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今日もオレ/俺は恋をする  作者: 秋野ハル
番外編【前日談】
39/57

前日談4話 俺とあいつと変わらない一日と(後編)

 熱と湿気で蒸されて汗をかきながらえんやこらと自転車を漕ぎ、ようやくウチへと着く頃には空がすっかり橙色に染まっていた。

 もうじき日も落ちるというのに未だむしっと暑く夏らしい気温の中、蝉の鳴き声はまばらに聞こえ、黒い影はぐんと長く伸びて。

 これから改めて帰路に着く始は、しかし自転車にはまだ乗らず両手でそれを支えて口を開いた。ちなみに今日終えた宿題の入った鞄とクレーンで取ったぬいぐるみは、ちゃんと自転車のかごに入っていた。


「今日は色々ありがとな。宿題も捗ったし、映画も楽しかったし、それに……良い物も手に入ったし!」


 心底嬉しそうに笑う始の姿に、向かい合っていた俺も自然と笑みがこぼれる。


「宿題も映画もお互い様だし、礼を言う必要もないだろう。ま、良い物が手に入ったのは確かだがな」

「だよなー! ふっふっふっ……!」


 含み笑いと共に始が鞄から取り出したるは2枚のチケット。

 それこそ今日、幸運の女神から頂いた『豊永ランドジャンボプール』の招待券に他ならない。

 誰にでもなくチケットを見せびらかしながら、始は勝ち誇った笑みを見せた。


「なっ、言ったろ? やっぱ夢はでっかく持ったもん勝ちなんだって、なんせ2等だぜ2等。5等よりも3等も上!」

「今回は当たったから否定はしないけどな、そういうのは拾い物くらいに思っておいた方が身のためだぞ。なんせ分の悪い賭けは癖になりやすい」

「説教魔かお前は! 大体終斗は浪漫ってものが分かってない、分が悪いから燃えるんだろこういうのは! 分の良い賭けなんて賭けじゃない!」

「親友のよしみで先に言っておくがな……将来パチンコとかで借金作ったりするなよ?」

「そこは大丈夫。なんせそういうのハマると絶対碌なことにならないのは目に見えてるから、絶対に手を出さないって決めてるんだ! 分の悪い賭けはほどほどに楽しむのが一番だな!」

