第十話
まだ上手く走れないダンカンが、まろびつつも、血相を変えて飛び出していった。
そのダンカンを見送ったあとの私は、唖然茫然。
ダンカンの行動に、びっくりしたからじゃない。残されたサイラスさんが、あまりにも悲壮な表情で、その場に立ち尽くしていたからだ。
なんで? サイラスさん、姫のところ行かないの?
なんで、そんなに悲しそうな表情しているの?
「……吐血をした時から、覚悟はしていました」
無言で見上げる私に応えるように、サイラスさんがか細い声を落とした。
顔色なんて真っ青になっていて、見ていて痛々しいったらない。
「……でも、早いです。シェイラさんは、吐血してから数か月の内にって、言ってましたよね?」
けれど、サイラスさんは今度は答えてくれなかった。
答えられない自分を不甲斐ないと思っているかのように、あるいは現実を突きつけて来る私から逃げるかのように、部屋を出て行ってしまった。
私もそんなサイラスさんのあとを、不安にバクバクと鳴る心臓を無視して追いかける。姫の部屋には、姫の寝ているベッド脇に膝を突いているダンカンがいた。縋るように姫の手を取り、額を押し付けている。
サイラスさんの後ろから寝ている姫を覗き込んだ私は、思わず息を呑んだ。姫の顔色は真っ青だ。唇は紫で、呼吸はか細く、苦しそうだ。
え? なんで? なんでこの段階で、こんなに病状が悪いの? それともこんな状態のまま、死ぬまでの数か月ずっと過ごすの?
けれどそうではないことを、サイラスさんの落とした呟きが物語っていた。
「……やはり。……シェイラの時より進行が早い」
姫が吐血をしてから、まだ数日と経っていない。
前にも吐血していた可能性はあるけれど、だとしても、これまでの姫の状態を思い出せば、そう時間が経っているわけではないだろう。
シェイラさんの時は、吐血してから数か月以内とサイラスさんたちは言っていたのに……。
そこまで考えた時、私はある可能性に思い至った。
もしかしたら、シェイラさんの時はバルダザルが何らかの方法で、病の進行を食い止めていたのかもしれないということに。
考えても見れば、私はシェイラさんの病の進行具合を、一般的なこの病の進行具合なのだと思っていたけれど、そうではなかったのかもしれない。それに、個人差というものもある。それは年齢や体力の差によるものだ。
若く体力のある人は同じ病でも進行が遅い時もあるのだろうし、反対に若く体力があるからこそ、進行が早い病もある。
この病が、どちらに当てはまるのかはわからない。けれど、どちらにしたって、腕利きの魔術師兼医師が常時傍についていたシェイラさんと、今の姫の病の進行具合を、同じと考えてはいけなかったんだ。
姫の今の状態を見るに――それほど長く持つとは、到底思えない。そう思った瞬間、か細かった姫の呼吸が大きく、荒いものに変わった。
姫の喉からヒューヒューと大きな音が鳴り、身体は細かく痙攣している。透明なエメラルド色の瞳が、何かを探すように宙を彷徨っている。
「ダンカン! すぐに取り掛かれ」
サイラスさんが叫んだ。
目を瞑り集中しだしたダンカンに合わせて、私もマイダーリンに祈りを捧げる。
お願い、ダーリン。
ダンカンを手伝って。
姫を助けて。
お願い。お願い!
