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三日国王〜“奇跡の人間”と呼ばれた青年は……

作者: 円野 燈

2022年の県のコンクールで落選したものになりますが、載せてみることにしました。タイトルは丸ごと変更し、内容はあえてほとんど手を加えていません。



 これは、私が旅立つまでの記録だ。




 私は、世界の片隅にひっそりと存在する小国に生まれた。周囲を深い森に囲まれ、隣国とは何里と離れ、陸の孤島などと揶揄やゆされている。国の特徴と言えば、建物はレンガ造り、主な産業は農作物で、輸出入はほぼなく、国内で消費されている。陸の孤島という名の通り、他国との交流は頻繁ではない。あまり存在感のない国だ。

 ただし一つだけ、この国の民には、他国とは違う特徴があった。それは、生まれつき片腕や片足がないのだ。我が国ではそれが普通の人間で、生涯その身体で生活をしなければならない。手足を付けるような医療はこの世界には存在しないから、仕方がない。

 しかし、そんな人間ばかりが生まれている訳ではなかった。まれに、両手両足がある状態で生まれてくると言われている。その希少な人間は、普通の人間の中から神に選ばれた存在だとされ、“奇跡の人間”と呼ばれていた。その者たちは特別に城で働くことが許され、私もその一人だった。普通の両親の間に私は生まれた。学業を修めるまでは普通の子供に混じって勉強し、卒業してから城へ上がった。

 丘の上にある城は城下町の建物とは別格で、白い丈夫な石造りだ。シャンデリアは輝き、床は日の光を反射して上品に艶めき、調度品は繊細な装飾が施され、清潔感が溢れる城内は別世界のようだった。最初は使用人として清掃や給仕などをしていたが、誠実な働きぶりが認められると、どんどん役職が上がっていき、ついには国王の側近となった。

 やがて、国王が退位することを表明した。しかし、彼の子供らも普通の子供。後継者がいなかった。すると国王は、側近である私を次期国王に選んだ。城で働いている者は全員奇跡の人間なのだから、何十年と仕えている者が選ばれると思っていた。

 側近とは言え、まだ若輩者の自分でいいのかと聞くと、その若い手腕が必要だと言われ、王冠は私に譲られた。こうして私は、若干二十歳にして国王となった。王となった私は、諸国との積極的な外交を始め、経済発展の模索やインフラ整備など、国の為に毎日働いた。しかし。私にはある欠点があった。


「工芸品をもっと国外に売る?何バカな話をしているんだ。普通のが作ったものに、まともな品物がある訳がないだろ。恥ずかしくて国外に出せるか!」

「しかし王。我が国の経済発展の為にも、隣国だけではなく、もっと交易を広げなければ……」

「なら、恥ずかしくないものを作らせろ! 子供の工作のようなものを出して笑われるのは、私なのだからな!」


 プライドが高く、傲慢で、自国の民である者たちを蔑んでいた。手足が足りないせいで、満足に仕事もできないと。自分を生んで育ててくれた両親のことさえもまともに見ておらず、城に上がってからは一方的な絶縁状態だった。自分が奇跡の人間だと言われて、周りから特別扱いされて、神になった気にでもなっていたのだろう。今となっては、こんな私がよく国王なんかに選ばれたと思う。それこそ奇跡だ。

 しかし、工芸品の質が悪いのは事実だった。正しく言えば、出来にばらつきがあった。ハンデごとで職種は分けていなかったから、民は好きな仕事を選び働いていた。だから質が悪いのは当然で、職務に関する法を定めていなかった甘さだった。それに気付いていれば制度も作ったが、民のことを考えることすら疎ましかったその時の私の頭には、欠片すらなかった。





 ある日のことだ。休暇を取った私は、数名の臣下と使用人を引き連れて、別荘がある森へ行った。趣味の釣りと絵を久し振りに満喫できることを、楽しみにしていた。


「釣りに行って来る」

「お供します」

「一人がいいんだ。ついて来るな」


 着いて早々、心配性の臣下たちを置いて近くの川へ行き、一人で釣りを始めた。川幅はそこそこ広い。この時期にうまい川魚を狙って、釣り糸を垂らして獲物がかかるのを待った。しかし、待てど暮らせど竿がぴくりともしない。こんな調子が悪いことはなかった。全く釣れないことに、私は次第に苛立ち始めた。


「なかなか釣れないな。魚はいるのか」


 魚影を探そうとして川に入って行った。国王がボウズなんて、臣下たちに心の中でバカにされてしまう。一匹くらい見つけてやると意地になって、流れに踏ん張りながら川の中ほどまで歩みを進めた。

 その時だった。何か黒くてでかいものが川の中から現れ、私に襲いかかって来た。


「うわあああっ!!」


 驚いて我が身を守ろうと、咄嗟に両腕を顔の前に出した。その直後に衝撃的な痛みを感じ、ほぼ同時に記憶は途切れた。私は意識をなくしたのだった。





 目を覚ましたのは、城の自室のベッドの上だった。少し頭がぼうっとして、何故ベッドに横たわっているのだろう、休暇で別荘に行っていた筈なのにと疑問だった。 周りには、ベッドを囲むように臣下たちや医者が立っていて、私は目で彼らを見回した。


