後日談2話 彼女と匂いと、おまけに姉と
少しずつ冷え込んできて『ああ、秋も深まってきたなぁ』なんて感慨深く思っていたのも、今は昔というやつだ。
いつの間にやら季節は12月上旬。秋から冬へとバトンを渡すようにここ1週間で一気に冷え込んだ空気の中を、それでもオレは機嫌良く、微妙な出来栄えの鼻歌を口ずさみながら歩いていた。
いつもとは気分を変えて横じゃなく後ろに纏めたポニーテールを風に遊ばせ、ふわりと広がる裾の長いフレアスカートを揺らし。落ち着いた色合いのダッフルコートのポケットに手を引っ込めつつ住宅街を行けば、クリスマスの飾り付けをしている家もちらほら見えて。
少しずつ冬模様に様変わりしていく世界にわけもなく浮かれているうちに、あっという間に終斗の住んでいるマンションへと辿りついていた。
今日は土曜日、今はお昼どき。
終斗が昼飯を作ってくれるというので、遠慮なくおジャマしようというわけだ。
約束の時間にはまだいくらか早いけど、早い分には多分問題もあるまい。もし外出していたらしばらく待たせてもらおう。
なんて考えながら慣れた足取りでマンションに入り、エレベーターで終斗の住んでいる301号室へ。
チャイムを押せば、ピーンポーンといつもどおり軽快に音を鳴らしてくれたので、いつもどおりドアの前で待つことしばらく。
がちゃり。鍵を回す音を合図にドアが開いていく、その一連の流れもいつもどおりだ。
だからオレはなんの疑いもなく待てた。いつもどおり、終斗が出迎えてくれることだけを楽しみにして――
「はいはいどなたー……おや」
「!?」
しょ……醤油!?
いや違う。オレの目に映る、その若干複雑な字面だけで外国人が意味も分からず『So cool!』とかはしゃぎそうなTシャツの文字は、この際どうでもいい。問題なのは終斗の家から美人なお姉さんが出てきたという事実そのものだ。
驚愕にあんぐりと、人前だというのにみっともなく口を開いてしまうオレを認めて、謎のお姉さんは小首をかしげた。
「んー?」
「あわわわ……」
オレのことをじーっと見つめてなにかを思案するお姉さん。オレもオレでこの状況にどう対処したものか分からずテンパりながらも、しかしとりあえず彼女の全身に目を向けてみた。
首辺りでざっくばらんに結わえられた長い黒髪には、寝癖らしきハネがところどころ残っている。もっとしっかり整えれば綺麗な長髪になるだろうに、うらやましいと同時に若干もったいないような。
体型はまひる以上終斗以下くらいの、すらりと伸びた長身。おまけに出るところはちゃんと出てるし、ぐぬ。
切れ長気味で輪郭がくっきりした存在感のある瞳と、細く長い整った鼻梁。愛らしさよりも美しさが勝るその顔付きからは、どことなく終斗の面影が感じられて……はっ!
まさかとは思うけど――終斗も反転病にっ……いやいや。昨日も会ったし、さすがに早すぎるだろ!
それに、お姉さんが着てる無地のTシャツにでかでかと力強く刻まれた『醤油』の文字。あれは間違いなく終斗のセンスからかけ離れている。
……じゃあほんとに誰この人!?
終斗の家族?でもご両親は今海外にいるって聞いてるし……。
あわあわとパニックになる頭で、それでもなんとかこの人の正体を探ろうとしていたオレに対して、お姉さんはなにかを思い出したように「あ!」と一際よく通る声を発したのちに言葉を紡いだ。
「あなたが噂の始ちゃんよね! ずっと会いたかったのよ!」
「!?!?」
オレの名前まで知っているだと!?
ますますわけが分からない。でも"噂の"ってことは人づてにオレのことを聞いたのだろう。それこそ、この家の家主である終斗とかに……はっ!