ダンカンの向い合せた掌の内側に、光が集まって来る。その光がどんどんと凝縮されていき、眩さを増し、もう今にも形が現れるといった時になって――パチンとはじけて消えてしまった。
そのままその場に膝を突いたダンカンが、開いていた拳を握りしめ床を叩いた。
「無理だ! まだ掴めていない!」
「ダンカンっ……!」
サイラスさんがまるで悲鳴をあげるように、ダンカンの名を呼んだ。その声はダンカンを非難しているようでもあり、打ちひしがれるダンカンを擁護しているようでもある。とても複雑な感情を乗せた声だった。
「……魔素を魔素のまま使うことなんて、俺には無理だったんだ。通常魔素は勝手に身体の中で魔力へと変換される。その仕組みを一から感覚的に捕らえるなんて、バルダザルのような天才にしかできないことだったんだ……!」
魔素を、魔素のまま使う感覚が掴めない。
ダンカンのその言葉に、私はこれが考えていたよりもかなり高等な技術なのだということに、ここに来てはじめて気が付いたのだ。
私が茫然としたまま動けないでいる中、サイラスさんが動いた。ゆっくりと右手を上げ、姫の額の上数センチのところで、その手を止める。
「サイラスさん……」
「姫を眠らせます。この状態でどこまで効果があるかはわかりませんが……少しでも、姫の苦しみを和らげたい」
サイラスさんが今にも泣き出しそうな表情で、姫の額を撫でた。
……ああ、やっぱり私は思いあがっていた。
神の領域に、手を出そうとしていたのだ。
何が聖女だ。何が前世だ。そんなもの、何の役にも立ちやしない。
でも、非情な現実に打ちひしがれている私に、マティアスが声をかけてきた。
「君がやれ、アリーセ」
驚いて顔を上げた私に、マティアスはもう一度同じ言葉を放った。
「君がやるんだ、アリーセ。君ならできるはずだ」
私? どうして私ならできるの? 聖女だから? でも私、偽聖女なのに……。
「君は魔素の力で、ダンカンの呪いを解いた」
「あれは……魔素が勝手に」
私のマイダーリンが、私のためを思ってやってくれたことだ。私が何かをしたわけじゃない。
「違う。それだけならダンカンの魔術は成功したはずだ。君はそう祈ったんだろ?」
そう。ばっちり祈ったよ。両手の指を組み合わせて、マリア様ばりに祈ったよ? え? ……まさか、偽聖女だから祈りが届かなかったとか?
「だったら、成功するはずだ。でも、ダンカンは失敗した」
……おい。可哀想だろ? 責めるなよ。一番悔しいのは多分、ダンカンなんだよ。ダンカンは姫が好きなんだよ。惚れた女性を助けられないって、そりゃ相当悔しいだろ。
ダンカンの気持ちを考えた私は、ついマティアスを睨んでしまった。
「……責めてるんじゃない。ようするに、魔素の使い方を知らないダンカンだったから、成功しなかったと言ってるんだよ」
使い方を知らない……? 確かにダンカンは、魔素を魔素のまま使う感覚が掴めないとは言っていたけど……。
……ああ、そうか。感覚の問題だけじゃない。使い方を知らないって、そういうことか。ダンカンは核を作るため、魔素をどう使うかのイメージができていないんだ。だから、自分にはそれができるということを、信じきれていなかった。
マティアスの時は、マティアスは魔力に対する攻撃の仕方を知っていたから、だから自分の元へ集まってくれた魔素を有効に使うことができたんだ。
あのときマティアスは、剣での攻撃に魔力を込めるのは難しい、と言っていた。でも、難しいと言うってことは、やりかたは知っていたんだ。それは言い換えれば、以前にやってみたことがある、あるいは、自らがやったことはなくても、その魔力の使い方は、マティアスにとって可能であると確信できる攻撃の方法だった。
けれどダンカンにとって、魔素で核を創り出すという方法は、やり方も知らなければバルダザルの魔術の応用とはいえ、本当にできるかどうかもわからない未知の方法なのだ。
小説の中のダンカンには、呪いが解けてから十年もの月日があった。そんなダンカンが、どのタイミングでバルダザル方式の魔術の使い方を身に着けたかは、定かではない。でも、今のダンカンは、呪いが解けてからまだ数日しか経っていないんだ。いくらダンカンが天才だからって、そうそう簡単に習得できるわけがない。
