第二話
でもさー、やっぱり気になっちゃうよねー。
いや、サイラスさんじゃなくて、あのお姫様が。ついつい視線が吸い寄せられるというか。本当綺麗だわ、あの人………。
姫の傍には、さっき扇の先を噛んでいた女の人がいるんだけどさ、あの人も綺麗だけど、やっぱ姫は次元が違うわ。
あ、ちなみに。
姫のお名前は、セラフィーナって言うんだって。名前まで綺麗じゃんね。
でもま、姫ほど姫に相応しい人もそういないだろうから、私は姫って呼び続けるけどね。
あーあ。ああいう人、お姉ちゃんに欲しかったなあ。まあ、うちのお姉ちゃんズも、美人なんだけどさ。性格がね……ちょっとね。豪胆さが外見に滲み出ているというかね……。あのお姫様のように、お淑やか~な雰囲気がまったくないんだよね。外面は良いんだけどさ。
……なんて、心の中で指をくわえながら姫を見つめていたら、とんでもない光景を目撃してしまいましたよ、私。
姫を取り囲んでいる男の人の中でも、一際大きな声でしゃべっているおっさんがいるんだけど、なんとそのおっさんの口から飛び出した唾が、姫の持っているグラスにまっしぐら!
私視力いいから! 見えちゃった!
ああもう、あんな近くで大声でベラベラ喋ってるから! しかも姫気付いてない! あ、口元にグラス持ってった……ああ~……と思ったら丁度別の人が話しかけて来てセーフ! 心臓に悪いな、もう!
どうしよう……あのお姫様に、おっさんの唾が入った酒飲ませるわけにはいかないよね……。てか、飲ませたくない。
うーん、しょうがないな。わざとぶつかって中身零すか? いや、そしたら中身がドレスに零れるか……。あれ? ……それって私悪役じゃない?
そうだよ、嫉妬に狂った悪役じゃん! あいつ、絶対嫉妬してるって思われるやつじゃん! 酷い! 濡れ衣!
「どうした、アリーセ?」
私が想像の中で冤罪に苦しんでいると、ブラッドさんが声をかけてきた。
本当、ナイスタイミングだよ、ブラッドさん! もう私の中では、マティアスよりもヒーローだよ! マティアスなんて、姫と挨拶したあと、またどこかに行っちゃったしね!
「ブラッドさん。ウェルムの姫の持っているグラス、取り上げてください」
「は?」
「取り上げて」
理由を言ってもいいんだけど、唾入れた人もわざとじゃないしな。周りの人に聞こえちゃったら可哀想だから、理由を伝えずにブラッドさんに頼むしかない。
「……あの、グラスをか?」
「はい。お願いします」
ブラッドさんは、あきらかに腑に落ちないという様子を見せながらも私の言うことを聞いてくれるらしく、通りかかった給仕の人から新しいグラスを受け取って、姫に近づいて行った。
そして見事、姫の持っていたグラスと、自分の持って行ったグラスを交換してくれた。おお、随分すんなりと取り換えられるもんなんだな。どうやったのか聞いてみよう。
戻って来たブラッドさんに、さっそく聞いてみた。
「どう言って、交換したんですか?」
「こちらの方が、美味いと言っただけだ」
なるほど~⁉ え、ブラッドさん手慣れてない? ベルタ泣かしたら承知しないよ? まあ、まだ付き合ってもいなそうだけど!
「で? どうするんだ、このグラス。まだ口をつけていないようだが……」
「捨てて下さい」
姫も飲んじゃ駄目だけど、ブラッドさんに飲ませるわけにもいかないもんね。
ブラッドさんは「もったいないな」と言いつつ、またもや素直に私の言うことを聞いてくれた。近くにいたさっきとは違う給仕の人を呼び寄せ、捨てるようにと言ってグラスを渡している。
てか、ブラッドさん公爵家の生まれだよね? 結構庶民的な感覚持ってるんだな。これなら、子爵家のベルタとも気が合うかも。
給仕の人が、笑顔でグラスを受け取ったところまで見て、私はほっと息を吐いた。
やれやれこれで一安心……と思っていたら……。
なんと! すでに結構酔っぱらっているらしき顔を真っ赤にした人が、フラフラとさっきの給仕の人に近付いて行って、声をかけもせずにさっきブラッドさんが渡したグラスをさっと奪ってしまったのです!