一瞬過ぎってしまった不穏な妄想を、俺は即座に首を横に振って振り払う。
そうだ、なんでもすぐに決め付けてはいけない。片思いだと思っていたら両思いだった、なんて例も世の中にはあるわけだし!
むむむ……考えてもこの人の正体が掴めないなら、直球勝負で聞いてみるのがオレのやり方だ!
「あ、あ、あの! あなたは、えっと……終斗のなんなのでしょうか!?」
ずばり、尋ねてみる。
しかしお姉さんは「うふふ……」と意味深に微笑んでから……
「むしろ、あなたが彼のなんなのかしら?」
なんと、聞き返された!?
う……"そうなって"からまだ日は浅い。堂々と、面と向かって誰かにそれを宣言するのはやや恥ずかしいけれど、しかしここで名乗らないわけにもいくまい。
「お、オレは終斗の、その……か、彼女です!」
謎のお姉さんに胸を張って、出来る限り堂々と答えるオレ。
でも自分で言っておいてなんだけど、『彼女』かぁ……。
その肩書きを自覚するとなんというか、ほど良く背中がこそばゆくなる……が、そんなささやかな幸せも長くは続かなかった。
オレの宣言を聞いたお姉さんはなにやら満足そうな笑みと共に、一度頷いて。かと思いきやすぐに怪しげな微笑をその端整な顔に貼り付けて。
「だったら私は、そうねぇ……彼のことを『終くん』って呼ぶ、その程度の仲かしら」
「あ、あだ名っ……!?」
さっきまで背中に感じていたこそばゆさはこの瞬間、怖気にも似た戦慄に取って代わられた。
これは……敗北感……!?
呼び方だけが人の信頼度を測るものさしではない。オレは普通に名前呼びだけど、終斗への愛では誰にも負けないつもりだ。
いや、でもそれはそれとして、あだ名で呼ぶってことはそれなりに親しい仲ということで……しかもそういえばこの人、普通に終斗の家いたし……。
わずかに染み付いた疑心。そこにつけこむように、さっき振り払ったはずの妄想が脳内でぶわっと広がり形を成す。
いや、まさか。信じたくはない、なにかの間違いだと思いたい。でも万が一、億が一、ありえないとも言い切れない可能性。
「もしかして、う、うわ、うわ、き――」
「――なにしてるんだ、姉さん……」
「あらお帰り終くん」
「ね、姉さん!?」
●
「なにしてるんだ、姉さん……」
「あらお帰り終くん」
「ね、姉さん!?」
今日は土曜日、時刻は昼。
せっかくの休みだから始に手料理でも振舞ってあげようと自宅に招き、約束の時間までには間に合わせるよう近所のスーパーで材料を買って、戻り。そして目にした光景が、これである。
買い物袋を片手に提げた俺の声に振り向いたのは、驚愕に目を見開く始。べつにこっちはいいんだ。約束よりもまだいくらか早いがそれについては咎める必要もないし、むしろどちらかといえば時間にルーズだった始の成長を喜ぶ場面ですらある。
だがもう片方の。さも当然のように玄関で出迎えてきたが、貴様は駄目だ。
「姉さん。あんた今日来るって言ってなかっただろ」
半ば呆れた口調で尋ねた俺に、しかし不法侵入者もとい姉さんはぬけぬけと言い返してきた。
「あれ? 嘘だけど」
「ただでさえ乏しい信頼度を自分から下げに来るなよ!」
「いやだって、今回ばかりはしょうがないじゃない? だってどっかの誰かが急に進展教えてくれなくなったんだし、突撃取材しかないじゃない?」
「しょうがないって、嘘つく奴はみんなそう言う! あのな、一応今は俺が一人で暮らしてるんだから連絡もなしに来るなってあれほど――」