「どうしたんだお前たち。そんな深刻そうな顔をして」


 そう言うと、私の補佐をしていたひげを蓄えた臣下が口を開いた。


「王。貴方に、言わなければならないことがあります」

「何だ」

「誠に残念ですが、貴方は城から出て行かなければならなくなりました」

「深刻な顔をして何を言うのかと思えば。下らない冗談はやめろ」

「冗談ではありません。貴方はもう、普通の人間なのです」

「は? 私が普通の人間? 何を言ってるんだ……」


 私は、バカげた発言を繰り返す臣下を問い質そうと、起き上がろうとした。ところが、()()()()()()()()。左腕が上手く使えなかった。それどころか、シーツを触っている筈の手の感覚がない。

 違和感を覚えた私は、掛け布団を取った。


「……え?」


 見ると、包帯が巻かれた私の左腕は、半分になっていた。


「左腕の肘から下は、なくなってしまったのです」


 私の左腕の半分は、川でワニに襲われた時に食われてしまったのだ。私は愕然として、突如突きつけられた現実を受け止めきれなかった。


「貴方は、奇跡の人間ではなくなりました。そうでない者は、ここにいる資格はありません」

「待て! これは事故だ!」

「これはしきたりです。例外はありません」

「私は奇跡の人間だ! 今さら腕が一本なくなろうが、選ばれて生まれた事実は変わらない!」


 生まれた時はあったんだからと、私は訴えた。しかし。


「ここにいて頂くことはできません。出て行ってもらいます」


 昨日まで私に仕えていた臣下は、情に訴えても冷たく言い放った。きせきの人間でなくなった私を、哀れだと言う目で。他の者たちも同じ目をしていた。

 しきたりはしきたり。使用人だろうが国王だろうが、それは関係ない。身体の一部を失った者は、城にいる資格も失うのだ。

 私は神に選ばれた筈だった。それなのに、この突然の仕打ちは酷過ぎると叫びたかった。しかし、ここにいる者たちには何の罪もなく、拳を握っても振るうことすらできない。私は、ただ愕然とした。

 そうして神に見放された私は、城を出て行った。





 服数着と私物と僅かな金を持ち、私は城下町に下りた。王だと気付かれないよう目深にフードを被り、猫背になって大通りを歩いた。道の両端には店が立ち並び、町は人々の声が行き交い、とても賑やかだった。

 しかし私は、その活気の良さにも気付かなかった。右を見ても、左を見ても、どこに目をやっても侮蔑する民たちが視界に入る。いとわしい環境。その中に再び自分がいることが認められず、現実を排斥したい思いが滲み出し、一歩ずつ歩く度に心は不快で満ちていった。


(私はこれから、本当にここに住むのか。再びこいつらと一緒に生きるのか……屈辱だ! こんなところで暮らせるか! 国の為に働いた私が、たかが腕の一本をなくしたくらいで王を辞めさせられた上に城から追い出されるなど、納得できるか!)


 身体の一部がないくらいで自分の存在価値が下げられてたまるかと憤り、歯を食いしばった。

 私は堪らず歩みを止めた。このまま歩き続ければ、自分が彼らと同じだと認めてしまう。彼らの中で生きることを認めてしまう。自分の人生を諦めることになると。だが、止まったところでどうするのだと、もう一人の自分が問いかけた。

 私が自分の足を見つめて立ち止まっていると、誰かが近付いて来た。


「どうしたんだアンタ。具合でも悪いのか?」


 通りすがりの者だったが、私は目もくれなかった。返事を返さないと、男は肩を触ったり顔を覗いてきたりしたが、言葉を交わしたくなかったから黙っていた。そうしていると、私に気付いた他の民も次々と近寄って来た。


「どうしたんだい。何か困ってるのかい?」

「財布でも落としたか?」

「何だ。何かあったのか?」

「おい、みんな。どうしたんだ?」


 最初の一人を無視した所為で、民に囲まれてしまった。それぞれが語尾に疑問符を付けて話しかけてくるが、ただの不愉快な雑音だった。私はついに、その状況に苛立ちが増し、


「煩い! 私に近付くな!」


 怒鳴って威嚇し、囲んでいた人々を押し退けて走り出した。誰かが尻もちをしたような気がしたが、全く気にしなかった。

 悪夢を振り切るように走り、適当に脇の細い道に入った。そこでまた立ち止まり、座り込んだ。そこは、民家の間の日陰の路地だった。薄暗く陰気で、人気もなかった。


「屈辱だ……屈辱だ……!」

(こんな現実、絶対に認めない!)


