礼します。あの、大丈夫ですよ私こんなんですが普通に生きてますので。ここから電車で20分くらいのアパートに住んでますので」
悪霊の住む家まで電車で20分かぁ……。
しかしいくら親しみの持てる悪霊だと分かっても顔はそのままだから怖いものは怖いらしく、悪霊に抱きかかえられる間、始は一言も喋らずにずっと目を瞑って身を縮こませていた。
借りてきた猫のように動かない始を横抱きで抱えて連れて行く悪霊と、それについていく俺。なんだこの状況。
こうして悪霊に導かれしは、はたして黄泉か地獄なのか……なんてことなど当然あるはずもなく、俺達は悪霊が出てきたところから少し進んで予想通りあった出口……の脇に位置する『STAFF LOOM』と書かれた扉へと案内された。
「あの、すみませんがちょっとポケットから鍵取り出してもらえませんか?」
「ポケット……ああ、ありました。これですか?」
死に装束の裾に目立たぬよう付けられていたのは、小さなポケットとそれを閉じるジッパーだ。
「そうそうそれです、その鍵でドアが開きますので」
ジッパーを開いて鍵を取り出した俺は、言われた通りに扉を開けた。
そして俺が先に部屋へと入り、そのまま扉を開いてスタッフと始を招き入れる。
みんなが入り終えたあと中の部屋を見回してみると、中央に長机とそれを囲む四つの椅子。加えて壁に沿ってベッドや姿見、冷蔵庫があるぐらいで他に目立つ物もなく、全体的に簡素なイメージを受ける。
きょろきょろと辺りを見回していた俺に、スタッフが部屋の説明をしてくれた。
「狭いところではありますが普段は私たちスタッフの休憩室として使われてるので、ベッドなんかも一応あるんですよ。あ、それと飲み物も置いてありますので自由に取ってください」
「ああ、なんかそこまで気を使っていただいてすみません……」
「いえ、お気になさらず……よいしょ」
悪霊は部屋の隅に置かれた、薄い掛け布団と平べったい枕という最低限の品物だけが揃えられたベッドの上に、始をゆっくりと下ろして仰向けに寝かせる。一連の動作を終えたあと、彼女は俺の方へと振り返って照れくさそうにはにかんだ。
気合の入った悪霊メイクは未だ健在なので総合的には中々シュールな表情だったものの、空気的に触れてはいけない気がしたので黙っておく。
「実は嬉しかったんです、真っ当に怖がってもらえて……最近は、あまりああいう反応返してくれる人っていないですから。ほら、ここって最後の仕掛けまでは大して怖くないじゃないですか。あれって実はその最後の仕掛けで脅かすための意図的な仕組みなんですよ」
「なるほど、確かに見事なまでにハマりましたからね。こいつ」
「それがこちらの求めてた反応でしたし、一昨年くらいまではよく狙い通りに怖がってもらえたものです……が、ここしばらくはネットでオチがネタバレされてしまってたり、そうでなくても時代の流れか子供達もこれくらいじゃ驚かないようになってて……さっきだって女子高生くらいの子から『うわーすっごいリアルなメイク! これって写真撮ってもいいですか?』なんて聞かれたりして……」
俺たちの前にお化け屋敷に入ったというのは、間違いなく初穂のことだろう。本当はJKじゃなくてJCだが……とにかく知り合いが迷惑をかけてしまったようで申し訳ない限りだ。後で初穂には一言注意しておこう。
「なので久しぶりに思い切り怖がってもらえたから、反動でつい演技にも気合が入っちゃって……本当はそういう人に対しては配慮が必要なんですが」
「気にしないでください、そちらも怖がらせるのが仕事なんですし」
「そう言ってもらえるとありがたいです、それでは私は仕事に戻りますので……部屋から出る際はさっき入った方から出てください。鍵は開けっ放しでも大丈夫ですから」
長い髪を垂れ流して俺達に丁寧な一礼をすると、スタッフは入った方とは別の扉から出ていった。あちらから回り込んで先程の大仕掛けのところへと潜って行くのだろうか。