反省の色を微塵も見せない姉さんを叱ろうとした俺の言葉は、しかし始が突然ひしと抱きついてきたことで途切れてしまった。
始と姉さんとの間には超えられない壁がある。当然のごとく姉さんを叱るのはあとに回して、とりあえず様子のおかしい始に尋ねてみた。
「は、始、どうした……?」
「ごめん終斗。オレ、オレ……」
若干涙声になりながら俺の懐に顔をうずめてくる様はまぁいつもどおり可愛らしかったが、それはそれとしてなにをやらかしたこの姉は。
始を泣かすのならば、たとえ家族でも容赦はしない。今すぐにでも問い詰めてやろうかと考え始めていた俺に、始が言った。
「オレの体型が不甲斐ないから、浮気されたんじゃないかって、ほんの少しだけ……」
「始……」
ああ、そういう。
内情を知っている身としては心外極まりない誤解だが、しかし言われてみれば一人暮らしの男の家から見知らぬ女性が出てきたんだ。疑うのも無理はないが、やはり大体姉さんのせいなのでどうしてくれよう本当に。
それはそうと、始は前々から自分の体型にコンプレックスを持っているらしく。だが俺としてはそんなコンパクトさも含めて惚れこんでいるので無問題。
ゆえに迷いなく、始を慰めるために口を開いた。
「大丈夫だ始。状況的に疑ってもおかしくないし、お前は全然不甲斐なくもないよ」
「終斗……」
髪をそっと撫でながら言葉をかければ、始の声に落ち着きが戻ってきたような。俺はそのままの調子で言葉を続けた。
「姉さんと自分を見比べて言ったんだろうがな……そもそも、姉さんは体型以外の全部が不甲斐ないし。人間重要なのは心だ心」
「ねぇ終くん、兄妹だからって言って良いことと悪いことがあると思わない?」
無視である。
「とりあえず家に入るか、始」
「家族よりも女を優先! これだからリア充ってやつは!」
無視である。
◇
玄関であまり立ち話するのもなんだということで、とりあえず二人を家に入れてリビングへと通す。
姉さんがいるせいか、いつもよりもだいぶ大人しく緊張気味な始。正反対に緊張ほぐれすぎて「うえっへっへっへ……」と時折不気味な笑みを漏らす姉さん。
そんな二人に不安を募らせつつも、リビングに着くと二人に向き直ってから俺は言った。
「さて、姉さんが来るのは予想外だったが……元々始に手料理を振舞う予定だったし、昼飯は俺が作るよ。姉さん、飯は」
「こんなこともあろうかと思って食べてきてないわ!」
「とことんまでに厚かましいな。まぁいい、とにかく俺が飯作ってる間だが……姉さん、始に絶対変なことするなよ?」
「はーい分かってまーす!」
「不安しかない……」
だがあれでも身内だ、大人の女性だ。
いわゆるコミュ力だけならかなりのものだし、今こそ借りてきた猫ならぬ子犬みたいな状態の始も本来は人懐っこい性格。
ファーストコンタクトこそアレだったが、社交的な二人なら放っておいてもなんだかんだで打ち解けてくれるだろう……。
――これが自分の見積もりの甘さと、姉さんの行動力を侮っていたことを分からされる、30分ほど前の出来事であった。
今日の昼飯は"青椒肉絲"。ルビを振るなら"チンジャオロース"。
ざっくり説明すれば細切りにした牛肉とピーマンをオイスターソースや豆板醤などで炒める、というごくシンプルな料理だが、シンプルゆえに分かりやすく美味しい。というのも料理界の常である。
秋はもう終わりだがそれでもまだまだ旬、むしろ今からが本番ともいえるサツマイモも一緒に細切りにして炒めてあるのが、今日のワンポイントだ。