 震えるくらいに右手を握り締め、何度も地面を殴った。持て余した感情の行き場が、そこしかなかった。

 数時間、そこから動かなかった。だんだんと腹が減ってきたが、手持ちは一週間分の食費くらい。食事をしたかったが民に混じるのが嫌だったし、国外に出たくても旅費にすらならない。家も食べ物も持たない私は、働かなければそのまま野垂れ死ぬしかなかった。


(私はこれから、どうすればいいんだ……)


 途方に暮れるということを、最悪の人生の始まりで知った。


 私は日陰の路地に留まり続けた。腹の音が煩かったが、唾を飲み込んで幻聴だと自分に言い聞かせた。

 岩のようにじっとしていると、また誰かが私に気付いて近付いて来た。


「ねえ。どうしたの?」


 顔を上げると、十歳に満たないくらいの少年だった。右腕がなく、背中に籠を背負っていた。


「私に構うな」

「そんなこと言われても気になるよ。何でこんな所にいるの?」

「構うなと言っただろ。話しかけるな!」


 相手は子供だというのに、私は大人気なく怒鳴って睨み付けた。少年は私の顔を見たが、何の反応も見せなかった。国王退位の触れは出ているだろうが、さっきの大人たちも気付いていないようだったし、片腕がないからよく似た別人だと思ったんだろう。


「そんな怖い顔しないでよ……あ。わかった! 腹が減ってるんだ! だからそんなに不機嫌なんだ!」

「腹など空いていない! 今すぐ私の前から去れ!」

「よかったらうち来なよ。うまいものたくさんあるからさ!」


 怒鳴られたことなど意に介さない少年は、私の右腕を力強く引っ張った。


「触るな! 離せ!」

「いいから、いいから。遠慮するなって」


 子供の腕力を甘く見ていた私は、少年によって路地から引っ張り出され、そのまま活気の中を歩かされた。また雑音が煩くなり、視界の端に生き生きと仕事をする民たちの姿を見た。


「父ちゃん母ちゃんただいまー。お客連れて来たよ」

「お帰り。誰を連れて来たんだ」

「知らない兄ちゃん」

「おい。ここは何だ」

「オレんち。魚屋なんだ」


 連れて来られたのは、少年の両親が営む魚屋だった。店頭には魚や貝が並んでいて、客が夕飯を考えながら品定めをしていた。

 少年は両親を私に紹介した。父親は右腕がなく、母親は左足の半分が木製の義足だった。気さくに挨拶をされたが無愛想な私は返さず、目も合わせなかった。


「ねえ。この兄ちゃん腹空かせてるみたいだから、何か食わせてやってよ」

「腹空かせてるなんて、あんちゃん金持ってねぇのか。何かやらかして、家追い出されたのか?」

「何もやらかしてなど」

「まあ、男が勘当されるなんて、何処の家でもあるさ。ちょっと待ってな。今、メシ作ってきてやっから!」


 私を、勘当されて追い出されたどこぞの不肖の息子だと勘違いした少年の父親は、店頭から魚を適当に選び、奥に引っ込んだ。


「この近くに海はないだろ」


 この国は大陸の内部に位置するから、海からは距離がある。近くで漁場となりうるのは、私が行った別荘近くの川くらいしかない。しかしこの商店には、川で見たことのない魚も並んでいたからそう聞いた。


「海のやつと川のやつ、半々くらいかな。父ちゃんたちは夜中に家を出て、海で魚を捕って朝戻って来るんだ。川のやつは罠を仕掛けてあるから、もっと捕るのは楽だけどね」

「釣りに行って獲れるのか」

「釣るんじゃなくて、引き網漁だよ。成果は見ての通りさ。まぁ、日によるけどね」


 私は身体的ハンデの意味で聞いたのだが、少年は意味を勘違いして答えた。だが、自分たちで捕りに行っているのが信じられなかった。城でも、海で捕れた地魚だと言われて魚料理を食べていたが、そんな訳がないと決め付け、隣国から輸入しているんだと思っていた。

 私は、他の民を見回した。


(じゃあ。こいつらみんな、同じように……?)

「オレも時々、付いて行って手伝ってるんだ。腕だけじゃなくて、足も片方なんだけどね」


 少年はズボンの左の裾を上げた。彼の左足の半分は、母親と同じ木製の義足だった。


「お前、片足もなかったのか」

「気付いてなかった?」


 ズボンで隠れているし歩いている時も自然だったから、全く気付かなかった。


「そう言えば兄ちゃん。魚好きだった?」

「……嫌いだ」


 こうなった忌々しい出来事の所為で、できれば魚は見たくもなかった。

 そのうち、料理ができあがったと言うので呼ばれた。民の家に上がるのは躊躇したが、ほのかに匂ってくる食べ物の香りに負けて、店の奥の住居に邪魔した。民家の間取りは、何処も似通っている。だから数年振りに入った途端、両親と住んでいた実家を思い出した。

 出されたのは、焼き魚と野菜の炒め物と汁物だった。城で出されていた料理と比べると、かなり期待値は下がった。味付けもシンプルそうだし、そんなにうまくはないだろうと思いながら、一口目を口に運んだ。


「……うまい」

「新鮮な魚使ってるから、うまいだろ」


 少年の父親は自慢げに言った。気が進まなかった筈が、私の手は止まらなかった。それは当然だった。腹が減っていた所為もあるだろうが、国王だったとは言え、生まれは彼らと同じ普通の家庭。私も同じような味で育てられたのだから、まずい訳がなかったのだ。

 食事を全て平らげ満足すると、私を勘当された息子だと勘違いし続けている一家から、暫くここにいればいいと言われた。断りたかったが、金はない。しかし、何処か屋根がある寝泊まりできる場所を探さなければならない。実家を思い出したが、さすがに帰れない。メシを出してくれた一家にも、悪意はなさそうだった。