「健全なんだかそうじゃないんだか……」


 まぁ本人が自覚して節度を守っているのならば問題はないか。なんてホッと一息ついている間に話題が変わる。


「ところで終斗、まだ聞いてなかったけど当然行くんだよな。豊永!」

「ま、俺たち二人で当てたものだし行かない手はないだろう。泳ぎに行きたいって話は前々からしていたし、そういう意味でもちょうど良い」


 レジャーランドの代名詞として俺たちの親の世代から親しまれているであろう、日本では超有名なレジャーランドのひとつである『豊永ランド』。

 様々なアミューズメント施設の複合体でもあるそこの一区画。夏のみに開放される『ジャンボプール』への招待券が俺たちの貰った物だ。

 本来は値段的にも……そして距離的にもそう易々と行けるものではない、が。


「んじゃあオレの父さんに車出してもらえないか頼んでみるよ」

「頼んだ。いざとなれば電車でもいいけどな、少なくとも豊永のチケット分は浮くと考えればそこまで痛いわけでもない」

「そうだな、それでもなるべく出してもらえるように頑張ってはみるけど。お金は大事だし」


 二人で遊びに行く算段などさすがに手慣れたもので、とんとん拍子に話が進んでいく。

 あと二、三も言葉を交わせばおおよその日取りや集合時間なんかも決まり、「あとは父さんに確認してからだな」という始の言で即席の会議はあっという間にお開きとなった。


「さて、そろそろ帰るか」

「そうか、それじゃあ……次はいつにする?」


 夏休みなんだから時間は腐るほどある。特に深い考えもなく俺が次遊ぶ日を確認すると、なぜか始の瞳が一瞬揺らいだ……気がした。

 わずかな違和感に内心で軽く首を傾げる間に、始が返事を返した。


「ん……それじゃあ、明日でもいいかな。もちろん勉強も含めてさ、せっかくだからできるだけ早く終わらせたいし」

「おお、やる気だな。べつにいいぞ、ああでもそろそろ冷蔵庫の中身とかなくなってきたし今日みたいに朝からやるなら、買い物にはちょっと付き合って欲しいかな」


 勉強嫌いだったはずの親友が夏休みの宿題に対して前向きになったことに喜びつつ、軽い気持ちで始の提案を飲んだ俺。

 だが始は「ん……ありがと」と、気の抜けた短い礼を口にするのみだった。

 つい先程まであんなに明るかったのに、今は目を伏せどこか陰りのある表情を見せている。

 気にするな、というのが無理な話だった。だから俺は始に問いかけた。


「始、なにかあったのか?」


 一拍の沈黙を間に置いて、始の小さな唇がためらいがちに開きかけ、また閉じて、再び開いて今度はちゃんと声を発した。


「……その、さ。ゲームコーナーで、ちょっと言おうか迷ってたことなんだけど」


 ゲームコーナー?

 一瞬なんのことか分からなかったが、そういえば一度なにか言いかけてたっけかと、記憶の片隅から引っ張りだした。

 あのときなにを言おうとしていたのかは分からないけど、少なくともこれが大事な話であることだけは始の様子から察することができたので、俺はひたすらに聞き手に徹する。


「……いくら親友だっていっても言葉にしないと伝わらないことだってあるし、言葉で伝えたいこともあるからさ……うん」


 俺に言う、というよりかは自分に言い聞かせるようにそう呟いてから、始は改めて顔を上げて俺の瞳を真っ直ぐに見つめた。こんなときでも曇ることなく輝いている真っ直ぐな瞳。


 ――始の一番始らしいところは、いつだって変わらないな。

 

 今の空気感にはややそぐわない妙な安堵の心地を抱く俺に向かって、始は言った。


「――今までありがとな、終斗」


 その表情は"笑顔"というよりかは"微笑み"と表した方が適切だった。

 大さじ一杯の弱気を含んだ柔らかくも儚げな笑みは、あまりにも始の性格にそぐわない珍しい表情で……いや。一度だけ、それもつい1ヶ月程前に似た表情を見た気がする。


『……直接聞くのもなんだけどさ、やっぱオレの性別が変わってるって聞いて思うところとかあったりすんの?』

『ん? いやそれはそれ、これはこれというやつだろう。正直もっとひどい想像もしていたから、ちゃんと健康でいるんなら俺として特に思うところはないな』

『……そっか』


 病院で問いかけられ、なんとなしに答え、そしてあいつは安心からなのか今みたいに微笑んだ。

 そのときも物珍しいとは思ったものの、ただ病気やこれからへの不安が当たり前のように始にもあるだけなんだろうと、大して気にも留めなかった……けれど。

 始の言葉に少しだけ思案してから、俺は言葉を選び出した。


「今日のこと……じゃないよな。だったらますます礼を言われる理由が分からないんだが……それは話してもらってもいいこと、か?」


 始の言うとおり、親友だろうとなんでもかんでも以心伝心というわけにはいかないし、現に俺は今の始の心境を分かってやれていない。ならばもう直球で尋ねるしかなかった。

 俺の問いに始はためらいながらも小さく頷き、少しずつ語りだした。


「……反転病に罹ってからさ、まぁそれなりに色々あったんだ。家のこと、学校のこと、日々の習慣に、あとは服とか……とにかく色々」


 今更といえば今更な話。始からたまに愚痴られていたから、わりと苦労しているのは知っている。知っているからこそ同時に『そこまで深刻に話すようなことか?』とぶしつけながら思ってしまった……が。