静かになった部屋の中で、俺は適当な椅子に腰を下ろすと背後のベッドで寝ている始へと顔を向けた。
いつの間にかうつ伏せになって枕に顔を埋めているが、もしかしてお化け屋敷から開放された安心感とかで寝てやしないだろうか。
「始ー……起きてるか?」
「……寝たい」
よし、寝てはないな。
「起きてるならいい。立てるか?」
「……立てないし、立ちたくない」
立てない、というのはまだ腰が抜けているせいなのだろうが……"立ちたくない"とは一体全体どういうことか。
「なんだ、新手の反抗期か? だったら……ほら、ジュースでも飲め」
とりあえず、なにやらご機嫌斜めらしい。俺は部屋の冷蔵庫から適当な紙パックのジュースを一本取り出すと、ベッドまで持って行きそれを寝ている始の顔の側に置いた。
それは気休めのためだったが……しかし余計なお世話だったようで。むしろ始は両腕の力で上半身をがばりと起こし、歯を剥いて怒った。
「お前なぁ、人がそう簡単に物に釣られると思ってんのか!?」
「いらないなら回収してくが」
「それとこれとは話が別だ! 釣られたわけじゃないけどタダで飲めるんなら飲む!」
俺がジュースを回収しようと手を伸ばすと、始は素早くジュースをひったくる。そしてすぐさまごろんと仰向けに寝転がり直してからもう一度体を起こすと、付属のストローをジュースにおもいきりぶっ刺した。実はもう回復してるんじゃないかと疑わしくなる程度には、俊敏な動きだった。
……なんにせよナンパにお化け屋敷にと疲れるイベントには事欠かなかったので、しばらくここで休憩するのもやぶさかではない。始の機嫌も直して欲しいしな。
というわけで俺も冷蔵庫から紙パックの緑茶を一本拝借して椅子に座り直し、付属のストローをパックにぷすりと差して口をつけた。
しばらくの間、始と俺が無言で飲み物を啜る音だけが部屋に響く。俺は部屋の中央の机を囲む椅子のひとつに座っていて、始はその後ろで寝ている。背中越しの飲み物を啜る断続的な音だけが、始の存在を俺に伝えていた。
しかし不意に飲み物を啜る音が止む。次に後ろから伝わってきたのは、始の小さなつぶやきだった。
「……オレ、すげぇかっこ悪かった」
随分と、弱気な言葉だった。
「なんだいきなり、さっき腰抜けたことか?」
ひどい取り乱し方だったのは確かだし、今更ながらに恥ずかしくなったのだろうか。
なんにせよ愚痴ぐらいなら付き合う時間はある。特に振り向くこともせず、ただ始の返答を待つ……返ってきた。
「……それもだけど」
つまり、それだけじゃない?思うと同時に言葉が続く。
「ナンパなんてされた事もそうだし、そもそもこんな女物の水着着てんのだって……ほんとみっともない」
いつかの夕焼け。始が自分の抱えているものを語ったときの弱気な笑みと、最後に見せた眩しい笑顔が脳裏を過ぎった。
……どうやら、ただの愚痴というわけでもなさそうだ。
「……オレ、やっぱ今でも嫌だよ。女扱いされるの。オレだって、つい二ヶ月ぐらい前までは男だったんだ。でもオレが女になってから皆オレのこと普通に女の子みたいに扱って可愛がってきて……」
コップの水が溢れてこぼれてくるように少しずつ、喉を伝って吐き出される言葉。
「そりゃ虐められたりするよりずっとマシなんだけど、でもまるで男のオレが忘れ去られたみたいで、ずっと胸に棘みたいなのが刺さってた感じだった。だから……ってだけじゃないけど、オレは前みたいに男っぽくしてたんだ。だって心まで女の子になったら、オレがほんとにオレじゃなくなっちゃうみたいで嫌だったんだ……」
振り向くことすら忘れ、俺はただ黙って親友の吐露へと耳を傾け続ける。
「だけどさ、今日こんな女っぽい水着着ちゃって、ナンパまでされて……小学生扱いされたし。その上あんなに怖がって情けない姿晒して……これじゃほんとに女の子みたいじゃん……」