 私は冷静になり十分考えて、ひとまずこの家で居候させてもらうことにした。ところが空いている部屋がなく、少年と同じ部屋で過ごすことになった。相部屋だとは思わず、拒絶したくなったのを堪えた。




 魚屋一家で住まわせてもらうことにはしたが、私は心を開けず、外に出る気にもなれず、毎日部屋に籠もってばかりいた。二階の窓からは、遠くの丘の上の城がちょうど見えた。未練を断つことができない私は、いつか戻りたいと願いながら見つめた。時には町の様子を眺め、片腕片足で働く民たちを見下ろしていた。


「兄ちゃん。昼メシ持って来たよー」


 少年は毎日、私にメシを持って来てくれた。いつもなら、床にトレーを置いてすぐに店の手伝いに戻るのだが、この時は珍しく話しかけてきた。


「ねえ。いつも部屋にいて退屈しない?」

「しない」

「ふーん」


 居候をすることにした私だが、一度一緒に食事をしたくらいでは、私の心の扉は開かなかった。寝食する場所を与えてもらった恩義すら感じておらず、一家と顔を合わせて食事をすることもなく、必要最低限の会話しかする気はなかった。私の気持ちを察してか、一家も無理に距離を詰めて来ようとしなかった。そんな風に互いの距離感を保ちながらも、共に過ごしていくうちに彼らの人となりは少しずつわかってきていた。

 私は外を眺めたまま、少年に問いかけた。


「なあ。お前たちは何故、いつも笑っているんだ」

「何でって……楽しいから?」

「楽しい? その身体で満足していると言うのか?」

「うん。だって、この身体は生まれつきだし。大変そうに見える?」

「苦労してないのか」

「まあ、他の人よりはちょっとだけ大変かもしれないけど。オレ、特殊みたいなんだ。普通は父ちゃんか母ちゃんどっちかのが遺伝するんだけど、オレは両方のをもらっちゃったらしくて」

「そんなことがあるのか」

「他の国でもたまにいるらしいよ。父ちゃんと母ちゃんも責任感じてるみたいだけど、オレちゃんと生きてるし、どうにかなってるから気にしないでって言ったんだ。実際、みんなこんな身体だけど、お互いに助け合ってるから大丈夫なんだ。困ったことなんて全然ないんだよ。だから誰も暗い顔をしてない。きっと兄ちゃんも、この町に馴染めるよ」

「私が、この町に馴染む?」

「兄ちゃん、どっか別の国から来たでしょ」

「何故そう思った」

「左腕、包帯してるの見えたから」


 生まれつき欠けた部分には、もちろん包帯など巻かれていない。だから私のことを異邦人だと思ったのだろう。異邦人と遭遇しても、自身の身体のことを誤魔化そうともしない。誤魔化すことすら難しいのだろうが、恥ずかしく思わないのかと、精神の図太さに半ば呆れた。


「旅してるの?」

「そんなところだ」

「やっぱりそうなんだ! 異邦人に会ったの初めてだよ!」


 興奮した少年は、異邦のことを色々と聞いてきた。ここからどのくらい離れているのか、どんな国か、どんな食べ物があるのかと。私は、知っていることと作り話を織り交ぜながら話した。実のところ、外交はしていたが、一切国外に出たことはなかった。異邦の王や大臣にはわざわざ来てもらい、城で会っていたのだ。

 やがて、親から配達を頼まれた少年は下へ降りて行った。


(私にはわからない)


 私にあったものがなくなった。左腕半分に、国王という地位。少年は馴染めると言ったが、普通になったという不自由さは、この時はまだ受け入れられなかった。




 滞在も長くなり、魚屋の一家とも話す機会が増えていった。けれど私の日々は変わらず、部屋から城を眺めたり、町を見下ろすだけの時間しか過ごしていなかった。それだけ考える時間が必要だったのだ。

 そして、世話になり始めて三週間ほどになる日。私は珍しく部屋を出て、営業中の店まで出て行った。


「あら。どうしたの?」


 女将と大将が私を見て、驚いたような心配するような顔をした。そんな二人に、私はこう言った。


「わ……私に、何かできることはないか」


 その時の私の、一世一代とも言えることを口にした。感情は込もっていないし、相変わらずの無愛想だっただろうが、それが精一杯だった。それでも、私の気持ちを聞いた二人の表情はみるみる変わった。


「何だ。手伝ってくれるのか」

「毎日メシをもらっているばかりでは、借りを作ってしまうだけだからな」

「よっしゃ! じゃあ見習いとして働いてもらうか!」

「そうね。あと一人いてくれると、あの子の勉強時間も増えて助かるわ」


 その日から私は、魚屋で働き始めた。まずは魚の名前を覚えた。川魚しか知らなかったから種類の多さに驚いたし、日によって並ぶ魚が違うから覚えるのに少し苦労した。

 それから、捌き方も教えてもらった。客から捌いてほしいと言われることが多いから、サービスでやっていると言う。他にも、それぞれのおいしい調理法も教わった。これもよく聞かれるらしい。

 接客はそれらが慣れてから始めた。どうやら私のことは、人付き合いが苦手な人間だとも思っていたらしく、配慮して後回しにしてくれた。

 熟考して決めたこととは言え、初めてで慣れない仕事の上に、たくさんの民との接触で最初はストレスを感じていた。しかし、コミュニケーションを重ねていくうちに、私の中の価値観は次第に変わっていった。