量は結構作ってある。姉さんも始もこういうざっくりとした料理が好きなタイプだし、朝炊いておいた米と一緒にしっかりと平らげてもらおう。
そんなことを何気無く考えながら、山盛りのチンジャオロースが乗った大皿を両手で抱え、リビングへと戻った俺だが……はて、二人の姿が見当たらない。
キッチンの隣に鎮座する4人用の大机。その隣のソファーやテレビが置いてあるスペースにも、始たちの姿はなかった。
――嫌な予感しかしない。
チンジャオロースを机に置いてから、急ぎリビングと隣接しているドアのひとつを開ける。
廊下へと通じるドアとは別にあるそこは、姉の部屋へと通じるものだ。とはいえ今はその姉がいないので、ただの物置と化しているのだが……。
とにもかくにもドアを開けて中を確認する……と。
「あのねー、それでねー、しゅーとがねー」
「うんうん。それでそれで?」
いた。
季節的に使わなくなった扇風機や、そもそも使用頻度自体が低いバーベキューコンロなどがちらほら部屋の片隅に置かれてるだけの、殺風景な洋室の中心。
「ぎゅーってしてくれてー、あったかくてね」
「ふんふん……あ、ちょっとまってメモするから」
「待つのはあんたの方だ絶対に変なことすんなって言っただろほんと不甲斐ない人だよな!」
「ああんお楽しみの最中だったのにぃ!」
姉さんが今正に開いていたメモ帳を即座に取り上げ、一度後ろを向いてからリビングの方に投げ捨てる。
そして再び振り返った俺の目に映っている景色は床に転がったチューハイの缶が2本と、メモを投げ捨てられたことに座り込んだまま怒る姉さん。その頬にほんのり朱が差しているのは、おそらく怒りのせいだけではあるまいが……それよりも、だ。
重要なのはその場にいるもうひとり。
「あ、しゅーとだー」
呂律が回らない舌で俺の名を呼ぶ彼女の瞳には、普段の真っ直ぐな輝きが微塵も感じられず、代わりに怪しく蕩けた鈍い光が宿っていた。
ただでさえ丸っこい頬はほんのりどころか真っ赤に染まり、まるでりんごのようで。
酒が回ったことで体温が上がったのか。彼女が羽織っていたダッフルコートはすでに脱ぎ捨てられており、その下に覆われていた長袖のシャツ一枚を今は表にさらけ出している。
有体に言えば、べろんべろんに酔っている始がそこにはいた。
八の字に足を開き、ぺたんと座り込む彼女はそばに置いてあったチューハイを両手でおぼつかなく握り……こらこらこらこら!
「止めなさい!」
「ふぁ」
慌てて酒を取り上げると、始はそれを物欲しそうに見上げてき……止めろ!心がぐらつくからそんな目で見るんじゃない!
「あのね終くん」
「なんだよ!?」
オレは姉さんの呼びかけに、溜まった鬱憤だか何だかをぶつけるように苛立ち混じりの返答を返す。
しかし姉さんはそれを意にも介さず、ぽやっと焦点の合わない瞳で遠くを眺めていた始を抱き寄せるとあろうことか首筋に顔を埋めて、ほどなくして顔を上げて。
そして腹立たしいほどに良い笑顔でのたまった。
「――酒に酔った女の子ってね、めっちゃ良い匂いすんのよ!」
「羨ましいな!」
いきなり変なことすんなよ、離してやれよ!
「本音と建前逆にするとかベタなボケかますわね」
「はっ……!」
不覚、としか言えない。
動揺からつい漏れてしまった俺の失言を、姉さんがここぞとばかりに突っ込んでくる。
「というか羨ましいんだ。へぇー」
「なにが言いたい」
「思春期ね」
「黙れ」
「そうそう、こうやってぎゅーって抱きしめるとめっちゃ柔らかいのねこの子」
「そっちはわりと知ってるよ!」
始がしょっちゅう抱きついてくるからな!