言いたい事を言い終えたのか、始の声は聞こえなくなった。直後にはっと息をひとつ吐き出し、俺はようやく緊張で強張っていた体を自覚した。
たった二人きり。ともすれば息の詰まりそうな静寂が、否応なく俺に思案を選択させた。
俺は反転病に罹ったわけじゃない。だから決して同じ目線で物を見れると自惚れることなどできない。それでも……その苦しみの一端を想像することくらいなら。
ゆえに想像した。おそらく今回のことで、色々抱えてきたものが抑えられなくなったのだろうと。
いつも明るいあいつだが、その強さに憧れてもいるが……あいつだって当たり前のように悩みや傷を抱えて生きているのだ。その一端が夏休み初日に見せたものであり、今見せているものであり。
分かっている。それは分かっている……それでも。いや、だからこそ俺は。
「……フッ」
「……あ、今笑ったか!? お前そこはもう少し心配とかするとこだろ!」
「心配して欲しかったのか?」
あえて挑発するような俺の言い草に、始はむっと眉をひそめた。そのリアクションは当たり前だが、それでも俺にこの態度を崩すつもりはなかった。
「っ……そういうつもりで言ったんじゃないけど、でも笑うことないじゃん……」
声のトーンを落とす始に、俺は"あえて"なんでもないような素振りを見せる。
「あのな始」
座ったままガタガタ音を鳴らして椅子の向きを変え、始に向き直りつつ俺は言った。
「お前は今の情けない姿が、女の子みたいというが……お前が情けないのは、元々のことだろう?」
「へ……」
振り返った先では他ならぬ始がぽかんと間抜け面を晒していた。その始は俺の言葉が飲み込めていないのか、たっぷりと間を置いてから。
「……んなぁ!?」
驚きと怒りを露わにしたが、俺にとってはどこ吹く風だ。
「昔から子供みたいでしかもビビリで、ついでに言えばお前は気づかなかったかもしれないが中学校の時も、クラスの皆からいつもマスコットみたいな扱いされてたんだぞ」
「うっさいよ! てか人をなんだと思ってんだ皆!?」
始はまだ腰が抜けているのか立ち上がりこそしなかったが、椅子に座るようにベッドから足を投げ出して俺と向き直った。その表情は怒りこそあれ暗いものは感じられなかった。
初穂には怒っておいて自分では"この方法"を取るのもなんだが、今は始が元気になってくれればなんでもいい。
始の様子に内心でホッとしながら俺は話を続ける。
「それに普段は考えなしなのに、たまに今みたいにとことんへこむときがあるのも昔の、男の時のまんまだ」
「うぐっ……」
「大体な、女だから~とかって言ってるとその内女性に怒られるぞ? 俺もそんなに女子と接点あるわけじゃないが、お前の妹とかうちのいとこなんてお前や俺よりもパワフルな性格してるし」
「……まぁ、そうかもしんないけど……でも……」
始が不安げに目を伏せる。
別にお前は言うほど"変わった"わけじゃない、その事実を伝えてただけでは始の不安を取り除けないらしい。消さなければいけないのは多分"変わる"ことそのものに対する恐怖だ。
……始は言っていた、"変わる"のが怖いと。自分が消えるようで嫌だからだと。
でも俺は"変わる"というのは、そういうことではないと思えるのだ。
経験則。そう言うと薄っぺらいものに聞こえるが、それでも俺はそれを……始が"変えてくれた"俺自身を信じているから。
「……始、お前は変わるのが怖いって言ったけど人間は環境や生活、己の成長に合わせて大なり小なり変化していくものだ。こう言ってはなんだが、女になったのもそれと似たようなものだろ」
反転病を軽んじるつもりも他人事だと切り捨てる気もないが、それでも……思い詰めるだけが道じゃないと信じたい。
「大丈夫、お前が思ってるよりも変わることは多分怖くないよ」
