5-22「私は期待なんて、されたことがなかったのよ」
ディスフィーアは手ごろな店に入ると、次から次に料理を注文し、酒を頼んだ。さっそく運ばれてきた麦酒で乾杯をすると、一息にディスフィーアは飲み干す。
「くぅ~っ!」
「す、すごいね……」
「何言ってるのよ、まだ一杯目じゃない。あ、おかわりください。……ほら、グレンも男なんだから、ぐいっといきなさいよ、ぐいっと」
オールグレンは朝方に一気飲みをして倒れたのを思い出して、口をつけられずにいた。小麦色の液体に、泡が乗っかっている。苦みを含んだ臭いがして、決して美味しそうな感じはしない。
「ふーん。怖いんだ?」
「そ、そんなわけ……」
「じゃあ、飲みましょ。まだ酔いが残ってると思うけど、それこそ一口飲めば解決するわよ。それにね、麦酒って時間が経つとどんどん美味しくなくなっちゃうのよ」
ランデリード叔父さんが同じようなことを言ってたような気がするな……と、オールグレンは思った。
ディスフィーアはにやにや笑いながら、オールグレンを見ている。挑発されている、とわかっていても勝てなかった。ディスフィーアにできないと思われたくない。
ごくり、と口に含んで、飲み込む。
「苦っ」
「あはははは! グレン、いいじゃない! これが大人の味よ」
ディスフィーアは運ばれてきたおかわりも一気に飲み干した。届いた料理に手を付け始める。すごい勢いで料理が消費されていく。オールグレンも負けじと手を付けた。
おかしな話だが、安っぽい酒場で食べた味の濃い料理は、王都で食べたどんな料理よりも美味しく感じた。酔いが回って来たのか、ディスフィーアの笑顔がやけに可愛らしく見える。じっと見つめてしまってから、いや年上だぞと自分に言い聞かせる。そんなオールグレンの心中を知ってか知らずか、ディスフィーアは色々な話をしたし、オールグレンの話も聞きたがった。
オールグレンは身分を隠しながらも、できるだけディスフィーアを楽しませようと話をした。王都で伝え聞いた笑い話や、吟遊詩人が歌っていた物語。それから次第に、お互いの身の内話になっていって、オールグレンはラルニャの話をした。
「私なんかより、よっぽど出来の良い従妹がいるんだ」
「ふーん。そんなに?」
「そうさ。本当は、私が女に生まれて、ラルニャが男に生まれていれば良かったのさ」
「ラルニャ、ね」
「ああ……ごめん、従妹の名前なんだ。何やっても、私より上手くやってさ。きっと、父上も私とラルニャが逆だったら良いと思っているはずさ」
「お父さんが、嫌いなの?」
「……嫌いだ」
「奇遇ね、私もよ」
オールグレンは、自分の心の声が漏れてしまっているのを感じていた。だが、一度あふれ出した思いはとめどなく言葉となって零れ落ちた。
「父上が求めているような人には……私はなれないんだ。私にできることは限りがある。私のできることは、父上よりよっぽど少ないのに、父上はそれを理解してくれない」
「…………」
「父上の望んでいる私と、私自身の本当の姿が、どんどん離れていっているんだ。もう、どうあっても埋められないほどに離れてしまって。だけど、周りの人たちも、父上と同じような眼で私を見るんだ。それを期待だと、叔父上なんかは言うよ。……だけど、それは私にとっては重荷でしかない」
オールグレンは、自分でもどうしてディスフィーアにそんな話をしているのかわからなかった。手元の麦酒の入っていたジョッキは、既に空になっている。
「それで?」
麦酒を一気に飲み干して、ディスフィーアが口を開いた。
「それで……?」
オールグレンは聞き返す。それだけだ。他には何もない。その話を、ディスフィーアに聞いて欲しかっただけだ。
「そろそろ出ましょうか」
ディスフィーアが言った。何杯もお酒を飲んだはずなのに、冷静な声だった。
「ディスフィーアは……そういうこと、ないの?」
「そういうことって?」
「誰かの期待に押しつぶされそうになったり、さ」
「期待……ねぇ」
ディスフィーアは少し困った顔をしてから、麦酒のおかわりを頼んだ。それを見て、オールグレンは安堵した。良かった、まだ、ディスフィーアはここにいてくれる。
「私は期待なんて、されたことがなかったのよ」
「え……?」
「私と、私の母さんはね、父さんに捨てられたのよ。それで、母さんは死んじゃった。だから私は、誰にも期待なんてされてない。精霊術を使えるようになったのも、期待されたからじゃない。自分でそれを学ばなきゃと思ったからよ」
「どうして?」
「父さんを、見返してやりたかったから」
ディスフィーアの頼んだ麦酒が届いた。ディスフィーアはそれを半分まで飲んだ。
