第一一四話 「鶏肉軍師」
短い夏が終わり、秋の気配が漂い始めた森に鶏の鳴き声が響く。その鶏は足を縛られ、逆さまに吊されて暴れている。大きなバケツの中では湯が沸き立ち、その側にはナイフを持ったライン少年が立っていた。
ローワが肉を食べなくなった。
雪が溶け始め、春になってしばらくすると、ローワが肉を拒否するようになったのだ。ただでさえ弱ってきているのに、肉を食べなくなってはさらに衰弱してしまうと心配するラインは、説得したり、肉だと分からないように料理に手を加えたりしても食べる前から全て見破られてしまう。血の臭いがするというのだ。どれほどしっかり血抜きをしても駄目で、包丁などの調理器具も肉と野菜で分けなくてはならないほどである。
ラインの料理のせいではないとローワは言うが、どうしても自分に原因があるとしか思えなかった。
結局、ローワに肉を食べさせることは諦め、肉は全て自分で食べることになった。元々肉は好きだったので特に問題はない。だが問題なのはやはりローワの事だった。
このままでは余りにローワが可哀想だ。しかし無理に食べさせることはできない。
これからこの鶏を絞めるのだが、ラインは鶏を絞めるときにいつも謎の目眩に襲われる。時間としてはほんの一瞬なのだが、原因がわからないので不安な気持ちになるのだ。鶏は食材としてしか見えないし、特別血が苦手というわけでもない。それでも、鶏を絞めて、食材として切り終えるまでに一瞬だけ目眩がする。
『ラインは人を殺めたことがあるか?』
時折ローワはそう聞いてくることがある。だが、戦場に出たこともなく、城郭で暮らしていた時もそんな物騒なことはしたことがない。だからいつも答えは同じだ。
『いいえ。ありません』
そう答えるとローワも同じように返してくる。
『そうか』
いったい、あの問答にどんな意味があるのだろうか。
半年も一緒に生活をしていると大分打ち解けられたように思うが、この質問だけは未だに意味が分からなかった。
ともかく、今はさっさと鶏を絞めてしまおう。ラインは鶏の首に包丁を当て、一気に引き抜いた。
☆・☆・☆
「親父、あんなところに小屋なんてあったか?」
「見たことねえな」
弓矢と手斧を担いだ二人の男が高台から白い小屋を眺めている。森の中に埋まるように存在するその白い小屋はどことなく高貴な気配を放っていた。
「どうせ貴族の別荘か何かだろう」
「でもよう、もしも他の猟師なら俺たちの取り分が減っちまうぜ。そうでなくても最近はこの辺りの獲物の数が減っているんだ。だからこんな奥まで狩りに来ているんだろ。近頃、猟師が森の奥に行ったまま帰ってこねえって言われているのによ。もしかして化け物でも住んでいたりしてな」
「馬鹿なこと言ってんじゃねえ。いいからあれには近付くな。お前はあっちで獲物を探せ」
「へいへい」
男たちは二手に別れて獲物探しを再開する。
「……とは言ったもののやっぱり気になるぜ。ちょいと覗くだけならいいだろう」
若い男が言いつけを守らずに白い小屋に近付くと、近くの木に首を切られた鶏が吊されている。ボタボタと流れる血は下のバケツに溜まっていく。溜まった血の量から見るにたった今切られたようだ。男も猟師であるから血抜きなど日常的に行っているが、何故かその首のない鶏には言い表せぬ恐怖を感じた。
――森の奥に行った猟師が帰ってこないという話。そして突然現れた謎の白い小屋。去年の秋には両方とも存在しなかったものだ。それに、妙に周囲が静まりかえっている。若い男は小さく体を震わせた。
「おいおい、なんだか薄気味悪いところだな。それに、締めている途中だってのに切った奴はどこにいるんだ? 放っておいたら肉が不味くなるぞ。さっさと湯に漬けて羽根を取らねえと――」
