5-29「腐った肉より、新鮮な肉の方が、良い餌になるとは思わないか」
ヴァーリーは、バルコニーから燃えるリズール川を見つめていた。冬だというのに、絹の肌着しか身に着けていない。艶めかしい曲線美はあらわになっており、遠く離れたリズール川の明かりがそれに陰影をつけている。そのヴァーリーの両肩に、厚手の毛布が掛けられた。
「風邪をひくよ」
ラールゴールである。筋肉質の太い腕で、ヴァーリーを後ろから抱きしめる。ヴァーリーは好意を示すように首だけを少し動かした。
「うふふ、大丈夫。寒いのには慣れているの。それよりも……」
「帝国軍の輜重隊の件なら、問題ないよ。全員まとめて地下牢に放りこんである」
「さすが、ね。頼りになるわ」
ヴァーリーはラールゴールの耳元で囁くように言うと、首筋にキスをした。そのまま舐めるように鎖骨まで唇を這わせる。口紅がわずかに色を残す。ラールゴールの身体からは、わずかに花の香りがした。上質な香水を使っているようだ。
「君と結ばれる為なら、私はなんだってするさ」
リズール川の向こうは、赤く染まっている。赤が川を染め上げている様は、まるで絵葉書のようだ。川の中州にある城塞都市ゾゾドギアの影が、そこだけ穴が空いたように黒い影を伸ばしている。ラールゴールの館から、何度も夜明けで川が赤く染まる様は見てきたが、文字通り燃えている様子を見るのは、初めてだった。徐々に明るくなっていく夜明けの様とは違って、炎はちらちらと陰影をつけて川を照らしている。
急に雲間が晴れて太陽が見えたように、空に爆炎が上がった。遠くの空だ。炎は一瞬で霧散したが、大地と水面の境を映し出すには十分な時間だった。川の中にも、小さな点がいくつも浮かんでいるのが見える。音は、遅れてやってきた。
「……ほう、帝国軍は船なしでリズール川を渡っているのか。英断というべきか、自殺行為というべきか」
ラールゴールが、感心するように言った。
ヴァーリーは対岸で起きていることを知っていた。ヴァーリーは自分の腰骨に手をあてた。そこにしこりのようにして、共鳴石が埋め込まれている。そのおかげで、弟ヴァイムとは離れていてもすべての情報を共有することができるのだ。
寒空の下で薄着でいたのも、ヴァイムの身体が火照っているのを感じたからだ。ヴァイムはあの炎の中にいる。温かいというよりも、熱い。ヴァイムの方からこうやって感覚がなだれ込んでくるのが、ヴァーリーは好きだった。自分の感情じゃない何かが、自分の中にある。それが血を分けた弟の物だなんて、こんなに素晴らしいことはない。
「燃えるようだわ。燃えるよう」
ヴァーリーはそういうなり、振り返ってラールゴールに抱きつき接吻した。身体が熱い。感覚を共有している弟は、あの炎の中で戦っている。血潮がたぎるような感覚に、ヴァーリーは夢中になった。熱い、熱い。身体の芯に火がついたような熱さだ。ヴァーリーは夢中でラールゴールの唇を貪った。舌を絡め、唾液を舐めとる。
ラールゴールはそれを情熱的な愛情だと思ったようだ。ヴァーリーの身体が火照っているのも、興奮している証だと思ったのだろう。
ヴァーリーは、ラールゴールに共鳴石のことを話していなかった。ラールゴールに取り入り、自分の身体に夢中にさせた。男を操るのは、そう難しいことではない。ラールゴールが、魔都に送った妻子よりも身近にいるヴァーリーを選ぶようになるまで、そう時間はかからなかった。
ジャハーラの率いる帝国軍が来た時、ヴァーリーはできるだけ口数の少ない女として、ラールゴールの愛妾を演じ続けた。それは彼女の立場として「嘘の姿」ではなかった。ラールゴールを窓口として立てることで、王国側の人間であるヴァーリーの姿を隠す。ラールゴールを王国側に完全に引きずり込むわけではなく、王国側の人間であるヴァーリーの姿を隠すために使う。
ラールゴールには嘘をつかせないようにした。魔族の純血種は、嘘を見抜くことができるからだ。ジャハーラはラールゴールのことが気に入らなかったようですぐに担当を外された。そのことも、都合が良かった。
