淡路来
永禄二年(1559年) 六月上旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 飛鳥井基綱
「此度は御力添え有難うございました。お蔭で河内守も晴れて楠木の姓を名乗る事が出来るようになりました」
「有難うございました。朝敵の御赦免だけでなく河内守への任官、これ以上の喜びはございませぬ。心から御礼申し上げまする」
男二人が頭を下げている。一人はニコニコ、もう一人は声が震えて泣きそうな表情だ。ニコニコは松永弾正久秀、泣きそうなのは大饗長左衛門正虎。今回楠木氏が朝敵から赦免された事、河内守に任官した事で楠木河内守政虎と名乗る事を許された男だ。
「そのように礼を言われるような事ではおじゃりませぬ。楠木一族は朝廷に敵対致しましたが至誠に溢れ最後まで節義を守り通した者達でおじゃりました。そのような者達を何時までも朝敵にしておく事が正しい事とは思えませぬ。これは麿だけではおじゃりませぬ。関白殿下も同じお考えでおじゃります」
ついでに言うと帝も同意見だった。楠木に対する反発は帝よりも足利の方が強い。何と言っても七度生まれ変わっても足利を討つと誓った一族だからな。そして帝はそんな足利に役に立たないと強い不満を持っている。楠木? あれは足利の敵だろう、許してもいいんじゃない。そんな感じだ。
「ですが帝への奏上は侍従様によるものでございました」
弾正が幾分不満そうに言った。そうだよな、弾正の奥方は武家伝奏の広橋権大納言の妹だ。本当なら誰よりも弾正の為に赦免を願い出なくてはならない。だが権大納言は腰が退けていた。広橋は昵近衆で足利とも親しいからな。動けなかったんだろう。
関白殿下は帝から赦しても良いと聞いていたようだ。だが誰も弾正の為に動かない。それで俺の意見を求めたらしい。俺なら足利に遠慮せずに物を言うだろうと思ったからだ。そして俺に奏上させた。反対する奴は居なかったな。賛成する奴もいなかった。殿下が“もっとも、もっとも”って言っただけだ。そして帝が頷いて終り。だからね、あんまり感謝されても困るんだ。
「主修理大夫も大層喜んでおります。侍従様の御力添えで某も面目が立ちました」
三好修理大夫も喜んでいるか。そうだよな、足利の顔を潰す事が出来たんだから。弾正が“河内守”と声を掛けた。河内守が“はっ”と答えて背後から太刀袋を取り出した。
「心ばかりの物ではございますが御笑納頂きとうございまする。来国安、淡路来にございまする」
「いや、それは」
「侍従様、何卒。楠木の姓を誰憚る事無く名乗れる。某だけでは有りませぬ。楠木の姓を名乗った先祖達もどれ程喜んでいるか」
頭を下げて刀を差し出された。これは断れないな。
「分かりました。有難く頂戴致しまする」
「有難うございまする」
来国安か。淡路来というのは分からんが来派は有名な刀工集団だ。
「見ても宜しいかな?」
「どうぞ」
河内守に断ってから太刀を袋から出した。ふむ、道誉一文字、藤次郎久国に比べれば短いな。二尺と言ったところか。それに結構反りが強い。太刀を抜いた。身幅が広いな、重ねも厚い。その所為かな、短い割に重い様な気がする。
「如何でございましょうか」
気が付けば河内守が心配そうに俺を見ていた。太刀を鞘に納めた。
「良い太刀でおじゃりますな。長さは二尺程、反りも強い。抜き易そうです。それに身幅が広く重ねも厚い。観賞用ではおじゃりませぬな、人を斬るために作られた太刀だと思いました」
河内守が“おお”と声を上げた。
「大事に使わせてもらいまする。きっと麿を守ってくれましょう」
弾正が笑い声を上げた。
「河内守、言ったであろう。侍従様ならこの太刀の良さを分かって下されると」
「はっ、殿の申される通りでございました」
何だろう、主従二人で喜んでいるんだけど。
「いや、河内守は侍従様に太刀を贈って良いものかと悩んでいたのでございます。某が侍従様は兵法も嗜む、心配する事は無いと言いますと今度はこの太刀を気に入って頂けるかと」
「はて?」
良く分からんな。困惑していると弾正が更に笑った。
「来国安は必ずしも名高き刀工ではございませぬ。むしろ同名の弟子の方が千代鶴派の祖として名が高い。そのため気に入って頂けるかと。某は侍従様ならこの太刀の良さをきっとお分かり下さると申したのです」
「なるほど、そういう事でおじゃりましたか」
なんだかなあ、二人で喜んでいる。でも悪い感じはしない。
「麿は公家としては些か変わり者でおじゃります。飾りにしかならぬ太刀など要りませぬ。この来国安、気に入りました。礼を言いますぞ」