その時、バケツに血が落ちる音がピタリと止まった。何故かと思う間もなく、男の視界がズレる。瞬きをすると男の左目は倒れる右半身を、右目は立っている左半身を眺めていた。右半身が地面に倒れると、真っ二つに切断された彼の体から思い出したように血と臓物が吹き出て左半身も倒れる。
ラインはハッと気づくと、今切ったはずの鶏の首から出た血がバケツいっぱいに溜まっていることに気づく。まただ。また意識が飛んだ。自分はいったいどうしてしまったのか。
嫌な予感が体を満たし、冷や汗が出てくる。右手で額の冷や汗を拭うと、何かべっとりとしたものがくっつく。驚いて自分の右手を確認すると肘ぐらいまでが血に塗れている。鶏の血が付いたのだろうか。
それにしても、はて、鶏は二羽だっただろうか。一羽だったような気がしたが、現に一羽分以上の血があるので二羽締めたのだろう。そして妙に自分の腹が膨れているような気もする。何かを食べた覚えはないのだが、不思議なものだ。そんな事を思いつつラインは鶏を沸騰している湯に漬けて羽根をむしる。
ローワは全てを聞いていた。一人で窓まで行けないので目で確認することはできないが、あの声と音を聞けば何があったかは理解できる。何かを咀嚼する音、啜る音、陽気な夏の森に似つかわしくない嫌な音はいつまでもローワの耳にこびりついていた。
☆・☆・☆
最初にこういう事が起きるようになったのは、初夏になって雪に埋もれた森が再び萌え始めた頃だ。鶏を締めると言ってラインが出て行ったあと、外からなんだか妙な音がしたので心配になってラインを呼んでみたが返事はなかった。いつもなら、呼べばすぐに返事をして駆けつけてくるラインだが、そのときだけはいくら呼んでも何も返ってこなかった。それでも叫ぶように呼び続けるとようやくラインから答える声が届いた。そしてラインが大慌てで部屋に駆け込んでくる。
「どうかなさいましたかローワ様!」
「すまない。呼んでも返事がなかったものでつい大声を出してしまった」
「申し訳ございません。鶏の方に集中していて気がつきませんでした。何かご用でしょうか」
「いや、いいんだ。何か妙な音が聞こえたもので……」
そのとき、ローワはラインが持っているものに気づく。あれは、そんな、まさか。見間違えではない。見間違えるようなものではない。だが、確かめねばならない。彼に、聞いて確かめねばならない。
ローワは荒くなる呼吸をなんとか静めて唾を飲み込み、ラインの持っているものを指さす。
「ライン、それは、何だ?」
「ああ、申し訳ございません。これはお見苦しいものを……。私としたことが、締めた鶏をそのまま持ってきてしまいました」
ラインが手に持っていた鶏を後ろにさっと隠す。
違う。鶏ではない。決して。鶏に指は五本もない。どう見てもそれは人間の腕だった。
「……わかった。下がってよい」
こみ上げてくる吐き気を無理矢理飲み込み、努めて冷静に次の言葉をつなげる。
「すまない。少し気分が悪いので食事には肉を入れないでくれ。野菜だけで作ってほしい」
ラインは一瞬きょとんとするが、すぐに分かりましたといって部屋を出ていく。
☆・☆・☆
何故、彼はああなってしまったのだろうか。冬の間は心の優しい少年であったが、夏を過ぎたぐらいから変わってしまった。
まさか、何かしらの古代遺産の力を受けたのだろうか。
彼がそんなものを持っているところを見たことはないが、あの常軌を逸した変貌ぶりは古の力以外考えられない。
しかし、ベッドの上から動けない自分では語らうことしかできない。なんとか彼に人の心を取り戻してもらいたいが、それも不可能かもしれない。
「国王であっても、古代遺産の前では少年一人を救うこともできない。なんという、無力な存在なのだ。やはり、古代遺産は世界の異物なのだ……」