しかし思わず条件反射で返してしまったが、これまた失言以外の何物でもない。
姉さんの表情が変わったことで、俺はようやくそれに気づいた。
「ほぉ、そこら辺ちょっと詳しく聞きたいわねぇ……」
「くっ……」
ただでさえ面倒くさいのに、今は若干酔っているものだから当社比3割増しだ。
だからといってこれ以上追求されるわけにはいかない。俺はどうにか話を逸らそうと試みた。
「そ、そんなことよりもだ! 未成年に酒を飲ますなんて、大人としてやっていいことと悪いことが――」
俺自身も一度酒に酔いつぶれた過去があるが、それはそれでこれはこれ。
自分の行いを棚に上げて姉さんに説教をしようとしていた俺は、しかし自身のシャツの裾を不意に引っ張られる感触に気を取られ、つい視線を下げてしまう。
「しゅーと、しゅーと」
裾を引っ張っていたのは、焦点の合わない瞳で俺を見つめる始だった。
「ど、どうした始」
そう問いかけるも、なぜか始は裾を握ったままぼーっと俺を見つめるばかり。
その上目遣いに精神が削られる。一刻も早く目を逸らしたいが、しかしそれはそれで非常に勿体無い気もする。
そんな無駄な葛藤を繰り返していたら、ようやく始の表情が変わった。
「……えへへ」
頬赤く酔いが回った顔で、幸せそうにふにゃりと破顔する始。
結局なにがしたかったのかは分からなかったが、彼女が幸せそうなので概ね些細な問題だ。
俺は心に暖かみを感じながら、おもむろにズボンのポケットからスマホを取り出した。
そしてカメラ機能を立ち上げて、始の笑みに焦点を合わせてからパシャリと一枚。
……うむ。
普段は見られない、酔った始の笑顔。レアな写真に俺がひとしきり満足したところで、姉の言葉が俺を正気に戻した。
「……で、私に言うべきなのは感謝か説教か。どっちかしら?」
「くっ……! だがそれとこれとは……」
ニヤニヤといやらしい笑いを向けてくる姉に反論をしようとするも、またもや始に裾を引っ張られた。
「しゅーとー、だっこー」
一旦落ち着いて。始を優しく横抱きで抱えて。
逆にぎゅっとしがみつき返されながらも、俺は力強く姉さんに言い放った。
「――見逃すのは今回だけだからな!」
「そういう欲望に正直なところ、実に男の子で嫌いじゃないわよ私」
これ以上は墓穴を掘りそうなので、あえてのノーコメントである。もう十分に掘っているとか言ってはいけない。
それよりも大事なのは始だ。
缶はほとんど転がっていないのにここまで酔っている辺り、相当酒には弱いようだが……幸い変な酔い方はしていないようで、今は俺の胸元で幸せそうに目を瞑っている。
ならば大人しい今のうちに、適当なベッドまで運んで寝かせておくのがベターというものだろう。
というか、匂いが。今の始は俺の首に腕を回した上で、首筋付近に自分の顔を預けているので、結果的に俺の顔と始の顔がかなり近づいているわけだが……こう、甘い果実と酒臭さに混じっていや止めようこの話は。
一意専心、心頭滅却。ある種の無我の境地を目指さんとばかりに精神を鎮めつつ、俺は姉さんに言葉を投げる。
「……とにかくだな、今から始を俺の部屋のベッドに寝かせてくるから。今度こそ大人しく待ってろよ」
「やだーあえて自分のベッドに運ぶなんて意味深ー」
無我の境地で姉を無視して、俺は早速自分の部屋に向かった。
……一応弁解しておくが、もちろん俺にやましい気持ちなどない。断じてない!
