第4話:束の間の安らぎ
暗黒の雲が広がる魔界の空。
セレナは城の窓から王国とは違う空を眺めながら、ここ数日の出来事を振り返っていた。
「まさか……魔族が、こんな風に暮らしているなんて……」
彼女は最初、魔界に連れてこられたとき、恐怖と闇に満ちた場所だと思っていた。魔族たちは残虐で、人間を害することしか考えていないと思い込んでいた。
しかしーー
「おはようございます、セレナ様」
使用人の魔族たちは、毎朝人間と変わらぬ礼儀正しさで挨拶をする。
「今日は食後のデザートにフレッシュな魔界の果実をご用意しました。甘酸っぱくて美味しいですよ」
「お風呂のお湯加減はいかがでしたか? もう少し熱くすることもできますが」
彼らは驚くほど普通に生活していた。
(魔族って、こんなに……人間と変わらないの?)
セレナは違和感を覚えつつも、彼らの姿を観察していくうちに、次第に偏見が崩れていくのを感じていた。
◆
ある日、セレナは城の中庭を歩いていた。
黒く輝く不思議な花々が咲き誇る中、訓練場の方から荒々しい声が聞こえてきた。
「もっとしっかり剣を振れ! そんなことで人間どもと戦えると思うな!」
「くそっ……! でも、俺たちはもう戦わなくても……」
「馬鹿者! またいつ人間どもが攻めてくるかわからないんだぞ!」
セレナはふと足を止めた。
(人間が、攻めてくる……?)
「どうした、そんなところで立ち尽くして」
低く、落ち着いた声がした。振り向くと、ルシリオンが微笑んでいた。
「魔族たちが、戦いの訓練をしているのが気になるのか?」
「……ええ」
セレナは素直に頷いた。
「あなたたちは、いつも戦争ばかりしているのかと思っていたけど……違うの?」
ルシリオンは小さく笑った。
「お前たち人間だって、常に剣を振っているわけではないだろう」
「……それは、まあ……」
「魔族とて同じだ。我らはただ、生きるために戦っているだけのこと」
彼の言葉に、セレナは思わず息をのんだ。
「人間たちの中にも、戦を好む者がいれば、平穏を望む者もいる。それと変わらんさ」
「……そんなの、あなたの詭弁かもしれない」
「はは、そう思うのも自由だ」
ルシリオンはそう言うと、彼女の肩にそっと手を置いた。
「だが、お前にも知ってほしい。この世界のことを」
彼の手のぬくもりに、セレナは胸の奥がざわめくのを感じた。
◆
ルシリオンの言葉を受け、セレナは意識的に 魔族たちの暮らしを観察するようになった。
ーー魔族の親子が、城下町の市場で笑い合いながら買い物をしている姿。
ーー庭師の魔族が、黒薔薇の手入れをしながら「今年も見事に咲いた」と嬉しそうに語る様子。
ーー兵士の魔族たちが、戦いに備えつつも、仲間との絆を大切にしている姿。
そこには人間と変わらない生活があった。
セレナはルシリオンのいる玉座の間に移動する。
広い玉座の間で、ルシリオンは数名の部下の報告を聞いていた。
「この件はヴァルトに任せろ。奴なら迅速に処理できる」
低く響く声に、部下たちは恭しく頷く。次々と報告が上がり、ルシリオンは無駄なく判断を下していった。
「報告は以上か? ……よくやった。無理はするな」
一瞬の沈黙の後、部下が深く頭を下げる。その表情には、主への信頼が滲んでいた。
セレナはそんな光景を見つめながら、ルシリオンが意外にも部下を大切にしていることに驚きを覚えた。
普段、セレナの前では毅然とした態度で部下に接していたルシリオンが、報告を終えた部下達と少し砕けた様子で談笑していた。
セレナに見られているとは思わなかったのだろう。ルシリオンは 少しバツの悪そうな表情をした。
(なんだか、思っていたよりも……ずっと真面目で、民のことを考えている人……)
少しずつ、彼に対する印象が変わっていくのを感じた。
◆
暗闇の中、息が詰まるような感覚に襲われた。胸が苦しい。体が冷たい。
ーーああ、まただ。
セレナは荒い呼吸を繰り返しながら、冷や汗の滲む額を押さえた。
目を閉じると浮かんでくるのは、王宮の広間の景色。聖女になれない自分を拒絶する視線、囁き声、そしてーー
「……っ」
息を整えようとするが、震えが止まらない。自分の居場所を失った不安と恐怖が、胸を締めつける。
今は魔王城の一室にいるのに、それすら現実かどうか分からなくなりそうだった。
そのときーーふいに、温かいものが手を包んだ。
驚いて顔を上げると、そこにはルシリオンがいた。普段は堂々とした態度の彼が、今は静かにこちらを見下ろしている。
魔王らしい冷徹な雰囲気はどこにもなく、ただ、じっとセレナを見つめていた。
ーーいつから、ここに?
声を出そうとしたが、喉が強張って言葉にならない。
ルシリオンは握った手をそっと温めるように包み込んだ。彼の手は驚くほど大きく、そして温かかった。
「うなされている声が聞こえた。」
その目には、セレナを心配する気持ちで溢れていた。深夜に女性の寝室に、とも思うが、今更だ。何よりもこの瞬間、一人でないことにーー誰かの温もりがあることにホッとした。
魔族は、セレナには触れられない。聖女の力に触れると、消滅してしまうから。ここではルシリオンだけが、セレナに触れられる。
悪夢にうなされていたはずなのに、いつの間にか心が落ち着いていた。ルシリオンの手から伝わる、体の奥に染み込むような、穏やかで優しい温もりーー
「……何も言わなくていい。お前が落ち着くまで、そばにいる」
低く落ち着いた声が、静かに夜の闇に溶けていく。
「……私のそばにいても、あなたには何の得もないわよ」
ルシリオンの気遣いが嬉しかったのに、セレナの口からは、つい可愛くない言葉が出る。
しかしーー
「ただ、お前がここにいる。俺はそれだけでいい」
ルシリオンの言葉に、セレナは息を呑んだ。
(私が、ここにいるだけで、それだけでいい……?)
その言葉が、どうしようもなく心に響いた。
聖女として認められず、エドワルドの婚約者からも降ろされ、何者でもなくなった自分を、それでもルシリオンは「ここにいていい」と言ってくれた。
不安と孤独に押し潰されそうだった心が、少しずつ解れていくのを感じた。
「……ありがとう」
かすれた声でそう呟くと、ルシリオンは小さく頷いた。
そのまま、しばらくの間、二人は言葉もなく手を繋いでいた。
セレナはそっと目を閉じた。
(ルシリオンは、何故か私に触れられる……本当に、私を愛しいと思ってくれているからなのかもしれない……)
まだ胸の奥に残る不安は完全には消えない。けれど、ルシリオンの温もりがそれを和らげてくれる。
彼の手が、ここにいていいと、確かに教えてくれる。
そう思うと、自然と力が抜けていった。
それからだったーールシリオンの手の温もりを、ふとしたときに思い出すようになったのは。
朝、目が覚めたとき。
食事のとき、スプーンを握る自分の手を見たとき。
城の廊下を歩いているとき、無意識に指を擦り合わせてしまう。
そして、また夜になると、不安に駆られたときに、思わず手を伸ばしてしまうのだ。
(……ルシリオン)
心の中で彼の名を呼ぶたびに、胸の奥がじんわりと熱くなる。それが何なのか、まだセレナは分からなかった。
ただひとつ、はっきりしていることがある。
ーールシリオンがそばにいると、安心する。
それだけは、確かな気がした。