昔、外の世界に踏み込むことを……自分の世界が変わることを怖がっていた内気な自分を思い出して。その手を引っ張って、外の世界へと連れだしてくれた始を思い出して。
「性格を変えろなんて言わない、嫌なこと全部受け入れろとかもっての他だ。だけどあまり気負うな。今の状況に少しずつ、自然に慣れてけば良い。大丈夫、それでも人の根幹なんて案外変わらないもんだ」
「…………」
始の瞳の陰りは消えない。分かっている、必要なのはその手を引っ張る誰かの手。
だから、俺は――。
「それでも変わることが怖いって言うなら――俺は変わらない。俺はずっとお前の親友でいるから、お前がまた不安になっても『お前はお前だ』ってことを証明し続けてやるから。それなら、少しは安心だろ?」
俺が差し出したのは"約束"という小さな手のひら。
単なる口約束だけど、それは他ならぬ大事な親友との固い誓いだ。
確かなものとして互いの記憶に残ったのならば、迷う始の道標に少しぐらいはなってくれるだろうと俺は信じていた……が。
「…………?」
きょとん。オノマトペを付けるなら多分そんな感じ。
俺の話を一通り聞いてなぜか小首を傾げだした始に「あれ?」と俺も首を傾げる。
「……なんか駄目だったか?」
9割の真摯さと1割のかっこつけをもってそれなりの台詞を伝えたつもりだったのに、こう微妙にスカってるような……。
「いや、駄目っていうか。えっと……」
始は俺の問いに戸惑いながら答えを返した。
「……この間終斗言ったじゃん。『お前がお前のままでいてくれて嬉しかった』って」
「……ああ」
言った。そういえばそんなこと言った、それも夏休み初日に。
気づけばちょっとだけ始がむっとしてた。
「でも今は『変わってもいい』って言ってる。結局どっちなんだよ」
「あー……言われてみると確かにおかしな話だな、うん」
「納得するなよ! 実はその場のノリで言ってないよな!?」
「いやそういうわけじゃないんだが……ちょっと待って、タイムくれタイム」
「ええ……じゃあちょっとだけだぞ」
貰ったタイムで始の問いについて考えを巡らせる。
お前のままで良かったと言った俺、変わってもいいんだと言っている俺。間違いなくどちらも本当の気持ちだ。
そこに嘘偽りはないし、矛盾も存在しないとは思っている。思っているけど、上手い具合に言葉にしづらいな……。
脳内辞書から引っ張りだした言葉を並べて考えて、そしてひらめき「おっ」と声が出た。
「タイム終わり?」
「終わった終わった」
はたして言語化できた答えが、俺の口を通して形になった。
「きっと上手に変わっていけばいいんだよ、多分」
「……はぁ」
俺の提示した答えが漠然としているせいで、当然のように納得のいかない様子を見せる始。もちろん俺もそれは織り込み済みなので、気にせず話を続ける。
「それじゃあ少しだけ話変えるが……昔お前と出会ったばかりの俺と今ここにいる俺、それなりに"変わった"と思わないか?」
一度目の問いに始はすんなりと答えた。
「……まぁ、確かに終斗は昔よりもいっぱい喋るようになったし、暗い感じもなくなってるけど」
「だろ? じゃあ……昔の俺と今の俺。"変わった"俺は、お前にとって全く別人になるのか? 今の俺は親友同士だけど、昔の根暗な俺のままだったらお前の親友にはなれないのか?」
二度目の問いに、始は目をぱちくりさせた……が、それは問いの解釈に時間がかかっただけだろう。
答えはやっぱりすぐに出た。
「うーん、昔でも今でも終斗は終斗だろ。すぐ後ろ向きになるのも考え過ぎるのも"変わってない"し、その……良いところだって昔からずっと同じだから。そういうところ見て俺はあのときお前に声をかけたんだし、だから友達になりたいって思った。根暗とかそういうの関係ないし、あんま見くびんなよな」
不服そうな様子で言い放つ始の顔には、少しの照れも混じっていた。
そんな彼女を見て俺の口が自然と綻んだ。理由はたったひとつだった。