なにはともあれ始を起こさないよう気をつけながらも足早に自分の部屋へとたどり着き、ベッドの上にそっと始を下ろしてから布団を掛ける。
抱えている間にほぼ眠りに落ちていたようで、ほどなくして始は静かに寝息を立てだした。
これでようやく一息つける。
俺はベッドの前に腰を下ろすと、胸の内を吐き出さんと大きくため息をついた。
「はぁー……まったく、姉さんのせいで散々な目にあった……」
数分のやりとりだったというのに、なぜだかどっと疲れが溜まった気がする。
とはいえそんな疲れも、始の寝顔を見ていたら自然と軽くなってきたような。
「むにゃむにゃ……まだ食べられるよ……」
そこは『もう食べられない』じゃないのか、まったくそういうところも可愛いな。
なんてぼんやりと考えていると、気づけば疲れていたはずの体が自然に立ち上がっていて。
もっと近くで寝顔を見たい。
疲労に呻いていたはずの俺の体を動かしていたのは、とりとめのないはずの些細な欲求だった。
はたして俺の眼前に、愛らしくあどけない寝顔が迫った。心の赴くままに、ただじっくりと眺める。
明るい茶髪はいつものサイドとは違って、真後ろで結ばれた正統派のポニーテールだがこれはこれでよく似合う。そうか、結べるほど髪が伸びていたんだな。なんて当たり前の事実を不意に再認識した。
そういえば安らかに閉じられた目蓋から伸びるまつげも、いつの間にやら伸びていたみたいで。こういう発見の度に、ふとどきりとさせられる。
もちもちと柔らかそうな頬は、しかし酒に染まったせいか白い肌に映える赤みを帯びていて、そしてどことなく艶やかだった。
そうして髪、目、頬と始の顔を一通りなぞる視線が自然と最後に残った口へと向かったのは、ある意味必然ともいえよう。
「ん……」
小鳥のように小さい唇が、これまた小さく吐息を漏らした。
小さいけれど血色が良く、艶のある唇からは……有体に言えば、色気を感じた。
ごくり。無意識のうちに、唾を飲み込んでいた。
ぶわり。胸の内から湧き出た衝動に、逆らおうという気すら起きなかった。
目の前にあった始の顔がゆっくりと、閉じた唇を中心にして近づいてくるのはきっと気のせいではない。それでも今の俺に、それをどうにかしようという思考はなかった。
視界の中の始が近づくことに、少しずつ彼女の匂いが強くなっていく。
チューハイ特有の酒と果実の混ざった甘ったるく鼻を突く匂いの中に、薄らとラベンダーのような香りが漂ってくる。きっと始の使っているシャンプーだか石鹸だかの匂いだろう。
普段よく抱きつかれてはいたものの、しかし身長差的な都合もあり顔を近づけることなんてほとんどなかった。
だから匂いだって早々意識していなかったが……これが、始の。
そう意識した瞬間、体がかぁと暑くなった。
酒の匂いだけで酔ってしまったのか、それとも単なる劣情か。あるいはその両方か。
最早自分でもその判別すらつかないほどの前後不覚。それでも目的だけははっきりとしていて。
小さな唇が視界の中心を外れて下へと落ち、それでも視界そのものは始の顔を拡大していく。
自分がなにをしようとしているのか、それが分かっていても。こんなやり方はフェアじゃないと、理性がそう叫んでいても。
今の俺にその行為を止めることは出来ないから。
俺も目を瞑り、ただ静かにこの流れに身を任せ――
――カランッ。
なにかが落ちたような物音が耳に届き、跳ね上がり、ベッドから後ずさって、音源へと首が千切れそうな勢いで振り向くまで、約1秒。
はたして視界に映っていたのは、半端に開いたドアから俺を覗く姉さんの姿で。音源はどうやら彼女が落としたシャーペンのようで。つまり彼女はそれを使う行動をしていたわけで。
落ちたシャーペンを何気無く拾い、「ネタ帳」と書かれた手乗りサイズのメモ帳を広げなおしてから、姉さんは一言。
「……こっちのことはお気になさらず、続けてどうぞ」
「帰れ!!」
そのとき、始が起きなかったのが奇跡的なほどの大音量が我が家に響いたのは、おそらく言うまでもないことだろう。
●
「ん……」
ふと、意識が浮上してきた。
なんていうか、現と夢の狭間をふわふわと漂うような。目覚める直前にいつも感じるまどろみは、だけどいつもよりぐっと深く、下手したらまた夢の中に落ちてしまいそうで。
それもいいかな……なんて考えながらも、不意に気づいた違和感がオレの意識を揺り起こそうとしてきた。
布団が、枕が、なんとなくいつもと違う……気がする。
うちの煎餅布団は下も上もこんなにふかふかしていなかったはずだし、枕もしかりだ。
それに匂いも……ちょっと汗臭いというか、男臭いのかな。でも全然嫌じゃなくて、むしろ安心する。
でもこの匂い、どこかで感じたことがある……お父さん?ううん、それよりも爽やかな感じで……あ。
そうだ、終斗に抱きついたときと同じなんだ。……って、終斗?