「でも君は、ダンカンの呪いを解いた。魔力のない君にどうしてできたのかはわからないけど、それが聖女故の事だというのなら、きっと君がやればできるはずだ。いや、君ならやれる」
……君ならやれる。
それ、私がマティアスに言った言葉だな。ブーメランとなって帰って来たぜ……。
……うん。でも、ちょっと落ち着いた。
これは、最後まであがけということだな。
そうだ。諦めてなるものか。
えーと……、魔力のない私がダンカンの呪いを解けたのは、その呪いが解けるものであると知っていたから。そして、ダンカンにかけられた呪いの仕組みに、見当を付けられたからだ。でも、結局それも最終的には力に頼っただけではあるんだけど……。
だから、ダンカンの時は力技で呪いを解いたわけだから、今度はそう簡単にはいかないかもしれない。けれど姫の身体に埋め込む核のイメージを、私ならすることができるのだ。なぜなら、私は似たようなものをすでに知っているから。
魔素を扱うにはイメージが大事ってことは、もう何となく予想が付いている。自分の持っている魔力を魔力持ちが普通に治癒力の向上とか攻撃とか、結界を張ることとかに使うことができるのは、多分それがこの世界においての魔力、もっといえば魔術の常識だからだ。
身も蓋もない言い方になっちゃうけど、誰でも出来ることだと、皆が自分自身に思い込ませているからだ。ようするに、プラセボってやつ? え? そうじゃない? ……ま、いいや。
重要なのは、私にはそれがイメージできるってこと。この場にいる誰よりも、魔素による核が創り出せるってことを、信じられること。
まさに、聖女故のことだったんだ。私にとって魔術って、結構なんでもできちゃうイメージあるしな。この世界の魔術の汎用性の低さを知った時って、結構がっかりしたもん。え、水も火も出せないのって。
魔術の基本が、攻める、防ぐ、治すっていう単純なものだもんね。魔素による物質化なんて、そう簡単には信じられないよ。いくら、呪いという例があったとしてもさ、使い方が違うもん。それをたった数日で自分もできると思えるようになるなんて、相当な自信家じゃないと無理だよね。
心のどこかで、できないできないって思いながらやってたら、そりゃできないって。無意識のうちに、どっかでブレーキかけちゃうもん。できると確信すること、できないと諦めてしまうこと。それだって、結局はイメージってことだもん。
でも大丈夫。私思い込むの得意だから! 根拠皆無の自信家だから!
さっそく両目を閉じた私は、姫の身体に入れる核の形をイメージした。目を閉じた方が、イメージってしやすいよね?
えーと。心臓付近に入れるものだから、できるだけ小さく、でも高性能なものがいいな。耐久年数は、思い切って百年にしちゃおう。あ、これ忘れちゃいけないや。電池式じゃなくて、充電式ね。
あ! 良いこと思いついた! 誰かに魔力を充電して貰うんじゃなくて、ソーラー電池みたいな感じで、周囲に漂っている魔素を自動的に取り込むようにすればよくない?
いいねえ、そうしよ。
それで心臓みたいに、この核から姫の身体全体に魔素のエネルギーが行き渡るように……と。
よし! ダーリン、こんな感じでよろしく!
私がダーリンにお願いした瞬間、私の上向けた両掌の中、すぐに温かな光が集まって来るのがわかった。
どんどん、どんどん、光は明るさと熱を増していく。
その熱と光が頂点に達したと思われた時――。
私は閉じていた目を、そっと開いた。
私の掌の上には、黄金色の、一つの塊が乗っている。
天使の羽を二つ合わせたような……そう。ハート型だね。これぞまさしく、黄金ハート! 可憐で美しい姫に相応しい形だね!
あ、ちなみにこのハート型。元々はあらゆる治療に効果があるとされていた今は絶滅した幻のハーブの種をモチーフにしているらしいけれど、そんな逸話もぴったりだよね。ま、証明されてないから眉唾だけど。心臓のこと考えてたから、こんな形になったのかな?
そんな、私の小さな掌にすぽんと収まるくらいの、ハート型の塊。私はそのハート型の塊を、横たわっている姫の心臓の上辺りに持っていく。
……で、どうすればいいのかな?
まさか今ここで、開胸手術ってわけにはいかないよね?
