第3話:甘い囁き
目を覚ますと、豪奢な寝室だった。天蓋付きの大きなベッド、深紅の絨毯、黒曜石のように光る床。壁には精緻な刺繍が施されたカーテンが揺れ、窓の外には赤黒い空が広がっている。
「……夢、じゃないのね」
昨夜の出来事を思い出し、セレナは唇を噛んだ。王国ではなく、魔界。しかも、自分は魔王ルシリオンに囚われたまま……。
「お目覚めか」
突然、低く響く声がした。振り向くと、部屋の奥の椅子に座るルシリオンがこちらを見つめていた。
「っ……! いつからそこに……?」
「お前が寝息を立てていた時からずっとだ」
セレナは息を呑んだ。彼はずっとここにいたというのか。
「なぜ……?」
「俺の聖女が安らかに眠る姿を見守るのは当然だろう?」
ルシリオンは穏やかに微笑み、椅子から立ち上がると、ゆっくりとセレナに近づく。
「ふざけないで……」
セレナはベッドの上で後ずさった。けれど、彼はまるでそんな反応を楽しむかのようにゆったりとした仕草でベッドの縁に腰掛けた。
「怖がることはない。魔族が聖女の力を持つお前を害すことはできない」
「あなたが魔族だから怖がっているわけじゃないわ」
「なら、何が怖い?」
ルシリオンは手を伸ばし、セレナの手に己のそれを重ねた。
「……っ」
冷たくもない、熱くもない。けれど、どこかゾクッとするような感触に、セレナは思わず肩をすくめた。
「お前はまだ知らないのだろう? 本当の愛というものを」
「……」
セレナは言葉を失った。
「俺はお前を大切にする」
「信じられない……」
「ならば、証明しよう」
ルシリオンは微笑みながら、セレナの手を取り、その甲に優しく唇を落とした。
「……っ!」
そんなこと、エドワルドにすら一度もされたことがないのに。
「お前を甘やかすのが俺の役目だからな」
「……?」
その言葉の意味がわからず、セレナは戸惑う。
――こうして、セレナの魔界での生活が始まった。
◆
魔王城での暮らしは、思っていたよりも穏やかだった。
食事は人間であるセレナにも食べられる食材が使用されており、しかも王宮に負けず劣らずの豪華さだ。使用人たちは驚くほど礼儀正しい。セレナに触れることはできないが、その恐れを態度には出さず、セレナが何かを求めればすぐに用意された。
そして何より――ルシリオンは執拗なほどにセレナを甘やかした。
「疲れたなら歩く必要はない。抱いてやろう」
「いいえ、歩けます!」
「なら、俺が手を引こう」
「……」
「お前に触れられることは、俺にとって喜びだからな」
「……っ!」
「そんなに赤くなるとは、俺の聖女は可愛いな」
毎日毎日、こんな調子だった。
最初はただのからかいだと思っていた。けれど、ルシリオンの言葉はいつも真剣だった。
セレナが食事を残せば「口に合わなかったか?」と心配し、寒そうにしていれば黙って上着をかけてくれる。彼女が小さな段差に躓こうものなら、すぐさま駆けつけて必要以上に守ろうとした。
「なぜ……?」
セレナはある日、とうとう問いかけた。
「どうして、そこまで私を大切にするの?」
ルシリオンは微笑んだ。
「愛しているから、だ」
「……っ!」
その言葉が嘘なのか本当なのか、セレナにはわからない。
ただ――彼の甘い囁きが、少しずつ心を揺さぶるのを感じていた。