このときオレは、自分が終斗の家にいたことをようやく思い出した。だけどなにがどうしてこうなったのかについては、まだ全然思い出せていない。
たしか終斗の家に行ったら終斗のお姉さんと出くわして、それからなんだかんだで家におじゃまして、えっと……。
駄目だ。どうにも記憶がぼんやりしているし、頭も不思議と重くて全然働かない。
「……とりあえず、出ようかな」
ここが終斗の家ならば多分終斗もいるだろうし、なにがあったにせよこの部屋から出れば分かるだろう。
そう思ってまずは布団から出ようとして……でもここすんごい居心地良いから、逆に顔まですっぽり布団に潜っちゃって。
そんなこんなでうだうだうだーと30分。
まだ頭は微妙にぼーっとしているけど眠気自体は概ね覚めたので、若干の未練を残しつつもベッドから降りて……あ、ここ終斗の部屋なんだ。どーりで終斗の匂いが。
そんなことに今更気づく辺り、今日のオレは随分と寝ぼすけらしい。そういえば、未だに寝る前のこと思い出せないしなぁ。
なんてことをつらつらと考えながらリビングに足を運んだオレだったけど……その嗅覚がある匂いを捉えたことで、ぼーっとしていた頭が一気に目覚めてきた。
もちろんさっきまで堪能していた終斗の匂い……ではない。さざ波感じる磯の香りと、日本人の本能を刺激する味噌のこうばしい香りがミックスしたこれは――
「――あさりの味噌汁だ!」
オレの声に、エプロンを羽織ってキッチンに立っていた終斗が驚きの表情で振り返った。
「うお、もう起きてたのか。でも大丈夫か? 頭痛くなったりしてないか?」
なぜかやけに心配そうな終斗。事情は分からないけど、とりあえず彼女として安心させなければ。そんな意気込みでオレは元気良く答えた。
「? うん、さっきまでちょっとぼーっとしてたけど今は全然! あ、そういえばオレさぁ、寝る前のこと全然覚えてないんだけどなにがあったんだっけ?」
話のネタ代わりにそう聞いてみれば、なぜか終斗は若干目を逸らしてわずかに沈黙を置いてから答えた。
「……お前は姉さんに、酒を飲まされてたんだよ」
「え、オレ酒飲んだの!? 全然覚えてないんだけど、なんかまずいこととかしちゃったかな!」
「いや、どっちかっていえば俺が……ん゛ん゛! いや、お前はすぐに寝たからな。はは……」
喉に痰でも絡まったのか大きな咳払いを一度挟んでから、終斗はそう言って笑う。
そっかぁ、オレ寝ちゃったのかぁ。どおりで覚えてないはずだ。
でもオレってそんなにお酒弱かったんだ。うーん、初めてのお酒だったのになんだかもったいない。酔っ払う感覚っていうのも一度くらいは体験してみたいし……。
「今度はゆっくりと飲んでみたいなぁ、お酒」
「駄目だ! 酒は二十歳になるまで禁止!」
ぽつりと漏らした呟きは、しかしやたらと必死な終斗の叫びによってかき消されたのだった。
【おまけ:彼女の残り香とベストショット】
どっぷり酒に酔った直後だったというのに二日酔いの様子もないどころか、味噌汁に加えて昼食べるはずだったチンジャオロースとお茶碗2杯分の米までがっつり平らげてみせた始。
全ての皿が空になる頃にはすっかり日も暮れていたので、一度始を自宅まで送り届けてまた戻ってきて。
無駄に疲れた1日だったがこれでようやく、本当にようやく一息つける……。
「少しだけ、寝よう……」
我が家へと足を踏み入れた俺は、わずかに残っている気力を振り絞って自分の部屋に直行した。
服も着替えていないどころかそもそも風呂に入ってすらいないので、まぁあくまでも仮眠ではあるのだが。なんにせよ少しは体を休めないとこれ以上動ける気がしない。
そんなわけで自分の部屋へと足を踏み入れた俺は、迷わずベッドに倒れこんで……
「――!?」
すぐに飛び起き尻餅をついてから、その上で後ずさってしまった。
その理由はただひとつ。
「なんか甘い匂いするんだけど、これってアレだよな……!」
アレとはなにか?そんなもの決まってる、ここのベッドを一番最後に使っていたのは始だ。つまり、そういうことだった。
始をここで寝かせたことに本当に他意はなかったが、まさかこんなことになろうとは。思わぬ幸運……じゃなくて不運!
