第5話:魔王の真意と揺れる心
夜の魔王城は静寂に包まれていた。
闇に染まる石造りの廊下を歩きながら、セレナは深いため息をついた。色々考えていて寝付けず、城内を散歩することにしたのだ。
(……なぜ、ルシリオンは私をこんなに甘やかすのかしら?)
魔界に連れてこられてから1ヶ月が経っていた。
初めは牢にでも閉じ込められるかと思っていたが、実際には王族のような豪奢な部屋を与えられ、何不自由ない生活を送れている。
それだけならまだしも、ルシリオンはセレナに対して、まるで本当に自分の妃であるかのように接してくるのだ。
「お前の好きな食事を用意させた」
「このドレスが似合うと思ったが……気に入らなければ別のものを選べ」
「夜は冷える。無理をするな」
時折、彼は「愛している」とさえ囁く。
しかしーー
(それなのに、彼は決して私にそれ以上のことをしてこない……)
手を取ることはある。髪や頬を撫でることもある。
けれど、それ以上の深い接触は一切ない。それがどうにも引っかかる。
(もしかして……何か理由がある?)
疑念を抱きながら、セレナは己の掌を見つめた。
魔界での生活が始まってから、セレナはある異変に気づいていた。
(やっぱり、おかしい……)
聖女の力が、少しずつ弱まっているような気がするのだ。
魔界に来たから、力が弱まっている?元々あの時たまたま発現しただけの力だった?それともーー
(ルシリオンが何か……?)
考えながら、いつの間にかだいぶ寝室から離れてしまっていた。この辺りは昼間も来たことがないエリアだ。そろそろ歩き疲れてきたし、戻ろうか。
そう考えた時ーーセレナの耳に、ルシリオンと彼の右腕である宰相が話している声が飛び込んできた。
「王よ……本気であの女に情を抱いたのではあるまいな?」
(ルシリオン……?)
セレナは咄嗟に柱の影に身を隠した。
「俺が聖女を手元に置いている理由は、お前も知っての通りだ」
「……だが、少しでも情が湧けば、王自身が危うい。分かっておられるな?」
「くだらんことを言うな」
少しの間の後、宰相の声色が変わる。静かに諭すような声は、部下というよりも友人のそれのようだ。
「王よ、私は貴方を心配しているーー貴方に人間の血が混じっているとしても、聖女の力に触れるのは危険だ」
セレナは息を呑んだ。
(……どういうこと?ルシリオンに、人間の血が……?)
セレナの疑問に答えるように、ルシリオンの声が響く。
「確かに、俺には人間の血が混じっている」
ルシリオンの言葉に、セレナの背筋が凍る。
「母方の祖母が人間だった。それ故、俺は少しだけなら聖女に触れることができる」
(……!)
ルシリオンだけが自分に触れられる理由が分かった。
彼が完全な魔族ではなかったからーー。
「その特性で、王が聖女と心を通じさせることに成功しているということは、私も理解している」
宰相が深いため息をつく。
「魔界に古くからある言い伝えーー聖女が魔王を愛せば、聖女の力は封じられるという伝説が、まさか当代で現実のものになるとは」
セレナの鼓動が跳ねた。
(……何ですって?)
「ああ、そのために、俺は聖女を妃として扱っている」
ルシリオンの声は冷静だった。
「彼女を愛し、愛されることで、彼女の力は完全に封じられる」
(つまり、ルシリオンの優しさは……全部、私の力を封印するため……?)
思わず手が震えた。
「……王よ、改めて聞く。まさか、本気で彼女を愛しているわけではあるまいな?」
宰相の問いに、ルシリオンはしばらく沈黙した。
そして、低く答えた。
「 ……そんなことは、どうでもいい」
◆
翌朝、セレナは静かに目を覚ました。
天蓋付きの豪奢な寝台の上。柔らかな絹のシーツに包まれながらも、心は冷たく沈んでいた。
(……全部、策略だった)
昨日の夜、偶然聞いてしまった ルシリオンと宰相の会話。
『聖女が魔王を愛せば、聖女の力は封じられる』
彼が自分を甘やかしていたのは、そのためだったのだ。
愛することで、力を奪うために。
(……それなら、私を甘やかすのも、優しくするのも、全部計算ずくだったって……ことよね)
喉の奥が苦くなる。
けれど、今は何も言うまい。問い詰めても、彼は決して本当のことを言わないだろう。
だからセレナはできるだけ普段通りに振る舞うことを決めた。
「おはよう」
朝の支度を終えたセレナが部屋を出ると、すぐにルシリオンが現れた。
長身の彼はいつもと変わらず、まるで本当に愛する女性を迎えるような優しい微笑みを浮かべている。
「今日は庭を見に行かないか? お前が咲くのを楽しみにしていたという花が、今朝ほど咲いたと聞いた」
(……いつもと同じ)
昨夜の冷たい声が嘘のように、彼は相変わらず甘い。まるで昨夜の会話などなかったかのように。
「……ええ、いいわ」
表情を取り繕い、セレナは静かに頷いた。
魔王城の庭は、魔界とは思えないほど美しかった。
闇に染まる世界の中でも、庭園の一角には鮮やかな花々が咲き誇っている。
「気に入ったか?」
「……ええ、とても」
ルシリオンは嬉しそうに目を細めた。
「良かった。お前がこの城で退屈しないように、もっと色々なものを揃えるつもりだ」
「……そんなことしなくても、私は十分よ」
「いや、お前には何でも与えたい」
彼の言葉に、胸が苦しくなる。
(……どうしてそんな顔をするの?)
昨夜の言葉を思い出す。
『彼女を愛し、愛されることで彼女の力は完全に封じられる』
(……つまり、これは全部、私に魔王を愛させるための演技)
そう分かっているのにーー優しくされるたびに、心が痛む。
(私……もしかして、少しだけルシリオンに心を許していた……?)
その事実に気づいて、セレナは唇を噛んだ。
(でも、私は騙されない)
魔王の優しさに惑わされるわけにはいかない。
けれど、セレナを見つめるルシリオンの眼差しは、まるで本当にセレナを愛しているかのようでーー
(……違うのに)
胸が痛い。
それが、悔しかった。