「喜んで頂けました事、幸いにございます」
太刀を袋に入れて脇に置いた。敵が多いからな、多分この太刀を使う事になるだろう。
「ところで関白殿下が越後へ下向されるのは何時頃になりましょうか?」
「さあ、はっきりとは分かりませぬが雪が降る前、秋頃になるのではないかと思います」
「殿下は足利をお見限りなのかと思っておりましたが……」
探る様な弾正の視線を感じた。もしかすると此処に来たのはこれが本題かな? それにしても俺と同じような事を言っているな。まあ関白としては朝廷第一、でも近衛家としては足利を捨てきれないというところだろう。妹を義輝に嫁がせているからな。
「殿下の御心に有るのは天下が安定し朝廷が安定する事におじゃります。それ以上では有りませぬ」
「……」
納得してないな。
「足利の天下が限界に来ている事は殿下も認識しておられます。公方は武家の棟梁としては適任とは言えませぬ。しかし足利が滅べば天下が混乱するとも見ておられる。本来なら公方が三好修理大夫殿と協力出来れば天下は安定しましょうがそれは難しい。ならば他に公方を支えられる人物は居ないかとお考えのようです」
弾正が“なるほど”と頷いた。河内守は無言で控えている。
「越後の長尾ならその任が務まるということですな。しかし関東制圧、なりましょうか?」
弾正の此方を見る眼が鋭い。うん、戦国武将らしい眼だ。
「難しいと思います。敵は北条だけではない、甲斐の武田もいる。簡単には行きますまい。おそらくは無駄でおじゃりましょう」
その事は三好修理大夫も理解している。だから殿下の越後下向を止めない。
「冬になる前に出立と聞きましたが御止めしませぬので?」
「止めませぬ。足利の権威は関東でも崩壊しつつある。その事を殿下が自らの眼で確認するのは無駄ではないと思います」
史実では越後から戻った後、近衛家は足利とは距離を置き始める。義輝が永禄の変で三好に殺されても殿下は目立った動きは見せない。その所為で義昭からは三好に通じたと疑われた程だ。そして信長が足利義昭を追放した後、その天下取りに殿下は積極的に協力している。関東に行って足利では駄目だとしっかりと理解したのだろう。だとすれば無駄じゃない。
「なるほど、甘いと言うわけですな。現実を見て来いと。侍従様はなかなか手厳しい」
弾正が大きく頷いた。河内守は首を横に振っている。それを見て弾正が“ははは”と笑い声を上げた。
「驚いたか、河内守。侍従様は斯様な御方じゃ。冷静沈着、世の中をしっかりと見据えておらえる。武将であられれば天晴名将となられた御方よ。いや公家でも名将であられる」
「……」
おいおい、変な事を言うのは止めてくれ。
「朽木長門守殿が高島越中を滅ぼしましたな。民部少輔殿が病、朽木は混乱していると思わせて引き摺り込んで越中を討ち取った。いや、見事。あれは侍従様の策ではございませぬかな?」
弾正が笑みを浮かべながら俺を見ている。
「何故そのような事を?」
「朽木の方々は皆々実直で嘘を吐けぬ方々と見ております。此度の戦振り、些か腑に落ちませぬ」
「それでは朽木の者は知恵が無いと言っているように聞こえます」
弾正が手を振って“いやいや”と否定した。
「しかし某の邪推でしょうか?」
困ったな、なんて答えよう。
「困りましたな。三好家には血の気の多い御方がおられる。妙な噂が流れてはまた麿を殺せと騒ぎましょう」
「御安心を、これは某一人の邪推にございます」
弾正がにんまりと笑った。
「それを聞いて安堵しました。当分は弾正殿一人の邪推でお願いします。いずれ本当の事を口に出来る日も来ましょう」
弾正がウンウンと頷きながら“いや、御尤も。良く分かりました”と言った。河内守が眼を丸くしているがまあ大丈夫だろう。弾正が口止めする筈だ。
「そうそう、忘れておりました。筑前守様が侍従様にお会いしたいと申しております」
「ほう、筑前守殿が」
弾正が頷いた。筑前守というのは三好義長、長慶の嫡男で跡取りだ。確か未だ二十歳にはなっていない筈だ。
「如何でございましょうか?」
「願っても無い事、楽しみでおじゃります」
「有難うございまする、そのように伝えまする」
その後、新しく立てている邸の事等を少し話して弾正達は帰っていった。弾正が帰ると直ぐに春齢がやって来た。俺の隣に座る。前じゃなく隣に座りたがるんだな。そして肩を寄せてくる。
「あら、刀じゃない。弾正から貰ったの?」
「河内守からです。赦免の一件の謝礼でおじゃります」
春齢が“ふーん”と言った。そして妙な眼で俺を見た。
「本当は弾正、ううん、三好なんじゃない。兄様と繋がりを持ちたいと思ってる」
