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ユーガリア戦記  作者: さくも
第5章 王国の猛攻
125/163

5-35「待ってろよ、絶対に、絶対に行くからな」

 ラッセルは、毎晩欠かさずに三角錐を投げ続けた。陽の出ている時間にやってしまえば、さすがにラールゴールの私兵に見つかってしまうかもしれない。それで、いつも夜に挑戦していたのだ。上手く突きささった時には、糸を辿ってなんとか上に這い上がろうとする。しかしどうしても、あと少しの所で落ちてしまう。

 五日を過ぎたあたりのころ、うまく受け身をとれずに落下し、足を挫いてしまった。怪我自体はすぐに治ったが、落下することに対して恐れを抱くようになってしまった。ある程度の高さまで上がるのが怖いのだ。それで、集中しきれないでいる。


 数日を無駄にした。最初はラッセルに協力しようとしてくれていた輜重隊の面々も、今では気力を失ってしまっている。いつまでも結果がついてこないのだから、当然のことだった。僅かな食糧と、不衛生な環境、それに閉塞的な地中の生活のせいで、気持ちを保ち続けることができなかったのだ。うずくまって、自分たちの命運を他人に任せてしまっている。唯一、ラッセルに気を使ってくれるのはカルロだったが、カルロの口数も日に日に減っていた。眼にも活力が感じられない。


 ラッセルは、周囲の諦めに飲み込まれないようにしようと試みた。一度、心の中を整理しなくてはならない。そうでないと、落ちることを極端に恐れてしまって、結局、地上に這い上がることができないだろう。


 マリーナのことを考えた。

 出会って、すぐに惹かれた。ミンに良く似た顔立ちだったこともある。だけど、すぐに別人なんだと頭で理解した。別人なんだと理解していても、マリーナに惹かれた。


 重ねた唇のことを思った。柔らかで、弾力のある唇だった。ラッセルが怪我をして動けないでいる間、かいがいしく看病をしてくれた。やがてマリーナはゾゾドギアへと帰ってしまったが、毎晩、明かりで交信することでお互いの存在を確かめあえた。毎日の仕事は大変だったが、そんなことが気にならないくらいに充実した時間だった。


 ラッセルはマリーナの唇の感触を思い出そうとして、自分の唇に手をあてた。泥で汚れて、かさついた手の感触。ひび割れた唇が、鈍く痛んだ。


 ――違う。こんなんじゃない。

 ラッセルは唇にあてていた手を離すと、拳を固く握った。


 いま、こうやって落ち込んでいる間に、マリーナはいったいどうしているのか。無事でいるのか。


 ゾゾドギアの周辺で、帝国軍と王国軍が争ったようだというのは、地下牢にいてもわかった。それから戦の音は聞こえてきていない。帝国軍がもともと、ゾゾドギアで籠城するつもりだったことはラッセルも聞いている。それが成功したのだとすれば、いまゾゾドギアには帝国軍がいるはずだ。

 続いて、自分たちの境遇を考えた。ジーラゴンが裏切ったということは、ゾゾドギアの補給が断たれたということになる。ある程度の食糧の備蓄はあるだろうが、いつまでも持つとは思えない。


 はやくここを抜け出して、ゾゾドギアに食糧を届けなければならない。そうでないと、ゾゾドギアに立て籠った帝国軍もマリーナたちも、みんなが餓死してしまう。


 ラッセルは、飢えることがどんなにつらいことかを良く知っている。そういえば、出会ったばかりのころのミンも、ひどく痩せていた。手足は信じられないほどに細く、骨に皮を張り付けただけのような顔をしていた。肌はかさかさと乾いてしまっていて、それなのに目だけが、何かを求めるようにらんらんと輝いていた。

 幼かったミンの痩せた顔と、マリーナの顔が重なる。飢えに苦しんで、手を伸ばしている。その手に食べ物を渡してやれるのは、自分しかいない。


「待ってろよ、絶対に、絶対に行くからな」


 覚悟が決まると、落ちることも怖くなくなった。惜しいのは時間の方だ。時間が経てば経つほどに、マリーナの命が危険になる。急がねばならなかった。


 しかし無謀な挑戦だった。細い糸を手繰って、地下牢から抜け出すなどとても人間技とは思えない。どちらの手に巻いた手ぬぐいも、血が滲んで黒ずんでしまっている。それに、落下したときに負った傷も増えた。落ちると、カルロが必ず手当てをしてくれた。


「おれにできるのはこれだけだからさ……」


 カルロの両手は震えてしまっていて、糸を握ることができない。ラッセルは「ありがとう」と感謝を欠かさなかった。カルロは元気なく微笑み返してくれる。顔は笑っているが、カルロが次第に諦めてしまってきているのを、ラッセルは感じ取っていた。カルロだけでない。閉じ込められた輜重隊のほとんどが、諦めてしまっている。


