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ユーガリア戦記  作者: さくも
第6章 白霧の中へ
152/163

6-14「目の前で誰かが死んでいくのを、見ていたくないだけ」

ベルーロ

 →農業都市ユニケーの領主:ホーズン伯爵の子。(次期領主)

登場話:6-1,6-2

 本来、磔刑は手首や肩に釘を打ち込んで十字架に固定する。だが、ドルク族はそのことを知らなかったようだ。両腕を縄で縛り上げ、それを十字架に吊るすような格好で磔にされた。屈辱的ではあったが、同時にベルーロは「助かった」と思った。蛮族で知られるドルク族に生殺与奪権を握られていながら、辱めを受けるだけで命が助かるのならば、安いくらいのことである。

 ドルク族は農業都市ユニケーを制圧するつもりはないようだった。都市部の防御が堅いと知るや、農業部の略奪だけに的を絞った。最後に捕らえた貴族たちを磔にし、ルノア大平原に走り去っていった。


 ベルーロはドルク族がいなくなったのを見届けると、助けを求めて大声を張り上げた。


「私はホーズン伯爵が子息、ベルーロである! ここから降ろしてくれ。そうすればユニケーの居住権をやる!」


 晴れ渡った空に、ベルーロの声は良く通った。だというのに、農業都市ユニケーからは何も反応がない。


「おい、降ろしてくれ。褒美は期待してくれていい」


 門のあった場所を守るようにして、槍を構えている民兵に話しかけたが返事がない。ベルーロの他にも、何人もの貴族たちがそれぞれに自らの爵位と名を叫びながら助けを求めたが、ユニケーの内部に入った者たちは何の反応も寄越さなかった。

 本来の磔刑ならば、鞭で打たれたり槍で刺されたり、身体を痛めつけられてから磔にあう。だがドルク族はそういった知識を持たず、ただただ縄でくくって磔にしていっただけだった。貴族たちは皆、叫ぶだけの体力を残していた。


 陽が暮れ始めるまで、貴族たちは助けを求め続けた。助けられて当然、という態度が徐々に崩れ、泣き叫びながら助けを乞いだす者も出る。ベルーロも叫び続けた。喉はもう、からからに乾き果てている。


「このまま城壁の外で夜を明かさせるつもりか! 大平原にはモンスターも出るのだぞ!」


 貴族の一人が、泣き声混じりに叫んだ。

 その言葉を待っていたかのように、城壁の内側からいくつもの声がこだました。


「おれたちは城壁の外に何日もいた。大丈夫さ、都市の周りにまでモンスターが寄ってくることはそうない」

「もっとも、襲われたとしても助けてやる気はないけどな」

「そこで弱者の痛みを知るが良い! 貴族だからってふんぞり返りやがって」


 どれも、怒りの混じった笑い声だった。


「難民どもめ……」


 ベルーロは唇を噛み、身体を揺らした。四肢はきつく縄で縛られており、とてもほどけそうにない。強く揺らし続けて十字架をへし折ってしまうことも考えたが、すぐに諦めた。背中の部分は鉄でできており折るのは難しいだろう。それに、万一折ることに成功したとしても、破壊され倒された城門が真下にある。打ち所が悪ければ、そのまま死んでしまうだろう。

 すぐ近くで磔にされている父ホーズンは、俯いたまま一言も喋ろうとしない。どこか悪いのだろうか。ドルク族がやってきてから、ろくな食事もとっていないのだ。


 やがて陽が暮れると、寒さが身に染みた。春は近づいてきているが、まだリガ山脈に降り積もった雪は溶けていない。


(なんで、私がこんな目に……)


 普段なら城の中で、暖炉の火にあたっていられる時間である。それが今や、野ざらしに近い状態で放置されている。

 都市部の連中はどうしたのだ、とベルーロは思った。財宝でも何でもいい、都市部にある伯爵家の財産を難民たちに分け与えてやればいい。城からは、ここの様子が見えているはずだ。なぜ誰も助けようとしない。なぜ都市部は門を閉ざして守りを固めているだけなのだ。