給仕の人もびっくりしているけど、私もびっくりだよ!
「あー!」
「あ?」
私の声に気付いたブラッドさんが後ろを振り返った時には、すでに酔っぱらいはそのグラスの中身を飲み干していた。
……あーあ。
でもまあ、入っていたのはおっさんの唾だしな。あの人には気の毒だけど、勝手に取ったあの人の自業自得……っておいおいどうした? 顔色悪いぞ、お兄さん。絶対、飲みすぎだって!
うお⁉ え、嘘……苦しみだした?
え? まさか、急性アルコール中毒⁉
「……くそ! 毒か」
……毒? え、毒⁉ 急性アルコール中毒じゃなくて⁉
倒れた男の人に駆け寄っていくブラッドさんを茫然と見つめていた私は、後ろから肩を叩かれビクリと身体を震わせた。
「大丈夫? アリーセ」
マティアスかよ。びっくりするじゃん、もう……。
「……マティアス」
「何があった?」
何があったと聞かれても、私には答えようがない。
ブラッドさんは毒だと言ったけど、それは急性アルコール中毒を知らないからということも考えられる。まあ、そもそもこの国の人たちはべらぼうにお酒が強いから、急性アルコール中毒になる人自体、多分少ないとは思うけど。
でも、そうでないとしたら。
ブラッドさんの言う通りだとしたら。大変なことになってしまう。だってあの倒れた男の人が飲んだお酒の入ったグラスは、元は姫が持っていたものだ。だとしたら、狙われたのは姫ということになってしまう。
この国で、しかもこのおめでたい式典で、他国の姫の命が狙われる。
それって、考えるまでもなくかなり大変な事態だ。
私が言葉を失くしていると、倒れた男の人の元からブラッドさんが戻ってきた。
「ブラッドさん……。あの男の人は?」
私がそう聞けば、ブラッドさんが険しい表情をした。
「医師の元へと運んだが……かなり厳しいだろうな」
……嘘でしょ? それってあの男の人が死んじゃうかもしれないってこと?
「魔力による治療は……」
「するが、魔力による治療は補助的なものだ。あとは通常通りの毒の処置だな。それよりも、アリーセ」
ブラッドさんが、私を見つめて目を細めた。
……うん。何が言いたいかはわかっているよ。でも多分、聞かれてもブラッドさんの望む答えは返せないと思うけどね。
だって、グラスに毒が入っているなんて、知らなかったもん、私。
それでも、今の状況では私に話を聞くしかないということもわかっている。あのグラスを姫の手から奪って欲しいとブラッドさんに頼んだのは、私だからね。
私はちらっと、後方にいるはずの姫の姿を盗み見た。姫は綺麗なエメラルド色の瞳を大きく見開いて、私を見つめている。そして、その顔色は真っ青だ。
……気付いたのかな?
あの男の人が飲んだ毒が、自分の持っていたグラスに入れられていたものだって。
まあ、いくら王子の従兄で公爵家の息子が渡したグラスだとしても、警戒くらいはするか。多分、ブラッドさんの行動、見てたんだろうな。
見てて、気付いたんだ、きっと。
狙われていたのが、自分かもしれないということに。
そんな顔を真っ青にして、今にも倒れそうな姫を、サイラスさんが後ろから支えている。そして姫の耳元で何かを呟いたあと、抱えるようにして姫をどこかで連れて行ってしまった。きっとショックを受けているだろう姫を、安全だと思われる場所で休ませるためだろう。
思われる、というのが非常に残念なところではあるけどね。
かくして別室に移動した私は、目の前でソファにふんぞり返っているブラッドさんに、事情聴取をされることになったのだけど……。
あれ? なんかデジャブ……。あの時と違うのは、今回は最初からマティアスがいることかな。
「アリーセ」
私を呼ぶブラッドさんの声が硬い。ついでに顔も怖い。
「はい」
でもブラッドさんが怖いのは表面上だけのことだってわかっているから、私は平常心で返事をすることができたんだけど……。
「何故、分かった」
何故分かったかと聞かれても、それは困るんだよね。
だってさ。重ねて言うけど、グラスに毒が入ってたことなんて、私知らなかったし。
でも、それを正直に言うのはどうなのかなと思ってしまう。というか、きっと言っても信じてくれない気がするのは何故だろう。ま、一応言ってみるけど。
「毒が入っていたことは、知りませんでした。ただ……」
「ただ、何?」
今度はブラッドさんではなく、マティアスからの追及だ。
なんだか私が容疑者みたいだな。……あれ? もしや、今一番怪しいのって私? 普通犯人以外、毒が入っているなんて知らないよね? 私、自作自演を疑われている?