 日が経つにつれて、地下牢の状況は過酷さを増していった。帝国兵とは言っても、輜重隊に回された者たちだ。体力に自信があるとは言い難い。閉じ込められて十日が過ぎると、ついに死人が出た。冬だというのに死体の周りには蠅がたかり、ウジが湧いた。次に、正気を失う者たちが出始めた。天に向かって祈りを捧げだす者や、急に陽気に笑いだす者、誰もいない方向に向かって喋り続ける者などが出始めて、地下牢の中は文字通りの地獄絵図となっていた。


 ラッセルは周囲に惑わされないように、マリーナのことを考え続けた。起きているときも、眠っているときも、マリーナのことを考え続けた。一時の幸福を何度も何度も噛みしめて、噛みしめ続けた。

 例外は、糸を手繰っている時だけだ。その時だけは、両手にすべての神経を集中する。地上を見上げて、とにかく這い上がることだけを考える。


 二十日が過ぎた。ラッセルはいつものように、糸を手繰って上っていた。地上が見えてくる。カルロのように震える手で、何とか糸を握りしめる。あと少し。あと少しで、手が届く。


 マリーナが地上から手を差し伸べている。ラッセルは、それが幻覚だと理解していた。マリーナがいるはずがない。わかっていながらも、マリーナに向かって片手を伸ばした。幻は掻き消える。代わりに、硬い物に手があたった。地下牢の壁だ。


 ラッセルは必死に身体を支えながら、伸ばした手を上に伸ばした。地上に手がかかった。体重を移動させ、糸を握っていた手も地上に伸ばした。掴む。両腕が痺れている。ラッセルは歯を食いしばって、自分の身体を持ち上げた。


 地上に出た。

 淀んだ川の臭いが、鼻を刺激する。決して清涼な空気とは言えないのに、ラッセルは今までの人生で初めて空気が美味しいと感じた。地下牢は、川のすぐそばにあったようだ。そんなことさえ、ラッセルは知らなかった。天を見上げると、満天の星空が広がっている。地下牢から見上げた、小さな星空ではない。心なしか星が近づいたようにも感じる。


 敵兵の姿はなかった。見張りさえ立てていなかったようだ。やはり、訓練された兵士たちの仕業ではない。


 ラッセルは呼吸を整えると、地下牢に顔を出した。


「すぐに縄を拾ってくる。ちょっと待っててくれ」


 暗闇の中で、カルロが頷いたのが見えた。ラッセルはすぐに、兵舎として利用していた建物に入った。人の気配はない。物置を漁ると、すぐに縄は見つかった。ラッセルは縄を肩にかけて戻り、川辺の木に縄を巻き付けて、地下牢に下ろした。


「自力で上がってこれるやつから、上がってきてくれ。大丈夫、敵はいない。だができるだけ喋り声を上げないでくれ。感づかれてしまったら、すべて終わりだから」


 ラッセルの指示に従って、まだ体力の残っている者たちが縄を這い上がってくる。

 十人程が上がって来たところで、正気を失った一人が地下牢の中で騒ぎ始めたが、すぐに周りの者たちに殴られて気を失う。ラッセルはほっと息をついた。ずいぶんと時間はかかってしまったが、それでも、まだ事態を正しく認識できる者たちが残っている。


 自力で這い上がってこれる者は、合計で三十人程だった。他の者は、助けがなくては這い上がるのは厳しそうだ。ラッセルは自らもう一度地下牢に下りて、カルロを背負って再び上った。縄が太いこともあって、壁を踏むようにして歩けば何とかなる。他の者たちも交互にそれを行って、五十人余りが地上に出ることができた。

 幸いにも、まだラールゴールの私兵たちに感づかれた様子はない。


「おい、あれ……見ろよ」


 カルロが指さしたのは、リズール川の方向だった。ラッセルがそちらを向くと、川に無数の火の玉が浮いているのが見える。


「松明の明かり……か? 帝国軍がこっちへ向かってきてるのか?」

「わからない。ここからじゃ良く見えないな……」


 その時、火の玉の一部が騒めくようにして動き、一部が消えた。まるで、無数のろうそくに火をつけて、それに息を吹きかけたような消え方だった。消える炎もあれば、残る炎もある。残った炎も、大きく揺らめいている。


 ラッセルは背筋が凍るような気持ちになった。


「あれは……あれは全部、人だ。船じゃない。人が泳いで川を渡ってきているんだ!」

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― 新着の感想 ―
[良い点] やっと外に! でも、まだやばそう。 果たして愛しの彼女に会えるのか……
[一言] 更新ありがとうございます。 人が大勢泳いで渡ってきているのが気になりますね。
2020/02/15 08:09 退会済み
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