第十四話
声のした方向に目をやれば、森の奥から何かが走って来る様子がうかがえた。何かはわからない。樹々の枝が揺れ、地面が蹴られる音が大きく響いて来る。相当な重量と大きさを持った何かが、俺たちに近付いてきていた。
そして、森の中から現れたのは――。
普段森で目にする狼よりはるかに巨大な、銀色の毛並みの狼だった。
「どうして……⁉」
サイラス・ノーフォークが眼を見開き、狼を凝視している。あの狼が何なのかを知っているのかと俺が問い質そうとした直後、その化け物のような狼が、マティアスとアリーセに向かって四足を蹴り上げた。
「駄目だ! やめろ! やめるんだ! ――……ダンカン!」
サイラス・ノーフォークが狼に向かって叫んでいる。
と同時に、マティアスがアリーセの前に出て、剣を引き抜いた。部下たちも一斉に剣を構え、今にも二人に向かって走り出そうとしたその時――。
驚くべきことが起こった。
「やめてくれ――!」
「殺しちゃダメー!」
名まで付けるほどにあの狼に愛着のあるだろうサイラス・ノーフォークの嘆願はまだしも、なんとアリーセまでもが己を害そうと突進してきた狼を殺すことを拒否したのだ。
しかも――マティアスが何故かその言葉に従って、剣を放り投げてしまった。
マティアスのその姿を見た俺は、一瞬のうちに身体から血の気が引くのを感じていた。二人に向かって来る狼は、通常のそれよりも一回りはでかい。それでも、アリーセはマティアスが剣によって狼を殺すことを拒み、マティアスはそれに従った。
アリーセのその行動に、俺は瞬間怒りを湧き上がらせた。無暗に命を奪わない。その行動は聖女の性としては正しく、掛け値なしに賞賛できるものではある。だが、今このような事態に発揮するべきものではない。
そしてそれは、マティアスに対しても同じだった。結果的には無事だったが、下手をすればアリーセともども命を奪われていた可能性すらあったのだ。
マティアスは、アリーセを聖女だと信じている。だからこそ、その言葉に従ったのだろうが、その信頼は度を越している。
しかもアリーセはマティアスの心配をするどころか、狼の心配をする始末。俺はそんなアリーセに無性に腹が立ち、つい声を荒げてしまった。
「アリーセ! 何故止めた! マティアスが怪我をしたらどうする!」
「その狼を殺してはダメです」
俺の怒声に怯えた様子を見せながらも、それでもアリーセは己のしたことは正しいのだという確信を持っているようだった。
「だから……それは何故だと聞いている!」
アリーセは俺の問いには答えずに、その紫紺の透き通った瞳でサイラス・ノーフォークをじっと見つめている。アリーセに見つめられ、名を呼ばれた彼は僅かに逡巡して見せたあと、驚くべき言葉を放った。
「……あれは、私の双子の弟です」
サイラス・ノーフォークの言葉に、俺は心底驚かされた。狼を弟などとは、一体彼は何を言っているのか。このやりとりを聞いていた周囲からも、驚きの声が漏れ聞こえてきた。
「弟だと……⁉」
聖女を誘拐するような人間だ。彼はきっと精神に異常をきたしているのだろうと、この時の俺は思っていた。しかし彼が言うには、あの狼は魔術師に呪いをかけられた人間であり、真実自分の弟であるという。
にわかには信じ難い話ではある。いくら腕の良い、力のある魔術師だとて、人を獣に変える程の魔術師など聞いたことがない。しかも傍目にはただの狼にしか見えないものを、何故アリーセは人間だと見破ったのか。
しかし俺のその疑問は、はからずもサイラス・ノーフォークの言葉によって明らかにされた。
「……今まで誰も、あの姿の弟を人間だと見破った者はいなかった。やはり貴女は本物の聖女だ」
――聖女。
マティアスや他の騎士達とは違い、俺はその存在を信じてはいなかった。
アリーセがマティアスを《古の災厄》の元へ連れて行ったのは確かだし、マティアスが言っていた、魔素がアリーセのために働いたという言葉を嘘だとも思っていない。エイベルとリンツの言葉に対しても同じだ。ただし、多少誇張された見解ではあるとも思っていた。おそらく混乱と興奮の最中、聖女とアリーセという符号が偶然一致してしまっただけだろうと。
しかし、ここへ来て俺のその考えは崩れつつある。
祝賀会で、ウェルムの姫のグラスに毒が入っていると見破ったアリーセ。そして今また、常人では見抜けぬ真実を明らかにして見せたアリーセ。
ここにいる皆の視線が、彼女に集中した。
そんな中、己に集中する視線などまるで意に介してなどいなが如く、アリーセは僅かに瞼を伏せ考える仕草を見せた。否、考えているのではない。彼女は意識を集中させているのかもしれない。
