風琴亭 2
「なに?」
翌日、城から帰宅したサーヴェルは、リオネが屋敷を出て言った事を、召使頭から告げられた。
「……馬鹿な。まだ次の奉公先も紹介状も渡していない。何かの間違いではないのか」
何も持たぬ女が一人でまともな仕事を見つける等、容易にできる事ではない。
ましてや立派な屋敷に努めてた者であれば、よほど失態をしでかさぬ限り、しっかりした紹介状を貰って次の職を探すのが普通なのだ。
しかも、サーヴェルは次の奉公先を探してやるつもりでいた。リオネにもそう伝えた筈だ。
そんなに急いで出てゆけとは一言も言っていない。
「いいえ。今朝旦那様が登城されて直ぐに挨拶に参り、お仕着せを返すと手荷物一つで出て行きました。部屋もきれいに片づいております」
「……」
サーヴェルは、無言でリオネに使わせていた部屋に向かった。
普段、主が召使の部屋に出向く事など、まずない。用があれば呼びつけるだけだからだ。
実際、サーヴェルはリオネの部屋の正確な場所さえ知らない。召使頭が慌てて先導を務める。
召使の住居である別棟は母屋から渡り廊下で繋がっている。
普段ここで見かけない主が歩いてくるのを見て、何人もの使用人がぎょっとし、慌てて頭を下げていった。
その部屋は、北向きの小さな部屋だった。
階段の下で斜めになった天井。正面に小さな窓、その脇に置かれた粗末な寝台。
備え付けの箪笥と、小卓と椅子。部屋にあるものはそれだけだった。
いや、後一つ、卓の上に昨日サーヴェルが手渡した緞子の袋がきちんと置かれてある。
「……」
無言でサーヴェルはそれを手に取った。
与えた金貨は百枚。女が一人で生きていくには十分な金額だが、その重みは彼が手渡した時と変わらないように感じる。
「数えろ」
振り返りもせず命じ、彼は陽の射さぬ部屋を見渡した。
灰色の土壁。でこぼこの床。自分の屋敷にこんな場所がある事すら知らなかった。
きちんと整えられた小さな寝台は、春先だと言うのに薄い掛け布団と毛布だけ。
そこに住んでいた女を思い起こさせるものは何もなく。
ふと壁にはめ込まれた鏡が目に入る。隅にひびが一本走っていた。
彼の視線よりかなり低い位置に取り付けられたそれを、朝な夕なに覗きこんで彼女は身だしなみを整えただろう。
いつもきちんと髪を結い上げ、糊のきいたエプロンを身に付けていたから。
そこに微かな指の痕を見つける。薬指と中指と人差し指。
出ていく前に髪を整えた時についたのだろうか?
自分の手を重ねてみると随分指の間が狭い。そう言えば小さくて華奢な手だった。
彼女が残したものはそれだけだった。
「九十七枚でございます。旦那様」
背後で召使頭が言った。
つまりリオネは、与えられた金貨の内、三枚だけ受け取ったのだ。それは彼女がこの家で過ごした年数と同じ数だった。
「そうか。どこへゆくと言っていた?」
「いいえ、存じません。聞いても答えませんでした。ただお世話になりました、とそれだけで」
「……」
「旦那様?」
「いい。戻る」
すっかり興味が失せたかのように、サーヴェルは踵を返した。
こんなところはもう見たくもない。
下級召使が使う部屋は母屋の華やかさに比べると、まるで墓地のように湿っぽくて陰気だった。
自分が呼びつけた時には、真冬でもショール一枚巻き付けただけで、リオネはこの廊下を忍んできたのだろう。
どんな思いを抱えて辿っていたのか──。
彼は召使いが追いつけないほどの勢いで部屋に戻った。
何ほどの事があろう。
三十に手が届くこの年まで、ザ―ヴェルは自由に人生を謳歌して来た筈だ。名家に生まれ、才能容姿に恵まれ、将来を嘱望されている。
秋波を贈る女達と浮名を流しては、如才なく別れ。
そして、屋敷にいる折にだけ閨の相手を命ずるのが三年前に拾った女、リオネだったのだ。
真冬の路上で手風琴を弾いていた少女。
彼女の唯一の生きてゆく術だった手風琴を、転んだ拍子に車道に転がしてしまい、通りがかったサーヴェルの乗った馬車の車輪がそれをはねた。
壊れた手風琴を抱きしめてさめざめと泣く少女を、さすがに哀れに思い、サーヴェルは屋敷に連れ帰った。
それが出会いだった。
か細い少女は二年の内に、しっとりした娘になった。
常に拾われた恩を忘れず、年上の使用人達に混じって、厨房の下働きから廊下の掃除まで、云いつけられるままに働いていた。
いつも控えめで覚えもよかったため、下働きから徐々に上階での仕事をする事を許された。
これは主人と接する機会も増える大切な役割である。
生真面目に仕事をこなす華奢な後姿に興が乗り、驚くリオネを手折ったのはほんの気まぐれだったが、思わぬ肌の滑らかさと、ぴたりと合う体の相性の良さは、社交界での恋の駆け引きに倦んだ男に新鮮な悦びを齎した。
ついつい手放し難くて、怯える少女を何度も組み敷いた。
彼女にしてみれば主の命は絶対で、拒めば屋敷を追い出されるという恐怖から言うなりになっていた様だが、少しずつ女の悦びに目覚めていく様は、見ていてなかなか楽しいものだった。
だが。
ただそれだけの関係だった。
他の召し使い達と待遇を別にする訳でもなければ、物を買い与えた事もない。
リオネも常に忙しい様で、こちらから声をかけないと、姿を見る事もない日もあるほど、二人の絆は細い筈だった。
「まぁ、潮時だろうよ」
どさりと腰を下ろしたサーヴェルは、苦い笑いを浮かべた。
机の上にはリオネが残した金貨の袋が置かれている。彼が渡した時より少しだけ数を減らせて。
そう言えば、彼女にものを与えたのはこれが初めてだった。あの三枚の金貨でリオネは何をすると言うのだろうか?
今更そんな事を気にしてどうする。
俺には最早関わり合いの無いことだ。
行き先も告げず黙って出て言ったと言う事は、おそらくもう二度と会わないと言う無言の言づてなのだろう。
彼が紹介する奉公先に勤めたならば、万が一にも顔を合わせないとは限らない。それを厭うての事だったのかもしれない。
「馬鹿げている」
大人しくて従順な召使が一人辞めていっただけの事だ。
これからの事を思えば、寧ろ都合がいいはずだ。
なのになぜ、自分はこんなにも動揺している。
もうあの可憐な後姿も、思いがけず豊かな曲線も、もう目にする事はない。滅多にきけぬ優しい笑い声も。
永久に──。
知らぬうちに拳を握りしめている自分に気がついたサーヴェルは、自分がまだ礼服だった事に気づき、着替えをする為ために呼び鈴を鳴らした。
直ぐに家礼が入ってくる。後ろで着替えを持つ女は無論リオネではなかった。
「着替えを。そして少し休む」
熱い体の内で、指先だけが異様に冷たかった。
彼女は行ってしまったのだ。
ののしってもいいと思います。