 ✢ ✢ ✢ ✢ ✢




 元国王の青年が町での暮らしに馴染み始めた頃。国王不在の城では、あることが進められていた。

 城の地下の一室に、主を失った臣下たちが集まっていた。いつもの整った装いはしておらず、地味な服に、揃いの白い上着を着て、テーブルを囲んでいた。その中には、退位した先王の姿もあった。

 だが、彼らの姿に違和感がある。城で働く奇跡の人間である筈の彼らの身体から、片腕や片足がなくなっているのだ。


「あれをここに」


 先王が指示すると、使用人が布を被せた何かをトレーに乗せて持って来て、テーブルに置いた。


「さて。出来映えはいかがですかな」


 青年のかつての側近の男が手を伸ばし、布を取った。現れたのは、魚の干物のようになった五本指の手が付いたの腕のようなものと、ビーカーに入った赤い液体だった。


「まずは、こちらを頂いてみようか」


 指示された使用人は、ビーカーの液体を小さなグラスに分け、先王たちに配った。彼らは自分の前に置かれたグラスを手に取り、少し匂いを嗅いでから、ためらうことなくそれを飲んだ。


「……まあ。我々のものと変わらぬ味ですな」

「成分を分析しても、特に変わったところはないようです」

「では、肉の方を試してみるか」


 言われた使用人は今度は刃物を持ち、腕のようなものを捌き始めた。まず前腕から手らしき部分を切り落とし、皮を剥ぎ、肉を骨から切り離して、必要な分だけを小さく切り分けた。サイコロほどのサイズの肉片になったそれを小皿に分けると、彼らの前に置いた。


「調理はしないのか」

「干し肉だと思って、まずはこのまま食べてみましょう」

「生臭くはないか。細菌も心配だ」

「まぁ大丈夫だろう。言っても肉なのだし、食べるのはほんの少しだ。我慢しよう」


 多少の小言が出たが、先王がそう言うのならばと皆は我慢し、肉片を口に入れて咀嚼そしゃくした。


「……少し固い」

「それに干し肉とは違って、何と言うか……」

「旨味がない」

「味付けをしなければ非常に食べづらい」


 それぞれの口から不評ばかりが漏れた。


「これは、食すのにはあまり向きませんな」

「それに、食べられるようにしたとしても、これでは到底足りません」

「どう致しましょう、先生」


「先生」と呼ばれた先王は、一つ唸って顎髭あごひげを触った。


「別の方法を考えた方がいいようだな。私たちには知識が足りない。異邦の知識人の力を借りねば、何も変わらぬままだ。百年ぶりに奇跡の人間が現れたこの機を、無駄にする訳にはいかん」




 ✢ ✢ ✢ ✢ ✢




 魚屋の手伝いを始め、接客の仕事も板に付き始めた時には、町で暮らし始めて三ヶ月が過ぎていた。その頃にはもう、私の民への侮蔑はなくなっていた。彼らと対等な生活にも馴れ、城を眺めても、あそこで過ごしていたことは遠い昔のように感じた。

 町は年に一度の祭りを控えていた。露店を出す商店はいつもの商売に加えて、その準備で忙しくしていた。魚屋の大将と女将も、出すメニューを毎日閉店後に試作していた。この日は昼間から試作をしていて、私と少年が代わりに店番をしていた。そこへ買い物に来た花屋の女店主が、露店の為に花の絵が入った看板を作りたいが困っているという話を聞いた。


「旦那さんは描いてくれないの? 」

「うちはみんな絵心がないのよ。誰かに頼みたくても、周りも出店しゅってんの準備で忙しいし……」

「それなら、私が描こうか?」

「本当に?」

「絵はよく描いてるから得意だ」

「兄ちゃん描けるんだ。なら、描いてもらいなよ!」

「いいのかしら。お店の手伝いもあるんじゃないの?」

「大丈夫だ。手伝いの合間にできる」

「じゃあ、お願いしようかしら」


 そういう訳で、看板の制作を引き受けた。絵は昔から趣味で描いていたが、町に来てからは全く描いていなかった。しかし、引き受けた以上は責任を持とうと、制作を始めた。

 看板用の板を用意し、筆やペンキは塗装屋に借りた。ペンキで色を塗るのは初めてだったが、花屋のリクエストを聞きながら一日で完成させた。


「できたが、これでいいか?」

「まあ、とても上手! 目を引く素敵な看板になったわ。ありがとう!」


 白や赤の花の絵で彩られた看板を見て、店主は笑顔で喜んでくれた。この時私は、感謝されるという初めてではない状況に戸惑った。身体が、と言うより、心がくすぐられるような。そして、何か感じたことのないものが沁み入っていくような感覚だった。


(こんな笑顔で『ありがとう』なんて、初めて言われた……何だろう、これは。今まで感じたことがない)


 翌日になると、私が描いた花屋の看板が町中で評判になった。いつも通りに描いただけなのだが、そんなに噂になるほどだったかと私は首を傾げた。その評判を聞いた大将は、私にあることを提案してきた。


