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【書籍発売中】幽霊になった侯爵夫人の最後の七日間  作者: 榛名丼
7日目

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22/26

第22話.果たせなかった約束

 


「……うそ」


 振り返ったナターニアは、呆然と見返す。

 視線と視線が、まっすぐに合う。

 それは、アシェルの目が確実にナターニアの姿を捉えている証明だった。


「旦那さま。わたくしが……見えるの、ですか?」

「見える」


 問いには、間髪容れず答えが返ってくる。


「柔らかく光る、ピンクブロンドの髪も。青空のように澄んだ瞳も。雪のように白い肌も……すべてが美しいナターニアだ」

「ま、まぁ。旦那さまったら」


 ぽぽっとナターニアは頬を染めた。

 あり得ない事態に混乱しているのか、朝っぱらだというのにアシェルはやたらと情熱的になっている。


(本当にわたくしが見えているみたい)


 ……だけど、とナターニアは思う。

 奇跡には限界がある。お猫さまは最初にそう言ったのだ。


 ――『君の後悔と直結するあの男だけは駄目なんだけどね』


 幽霊になり、愛する人のところに一時的に戻ってこられても、アシェルに声を届けることはできない。

 あの言葉に嘘があったとは考えられない。お猫さまには嘘を吐く理由がないからだ。

 それと同時に、確信が芽生えていた。


(お猫さまが?)


 ここには居ないお猫さま。清らかな子どものような声をした、青い瞳を持つ黒い子猫。

 お猫さまがナターニアたちのために、何か、この世の理のようなものを一時的に歪めたのかもしれない。

 そうでなければ、アシェルと視線と言葉を交わすなんてできなかったはずだ。


「生きていたのか、ナターニア。本当に君が……信じられない」


 ふらつきながら、アシェルがベッドを下りる。


 まだ本調子ではないのだろう。すぐに足元がぐらつき、倒れ込みそうになるアシェルにナターニアは手を差し伸べた。

 受け止めようとして、ナターニアの細い身体では支えきれずに、二人で一緒に絨毯の上に倒れ込む。


「きゃあっ」

「……っ!」


 寸前のところで、ナターニアの後頭部をアシェルが支える。


 触れ合うほど傍に、アシェルの整った面立ちがある。

 切なげに細められた瞳と目が合い、ナターニアは大慌てで彼の腕の中から抜け出した。

 お尻を動かして壁際まで後退する。


「あっ、ありがとうございます、旦那さま」

「…………」


 ややショックそうに黙り込んでいたアシェルだが、気を取り直したように言う。


「いい。いいんだ。君が生きているなら、なんだって」

「……いいえ、旦那さま。わたくしは幽霊なのです」


 信じたくないというように、力なく座り込んだアシェルが首を横に振る。


「感触がある。こうして姿が見えるし、声も聞こえるだろう?」

「旦那さま。わたくしは死んだのです。苦手なお魚を食べて、身体が過敏な反応を起こして死んでしまったのだそうです」

「……違う。君は、ここに居るじゃないか」


 否定する声はどこかぎこちない。アシェルも気がついているはずだ。

 触れ合ったとき、確かに感触はしたけれど……ナターニアの身体は透けていて、生きていた頃と同じではない。

 お猫さまが奇跡を起こしてくれたとしても、ナターニアが生き返ることだけはあり得ない。


(わたくしは、もう、旦那さまの傍には居られない)


