第9話:恋に堕ちれば聖女の力が封じられる
夜の庭園は静かだった。
紫の月明かりが白い花々を照らし、涼やかな風がそっとセレナの頬を撫でる。
彼女はベンチに座り、静かに手を見つめて、小さくため息をついた。
聖女の力が、以前よりも更に弱まっているのを感じる。
魔族に触れれば彼らを傷つけてしまう力。それが、まるで 少しずつ消えていくような感覚。
(ルシリオンに惹かれてしまったせいで、聖女の力が失われつつある――?)
セレナは拳を握りしめた。
「そんなはずない……」
声に出してみるが、その言葉は自分でも驚くほど弱々しかった。
このままではいけないと分かっているのに、心を閉ざすことができない自分が情けなかった。
「……はぁ」
深いため息が、夜空に溶ける。
その瞬間――ふと、隣に気配が生まれた。
驚いて顔を上げると、ルシリオンがいつの間にか隣に座っていた。
黒髪が夜に溶け込み、鋭い紅の瞳がこちらをじっと見つめている。
彼はセレナの顔を覗き込み、何気ない調子で言った。
「最近、様子が変だな」
セレナの肩がびくりと跳ねる。
「べ、別に……何も変わらないわ」
「嘘だな」
彼はわずかに目を細め、まるで心を見透かすように微笑んだ。
「何か、悩んでいるのか?」
「……」
本当は、ルシリオンの前では平静を装いたかった。けれど、彼にじっと見つめられると、どうしても心が揺らいでしまう。
「聖女の力が、だいぶ弱まっているようだな」
「……っ!」
セレナは反射的に視線をそらした。
――気づかれていた。
それも当然だろう。自分でも感じるほどに、聖女の力は弱まっているのだから。
でも、それを彼に指摘されるのは、なぜか耐えがたかった。
「何の話か、わからないわ」
できるだけ平静を装い、そっけなく返す。
けれどルシリオンは、まるでそれすら見透かすように、静かに言った。
「俺の目は誤魔化せない」
「……っ」
「お前自身、気づいているはずだ。それにーー」
ルシリオンの声が、夜の静寂に溶けた。
次の瞬間、強い腕がセレナを引き寄せる。
「っ……!」
驚く間もなく、セレナの胸が彼の体に密着した。そして、そっと顎を持ち上げられる。
逃げる隙すらないまま、視界いっぱいにルシリオンの顔が迫った。
息がかかるほどの距離。
あと少し動けば、触れてしまうーー。
心臓が跳ね上がる。
「ここまで近づけるようになった」
低く囁かれた声が、唇のすぐ近くで響く。
熱を帯びた紅の瞳が、セレナを捕らえて離さない。
「お前の力が弱まっている証拠だ」
その言葉に、セレナは息を呑んだ。
否定しなければならないのに、なかなか言葉が出てこない。
「……私は、あなたを愛したりなんかしない」
震える声で、セレナは呟いた。
「そうか?」
ルシリオンは彼女の言葉を軽く受け流し、口元に微笑を浮かべる。
「だが、現にお前の力は弱まっている」
「……っ」
「それが何を意味するか、お前が一番わかっているはずだ」
言い返せなかった。
(私は……本当に、彼をーー?)
セレナはその場を逃げるように立ち去った。
自室に戻り、ベッドに飛び込む。心臓がうるさい。
何度も否定したはずなのに、ルシリオンの言葉が頭の中で繰り返される。
『現にお前の力は弱まっている』
『それが何を意味するか、お前が一番わかっているはずだ』
まるで、すべてを見透かされているような言葉。
そして、今にも触れそうな程、近づいた距離ーー。
(彼の優しさに、本当に心を許してしまったの?彼は私の力を封じるために、甘く接しているだけなのに。それでも、私は……)
「……違う、違う……!」
必死に否定しようとするのに、心は揺れていた。
◆
次の日も、その次の日も。
ルシリオンは変わらず、セレナに甘く接した。
「お前のために用意した服だ。着てみろ」
「必要ないわ」
「そう言うな。お前にはこういう色が似合うと思ってな」
「……どうしてそんなこと、言うの?」
「お前に似合うものを選ぶのは当然だろう?」
相変わらず、彼はセレナの心をかき乱すようなことばかり言う。
こんな言葉に惑わされてはいけない。
そう思うのに……彼の孤独に触れてから、セレナの心はどうしようもなく揺れるようになってしまった。
(たとえ彼の孤独が本当だとしても、彼の優しさは全部嘘のはずなのに。それなのに、どうしてこんなに――嬉しいと思ってしまうの?)
夜、ベッドに横になりながら天井を見つめる。
王国での生活を思い出す。聖女としての責務。王国の人々を守るための力を得るため、日々努力してきた。それがすべてだった。
(……なのに、今の私は何を考えている?)
王国の敵であるはずの魔王を想い、心を乱している。そんな自分が、信じられなかった。
「……私は、彼に惹かれているの?」
認めたくない。
認めてはいけない。
けれど、聖女の力が弱まっているという事実が、否応なくセレナに気持ちを自覚させる。
「……どうすればいいの?」
答えは出ないまま、静かな夜が更けていった。