「私も露店を?」

「こんだけ評判になる絵を描けるってことは、それだけの才能があるってことだろ。売り物として描けば、ほしいってやつもいるかもしれないぞ」

「父ちゃんいいこと言うじゃん! 兄ちゃん、描いてみなよ。オレも兄ちゃんの絵、売れると思う。それに、いつまでも居座ってもらっちゃ困るしね」

「追い出したいだけなのか」

「冗談に決まってるだろ。でもさ、やってみなよ。仕事にできるかもしれないじゃん!」

「仕事……」


 少年の言う通り、いつまでも魚屋で居候する訳にもいかないし、受け入れた自分の身体でできることを知っておかなければならない。しかし本当に商売になるのかと、その言葉は信じていなかった。信じていなかったが、やってみないことはないと、私は露店用に絵を描くことを決めた。

 紙や絵の具など画材は多少持っていたが、それだけでは足りなかったので、町に来た時から全く使っていなかった金と、魚屋でもらった僅かな給料で画材を買い揃えた。祭りまでそんなに日はなかったから、手伝いの合間や寝る前などの時間で、当日までに描けるだけ描いた。


 そして、祭り当日がやってきた。商店街や広場に色とりどりのランタンが吊るされ、様々な露店が並び、町の人々で賑わった。広場では楽器を演奏したり歌ったり、きれいな衣装を纏う女性たちが踊っていた。まるで、民たちのエネルギーが開放されているようだった。

 私はというと、商店街の片隅で広げた布に二十枚の絵を置いて、一人で売り始めた。


(描いてはみたが、私の絵なんか本当に売れるのか?)


 背中を押されて描いたものの、売れる自信はそんなになかった。他人から見れば上手いのかもしれないが、所詮は趣味だ。もしも私が元国王だと皆が気付けば、瞬く間に売り切れるだろうが、私の素性が知られていないのなら、一枚も売れないという最悪の可能性があった。だからさほど期待もせず、スケッチをしながら黙って座っていた。

 そうして時間を潰し、露店をやっていることを忘れかけた頃、杖を突いた一人の老人が私の前で足を止めた。


「……ほう。いい絵だ。お前さんが描いたのか?」

「ああ、そうだ。買うなら言い値でいいぞ」

「ふむ。それなら、これをくれ」


 老人は目の前に置いてあった青い鳥の絵を指差し、銀貨を三枚置いてそれを持って帰った。


「あ……ありがとう」

(売れた……)


 私は絵と交換された銀貨三枚を拾い、まじまじと見つめた。小さいサイズのものだったが、売れた。売れない可能性のあった自分の絵に価値を付けられ、偽物の銀貨ではないかと疑った。

 そのまま呆けていると、今度は若い夫婦がやって来た。


「見て。素敵な絵だわ」

「本当だ。この城が描かれた風景の絵なんて特に素敵だ。貴方が描いたんですか?」

「そうだ」

「ねえ。これ買って行きましょ。私、気に入ったわ」

「そうだね。いくらですか?」

「言い値で構わない」

「じゃあ、これで」


 夫婦は少しサイズが大きめの風景画を気に入り、銀貨五枚で買っていった。仲睦まじく、とても嬉しそうだった。

 そのあとも、呼び込みをせずとも時々人が立ち止まり、一枚ずつ買っていった。中には花屋の看板の話を聞いて、私を評判の絵描きだと思って買いに来た者もいた。

 私の前から、一枚ずつ絵がなくなっていく。その現象があまり現実味がなく、途中まで夢ではないかと思っていた。そんな夢心地から覚めかけた頃、私の前に意外な人物が現れた。


「お前は」

「こ、これはこれは……お久し振りでございます」


 服装が地味で一瞬気付かなかったが、その者は、かつて私の臣下を務めていた男だった。私たちは互いに驚き、気まずさで視線を外した。


「まさかこんな場所で、こんなかたちで再会するとは思いませんでした」

「それはこっちも同じだ。お前も祭りに来るんだな」

「ええ、息抜きに。それよりも、貴方が何故ここに?」

「見ての通りだ」

「絵の露店ですか。確かに、絵はお得意でしたからね」


 その者が現れて、急に自分の心にもやがかかり始めた気がした。まるで、晴れていた山の頂上に雲が被さったような。

 次第に夢と現実が混同していく感覚を覚えると、私は次のようなことを口にした。


「……私は城に戻れないんだよな」

「そうです」

「元々、両腕があってもか」

「しきたりですので」

「先王は隠居したままなのだろう? 隣国との国交はどうなっているんだ」

「何とかやっておりますので、お気になさらず」

「未だに国王不在では、まともに国交もできないだろう。考え直して、私をもう一度……」


 話をしている途中、近くから赤ん坊の鳴き喚く声が聞こえてきた。私はそれで我に返った。


「今のは気にしないでくれ。今の私に、お前に命令する権限はない」


 そこへ、八百屋の店主が顔馴染みを連れてやって来た。


「おっ。ここか! 兄ちゃんの噂を聞き付けて来てやったぞ!」

「では。私はこれで」


 彼らが来ると、その者は何も買わずに去って行った。

 はつらつとした知り合いと話し始めると、心の靄は消え、私は現実に戻った。


 その後も、道行く人が時々足を止め、私の絵を褒めては買って行った。


「どれもいい絵で迷うな」

「言い値だなんて申し訳ない。僅かばかりの気持ちを乗せておくよ」

「祭りの露店でこんな絵が買えるなんて!」

「こんな素敵な絵に出会えてよかった。ありがとう!」


 順調に絵は売れ続け、私は何度か夢の中に押し戻されかけた。やがて、祭りが終わる前に布の上はまっさらになった。私が描いた二十枚の絵が、全て売れたのだ。両親の露店を手伝っていた少年がやって来ると、その状態を見て驚いた。