違う! 違うよ! 誤解だよ!
「ひ、姫のグラスに唾が……!」
「……唾?」
私の答えを聞いたブラッドさんが、途端に顰め面をした。
……うん。そうだよね。普通そんなこと気にしないよね。
こういう場所では皆グラスを持ちながらお喋りしているから、結構グラスの中に唾って入るものなんだけど、そこまで衛生観念がない世界だからか、それともこういう場所ではグラスに唾が入るのは常識だからなのか、皆あんまり気にしていないんだよね。
私もさー、姫のグラスにおっさんの唾が入る瞬間を目撃していなければ、多分気にしていなかったし、そんなことには気が回らなかったよ。
やば……。今後、こういう場所でのお酒飲めなくなりそう……。
なるほど、これが気にしたら負けってやつか……。実際負けたしな、私。犯人扱いだもんね……。
「唾ね……。それだけで、ブラッドにグラスを変えるよう頼んだの?」
「……そうです」
マティアスもブラッドさんも、あ、これ絶対信じてないなってわかる表情をしている。普通それくらいでグラス変える? って。
でも、本当なんだけどな……。
「あの、私犯人じゃありません……」
試しにそう言ってみれば、マティアスもブラッドさんも、呆れたように大きな溜息を吐いた。
「君が犯人だなんて思っていないよ」
「ほ、本当に?」
ほっとした私は、うっかり涙目になってしまった。そんな私を見たブラッドさんが、なんだか哀れなものを見るように眉を顰めて目を細めた。
「本当だ。だがな……」
マティアスとブラッドさんが、困ったように顔を見合わせている。でも別に私のことを疑っているわけじゃないなら、困る程のことでもないと思うんだけどな。もし何か聞かれたら、偶然だって言っておけばいいだけじゃない? そもそも、私の指示で姫のグラスを変えたことを隠していればいいわけだし?
そんな感じで私がいざという時の言い逃れの方法を考えていると、扉を護る衛兵さんが扉越しに声をかけてきた。どうやらサイラスさんと姫が私にお礼を言いにきたみたいなんだけど、何でブラッドさんじゃないくて私? どうして知ってるの?
私が驚いていることがわかったのか、ブラッドさんが説明してくれた。
「おそらく……姫のグラスを新しいものと交換する前に、俺が君と話をしているところを見ていたのだろう」
おおう。バレてた。なるほど、そうか。一応私、今日の主役の一人だもんな。となると他にも見てた人がいるかも知れないという訳か……。
いや、そりゃマズいな。
私が思ったように、私が犯人だって思う人間が、他にもいるかもしれないってことだ。
それに、もし疑いを持たれなかったとしてもさ。聖女が指示を出してグラスを変えた理由がおっさんの唾が入ったのを見たからじゃ、様にならんだろ。
ていうかもしや、唾が入ったくらいでグラスを変えるとか聖女様って随分と繊細(笑)ですねってことになったりする? 大丈夫? どっちにしても聖女の評判ガタ落ち?
私がうだうだと考えているうちに、マティアスが姫とサイラスさんに入室の許可を出してしまった。いやまあ、私がどれだけ時間をかけて考えたって、良い言い訳なんて思い浮かばないだろうけどさ。
「聖女様」
入って来た姫が、透明なエメラルドの瞳で私を見つめて言った。
「命を救っていただき、ありがとうございました」
正直いたたまれない。だって私、再三言うけど毒が入っているなんて知らなかったもん。おっさんの唾が入っていることなら、知ってたけどね。まあ、おっさんの唾も劇物と言えなくもないけどさ。
「いえ、偶然です」
つまずいて突き飛ばした相手のいた場所に、上から植木鉢が落ちて来たくらいの、とんでもない確率の偶然だけどね。
そのすぐ後にサイラスさんにも深い森の瞳で見つめられ「姫をお救いいただき、ありがとうございました」とお礼を言われた私は、ちゃんと今度も正直に言ったよ?