「――やっぱり、お前も"変わらない"な」
昔その手を差し出してくれた始だったから、今ここでそうやって言い切れる始だから、俺も友達になりたいって思ったんだ。
「……ぁ」
小さな口から小さな吐息がひとつ漏れる。答え合わせの時間はすぐそこだった。
「やっと、言いたいことが分かったか?」
「ん……なんとなく」
「ほらな、人の根幹なんて案外変わらない。始も俺も、きっと大事なところは変わらない。だから……変わりたいなら変わればいいんだ、いつだって自分が自分であることを忘れなければ少しずつでも前に進める。上手に変わるっていうのはそういうもんなんだよきっと……っていうのはさすがにクサいか少し?」
ついつい最後に茶化してしまった。始といると時々照れくさいというか青臭いというかそんな言葉が自然と出てきてしまうが、それも親友ゆえだと思えば恥ずかしくも悪い気はしない。
ぽりぽりと頬を掻く俺に、始がにししと歯を見せて笑みを向けた。
「たしかにちょっとクサいよな」
「む……」
「でも……そのクサい台詞のおかげで、正直すげぇ楽になった。だから……ありがと」
はにかむ始に湧いてきたのは、ちょっとした対抗心だ。だから心のままに言い返してみた。
「その礼の仕方も、わりとクサくないか?」
「なっ……」
俺のカウンターに驚く始。見開いた瞳と不意に目が合う。
どちらからともなくしばらく見つめ合い……ぷっと吹き出して笑いあってしまった。
「ふふっ……どっちもどっちだな、オレたち」
「くく、本当にな……あ、そういえば初穂も待っているだろうし、そろそろ行くか」
よくよく考えればここは自宅でもなければ始の家でもなく、お化け屋敷のスタッフルームだ。
始の心が立ち直ったのならば長居は無用。残る問題は始の体の方だけだったが、そちらも時が良い具合に治してくれたようで。
ぷらぷらと足を揺らしてみせながら始は言った。
「そうだな、もう足もばっちし大丈夫――うぉっ」
ベッドから飛ぶように降りて地面に足をかけた始だったが、まだ完全に体の調子を取り戻したわけではなかったらしい。足が地面につくと同時、バランスを崩して前方に倒れこむ彼女の姿が俺の視界には映っていた。
「まずい――始!」
咄嗟に体が動いた。始を支えるために、彼女の眼前へと躍り出たのだ。
始の小さな体が俺の胸へと飛び込んでくる。衝撃から守るため、反射的にその体をぎゅっと抱きしめて――
「え?」
今の俺は海パン一丁。むき出しの腕から、胸から、腹から伝わってきた感触に、一瞬だけ思考を奪われた。
――なんだ、これ。
ただでさえ咄嗟の行動で踏ん張りの効いていなかった足腰。その力が"それ"によってガクンと抜ける。
はたして始の下敷きになるように倒れこんだ俺だったが、打ち付けた背中の痛みも始に乗っかられた腹の痛みすらも遠くに感じるほど、ほとんどの神経が"それ"に集中してしまっていた。
俺の腕の中に、胸の中に埋まるように倒れこんでいる始。"それ"は……その感触は、俺の知っている"それ"と全く違った。別の生き物、と言ってもいいほどだった。
――こんなもの、俺は知らない。なんだ、これ。
絹のように、あるいは宝石のように。撫でればつるりと滑りそうなきめ細かい肌は男とは到底思えない……当たり前だ、今腕の中にいるこいつは紛れもなく女子なのだから。当たり前なのに、理解ができない。
胸と胸、腹と腹。水着一枚を隔てて触れ合う肌と肌が伝えてくるのはいやにはっきりとした人肌の温さ。そしてわずかだが確かな存在感を持つ、二つの柔らかい膨らみ。それがなにか、当たり前のように理解できてしまった。
俺が声ひとつ上げられないというのに、そんなことを知らない始は「うぅ……」と呻いてから、ようやく俺の上に乗っていることに気づいたらしく。
「あ、終斗!?」
驚く声と共に、力の入らない両腕から始の体がつるりと滑るように抜けていく。