「兄ちゃん凄いね! 全部売れたんだ!」

「ああ。私も驚いた」

「でも、どうしたの。全然嬉しそうじゃないよ」

「いや。嬉しいは嬉しいんだ。ただ、こんなにたくさんの笑顔を一気に見たことがなかったから」


 私の心は受け取ったことのない量の喜びでいっぱいで、何とも言えない嬉しさが溢れ返りそうになっていて、逆に感情を押し込めてようとしていた。それは、失った左腕が指先まで甦りそうなほどの感動で、身体中に広がっていた。


(出店を勧められて、自分の描きたいものを描いて、いざ売るとなると心配だったが、こんなに手応えがあるとは思わなかった。こんなに喜びの感情で満たされるなんて思わなかった……もしもこれが、仕事にできるなら……)


 この祭りでの露店をきっかけに、私はこれまで一切見ようとしていなかった自分の未来を思い描くようになった。自分が描いた絵で、もっと多くの人に感動してもらいたいと。




 ✢ ✣ ✢ ✢ ✢




 祭りが催された翌日。城にも青年の評判は広まっており、先王たちの耳にも入っていた。


「聞きましたか。今年の祭りで評判だった露店の話」

「聞いたぞ。素晴らしい絵描きが絵を売っていたそうではないか」

「実際に行ったのだが、その露店を出していたのがあの元王だったぞ」

「元王が!?」

「確かに趣味で絵は描いていたが、まさか民に混じって露店を出すとは信じ難い」

「私も目を疑った。自ら売っている姿は、以前とはまるで別人のようだった」


 城にいた頃の傲慢な人格から変わり果てたという青年の話に、元臣下たちは口々に驚いていた。すると先王が、こんなことを言い出した。


「ならば、彼の評判を異邦に広めようではないか」

「これだけ評判なら、異邦でも通用しそうですが。しかし何故、我々が彼の為にそんなことを」


 先王が言い出したことに、臣下の全員が眉をひそめた。


「先日の会議で出た計画を、実行できるのではないか」

「あの計画をですか」

「元王には、絵の勉強の為に国外に出てもらうのだ。その方法なら、不自然ではないだろ」

「なるほど。強制的に国外に出す方法では、拒絶されかねない。()()()()()()()()()()()()()()()()異邦からも注目させ、国外に出るきっかけを作るのですね」

「彼の絵の腕は誰もが認める。彼の言葉を借りるなら、異邦に出しても恥ずかしくないものだ。プライドの高い彼なら、声をかけられれば必ず首を縦に振る筈だ」

「それなら、評判が広がった頃合いを見て、個展を開かせるのはどうでしょう。その時に、異邦から客をお招きしては?」


 臣下の提案に、先王は一つ頷いた。眉を顰めていた他の臣下たちも、納得して首肯している。


「では、その手筈で進めよう。早速、取りかかろうではないか」

「私たちの未来の為に」

「この世界の全ての普通の人間が、奇跡の人間となる為に」


 この世界には、奇跡の人間が生まれた時に言われる言葉がある。

「全てを持つ者には、慈愛を注げ。そして恵みを分け与えてもらえるよう、疎外してはならない。」




 ✢ ✢ ✢ ✢ ✢




 私が町のみならず国中で評判の絵描きとなってから、数ヶ月が経過した頃だった。私宛てに、城から一通の手紙が届いた。それは、城で個展を開かないかという内容だった。話によれば、私の絵の評判が異邦にも広まっており、一目見たいという声があるそうだ。祭りで手応えはあったが、その後は頼まれて数枚描くことがあるくらいだった私は、本当に個展を開く価値はあるのかと少しだけ疑問だった。

 だから城の者に直接話を聞き、確認した。異邦での評判の信憑性を聞き、不安は杞憂だったようだと私は安堵した。自分の将来への自信も湧いてきた私は、個展を開く為の準備を始めた。

 絵を売って稼いだ金でまた画材を追加で買い、質のいい紙も購入し、露店の時よりも多く描いた。描いた絵は立派な額縁に入れられ、会場となる城の広間に飾られた。額装されただけで、絵が価値を得て輝いているようだった。

 そして、個展開催の当日を迎えた。本当に客が来てくれるかと内心不安だったが、いざ扉が開くと、異邦から訪れた人が次々と現れた。私の絵を見に、たくさん来てくれたのだ。その誰もが私の絵の前で立ち止まると感嘆し、溜め息をついた。眺めたあとには褒め、買わせてほしいと願い出る者もいた。私はここでも言い値で絵を売った。