「本当に偶然です」
「ご謙遜を」
……ちょっとちょっと。サイラスさんも姫も聖女様フィルターがかかってるんじゃない?
姫に至っては、
「奥ゆかしいお方……」
なんて、キラキラと瞳を輝かせながら言っちゃってるもんね。
「いえ、本当に偶然です。私は毒が入っているなんて知りませんでした」
「でしたら何故、わたくしのグラスを……?」
「それは……なんとなく、飲まないほうが良いと思ったので……」
決して、犯人だからではありませんよ……!
ここはやっぱり、正直に唾の話をするべきか悩むな……。
でも私が正直にそう言っても、サイラスさんも姫も信じないとは思う。というか、多分この場の誰も信じていない。マティアスも、ブラッドさんも。聖女という肩書が皆の目を曇らせているからだ。あるいは、本気で唾くらいでグラスを変えさせることが信じられないだけかもしれないけど……。
私の曖昧な答えに、姫も曖昧に微笑んでいる。けれどすぐに表情を引き締めて、その表情とは裏腹の、弱弱しい声で私に懇願した。
「聖女様……どうか、我が国ウェルムにお越しいただけませんでしょうか? 貴女様は、わたくしの命の恩人です。どうか、国を挙げてのもてなしをさせてくださいませ」
私は当然、もちろんです! って言おうとしたよ。だって、美人の誘いは断れないもんね。あ、命の恩人ってところは、ちゃんと否定するけどさ。
でも、姫のその誘いに二つ返事で承諾しようとした私を遮って、「申し訳ありません」とマティアスがさっさと姫の誘いを断ってしまった。なんでマティアスが断るんだよ!
「今はまだ、聖女を他国へ出すわけにはいきませんので」
え? そうなの? 私もしや籠の鳥?
驚く私をよそに、ブラッドさんまでもが姫とサイラスさんに「申し訳ありません」なんて言っている。
二人から拒否された姫は、今にも泣き出しそうな雰囲気だ。そんなに私に、国に来て欲しかったのかな? 何だかこっちが申し訳ない気分だ。
「……どうしても、ですか?」
「どうしてそこまで招きたがるのですか?」
おい、質問に質問で答えるなよ。てか声が低いぞ? まさか、姫を容疑者扱いしてるんじゃないだろうな?
ほら、姫黙っちゃったじゃん。きっとショックを受けたんだよ。仮にも夫になるかも知れない人から、そんな冷たい声で疑われているようなこと言われたからさ。私だったら激おこだよ? もうお前なんて知るか、だよ。
「……そうですね。わたくしたちの国だけ、特別扱いなんてことは無理ですよね」
……結構あっさり引き下がっちゃったな。……お出かけできなくて、ちょっと残念。
でも姫の言う通り、今私が姫の誘いに乗ってしまったら、やっぱりそれは特別扱いってことになってしまうのだろうか。
もしや私、これからずっと、交友関係にまで口出されなくちゃならないわけ? え、嘘。嫌なんだけど。
「ご理解いただけて何よりです」
何だか妙に腹の立つ言い方で、マティアスが返事をしているけれどさ。これは事案だな。会議だな。私の自由を取り戻すためには、ちゃんと話し合わないといかん。それでも皆が言っていることもわかるから、今この場で無駄な抵抗をするつもりもない。
悲しそうに去って行く姫と、それに付き添うサイラスさんについ追いすがりたくなっちゃったけど、そこはまあ我慢我慢。ハムとチーズも我慢我慢。
今はまだ各国での聖女熱と英雄熱が落ち着いていないからってだけで、時間が経てばいつか姫とサイラスさんを訪ねて、ウェルムに遊びに行けるようにもなると思うし。そしたら絶対、ハムとチーズを食べまくるんだい!
私のお腹が主人の意思を無視してぐううと鳴ったけれど、我慢我慢。邪竜という脅威も去ったことだし、そうそう急ぐこともないだろうさ。