「これじゃ眠れるわけないだろ……! だからって洗濯するのはちょっともったいな……って、変態か俺は!」
おかしな方向へとずれていく思考に頭を抱えざるをえなかった俺だったが、そこに一本の電話がかかってきた。
着信者は姉さん。もうこの時点で口から「めんどくさい……」とありのままの心境が漏れてしまっていたが、だからといって無視するわけにもいかないので仕方なく出るだけ出てみた。
ちなみに姉さんは始が起きる前に無理矢理追い返しもとい、丁重にご帰宅してもらっている。賄賂は昼作ったチンジャオロースの一部である。
スマホを耳に当てると2、3時間前に聞いたばかりの姉さんの声が聞こえてきた。
『もしもし終くん? 結局あのあと手は――』
切ってみた。ついでに姉さんの番号を着信拒否に放り込んでみた。
明日なに言われるか分かったものではないが……とりあえず今日1日はこのままにしておこう。俺は元来インドア派、たまには孤独と戯れたいときだってあるのだ。
と思ったら今度は某トークアプリからメッセージが。
『本当にキスのひとつもしなかったの?』
文明の進歩は同時に、人から"ひと時の孤独"という名の安らぎを奪ってしまったというのか……。
いつでも人と繋がれる現代だからこその弊害を肌身に感じつつも、しかしトークアプリまで弄るのは面倒なので、てっとり早く電源を消そうかと思い立つ。というか冷静に考えてみれば、最初からそれで良かったじゃないか。
思考能力すら危ういと判明した今、さっさとスマホの電源を切ってベッド……は諸事情により厳しいのでソファーで寝るしかない……が、その前に気力回復のため、ひとつだけ見返しておきたい物がある。
俺はスマホの写真フォルダを開きながら、今しがた送られてきた姉さんの言葉を思い出していた。
反論してもしょうがないので直接は言わないが、俺の名誉にかけて断じてなにも手は出していない。出せなかったとも言う……かどうかについては、これまた俺の名誉のために伏せておこう。
とにかく俺は、始に手も足も口も出してはいない。いないが……。
「まぁ……これぐらいは、役得というやつだろう」
画面に小さく並ぶ写真の一番右下、最新の物を開く。
拡大されて画面全体に写った写真は、酒によって頬を赤く染められた始のものだ。だがそれは酔っている最中のあいつの笑顔ではなく、もうひとつのベストショット。
俺のベッドで気持ち良さそうに瞳を閉じて寝ている始の姿だった。
それをひとしきり眺めてから、俺はぽつりと呟いた。
「写真か。こうやって記録に残すのも……うん、いいな」
この1ヵ月後、スマホのカメラ機能程度では満足できなくなった俺はデジカメの購入を決意するのだが、それはまた別の話である。