「ごめん、大丈夫か……?」
俺の体を跨いだまま両腕を俺の顔の両脇に立てて、上から真っ直ぐ心配そうに俺の顔を覗き込んできたのは、他ならぬ俺の親友である始の顔……のはずだ。
しかし。
くりくりとした愛嬌のある丸い目も、すっと伸びる長いまつげも、小鳥を連想させる小さくて愛らしい唇も、もうじき肩まで届きそうなさらさらでふわふわの茶髪も。
本当についさっきまで見ていた始と同一人物なのか、彼女は。
なんにせよ今俺の視界に映る彼女は、間違いなく一人の可愛らしい女の子――。
「終斗……終斗!」
「はっ……わ、悪い!」
俺は今、何を考えていたんだ!
始の呼び声が脳に響き、ようやく正常な思考を取り戻した俺は、弾かれるように始から慌てて距離をとった。
そうして再び距離を置いて始と向かい合ってみれば……彼女の華奢な体のラインをつい目でなぞってしまう。以前よりもか細く、しかし女性らしい丸みを帯びた輪郭は、どことなく庇護欲を掻き立てられる。
「……って、だから俺はなにを考えてるんだ。相手は始だぞ……!」
始は同性同士としてずっと一緒に過ごしてきた親友なのに。別にあんな小さい体だって好みのタイプなんかじゃないのに。
そもそもさっきかっこつけて色々言ったばかりじゃないか!
それなのにいくら俺が男とはいえ、たかだか胸ひとつ触ったくらいでだな……。
「しゅ、終斗? なんかさっきから変だぞお前。倒れたときに頭とか打ってないか?」
俺は止まらない胡乱な思考につい頭を抱えてしまい、始はそんな俺を当然心配してきた。だが悩みの内容もこれまた当然話せるものではないため、俺は慌ててごまかすしかなかった。
「えっ、ああいや大丈夫だ。ちょっとぼうっとしてただけだから……」
「そ、そっか……良かった」
始が浮かべた安堵の笑み。それを不覚にも可愛いと思ってしまった自分を、殴れるものならおもいきり殴ってやりたい。
◇
お化け屋敷から出た俺たちを迎えたのは、ずっと出口で待っていた初穂の膨れっ面だった。
「一体いつまで待ったと思ってるのさ! 二人とも実はお化け屋敷入ってないんじゃないかって疑ってたくらいなんだから!」
ぷりぷりと怒る初穂には、しかたなくアイスを奢って機嫌を直してもらった。
そのあと俺たち三人は、遅れた分を取り戻すかのように時間の許す限りめいっぱいジャンボプールを満喫した。
始は抱えていたものを吐いてすっきりしたおかげかいつも以上にはしゃぎまわった一方、俺は俺で始を変な目で見てしまったことを体を動かして忘れようと、ひたすら泳ぎに泳いだ。
はたして空が茜色に染まる頃、行きと同じく一義さんの車に揺られて、俺達の一日は終わりを告げようとしていた。
その頃には始を変な目で見てしまうこともなくなり、『やはりあれは気の迷いかなにかだったんだ』と自分の中でも納得出来るようになっていた……はずだったんだが……。
帰りの車内もみんな行きと同じ座席に座っていた。助手席のおばさんが俺に話しかけてくる。
「今日はありがとね、終斗君。二人の面倒見るの大変だったでしょう?」
「いえ、俺も楽しめましたし。それに連れてってもらっている側なのでそれくらい全然」
車から伝わる心地良い揺れに体を預けながら、俺は答えを返した。
言われたとおりそれなりに面倒はかけさせられたが、それを含めて今日は楽しかったと思う。思うんだが……。
「終斗君は本当に良い子ねぇ。それにひきかえうちの子たちは、遊び終わったらすぐに寝ちゃって……」
ため息混じりにおばさんが言ったとおり、始も初穂も車に乗り込んだ途端、姉妹揃ってすぐに熟睡してしまった。
初穂は後部座席の左端で、ドアに体を預けてぐーすか寝息を立てている。口をだらしなく半開きにしてその端から涎を垂らす姿は女子としていいのかと思わなくもないが、気持ち良さそうに寝ているので放っておく。
というかぶっちゃけ羨ましい。俺も実は結構眠たい、眠たいのに……!
