6-4「まさか、帰り道になって兵が増えるなんて」
見慣れたはずの赤い大地が、エリザにはとても懐かしく思えた。
パージュ大公国との戦いを終えたクイダーナ帝国北方面軍は、聖騎士の軍勢の撤退を見届けるとクイダーナ地方に帰還した。北海の氷はまだ溶けていなかったが、聖騎士たちが再度進攻してくることはないだろう、というのがルイドの見立てだった。それで、わずかな見張りだけを残して軍を南下させたのである。
往路とは違って、領地や都市が敵対してくることはなかった。それどころか、今頃になって兵を送ってくる領主たちもいる程だった。
「まさか帰り道になって兵が増えるなんて……」
「喜ばしいことです。クイダーナ地方の支配が確立した、と言えるでしょう。この辺りには、もうエリザ様に逆らうとする者たちはいないはずです」
エリザの背で、ルイドが言った。
パージュ大公国との戦いが終わってから、ルイドの周りの血色の精霊たちは濃さを増していた。ルイドだけじゃない、パージュを暗殺するために北海を抜けていった兵たちのほとんどが、ぞっとする程に血の色の精霊を帯びて帰ってきた。
特に、ダークエルフの部隊は変化が顕著だった。もともと、ダークエルフたちは口数が多い方ではなかったが、それに加えて近寄りがたい雰囲気を醸し出している。黒樹など、明らかにルイドを避けるようになっていた。
何かがあったのだろう、とエリザにも察しはついた。パージュ大公の暗殺に失敗しただけじゃない。きっと他にも、何かがあった。ダークエルフたちの雰囲気を変えてしまうような何かが。
だけどそれを訊ねてみたところで、答えが返ってこないことは明白だった。いずれ、誰かが話し出すのを待つしかないのだろう。
赤い大地を、ひたすら進んだ。東軍の戦況は、まだ入ってきていなかった。
やがて、魔都クシャイズが見えてきた。ずいぶん久しぶりの魔都だ、とエリザは思った。二匹の蛇が、クシャイズの城ではためていている。
「魔都に戻るの? このまま東軍の救援に向かうのではないの?」
「軍を再編してからです。負傷者や病人を置いていきます。その方が行軍速度も上がるでしょうし、何より、不意の戦になった時にも対応できます」
「……不意の戦? ジャハーラ公爵は、王国軍と戦っているはずだわ。クイダーナの土地に敵を入れないよう、戦っている。それなのにルイドは、私たちがジャハーラ公に合流するその前に、攻撃を受ける可能性を考えるのね。まるで、ジャハーラ公がもう敗れているみたいに」
「敵は、大軍です。いくらジャハーラ卿と言えど、苦しい戦いになっていることでしょう。もしかしたら、すでに敗れているかもしれない。情報が入らぬだけで、王国軍がすぐそこにまで迫っているのかもしれない。軍人は、そこまで考えねばならないのです」
ルイドは淡々と言葉を重ねる。エリザは「そう……」とだけ答えた。ルイドの言葉に、嘘は混じっていない。
魔都クシャイズに入ると、歓声が沸き立った。女帝エリザの帰還である。精強を誇る聖騎士たちを打ち返したという噂は、すでに魔都クシャイズにまで届いていたようだ。エリザは、喜び祝う民衆たちに手を振りながら、喝采の中を進んだ。城下を抜け、クシャイズ城に入ってもなお、民衆たちの歓声は続いていた。
「エリザ様、私は軍の再編に向かいます。ここから先は、黒樹に護衛を頼んでください」
ルイドが先に馬を降り、エリザを抱きかかえるようにして馬から降ろした。エリザが「わかった」と返事をすると、ルイドは頷いて再び馬に乗った。
「明日の朝には、進発できるはずです。エリザ様も、今日はよくお身体を休めてください」
ルイドが馬を返す。と同時に、黒樹がやってきた。やはり黒樹は、ルイドを避けているようだ。ルイドがいなくなったのを見計らうようにして姿を現す。エリザは、黒樹に話しかけなかった。何かを隠しているのは、もうわかっている。黒樹の周囲には、鮮やかな森の色を感じさせる精霊たちと、血の色の精霊が入り混じって飛び交っている。
だけど黒樹には何があったのか話すつもりがないようだった。いま無理に聞き出そうとしても、逆効果だろう。こういうときは、話してくれるのを待った方がいい。精霊が見えるからと言って、心の奥底まで見えるわけではないのだ。
黒樹を伴って、クシャイズ城に入った。帰ってきた、という気持ちになるのが不思議だった。つい数か月も前までは、城はとても遠い場所だった。エリザの家は、スラム街の外れにあるボロ家だったのだ。
城の階段を上る。玉座の間の扉を開けて中に入った瞬間、二つの影が飛び出してきた。
「エリザ!」
「兄さまーっ!」
二つの影は、それぞれエリザと黒樹に飛びつく。まったく害意がなかったので、エリザはとっさに対応できなかった。
飛びついてきた影を受け止めて、その場でぐるんぐるんと回る。虹色の眼が、エリザを見つめていた。レーダパーラだ。
「おかえり、エリザ! エリザたちが戻ってくるのが城から見えて、黒耀と一緒に待ってたんだ」
「黒耀?」
エリザが訊くと、レーダパーラは「ほら、彼女だよ」と黒樹に飛びついたもう一人の影を見て言った。ダークエルフ特有の真っ黒い肌に、尖った耳。愛嬌のある可愛らしい顔立ちをしたダークエルフの少女だった。外見は、人間や魔族の年齢でいえば十七、八と言ったところだろうか。黒樹に抱き着いて頬ずりをしている。
エリザの視線に気づいて、黒耀は我に返ったようだ。黒樹から離れて、膝をついた。
「黒耀と申します。エリザ様のお力になるため、森からやって参りました。兄さまと同様に、使っていただけたら幸いです」
「え、ええ……」
黒耀は、戸惑うエリザの手を取ってキスをする。その様子を見て「はぁ」と黒樹が溜息をついた。
「何が森からやって参りました、だ。どうせ長老の眼を盗んで勝手に飛び出してきたのだろう。黒耀、お前はさっさと森に帰れ」
「帰らないよっ! 兄さまと違って、あたしはちゃんと許可を取ってきたんだから」
「許可だと?」
「うん、そうだよっ! ……あ、そうだ。エリザ様、森から五百名のダークエルフを連れてきております。いずれもダークエルフの名に恥じぬ、力を持った戦士たちです。エリザ様が森を守ってくださるのでしたら、あたしたちは喜んで力をお貸しするつもりです。どうぞ傘下にお加えください」
黒樹が目を丸くして、口を半開きにして硬直している。エリザには事態が飲み込めず、説明を求めようとレーダパーラを見た。しかしレーダパーラは眼をキラキラと輝かせて「良かったねぇ」とでも言いたそうな顔をしているばかりで、説明をしてくれそうな雰囲気ではない。奇妙な沈黙が四人の間を支配した。