 ふつふつと怒りがこみ上げてくる。覚えているがいい。ここから降りたら、難民どもも、都市部に残って保身に走った者どもも、みんなまとめて制裁してやる。そもそも、王国騎士団は何をしていたのだ。都市の外側に三万もの軍勢が待機していながら、ドルク族に敗れた。かなりの数が死んだはずだが、散り散りになって大平原を逃げていった者たちもいる。彼らが戻ってきてくれれば、難民どもは言うことを聞くはずだ。

 三千騎……いや、一千騎でもいい。それだけの軍がいれば、難民どもは言うことを聞くだろう。なぜ、そんな簡単なことができない。何のための軍だと言うのか。


 知らぬ間に、眠っていた。陽はもう高い。相変わらず、難民たちは農業部を占拠していて、助けてくれそうな気配はない。昨日に引き続いて、助けを求める貴族たちもいたが、ベルーロは体力の温存に努めた。


「水……水をくれ……一杯だけでもいい、水を……」


 明らかに、体調が悪くなっている貴族が訴える。声はかすれかすれで、息遣いが荒くなっている。

 ベルーロは目を閉じて、一日を過ごした。耳と鼻を塞ぐことができないのが苦痛だった。貴族たちの怨嗟の声や、彼らの垂れ流した不快な臭い、それに死体の山から漂う腐臭は、目を閉じていても入ってくる。


 時間が過ぎるのを、黙って耐え続けた。ホーズンはきっと、最初からそのつもりだったのだろう。だから、俯いたまま顔を上げずにいるのだ。

 さらに日が変わると、誰も喋らなくなった。救いを求めても無駄だということが分かり始めたのだろう、とベルーロはまず思ったが、あまりに苦しそうな呼吸にそうではないことを悟った。


 ベルーロも何か声を出そうとしたが、ひゅうひゅうとかすれた音が漏れただけだった。両腕に痺れが走っていて、思考はまとまらず、ひどい倦怠感と眠気に包まれている。

 飛び飛びになる意識の中で、ベルーロは目を開けようと努めた。昨日までとは違い、目を閉じていたらそのまま二度と開かなくなるかもしれないという恐怖がベルーロの心に住み着いていた。


 何日経ったのか、ベルーロには分からなかった。一日の出来事だったのかもしれないし、数日が経過したのかもしれない。目を開けていても、何も変わりはしないのだ。打ち倒された城門と、門のあった場所を守る民兵が見えるだけ。後は陽の高さで、今が何時ごろなのか推察するだけだ。

 途切れ途切れになる意識の中で、ベルーロはそれでも目を開けようと努力し続けた。やがて、旅装の女性がユニケーに入っていくのが見えた。


 彼女も、どこかの都市から逃れてやってきたのかもしれない、とベルーロはぼんやり思った。女性は、やたらとポケットのたくさんついたベストにズボン姿をしていた。二十歳くらいだろうか。視界がぼやけて、はっきり顔を見ることができない。彼女はこちらを指差しながら、民兵と何かを話している。おそらく、何の罪状で磔刑に処されているのかを訊ねているのだろう。

 水をくれ。ベルーロは必死に目で訴えた。だが女性はもうベルーロの方を見ず、ユニケーの農業部に入っていった。


 意識が保てなかった。断続的に意識が覚醒しても、水が欲しいとしか思えなくなっていた。渇きは、もう限界に達していた。全身に力が入らず、微かな痺れを感じる。誰でもいい、助けて欲しい。


 やがて、渇きさえも感じなくなった。

 俯いたままのホーズンのことが気にかかる。父は、もう死んでいるのではないか。だとしたら、それは自分のせいだ。ベルーロが難民たちを助けないという決断を下したせいで、父は死んでしまったのだ。


 眠っているのか起きているのかもわからぬ時間の中で、ベルーロは自分の行いを恥じた。


 難民たちの恨みを買うと分かっていて、ベルーロは彼らを切り捨てた。金持ちや貴族を優遇し、都市にとって必要な者だけを選別した。切り捨てられた難民たちは、ベルーロを恨んでいる。当然のことだ。だが、父には何の責任もなかったはずだ。ホーズンは、温厚伯爵とまで呼ばれ、ユニケーの民に愛されていた。このような事態になろうとも、ホーズンが殺される必要はなかったはずだ。