「……」
「母様から聞いたけど関白が帝に言ったのでしょう? 自分が居ない間は兄様を傍に置いて万事につけて相談するようにって」
最近春齢は養母に色々と聞いているらしい。俺と足利の因縁とか朽木を取り巻く環境とかだ。俺の傍に居るなら無知は許されないと考えたようだ。或いは養母が鍛えようとしているのか。
春齢の言った事は事実だ。殿下は俺を自分の代理にしたいらしい。変な奴に朝廷を牛耳られては困るという事だ。帝もそれを望んでいる。理由は関白が居なくなればまた足利と三好が勢力争いをするんじゃないか、それによって公家達が右往左往するんじゃないかと不安なのだ。俺が傍に居ればそういう連中に睨みが効くだろうと考えているらしい。何と言っても悪侍従だからな。……俺は番犬かよ。
「かもしれませぬが狙いは他にもあったようです」
「なあに?」
「先日の朽木と高島の戦い。麿が策を立てたのではと疑っておりました。いや確信していました」
春齢の顔が強張った。
「大丈夫なの?」
「ま、大丈夫でしょう」
三好修理大夫は関白殿下の越後下向を上手く行かないと見ている。だが俺が如何思うかを重視した。自分に見えないものを俺が見ているんじゃないかと考えたわけだ。そこで修理大夫は弾正を使って探らせたのだろう。弾正は俺も上手く行かないと見ていると知って安心した。おまけに手伝おうとしない。更に安心だ。
問題は朽木の件だ。かなり詳細に調べている。俺が関わると見たのだろう。もしかすると重蔵達の存在に気付いたかもしれない。朽木への文は桔梗屋を使うのは控えよう。俺が直接御爺、長門の叔父に出した方が良い。ふむ、弾正が朽木の件に触れたのは俺に対する好意かな? こっちは此処まで知っています。あまり派手に動いては駄目ですよ。三好孫四郎が騒ぎますよ。そんなところかもしれん。
その事を伝えると春齢が“ふーん”と言った。
「兄様、怖がられてるの?」
「……」
「調べるって事は怖いからでしょ?」
「かもしれませぬ」
不愉快な話だよな。俺は領地も無ければ兵も無いんだ。そんな怖がらなくても良いんだけど。
「私は怖くないわよ。兄様が怖い事を言うのはそれが必要だからだって分かったから」
「……」
「困ってるでしょ。兄様って困ると無言になるのよね。可愛い」
「可愛いのは春齢だ」
耳元で囁いてやると春齢は真っ赤になって“兄様の馬鹿”と言って出て行った。フン、参ったか。だてに五十年以上生きてきたわけではないのだよ、春齢君。
まあ確かに怖がられている部分は有るかもしれない。筑前守義長の件も次期当主の義長と俺を結び付けようと考えた可能性は有るな。そうする事で俺を親三好派にしようとしているのか。ふむ、もしかすると修理大夫の考えかな。
長門の叔父は高島一族を根絶やしにした。そして清水山城に移り平井、永田、横山、田中、山崎との関係を深めようとしている。上手く行きつつあるらしい、今のところ六角が動く気配は無い。今回の一件はあくまで朽木と高島の問題で朽木は宮内少輔の仇を討ったという形で収まりつつある。
なんとか年内を上手くやり過ごして欲しい。年が明ければ野良田の戦いが起きる。浅井が六角に反旗を翻すのだ。六角も朽木に関わっているような余裕は無くなる筈だ。そして観音寺騒動が起きる。その後は六角は下り坂だ、恐れる必要は無い。だが浅井が高島郡に手を伸ばしてくる。その前に高島郡を押さえるべきだが……。なかなか厳しいな。銭で兵を雇えと言ったが何処まで領内を豊かに出来るか……。
義輝と幕府は朽木が大きくなった事で大いに喜んだらしい。だが叔父が居城を清水山城に移した事には不満タラタラだそうだ。如何見ても朽木は京では無く近江を重視していると見えるからだろう。その通りだ、三好を刺激せず身を守るにはそれしかない。実際に弾正から警告を受けた。幕府も義輝もその辺りが分かっていない。その分だけ朽木は危険だ。
信長はとうとう岩倉を滅ぼした。祝いの文を送ったが信長からは今川が明年兵を起こすのは確実らしい、岩倉を片付ける事が出来たのは幸先が良いと返事が有った。岩倉を包囲しつつも今川の動きを探っていたのだろう。今川は一年遅かったな。三河の混乱を治めるのに手間取り過ぎた。足元を固めるのを優先したのだろうが先に尾張を攻めて信長にダメージを与えた方が良かった。まあそれも結果が分かっているから言えることだ。いや、この世界ではどうなるかな? 桶狭間が起きるのか、信長が勝てるのか……。
これから暫くは畿内も東海道も眼を離せない時代が来る。さて、俺は剣の練習でもするか。この国安の太刀を使って抜打ちの練習だ。