しばらくそうしていたアリーセだったが、ふいに狼の傍に寄り膝を突いた。そして「ダンカン……」と狼の名を呼びながら、その耳を撫でたのだ。その手つきは優しく、眼差しには慈愛が籠っている。
ひとしきり狼の耳を撫でていたアリーセが目を瞑り、包み込むような形で両掌を狼の身体の上に翳した。
そして現れた、黄金の光。
アリーセの掌から現れた光はどんどんと量を増していき、狼の全体を包み込んでいく。強く、明るく、光を放ち続ける狼の身体がふいに揺れたと思えた直後――風が吹き荒れた。
光を乗せたまま吹き荒れる風が治まった頃、現れたのは狼ではなく、一人の人間の男だった。
サイラス・ノーフォークの面影を備えた、だが彼よりも幾分若く見えるその容貌。いつの間にか目を開いていたアリーセが、その男を見つめている。
そこで俺はようやくその男が裸であることに気付き、慌てて来ていた上着を脱ぎ男の上に落とした。そんな俺を、アリーセが紫紺の瞳で見上げて来る。
純粋な瞳だった。透明な光を讃えた、無垢なる瞳。
まだ子どもだ。けれど、ただの子どもではない。
このようなものを目の前で見せられてなお意地を張り続ける程、俺は頑ななつもりはない。
彼女は、アリーセは、間違いなく聖女だ。今の俺は、それを確信している。
弟を支えるサイラス・ノーフォークの元へ、城で別れたはずのウェルムの姫君がやって来た。抱き合い、微笑みながら泣く三人を見て、アリーセも泣いていた。
清廉なる者。
聖なる者。
神の御業を行使する、気高き者。
それが、俺の目の前にいるこの子どもなのだ。
――護らねばならない。
そんな想いが、ふつふつと胸の奥から湧いてきた。
アリーセは、象徴としてだけの聖女ではない。――この国が誇る、真なる聖女なのだ。
呪われた者は救われ、またそのことによって救われた者たちがいる。
物語ならば、めでたしめでたしとなりそこで終了だ。しかし騎士隊長という俺の立場上、これで終わりにする訳には行かない。サイラス・ノーフォークには、聖女をかどわかした罪を償ってもらわなければならない。
だが、ダンカン・ノーフォークは――。
俺はあのあとすぐにまた意識を失ってしまった、やつれた男を見下ろした。彼は今、もしもの時を考え持って来た組み立て式の荷台に寝かされている。四肢が狼の姿の時のままで硬直しているため、彼の身体は、横向きで運ばれることになった。
サイラス・ノーフォークに似ている美貌。だが一見したところの年齢は、彼よりも数年は若く見える。おそらくは、彼よりも身体が小さいためだろう。
「姫君。彼はこのまま、我が国の医師と魔術師が治療をします。それで良いですね?」
サイラス・ノーフォークの弟であるダンカン・ノーフォークは、城へ戻り次第適切な処置を受けて貰うことになるだろう。呪いは解けたが、長年負荷のかけられた身体は脆くなっているはずだ。
ここからウェルムの王都に行くには、この国の城へ戻るよりも時間がかかる。それに、兄であるサイラス・ノーフォークと姫君をまだこの国に留めておく必要がある以上、彼にもこの国で治療を受けて貰った方がいいだろう。
俺の言葉に、姫君は「よろしくお願いします」と礼を言った。臣下が罪を犯したのだ。姫君にも、あとで事情を聴くことになるだろう。
「では、そいつを連れて行け」
しかし部下たちがサイラス・ノーフォークを縄で縛ろうとした時、ウェルムの姫君が待ったをかけた。
「待ってください! サイラスは悪くありません! 聖女様の誘拐を企てたのはわたくしです!」
なんとも驚くべき言葉だった。俺だけではない、部下たちも、マティアスもアリーセも、そして庇われたサイラス・ノーフォーク自身も驚きを露にしている。
「姫――!」
「よいのですサイラス。本当のことなのですから。あなたはわたくしの命令に従っただけ……」
姫君が泣きはらした顔をそのままに、サイラス・ノーフォークに近付きその瞳を見据えた。僅かな時間見つめ合っていた二人だったが、ふいにサイラス・ノーフォークが視線を逸らしたのを見て、俺は姫君の言葉が真実であることを知った。
「詳しくお聞かせ願いましょう」
城に戻った俺たちはまず、医者に見せるためにダンカンを別室へと移した。そしてアリーセを中心として俺とマティアス、対面に姫君とサイラス・ノーフォークを配置し、事情聴取を始めた。彼等もダンカン・ノーフォークの傍についていたいだろうが、ここは仕方ない。二人の罪は、とても看過できるものではないのだ。
己と向かい合わせに座ったアリーセを見た姫君が、泣きながらアリーセに謝罪をした。
「申し訳ありませんでした、聖女様……」
姫君の謝罪に対し、アリーセはあっさりと許しの言葉を放った。ある程度予想していたことだが、その場面を実際目にすれば何とも面白くない。