 自分がもう死ぬという場面になってみると、冷静に物事を振り返れるものだ。ベルーロは、父の死の責任が自分にあることを受け止めていた。


 口の中に、何か冷たい液体の感触がある。水。ベルーロは何も考えず、それを飲み込んだ。再び、自然と口の中に水が溜まっていく。不思議な感覚だったが、ベルーロは考えることもなく夢中で水を飲んだ。痺れさえ忘れていた身体が、思い出したように痙攣を始める。生きている。空腹も感じ始め、続いて寒さを感じた。ベルーロは、自分が生きていることを確認した。目を開ける。女性の声が響いた。


「良かった。間に合ったみたいね」


 昼間見かけた、旅装の女性のようだった。陽はもう落ちていて、ユニケーから漏れる微かな光が、彼女の姿を照らしていた。両手で水瓶を抱えて、ベルーロを見上げている。闇の中でも際立つ程に、白い肌をしている。 


「君は?」


 ベルーロはそう問いかけたつもりだったが、ひゅうひゅうと音が漏れるだけだった。しかし彼女にはそれで通じたようで、アヤ、と答えた。ユニケーの方向を見ると、そこに立っていたはずの民兵たちが倒れているのが見えた。


「大丈夫、眠らせているだけ。誰も殺してないわ」

「どうして、私を?」

「特に意味なんてないわ。ただ、目の前で誰かが死んでいくのを、見ていたくないだけ。助けられそうだから助けた、それだけのことよ」

「父は? 父はどうしてる?」

「……残念だけど、息があるのはあなただけだった」

「君は魔族なのか?」

「いいえ」


 アヤはそう言いながら、またベルーロの口の中に水を入れた。こんな芸当は、精霊術じゃなきゃありえない。瓶の中に入っている水を、直接ベルーロの口の中に移動させているのだ。

 ベルーロは水を飲み続けた。空腹が、痛みに変わってくる。生きている、ということを全身が感じている。


「もう行くわ。縄をほどいてあげることはできないけれど、頑張って生きてね」


 水瓶の中が空になったことを示すように、アヤは瓶をひっくり返して見せた。ベルーロは感謝の言葉を口に出そうとしたが、やはり空気の漏れるような音が響いただけだった。

 アヤの姿が闇の中に消えていく。身体は小柄なのに、背中にしょった荷物はやたらと大きい。動物の皮をなめして作った袋のようだ。荷物の脇にカップを引っかけており、彼女が歩くたびにカップが揺れる。


 ベルーロはカップの動きを見つめていたが、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。意識が覚醒し、自分が眠っていたということに気づくという有様である。


 昨日のことは夢だったのだ、とベルーロは思った。そう都合よく、助けてくれる人などいるはずがない。それに、魔族でもないのに精霊術を扱うなんて。

 そうだったらいいな、という思いが、知らぬ間に幻想を作り上げてしまっていたのだろう。頭はぼうっとしていて、自分の意識が確かなのかどうかさえ怪しい。


 また、眠っていた。もう目を開ける体力さえ残っていない。馬の蹄が大地を蹴る音が聞こえる。集団、数百騎か数千騎か。とにかく、大勢の騎馬の音だ。徐々に近づいてくる。十字架が揺れた。足元の、倒れた城門の上を、騎馬隊が通り過ぎていく。何か言い争うような音。もうベルーロにはそれが意味のある言葉には聞こえなかった。理解できるはずの言葉なのに、もうただの音にしか思えない。助けを求めたいが、もう目を開ける力も、口を開く力も残っていない。


 足に何かが触れた。人の肌の感触だ。


「おい、こいつまだ息があるぞ」

「早く下ろして、城内にお連れしろ。爵位のある方かもしれない。丁重にな!」


 意識は混濁していて、また闇の中に引きずり込まれていく。足から順番に縄が切って解かれる。

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