 その客たちの中でも特に、口の周りに黒髭を生やした一人の紳士が私をほめそやした。


「いや、素晴らしい。全ての絵を見させてもらいましたが、どれも繊細なタッチで趣味で描かれていたとは思えません」

「ありがとうございます。そんなに褒めて頂けるなんて、光栄です」

「ご謙遜を。聞けば、左腕が半分ないと言うではありませんか。そんなお身体でこんな素晴らしい絵を生み出す力をお持ちとは、拍手を送らずにはいられません」

「やめて下さい。私はそんな大した人間ではありません。私よりも、この国の民たちの方が素晴らしい。私なんかより彼らの方がよっぽど素敵で、逞しくて、尊敬に値しますよ。ぜひ町へ行き、彼らと話をしてみて下さい」

「この国の方は皆、貴方と同じような身体だと聞いています。あとで寄らせて頂きましょう」


 異邦人がこのような身体の民と会った時に、どんな反応をするかは少し心配したが、接してみれば彼の価値観も変わるだろうと、自信を持って勧めた。

 すると紳士は、私にある話を持ちかけて来た。


「ところで。もっと絵の勉強をしたいとは思いませんか」

「絵の勉強?」

「もしもその気があるのなら、私の国へ来ませんか。我が国には、他国にその名を轟かすほどの画家が多く住んでいます。私も有名な美術学校の学長を務めておりますので、一度そちらで学んでみませんか。貴方の腕なら、特待生として学費も免除できます」

「私の絵に、将来性があると?」

「ええ。貴方なら将来、世界で有名になれます」


 個展を開くだけでも十分だと思っていたのに、まさかそんな話を持ちかけられるとは思ってもみなかった。ましてや、この身体で異邦に行っても絶対に受け入れられないと思っていた。にわかには信じられなかったが、自分が描いた絵でもっと多くの人に感動してもらいたい、という夢が叶えられるかもしれない。これは、一度私を見放した神の導きだと感じた。


「本当にそうできるなら、ぜひ頼みたい」


 この話を断れば二度と叶わないと思った私は、迷わずその場で返事をした。話はそのままトントン拍子で進み、日は早い方がいいということで、翌日、紳士と共に行くことになった。

 個展が終わってからすぐに帰り、旅立ちの準備をした。荒んでいた私を拾ってくれた一家にも、事情を話した。突然のことで驚いていたが、応援すると言ってまた背中を押してくれた。

 本当にいい家族に巡り会った。敬語も礼儀も欠いた私を、よく受け入れてくれたと思う。だから私は世話になった礼として、一家に個展で展示した絵を一枚贈った。


「世話になった。ありがとう」

「気にすんな。持ちつ持たれつだ」

「もう一人息子ができたみたいで、嬉しかったわ」

「兄ちゃん。たまには手紙くれよな」

「ああ。書くよ」


 一番挨拶をしなければならない両親には、合わせる顔がなくて、結局最後まで会わなかった。その代わりに手紙を書き、世話になった一家に託した。

 手紙にはこう書いた。

『私の両親へ。

 急ですが、私は絵の勉強をする為に異邦へ行きます。私を生み育ててくれたのに、今まで親として見られなくてすみませんでした。もしも絵を仕事にできたら、今までのお詫びと、私を生んでくれたことを感謝させて下さい。

 では、再びお会いできる日までお元気で。』




 ✢ ✢ ✢ ✢ ✢




 個展が開かれた翌日の朝。青年は紳士と共に馬車に乗り、生まれ育った国を出発した。城から町を見下ろしていた先王たちは、走り去って行く馬車を見送っていた。


「希望は旅立ちました。あとは、時が未来への道を作ってくれましょう」

「今生きている私たちの身体はもうどうにもならないが、これから生まれてくる子孫たちが幸福な身体となることを信じましょう」

「彼が、この世界の最後の奇跡の人間であることを祈ろう」


 先王たちは、神に願いが届くようにと、手を組んで祈った。この選択が、人類が素晴らしい未来へ進む分岐となることを信じて。




 青年が旅立ったあとの魚屋では、少年が部屋から彼の置き土産を見つけていた。


「父ちゃん母ちゃん。こんなの見つけた」


 少年は、見つけた冊子を両親に見せた。母親はそれを手に取ると、パラパラとページを捲った。


「あの人の日記みたいね。ここに来てからのことを、書いていたのかしら」

「そんなの捨てちまえ。あの兄ちゃんはもうここには戻って来ねぇんだし、同情は禁物だ」


 父親は、手伝いを頼む時と同じ口調で言った。


「そうね。捨ててしまいなさい」

「わかった」


 母親からもにこやかに破棄を言われた少年は、贈られた絵が突っ込まれたゴミ箱に何の躊躇いもなく捨てた。


「兄ちゃんは、実験台いけにえだもんね」




 その後。

 異邦へ行った青年だったが、消息不明となった。入学した筈の美術学校にも、籍はなかった。それどころか、そのような人物の入国は誰も認めていなかった。彼を連れて行ったあの紳士でさえ。




 これは、どこかの世界の物語。

 あったかもしれない、現実の話。





読んで頂いてありがとうございました。

この作品は、特別支援学校のバスを見かけたのをきっかけに色々と考え、「もしも世界が障害者ばかりの世界だったらどうなっていただろう」というところから生まれました。作中の人々は五体不満足の人間に絞らせて頂きました。

評価などして頂けると嬉しいです。

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