「だけど……それはべつに良かったんだ。良かったっていうか、良くないけど……結局は自分の問題だから、オレがそれに慣れればいいだけだし」


 話はまだ終らないらしい。「でも」と前置きして始が語りを続ける。


「当たり前、っていえばそうかもしんないんだけどさ。自分が変わっちゃったら、良くも悪くも周りだって変わっちゃうんだよな」


 困ったように眉をハの字にした始。『周りだって変わっちゃう』その言葉で脳裏に浮かんでしまったのは、口に出すのがはばかられる程度には悪い想像で。

 だが退院後の登校初日のあいつは間違いなく楽しそうだった。その笑顔は今でも続いていると信じたい、信じたいが……。

 などとつい不穏な考えを巡らせていたら始に見ぬかれてしまったようで、彼女はぎょっと慌ててすぐに俺の考えを否定してきた。


「ちょっ、違うって。なんか物騒なこと考えてるだろお前! クラスや友達のみんなには本当によくしてもらってるから!」

「あ、ああそうか。悪い、変に疑って……」

「終斗、お前なぁ……そうやってすぐ悪い方に考えるのは早く直した方がいいぞ。もっと前向きにならないと」

「悪い……って、なんで俺が説教される側に回らなきゃいけないんだ」

「いいだろたまにはオレが説教したって、いっつもお前ばっかじゃ不公平だ」

「不公平とかそういう話じゃ……まぁ、いっか。たまには」


 にししとちょっと意地悪そうなものではあるが、なんにせよ始が笑っているならばそれでいい。こいつには、やっぱり笑顔が似合うから。


「あれ、どこまで話したっけ」

「おいおい忘れるなよ、周りが変わるとかなんとかってところだろ」


 俺がツッコむと始は「そっか」と思い出して、ようやく話を本筋に戻した。なんとなくだけど、始の肩の力が少しだけ抜けている気がした。


「えー、終斗は変に早とちりしてたけど、実際のオレは多分きっとすごい周りに恵まれてると思う。学校生活は楽しいし、困り事があっても助けてもらえてなんとかやっていけてる」

「ふむ……話を聞く限りはそれなりに充実した生活を送ってるようだが」

「ん、それは否定しないけど……ところで終斗って、女子の前でエロとかシモネタ話ってできるか?」

「いや、それはちょっと……え!?」

「できるの?」

「できるか! 話の脈絡がなさすぎて驚いたんだよ!」


 何食わぬ顔でぶん投げてられた唐突な話に対し、当然のように目をくわっと見開いてツッコミを入れる俺。

 先程から雰囲気のわりにいまいちシリアスが保てないのは、そういう星の下に生まれたとかそんなんだろうか。なんとなくだが、これから先も度々似たことが起こりそうな気がしなくもない。

 一方の自分勝手にシリアスを作っては壊した元凶である始は、俺のツッコミもどこ吹く風と言わんばかりに話を続ける。


「だよな、オレもできない。まぁオレもお前もそういう話題はあんま得意じゃなかったけどさ元々」


 言われてみれば、始とそういった話はあまりしていなかったな。あの女の子が可愛いだの、どの芸能人が好みだのってくらいはぽつぽつ話したような気もするが。

 まぁ始はそこら辺の話題を結構恥ずかしがるし、俺も俺で人に好みをさらけだすのは嫌なタイプだから、必然といえばそのとおりだ。

 いや、少なくとも俺は興味がないわけじゃないんだけどな。いわゆるお宝本(巨乳多め)も何冊か隠し持ってるし。ムッツリと言われれば否定はできなかった。

 それはそれとして結局のところ、始がこんな話題を振ってきた理由は不明なわけで。


「ま、たしかにな。だがそれが今のお前となんの関係があるんだ?」

「それが……っていうか、それも含めた色々っていうか……」


 俺が話を促すと、始は言葉に迷いながらも続きを話し始めた。


「……つまりなにが言いたいかっていうと、男子でも女子でも、異性に話せないこととか同性だけで話したいこととか、なんかこうあるじゃん。差別がどうとかじゃなくて、わりと自然に"そういう差"って」