「終斗君も寝ていいんだぞ、家に着いたら起こしてあげるから」
俺の眠気を知ってか知らずか、おじさんが運転しながらそう言ってくれた。だがそれでも、どうしても寝れない理由が今の俺にはひとつあった。
すんと鼻を鳴らせば、俺の鼻腔に届くのはプール独特の塩素臭とそれに薄らと混じった甘い香り。そしてぶらんと下げている俺の右腕は現在、重くも柔らかいナマモノを受け止めていた。
「すー……」
俺の左から小さな寝息が聞こえてくる。そう、全身を俺の右半身に預ける形で、始がもたれかかって寝ているのだ。
激しい運動の末にやっと意識を逸らすことが出来たと思った矢先にこれだ。寝ようと思っても寝れるわけがない。
意識するなと自分に言い聞かせるものの、そうすればするほど逆に感覚が鋭敏になっていく。人間の体はなぜこうも不便なのか。
そうしてしばらく葛藤していると、おばさんがまた話しかけてきた。俺はこれ幸いと言わんばかりに、始以外のことへと意識を向けるため話に付き合おうとした。
「ねえ終斗君」
「なんですか?」
「始、良い匂いする?」
いきなりなんてことを聞くんだこの人は。
その質問には何の意図があるんだ、もし万が一ここで『ほのかに甘い香りがしますね』とか俺が言ったらどうするつもりなんだ。いや絶対に言わないけど。
「……別に、塩素の匂いしかしないですよ。プールから上がったばかりですし」
極めて無表情に、そつのない自然な受け答えをしたつもりだったが、ちゃんと出来ていただろうか。
右には以外なほど静かに眠る始、左には予想以上に堂々と眠る初穂。ぼーっと正面を見つめ続けるのも飽き、やがて視線の置き場がなくなった俺は眠れないながらもしかたなく目を瞑った。
視界を閉ざして広がる暗闇が、余計に右腕に感じる重みと感触を際立たせる。
……こんなもの、気の迷いだ。
たまたま胸を触ってしまい、たまたまあいつが女物の水着を着ていたから過剰に"女"だって意識してしまっただけ。俺だって男だし、そういうこともきっとあるさ。
だけど相手は始だ、色々小さいんだ。俺自身『ナンパされるなんてありえない』と笑い飛ばしていたじゃないか。幼なじみは逆に恋愛感情が芽生えにくいという説もある。幼なじみじゃないけど長い付き合いで、俺にとっては男友達当然だ。
付き合いも長い、女子としても好みじゃない。だったらやっぱりこんなもの、気の迷いだ。
あえて自分を責めるように瞳を閉じたまま、腕の感触を感じているまま、俺はひたすらに自分を否定し続けた。
あとから思えば、これはただのきっかけに過ぎなかった。きっと俺は遅かれ早かれ始が"女"であることに気づき、彼女に惹かれていただろう。
しかしこのときの俺はそんなこと知るよしもなく、ただただ心の底に芽生えた気持ちがなんなのかすら分からずに、ただ引き剥がそうともがくばかりだった……。