「だけど、今は違うかな。私のことを家族のように想ってくれている人たちがいて、私はその人たちのためにできることをしたいと思ってる。これが期待に応えるってことなら、今がまさにそうなのかもしれないわね」
「ディスフィーアは、父君のことを怒ってるの?」
オールグレンが問いかけると、ディスフィーアは、ふっと笑った。愛おしい笑顔だ、とオールグレンは思う。
「普通は、父君なんて言わないわ。父さんと言うのよ。……怒ってる、か。そうね、怒っているのかな。昔はね、この手で殺してやりたいとさえ思っていたの。恨んでいたと言ってもいい。だけどね、月日が経って大人になって、父と対峙してみたらね、不思議なことに殺してやりたいとは思わなくなっちゃったのよ。打ち負かしてやりたい、とか、見返してやりたい、とは思うんだけどね。殺してやりたい、とは思えないのよ。不思議な話よね。……だから、怒ってるって言葉の方がしっくりくるような気がする」
言うと、ディスフィーアは残った麦酒を飲み干した。オールグレンは、ごくごくと動くディスフィーアの喉をじっと見つめた。
「……お会計、お願い」
ディスフィーアが言う。オールグレンは銀貨の入った袋を開いて、会計を済ませた。銀貨を片手で持てるだけ取って渡そうとすると「多すぎます!」と酒場の店員に驚かれた。見かねたディスフィーアが助けてくれて、何とか会計を済ませる。
店の外に出た。
馬を預けた宿屋まで、二人は並んで歩いた。教会から漏れてくる光が、やけに神々しく映る。オールグレンは何かを言おうとして口を開きかけては、言葉が見つからずに口を閉じるということを繰り返していた。
「あなたには、二つの道があるわ」
ディスフィーアが言った。
「二つの道?」
「そう。このまますべてを忘れて、すべてを投げ出して、自由に生きる道。もう一つは、お父さんを見返すために必死であがく道よ」
オールグレンは、胸が締め付けられるような気持ちになった。
「ディスフィーアと一緒に行く道は、ないの?」
「それは無理。私はこれから帰らなきゃいけないの。やらなきゃいけないことがあるから」
きっと、妖精の国に帰るんだ。オールグレンは酔った頭で、そんなことを考えた。ディスフィーアが立ち止まる。
ちょうど、馬を預けていた宿屋の前だった。
「後悔しない道を選ぶのよ」
ディスフィーアはそう言うと、オールグレンをその場に残して、都市の城門へ駆けていく。口笛の音が響いた。
一角獣が、城門を抜けて都市の中に入ってくる。ディスフィーアは駆け寄って一角獣に跨ると、オールグレンに手を振った。
「じゃあね! オールグレン!」
呆けた顔でディスフィーアを見送る衛兵たちを尻目に、一角獣に跨った赤髪の魔族は城門を抜け、夜の闇に消える。オールグレンはその姿が完全に見えなくなるまで、城門の方を見続けていた。
「……父を、見返す、か」
一人残されたオールグレンは、闇夜に呟いた。
「ディスフィーア、ありがとう。決めたよ、私もそうやってみせる。君のように、父を見返してみせるよ」
そうすれば、きっといつかまたディスフィーアに会える。オールグレンはそんな気がしていた。
「叔父上の期待にも、父上の期待にも、応えてみせる。見返してみせるよ、君のように」
一瞬だけ、目を閉じて夜風を身体で感じる。わずかに残ったディスフィーアの香りさえ、風に流されて消えてしまったようだ。
オールグレンはふうと息を吐くと、教会都市の中央に位置する大聖堂に向かった。
「どうされましたか、こんな夜更けに」
助祭が出迎えた。何か困りごとがある商人の姿に見えたのだろう。オールグレンは唯一手元に残った王家の剣を助祭の目前に突き出した。
「私はオールグレン。いま、北で叔父上が戦っておられる。私を、叔父上のところまで連れて行ってはくれないか」
「……そ、そうは言われましても」
「本物かどうかわからぬ、というのか」
「い、いえ、そうではありませんが……。しかし、なぜ王子がこんなところへ」
「話せば長くなる……が、そうだな、もっと最適な人に話をつけるべきか。大司教を起こせ。冬の季節、大司教は教会都市ミズリスにて催しに携わる手はずになっているはずだ。おれたちが出撃するときにも、ルイゼンポルムにいなかったからな。大司教ならば、私の顔を見れば本物だとわかるだろう」
「し、しかし……」
「私は、大司教を起こせと言ったのだ」
思わず詰め寄ったオールグレンに対して助祭は、顔を真っ青にした。
「わ、わかりました……」
慌てて大聖堂の奥へと進んでいく助祭の姿を見送りながら、オールグレンは自分の呼吸が酒臭いことに、気が付いていた。