「なるほど……言いたいことは分かった。エロがどうとかって話もそのひとつか」


 そして、うっすらとだが始の悩みも見えてきた気がする。それが確信に変わるまでそう時間はかからなかった。


「そういうこと。オレが女になってもみんな自然に扱ってくれるのは助かるし、贅沢な悩みなのも分かっているけど……」

「だからこそ"そういう差"には馴染めない。そんなところか?」


 始は一度、こくりと小さく頷いてから再び口を開いた。


「オレの周りで聞こえる話の中身が少しずつ変わっていった。『あの女子が可愛い』じゃなくて『あの男子がかっこいい』になってた。『あのスポーツが面白い』が『あの服が素敵』になってた。すり替わるたびに変な違和感を覚えて……気づいたら、周りとの距離感そのものが前と違うものになっていたんだ」


 気持ちは……分かる気がする。始の、だけではない。彼女の周囲の人間の気持ちもだ。

 もしも俺のクラスに反転病に罹った人間がいたとして……そしたら俺はきっと、ごく自然に今の性別に沿った扱いをするだろう。もちろんそれが悪いことだとは思わない。

 元男であること、元女であること。前の性別を意識し、固執して変に敬遠したり奇異の目で見ずに偏見を廃することが正しいのだと俺たちは教育されてきたし、俺も基本的にはそう思っている。

 だが……その正しさがあくまでも一側面的な物でしかない、というのも理解してはいるつもりだ。

 性別の変わった人たちを差別の目で見ないことと、その過去全てを度外視することとはまた違う。"今とは違う性別"という過去がある以上は当然のように変わった習慣や環境への抵抗、軋轢なんかもあり、現に俺は始がそういった諸々で苦労しているところを何度か見てきた。

 ゆえに必ずしも"今の性別"に沿って彼ら彼女らを扱うことが正しいのかというと、そうでもなく……結局のところはそう扱われるのが良い人は良いだろうし嫌な人は嫌だろうし、つまりケースバイケース。

 本当に大切なのは『なにをどうすることが当人のためになるのか』というのを考え続けることなのだろう。


 ――だったら俺は始に対して、異性になった親友に対して今どういうスタンスを取っていて、これから取っていくべきなんだ?


 横道に逸れた思考から急に降って沸いた自問自答。

 もっともらしい倫理観を掲げておきながら、目の前の問題に対してはたして俺は真剣に向き合ったことがあったのだろうか。もしかして、なにも考えてこなかったんじゃないのか?

 俺が自身の根幹を揺るがしかねない問題について考え始めたのと、始がその台詞を口にしたのはほぼ同時だった。


「だから男子には遠慮なく近寄りづらくなって、だからといって女子と遠慮なく遊べるかっていうとそうでもなくて……だけど、終斗は違った」

「俺が……」


 ああ、そういうことだったのか。

 始の言葉に、俺はパズルのピースがかちりと嵌ったかのような納得を得た。

 答えは意外なほどにあっさりと導かれたのだ。

 確かに俺は"始の性別が変わった"という事実に向き合ってこなかったかもしれない、真剣に考えたことなんてなかったと思う。だけど……それで良かったんだ。なぜならば。


「終斗はオレの――」


 俺にとって始は――


 俺の心と、始の声が重なった。


「――親友のままだった」


 なんてことない。結局は、そういうことだった。

 始は懐かしむように瞳を細める。


「病院でさ、性別が変わったことなんてろくすっぽ気にせず人の健康ばっか心配していた終斗は、1ヶ月以上経ってもぜーんぜん変わんなかった。お前はお前で、オレはオレ。当たり前のようになんも変わらないこの距離感が嬉しかった。だから、こうやって言うのもちょっと照れくさいけどさ……お前のおかげでオレはオレらしくいられたんだと思う。だからありがとな、終斗」


 本当に照れくさそうな笑みを見せながら頬を掻く始。その頬が赤いのはきっと、夕焼けのせいだけじゃないだろう。


「俺にとっては当たり前のことをしたまでだから、やっぱり礼を言われることじゃない……が、気持ちはありがたく受け取っておく」

「そっか、当たり前か」

「そう、当たり前だ」


 当たり前なのも礼を言われることじゃないのも嘘偽りのない事実ではあるが、実のところここまでの直球は俺も照れくさい。そっけなく返してしまったのはそれの裏返しのようなものだ。