「君は少し大らかすぎやしないか?」
そんな言葉がうっかり口を突いて出てしまったのも、致し方のないことだろう。けれどアリーセは俺の嫌味など「そうですか?」などと言って、まるで意に介していない様子だ。
それから姫君に毒を盛ろうとした犯人の話になり、その流れから犯人と思しき人物が今回の事件の原因となったことを、俺たちは姫君の口から聞かされることになる。
「……彼の魔術師は、ウェルムの王家を憎んでいるのです」
ダンカンに呪いをかけたその魔術師の名は、バルダザル・オズールと言うらしい。
「ダンカンが呪いをかけられたのは、今から五年前……。この五年間、王家も、わたくしもサイラスも、ダンカンを元の姿に戻すべく尽力してまいりました。けれどどれほど高名な魔術師や医師に見せても、ダンカンにかけられた呪いが解けることはありませんでした。彼らの中には、元が人間であることを疑う者すらおりました。それほどに、精度の高い呪いだったのです」
そして彼らの口から聞かされた、ウェルムと魔術師バルダザルの確執――。
普段驚く程ものに動じないアリーセでさえも、顔色を悪くしている。そんなアリーセが、青白い顔色のまま、独り言のように言葉を紡いだ。
「……バルダザルは何故、五年もの間復讐を止めていたのでしょうか」
アリーセのその言葉に、姫君とサイラス・ノーフォークの顔色が変わった。おそらく本人たちも、そのことを不思議に思っていたのだろう。
「今回の事件、本当にバルダザルの仕組んだことなのでしょうか? 人を獣に変える程の魔術師が、今更復讐に毒を用いるとは思えません。しかもウェルムではなく、この国で」
アリーセの言うことはもっともだ。
毒での殺人は、犯人が特定されないことも多い。しかし、正面からウェルムの王家に喧嘩を売ったバルダザル・オズールが、今更自らの行いを隠そうとするのはおかしい。
万が一この国で復讐を行う動機があるとするならば別だが、バルダザル・オズールなどという名を、俺たちは初めて聞いたのだ。ここはアリーセの疑い通り、別の犯人がいると見た方が良いだろう。
この国で姫君の身に危険が及んだことをマティアスが詫びれば、姫君が恐縮し自らの行いをまた謝罪し、そしてまた泣き始めた。
そんな姫君を見つめていたアリーセが、またしても驚くべきことを言った。
何と彼女は、姫君とサイラス・ノーフォークの罪を秘密に出来ないかと問うてきたのだ。人が良いにも程がある。しかも、妙な屁理屈までこねだす始末。アリーセの慈悲深さは尊いが、さすがにそれは許容しかねる。どうしたものかと俺は溜息を吐いた。
しかしそんなアリーセの戯言を、なんとマティアスが了承してしまったのだ。
騎士団での俺はマティアスの上司だが、今のマティアスは第三王子としてこの場にいる。マティアスが了承したことを、俺が駄目というわけにもいかない。俺はもう一度、大きく溜息を吐いた。
その後ダンカンと話したいというアリーセの頼みを聞き、衛兵に様子を見てくるよう手配をした。衛兵が戻って来るまでの間、アリーセは姫君を質問攻めにしていた。本当に自分が姫君の指示で誘拐されたことなど、まるで意に介してはいないらしい。
子どもだからと言ってしまえばそれまでだが、この寛容さには多分に、この少女本来の性質が関係しているのだろう。アリーセのこの性質は好ましくもあり、また危うくもある。そしてアリーセに関することになると途端に予想もつかない行動を取るマティアスについても、注意する必要がある。
俺が弟分の変化を喜ばしく思いつつも警戒していると、ダンカンの様子を見に行っていた衛兵が戻って来た。ダンカンはすでに目覚めているという。それから皆でダンカンの見舞いに行くことになったのだが、いざダンカンのいる部屋に入ろうという段階になって、アリーセがまたもや突飛なことを言い出した。
「は? ダンカンと二人になりたい?」
これには俺だけではなくマティアスも猛反対した。
「駄目」
「何かあったらちゃんと悲鳴を上げます」
馬鹿げたことを真顔で言うアリーセに、俺はつい「何かあってからじゃ遅い!」と怒鳴ってしまった。
「ブラッドの言う通りだよ。駄目に決まってるだろ。あいつに牙を剥かれたこと、もう忘れたの?」
「あれは……」
マティアスがそう指摘すると、アリーセは黙り込んでしまった。そして驚くほどに、深く透明な瞳で見上げて来て、言ったのだ。
「彼に、聞きたいことがあるの」
こういう時のアリーセには、逆らえない何かがある。そしておそらく――この瞳に弱いのは、俺だけではなくマティアスも同じだろう。
案の定、結局は部屋のすぐ外に待機しているという条件付きで、俺たちはアリーセとダンカン・ノーフォークが、二人で会うことを許してしまった。