 分かっていたはずの事実が胸に広がっていったとたん。

 ナターニアの頬を、自然と涙が伝っていった。


「…………ごめんなさい」


 急に泣き出したナターニアに、アシェルは当惑したように眉を下げる。


「どうして君が謝るんだ」

「あなたに、家族を……作ってあげたかったのに」


 ナターニアは両手で顔を覆う。

 それでも、次から次へと込み上げてくる。押し寄せてくるのは荒れ狂うような後悔だ。


 スーザンには、笑顔だけを見せるよう心がけていた。

 ナターニアは幸せに死んでいったのだと、そう思ってくれれば満足だった。それがナターニアにとっても救いだったから。


 だけどアシェルを前にすると、どうしたって歯止めが利かなくなる。

 心の奥底に眠っていた本心が、最後に彼の目に触れたいと泣き叫ぶ。浅ましい欲が顔を出してしまう。


「たったひとりきりで……ひとりぼっちにして、ごめんなさい。約束を守れなくて、ごめんなさい」

「……あの約束は、やはり、俺のためのものだったのか」


 アシェルの声が、ずいぶんと近い。

 ナターニアはどきりとした。髪の毛に、触れる手の感触がある。

 アシェルが撫でているのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。


 顔を上げる。

 屈み込んだアシェルが、泣き続けるナターニアの顔を覗き込んでいる。


「……っ」


 壁とアシェルの間に挟まれたまま、ナターニアは呼吸を止めていた。

 ピンクブロンドの頭をアシェルが撫でつける。一緒に寝るとき、いつもそうしてくれたのを知っている。

 ナターニアが眠っていると確認してから、アシェルはそうやってこっそりと撫でてくれたものだった。


「嫁いできた夜……女に生まれたからには、子どもを産みたいから協力してほしいと君は言ったな。必ず産んでみせるからと」

「……はい。言いました」


 子どもを望んだのはアシェルではなく、ナターニアだった。


 同じ寝床に入りながら、アシェルはナターニアに触れようともしなかった。

 だからナターニアは自分からアシェルのほうを向いて、彼に縋りついた。子どもがほしいと頼み込んだ。告げた理由は、それっぽく取り繕ったものだったけれど。


 涙と一緒に、飾り気のない言葉が唇からこぼれ落ちる。


「わたくし、旦那さまに、幸せになってほしかったのです」



 ――どんなに望んでも、自分は長くは傍に居られないと知っていたから。



 どうしても、アシェルとの間に子がほしかった。

 その子を、アシェルは大切にするだろう。アシェルもその子を大事にするだろう。

 尊い未来を命がけで望んでいた。その光景を残すためならば、なんでもできると思った。


 でも、ナターニアはお腹に子どもを抱えたまま死んでしまった。

 夫婦の間で交わされた、たったひとつの約束すら守れなかった。


 不義理だと罵られることを覚悟していた。

 ぐっと唇を引き結ぶナターニアの額に、柔らかな吐息がかかる。


「……ナターニアは、鈍感だな」

「ど、鈍感……ですか?」


 びっくりするナターニアに、アシェルは「そうだ」と頷く。

 なんだかちょっと拗ねたような、幼げな表情だった。


「俺は、君に会えて、夫婦になれて……その、とっくの昔に幸せだったんだが」

「――、え?」


 思いがけない言葉に、一瞬、完全にナターニアの思考は停止する。


(幸せ、だった?)


「いや……ちゃんと伝えていなかったから、そのせいだな。結局、悪いのは俺か」


 アシェルが溜め息を吐く。

 髪に触れていた手が離れていく。


「君が居なくなって初めて、君が好きな花の名前を知ったくらいだ。俺は君のことを、なにひとつ分かろうとしていなかった」

「っ違いますわ、旦那さま」


 このまま仕舞われてしまいそうな手に、ナターニアは飛びつくようにしがみついた。


 アシェルは誤解されやすい人だ。

 でも彼がどれだけ優しい人なのか、ナターニアだけは知っている。


「旦那さまは……今までわたくしに、お見送りも許してくださいませんでしたよね?」


 まさか幽霊になってまで、その件について掘り返されると思わなかったらしい。

 アシェルの目が気まずげに泳ぐ。だが、生真面目なアシェルは最終的に肯定した。


「それは……君に、つまらないことで負担をかけたくなかったから」


 しかしナターニアが指摘したいのはひとつではない。


「ダイニングルームに呼んでくださることもなくてっ」

「俺の顔なんて見たって、食事がまずくなるだけだと思って」

「わたくし、デートに誘われることもありませんでした!!」

「……共寝しただけで失神するような妻を、外にまで誘えない」


 答えるアシェルの顔は真っ赤だった。

 ナターニアの頬にまで一気に熱が上る。しがみついた手に、ぎゅうと力をこめてしまう。


「だ、旦那さまったら破廉恥です!」

「夫婦なんだから、これくらい別にいいだろう」

「ま、まだ朝ですのにっ」

「……夜ならいいと?」

「旦那さまっ」


 もう、恥ずかしすぎてナターニアはカーテンの裏に隠れたい。


 だけれど、ナターニアは隠れられなかった。

 逃げようとしたナターニアの手を逆に絡め取ったアシェルが、その胸にナターニアを抱きしめていた。

 あんまり強く抱きしめるから、壊れてしまうかもしれないと思った。

 だが、アシェルがそんな風に、力の限りナターニアを抱いてくれるのは初めてのことで。


 ただ、身を委ねて目を閉じる。


(…………心臓の、音)


 とく、とく、とく、と速いリズムで刻まれる、鼓動の音。

 アシェルの音。生きている人間の音。それを聞いていると、ナターニアは思い知る。

 やっぱりナターニアの心臓は動いていない。時計の針は、とっくに止まってしまっている。


 どうしようもなく、怖かった。

 もうきっと、時間はあまり残されていないと分かったから。




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― 新着の感想 ―
[一言] お、お猫さまあああ!!!ナターニタちゃんとアシェルさんが話してしかも触れるなんて……お猫さまは何を……?切ないですううえええお猫さま帰ってきてえええ(え)
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