ていうか、この世界まだお腹を開くようなところまで医学が発達していない。内臓関係の病は魔術師によって患者本人の治癒力を向上させるのが一般的だからね。バルダザルが規格外だったんだよ。
……いや、どうしようこれ。
入れる時のこと考えていなかったわ。
けれど悩んでいた私の脳裏に、ふいに一筋の光が煌めいた。言葉ではない。けれどその光を感じた瞬間、私は私のするべきことを理解していた。
私は姫の心臓付近に手を近づけ、黄金ハートがその場に落ちるようにゆっくりと両掌を開いた。本来ならば姫の身体の上で止まるはずだったその黄金ハートは、しかし姫の服を通りこし、身体の内側へと沈んでいく。
現在の姫の身体の内側がどういうことになっているかはわからないけど、多分この小さな黄金ハートが入るくらいの隙間はあるはずだ。……ないかな? なくても無理やり詰め込むけどね!
黄金ハートが完全に姫の身体の中に納まってからしばらくすると、苦し気だった姫の呼吸音が、穏やかになった。すーすーと、先ほどまでの荒々しい呼吸が嘘のように凪いでいる。
しばらく経ってから、ダンカンが恐る恐る聞いてきた。
「……成功、したのか?」
わからない。でも姫のこの様子を見れば、失敗したとも思えない。でも姫の身体の中に入れた核が今どういった働きをしているのか、魔力のない私に見ることは……。
「あ!」
「何だ⁉」
私の上げた声に、ブラッドさんがすぐさま反応した。さすがお兄ちゃん!
「エイベルさんを呼んできてください!」
エイベルさんは、目が良いと言っていた。光る魔素を追って、私を助けに来てくれたしね! ならもしかしたら、姫の身体の中に入れた核から流れる魔素だって、エイベルさんなら見ることができるかもしれない。
けれどエイベルさんを呼んできてくださいと言った私に対し、エイベルさん本人から答えが返って来た。
「ここにいます」
……っと、そうだった。エイベルさんは私たちの監視役だった。
部屋の隅にいたエイベルさんが、姫の寝ているベッドまで近づいてきた。そして少しだけ姫の身体に顔を、いや目か、を近づけてじっと見つめている。それからしばらくして、エイベルさんの口から、ほうっと安堵したような、感心したような、穏やかな溜息が零れた。
「……すごいですね。姫の胸元の辺りから身体全体に向けて、魔素がどんどんと流れています」
よっしゃ! 成功だ!
「姫は……助かったのか?」
ダンカンが、縋るように私を見つめている。うん。そうだよ。姫は助かったんだよ。これで一生安泰とは言えないかもしれないけど、緊急の命の危機は脱したはずだ。
「はい。病自体が治ったわけではありませんので、今後も観察と調整は必要になると思います。……ですが、きっと大丈夫です。姫の傍にはあなたとサイラスさん、二人がいるんですから」
期待は時に重責になるってことは、私だって知っている。
それでも、私は言っちゃうよ。だって、ダンカンがそれを成し遂げることを、私は知ってるんだもん。
「……呪いをかけられていた年月、あなたがどれほどの辛い想いをしたのか、私には想像もできません。けれど、あなたはそこで終わってはいけません。……ダンカン。あなたは引き続き修練してください。あなたの魔術は、姫だけじゃない、これから大勢の人の役に立ちます」
邪竜はもういないけど、また狼になる必要はないかもしれないけど。
今度またシェイラさんや姫のような病に苦しむ人が出た時に、ダンカンの魔術はその一助となるはずだ。
やり方さえ、そしてイメージさえ完璧なら、私よりも魔力の扱いに長けたダンカンの方が、ずっとスマートにできるはず。場合によっては、この世界の医学の進歩にも、貢献できるようになるかもしれないのだ。
五年間、ずっと呪いをかけられていたダンカン。随分と辛い想いもしただろう。
だからこそ、転んでもただでは起きるなよ?
自分に起きたどんな出来事も、自分の成長の糧にしろ。
「あなたは優秀な魔術師です。どうかあなたの力を、この世界の発展に役立ててください」
そんでもって、私が病気になったとき頼むぜ!




