絶望デブは自棄になる
ぼんやりと夕焼けを眺めているうちに、いつの間にか空は暗くなってきていた。
さっきまで浮かんでいたはずの夕陽がもうほとんど見えなくなっている。
特に何かきっかけがあったでもなく、僕は立ち上がりその場を後にした。
去年の一連の出来事があってから、僕は一人暮らしを始めた。
いや、家を追い出されたという方が正しいかもしれない。
義姉妹からも見放された僕は義母に愛想を尽かされ、一人暮らしを強制された。
家賃だけは出してやるから、もう家族に関わってくれるなという事を言われた。
家は大学から徒歩15分ほどの場所にある。
義母が最低限の家賃を提示した為に借りているのは1Rの狭い部屋だが、一人での生活は嫌いじゃなかった。
帰宅途中に踏切に引っかかり、目の前を過ぎていく電車をぼーっと眺める。
いっそのこと死んでしまおうか。
そうすればこの苦痛から解放されるのだろうか。
そんなことを考えていると、栄井店長の言葉が脳内で再生された。
『はやまるなよ。』
彼女はそう言った。
あの人の言葉だけは、無視できない。
それなのに、楽になる道ばかりが頭を過り、踏切が開いたというのに僕の足は動かなかった。
どれくらいそこに佇んでいたのだろうか。
何度か踏切は開いたり閉まったりを繰り返し、道行く人々が不審な目で僕を見ていた。
どう考えたって今の僕は不審者だ。
犯罪者のレッテルを貼られた僕にぴったりじゃないか。
自嘲的な事ばかりが頭を巡り、不意に泣きたくなった。
情けない。
ただただ自分が情けない。
人を信じ、裏切られ、それでもまだ信じようとする。
強さを得られず、弱さを捨てられず、どうしようもない自分に嫌気がさしているのに、変わろうとしない。
何をどう変えれば良いのかわからない。
そもそも変わるべきなのかわからない。
僕は何も悪くないのに。
間違っているのは周りなのに。
どうして僕が変わらなければいけないのか。
こんな下らない意地を張っているから裏切られるんだろう。
嘘でも良いから僕がやったと言えば。
やってもいない罪を告白し謝罪していれば。
家族には見限られても、友達は残ってくれたかもしれない。
する必要もない更生の道を歩めば。
こんな目にあわずに済んだのだろうか。
大恩ある店長の言葉が薄れていく。
甲高い音が鳴り響き、踏切が下りていく。
電車の音が近付く。
僕の耳には救いの福音に聞こえた。
力なく一歩を踏み出した。
その時。
「ねぇ君、危ないよ。」
その声に、肩に置かれた手に、はっとした。
慌てて後ろを振り返ると、優しい笑みを浮かべる女性がいた。
「電車来ちゃうから、ね?」
「あ、あの、僕……」
「君、さっきからここにいるでしょ。何か気になるなーと思って見てたの。」
「えっと…その……」
急に現実に引き戻されたかのような錯覚に陥り、うまく言葉にできない。
どもる僕に、女性は見る人を安心させるような笑顔を向けてくれた。
「とりあえず、踏切開いてから行こうか。そして、できれば話聞かせてくれないかな?」
何故かわからない。
信じたかった人に裏切られたばかりなのに。
何となく彼女の言葉に従いたくなった。
もうどうにでもなれ、という自棄な気持ちもあったかもしれない。
「ふーむ、なるほどねぇ……そんな事があったんだ。」
「はい……つまらない話して、ごめんなさい。」
「謝ることないよ。私が聞いたんだもん。」
僕を止めた女性……瀬戸愛梨さんに、僕は一連の事情を赤裸々に話していた。
全て話した今になっても、どうして初対面の瀬戸さんにここまで包み隠さず話したのか自分でもわからない。
強いて言えば、瀬戸さんの柔らかな笑顔が、薄らと記憶にある死んだ母さんのそれに似ているような気がしたからだろうか。
「それにしても、ひどいもんだねぇ…。」
「すみません…」
「え、何でじんくんが謝るのさ。」
「こんな奴と一緒にいるの、気持ち悪いですよね。僕はもう帰りますから…」
「あぁ違う違う。」
立ちあがろうとする僕の袖を瀬戸さんが掴んだ。
「ひどいって言ったのはじんくんのことじゃなくて、周りの人のこと!」
口を尖らせて瀬戸さんは怒った顔をした。
そんな顔も可愛いな、と場違いな感想を抱いた。
「どうして家族なのに、友達なのに信じてあげないのかな!おまけに嘘告白なんて最悪だよ最悪!」
どうして僕以上に怒っているんだろう。
どうしてそこまで怒ってくれるんだろう。
「それは…事実はどうあれ、どれも被害者が僕がやったと証言してるものばかりですし…」
「それでも信じてあげるべきでしょ!」
「逆に、どうして瀬戸さんは信じてくれるんですか?」
「愛梨で良いよ。……どうしてって、じんくんは嘘ついてるの?」
「う、嘘なんてついてません!」
「だったらじんくんは悪くないんでしょ。」
さもそれが当たり前かのように言う愛梨さん。
僕は涙が溢れそうになった。
「そ、それでも、皆は信じてくれませんでした。僕の言葉なんて……」
「人を信じられなくなるくらいなら、信じて裏切られなさい。」
「え…?」
「これ、私のお婆ちゃんが言ってたの。ちっちゃい時から耳にタコができるくらい言われてた。」
愛梨さんは昔を懐かしむように言いながらクスクスと笑った。
「私、お婆ちゃん子だったからさ。馬鹿正直にお婆ちゃんの言葉通りに生きて……おかげで色々苦労したなぁ。」
確かに、生きづらそうな教えだ。
僕と同じように人を信じて、そして裏切られてきたのかもしれない。
それなのに、どうしてそんな風に笑えるんだろう。
「苦しく…ないんですか?」
「苦しいよ。」
あっけらかんと言う愛梨さんを、僕は唖然として見た。
「苦しかったし辛かった。でも、私にはお兄ちゃんがいたから。」
「お兄さんが…」
「お兄ちゃんも私と同じだったから。二人で何度も泣いて、慰め合って、時にはぶつかって……そうして大人になっていった。じんくんには、信じられる人はいる?この人になら裏切られても良いって思う人。」
「裏切られても良い…」
家族や友人がそうだと思っていた。
でも裏切られて、何度も考えた。
あんな奴ら信じなければ良かったのに、と。
裏切られても、それでも信じて良かったとは思えなかった。
一人だけ。
店長の顔が浮かんだ。
面接で全てを打ち明けた僕に店長は言った。
『私は風評や噂なんてものが嫌いだ。私は、私が見たものしか信じない。』
働き振りを見て僕という存在を判断すると言われ、それから必死に働いた。
どこからか僕のバイト先を知った同級生が来て僕を侮辱した時も、毅然とした態度で追い返してくれた。
あの人になら仮に裏切られても、仕方ないと思えるのかもしれない。
「……一人だけ、います。もしかしたら、ですけど。」
「その人に相談は?」
「今回のことは、まだ…」
「なら、まずはその人に相談すること!それができたら、君はきっと大丈夫だよ。」
「そう、ですかね…?」
「うん!だって、じんくんは何だかお兄ちゃんに似てる気がするから。」
「そうなんですか?」
「勘だけどね。結構当たるんだよ、これ。」
愛梨さんは自信ありげに笑った。
僕も思わず小さく笑った。