ジーラゴン領主であるラールゴールは、ヴァーリーにとって非常に魅力的な存在だった。船の所有権のほとんどを掌握していることが、特に大きい。川の中州にあるゾゾドギアで生活する人々は、船がなければクイダーナ地方に渡ることも、ルノア大平原に渡ることもできない。言ってしまえば、隷属状態にあるようなものだ。だから、ゾゾドギアで暮らす者たちも、ジーラゴンで暮らす者たちも、ラールゴールに逆らうことはない。
ヴァーリーの読み通り、ラールゴールは強固な人脈を持っていた。帝国軍を歓待する為という名目で人を集めさせると、近隣の住民たちがすぐに集まった。村娘たちは踊り子として、男たちは商売人として集まる。帝国軍がゾゾドギアへ渡る前に、娘たちのほとんどは送り返した。だが、男たちは残した。帝国軍の為に用意した屋台の片づけなどと言わせておけば、数百人の男たちを残すことは、そう難しい話ではなかった。
後は簡単な仕事だった。クイダーナ帝国軍を城塞都市ゾゾドギアに送り込み、さらに一部をルノア大平原に渡らせることまでは手伝う。その後は船団を川の北側に一時隠し、必要ならば王国軍の指揮下にいれる。ジーラゴンにわずかに残った帝国軍の輜重部隊には毒を盛って始末をつける。残した数百人の男たちは、ラールゴールの私兵として動く。
「綺麗、綺麗ね。闇を照らす爆炎。まるで最期の時に、命の炎を散らしているようだわ」
うっとりするようにヴァーリーが言うと、ラールゴールは深く頷く。
「ところで……ねえ、どうして輜重隊の人たちを殺さなかったの?」
「私の美学に反するからね。大丈夫、彼らは地下牢に閉じ込めてある。英魔戦争の際に作られた地下牢に……ね。縦に吹き抜けになっているが、人の身長の六倍の高さがある。到底、脱出などできるものじゃないよ。それに……彼らはいざという時に、使えるからね」
「使える?」
「腐った肉より、新鮮な肉の方が、良い餌になるとは思わないか。実を言うと、一度使ってみたかったのさ、あの地下牢を」
「もったいぶらないで教えて。地下牢に何が仕掛けられているの?」
「ああ、あの地下牢はね、川と直結しているんだ。鉄の板が、水門のように間を遮っているだけでね。だから、その門を開いてやれば、彼らは生きたままリズール川に投げ出される。しかも、そこが開いたときに、ワニを集めるルーンアイテムが発動するっていう仕掛けらしいんだ。つまり、地下牢に閉じ込められた者たちは、その水門が開けばワニの餌になる。敵がゾゾドギアからジーラゴンへ強硬渡河しようとしてくるのならば、それを使ってやれば……」
「捕虜にしてる五百名がワニの餌になって……しかもリズール川に生息してるワニのほとんどが、こちら側に集まってくるというわけなのね?」
効率的でおぞましい仕掛けだ、とヴァーリーは思った。敵の捕虜を人質にするどころか、ワニをおびき寄せる文字通りの餌にする。その地下牢を考えた人間は、きっと悪魔か何かなんだろう。そしてそれを使ってみたいというラールゴールも、心のどこかに狂気を秘めている。
帝国軍がもし、ゾゾドギアからジーラゴンへ川を渡ってこようとするのなら、捕虜にした輜重隊五百名を餌にしてワニをおびき寄せる……。帝国軍は渡河するのに多大な犠牲を出すことになるだろう。ラールゴールの瞳は「面白いだろう?」と言いたげだ。
そうなったときラールゴールは真っ先に逃げ出すのだろう。自分を慕ってくれているという私兵たちを置き去りにして。
「もっとも、仕掛けたのは私じゃあないよ。もともとあったのさ。英魔戦争の時に、旧帝国が作った仕掛けなんだからね。まさかそこに、新帝国軍の輜重隊が放り込まれるなんて、四十年前の人たちは思いもしなかっただろうけどね」
ラールゴールは朗らかな笑顔でそう言った。川の向こう側でまた炎が上がる。ヴァーリーは笑顔を作って「素晴らしいわ」と言った。
「あなたみたいな人に会えてよかった」
ヴァーリーは再び唇をねだった。身体の火照りは、まだ冷めていない。帝国軍を逃がした、という情報がヴァイムから入る。ラールゴールはヴァーリーを抱きかかえて部屋に入った。ベッドに押し倒される。身体が熱い。ラールゴールの愛撫に、ヴァーリーは身を任せた。