 しかしこの直球さもまた、男のときから変わらない始の良いところだというのも確かで……と、俺は不意に気がついた。

 "変わらない"。

 今日1日……いや、おそらくは始の性別が変わってからずっと、思えば俺はそんなところばかり見ていたような。

 ……そうか、不安だったのは始だけじゃなかったのか。

 口でなにを言っていても、内心でなにを考えていても、心の片隅では『始の性別が変わったらあいつが、俺の親友が変わってしまうのではないか』という不安があったのだろう。

 だから"変わらない"探しをして、そのたびに少しだけ安心していたんだ。

 始はああ言っていたけれど、俺が変わらなかったのは始自身のおかげでもあるんだ。そう自覚した直後、始が一段と照れくさそうな声音で俺の名前を呼んだ。


「……終斗」

「どうした」

「その、さ。クラスメイトや友達との距離感が結構微妙だって話はさっきしたじゃん。まぁ学校にいる分にはなんだかんだで楽しんでるんだけど、放課後や休みとかに遊ぶ気にはちょっとまだなれないっていうか、だからこの夏休みなんだけど……なんていうか……」

「……俺は正直友達が多いわけではないしあまり出歩きもしないから、要するに結構暇だ。せっかくの夏休みなんだからそれなりに楽しみたいが、この出不精じゃそう上手くはいかない。それこそ無理矢理にでも外に連れだそうとする誰かさんでもいなければ、な」

「ぁ……ま、まったく終斗はしょうがないな! オレが付き合ってやらなきゃほんと引きこもってばっかなんだから!」


 二人で見合って、お互いに照れ笑いを浮かべる。なんだか無駄に青臭くて恥ずかしいけれど、少なくとも悪い気分ではなかった。

 しかし始の方は照れが限界まで来たようで。


「さーて! なんかいっぱいこっ恥ずかしいこと言っちゃったし、そろそろ帰るわオレ! じゃあな!」

「あっ……」


 大げさに声を上げながら踵を返して自転車にまたがり、さっさと帰ろうとする始。

 俺の返事も聞かずに走りだす始を視界に入れながら、俺はあいつの言葉を思い出していた。


『いくら親友だっていっても言葉にしないと伝わらないことだってあるし、言葉で伝えたいこともあるからさ』


「始!」


 反射的にその背中を呼び止めていた。始が顔だけで振り返り、突然呼び止められたことによる困惑の表情が夕日によって照らされる。

 理屈じゃない。ただそうしたいって思ったから、俺は少し離れたあいつへ届くように大きく声を張り上げた。


「俺も! 俺も……お前がお前のままでいてくれて嬉しかった!」


 俺の言葉に始は目をぱちくりさせると、僅かな間うつむいて、しかしすぐに面を上げる。はたして俺の視界に映ったのは、




 ――白い歯を見せ、瞳は弓なりに。太陽のように眩しく快活な、今日一番の笑顔を見せた始の姿だった。




 一度だけ、心臓が大きく跳ね上がったような気がした。


「あ――」


 なにかを言おうとして、しかしなにを言いたいのかすら自分でも分からず、ただ言葉にならない声だけが俺の口から漏れた。

 気がつけば、始はすでに走り去っていた。少し前まで鮮烈な朱色に染められていた世界も、少しずつ夜闇に塗りつぶされていた。もうじき日が落ちるのだろう。

 それにしても今しがた感じたものは一体なんだったんだろうか。始の笑顔があんまりにも明るいから驚いたとか?

 ……まぁいいか。

 俺と始は親友で、俺も始もそう在ることを望んでいる。それだけ分かれば十分だろう。


「……よし、帰るか」


 俺はすぐ隣のマンションへと足を運びながら、明日始となにをするか。これからの夏休みをどう過ごすか。なんてことに思いを馳せ始める。


 このときの俺は始との友情がずっと続くことを、この友情がなにも変わらないことを疑わず、願いすらせず。

 ただそれが俺たちの当たり前なのだろうと曖昧に、漠然と思い描いているだけだった……。

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