08 まさかの舞台裏
パトリシアは馬車に乗り込むと、誰にも見送られることもなく出発した。一応、護衛はつけてくれるし、メイドのリディアも一緒だ。
護衛は侯爵家の者ではなく、冒険者ギルドに要人警護の依頼を出したらしい。雇われた護衛はサナトリウムまでだが、リディアは療養先でも支えてくれる。
リディアは見送りも餞別の言葉掛けもない対応にまるで厄介払いのようだと憤慨していたが、パトリシアの心は軽かった。侯爵家から離れてようやく自由に息ができた気がする。
伯母からはゆっくりと養生するように言われたが、留年は免れないだろう。
パトリシアは嫁ぐ予定で養子になったのだから、留年して婚約解消になれば侯爵家ではお荷物になる。居心地が悪くなりそうだったから、行先がサナトリウムでも侯爵家から離れられるのはありがたかった。
パトリシアが馬車の揺れでうつらうつらとしていると、リディアがそおっと声をかけてきた。
「お嬢様、クッションを枕にしますから、横になられてはいかがですか? まだ、微熱がおありで辛いのでは・・・」
「・・・そうね、横になれるならなりたいわ」
「はい、整えさせていただきますね」
リディアは揺れる馬車内にも関わらず、クッションを調整して横になれるようにしてくれた。揺れてパトリシアが落ちないように床に座り込んで支えるつもりらしい。
「リディア、そんなところに座り込んでは疲れてしまうわ。座席に腰掛けてちょうだい。わたくしのことは心配しないでいいから」
「いえ、座席の座り心地が良すぎて落ちつかないのです。床のほうが安定している気がしますので!」
「まあ、リディアったら、ふふっ」
パトリシアは笑みをこぼしてから、深く息を吸った。リディアが気遣って言ったのだとわかっている。忠実で優しいメイドに最期まで面倒を見させるのは忍びなかった。
「リディア、隣国に着いたら、貴女は戻りなさい。少ないけど、わたくしの装飾品を退職金代わりに渡すから」
「え、お嬢様。サナトリウムまでお供しますよ。到着後もお世話するのがわたしのお仕事ですから」
「いいのよ、わたくし、多分あまり長くないわ」
「え?」
きょとんとしたリディアは意味を理解するとすっと青ざめた。
「お、お嬢様、そういうことは口にしちゃダメです。弱気になると、病気に負けちゃいますよ」
「負けてしまっても構わないの。こうなることは、わかっていたからいいのよ」
ふふっとパトリシアは小さな子供のように笑った。リディアが信じられないとばかりに目を見張る。
「あのね、わたくしは子供の頃にはとても身体が弱かったの。高価なお薬や貴重な滋養強壮薬でなんとか人並みにまで健康になったけど、やっぱりお薬がなければダメだったみたい」
「え、お薬はずっと飲んでおられましたよね?」
リディアが首を傾げた。パトリシアの世話をしていたから、服薬も把握している。
「ええ、伯母様は殿下にお願いして薬を調達してくださったわ。でもね、レシピは同じでも効果は同じではなかったの」
「まさか、不良品のお薬だったのですか?」
「いいえ、そうではなくて。わたくしの薬はね、いつも一工夫されていたものだったの。
食欲がない時には飲みやすいように好きな味にしてくれたり、胃腸を整える成分を加えてくれたりした。微熱でだるかったりすると、安眠効果のあるハーブティーを添えてくれたわ。水分を摂って一眠りすれば体調が整うからって。
セリーナ様のお師匠は平民で民間療法に詳しかったの。セリーナ様は薬の調合だけでなく、民間療法も教わっていたわ。薬と併用する形で個人の体調や好みに合わせた治療方法だったのよ。
同じ薬でもセリーナ様のほうが効果は高く、効き目がよかった。それを効果の劣る代替品にしてしまったのですもの。
子供の頃に逆戻りするかもしれないと思っていたわ」
「そ、そんな・・・」
パトリシアはショックを受けるリディアに申し訳ないと思ったが、黙っていてもいずれわかることだ。
パトリシアがセリーナの薬を飲む時には、シャーリーに治癒をかけてもらっていた。シャーリーは治癒の練習になるからと言っていたが、本当はパトリシアを案じてくれてのことだ。
シャーリーのおかげで体力の補強もできて、薬の効果を高めてもいたはずだ。
シトリン家には本当にお世話になった。それを裏切ったのだ。こうなるのは当然の報いだろう。
「お嬢様、そのセリーナ様にお願いしてみるのは・・・」
「それはできないわ」
オロオロとするリディアにパトリシアはきっぱりと告げた。ふっと頬を緩める。
「わたくし、とおっても大好きな人がいたの。その人以外何もいらないくらい、本当に大好きだった。
でもね、その人を困らせたくなくて、伯母様に養子にしてもらったのに、結局は困らせてたくさん迷惑もかけてしまった。
本当に申し訳ないことをしてしまった・・・。
だからね、今のわたくしは自業自得なの。リディアにも苦労をかけるわ、ごめんなさいね」
「いいえ、とんでもない!
わたしは侯爵家で契約違反の目に遭っていたから、お嬢様付きになれたのは却ってラッキーだったんです。だから、苦労とか迷惑とかは気にしないでください」
リディアはぶんぶんと手を振って大丈夫だとアピールしてくる。パトリシアがこほっと咳き込むと、慌ててブランケットをかけてきた。
「お嬢様、寒いですか? のど飴をお出ししましょうか?」
「だ、大丈夫よ、ちょっと咽せただけだから・・・。
リディア、わたくしの荷物の中に宝石箱が入っているでしょう? 中身はほとんど置いてきてしまったけど、ガラス玉の髪飾り以外は貴女にあげるから、受け取ってちょうだい」
「お嬢様、そんなこと言わないでください。そんなの、まるで、お別れみたいな言い方・・・」
リディアが今にも泣きそうに顔を歪めている。パトリシアは困ったように微笑むだけだ。
クリフォードからの贈り物は全て侯爵家に置いてきた。侯爵令嬢になってから揃えてもらった物も全部残してきた。
パトリシアが持ち出したのはシトリン家から持っていった物だけ。
少ないが母の形見だった装飾品がある。侯爵令嬢時代の物らしいから、売ればそれなりの金額になるはずだ。リディアは役立たずになったパトリシアのお守りを押し付けられてしまったのだから、退職金ぐらいはもらって欲しかった。
パトリシアにはガラス玉の髪飾りがあればいい。
大好きな人が両親を失って一人ぼっちになったパトリシアの誕生日に贈ってくれた物。パトリシアの水色の瞳と同じ色合いだと、彼が自力で稼いだお金で買ってくれた、何よりも大切な宝物。
『宝石じゃなくて、ごめん。いつか、本物の宝石を贈るよ。君の瞳と同じアクアマリンを』
『わたくしの色よりスタンの色がいいわ』
『僕は髪も目も茶色で綺麗な色ではないよ?』
『チョコレート色で美味しそうだわ。それに日の光でスタンの瞳は透けて薄い色に見えるの。まるで、アンバーみたいでとても綺麗よ。ねえ、スタン。アンバーが欲しいわ』
パトリシアがスタンリーの瞳を覗き込むと、スタンリーは赤くなって照れていた。
『そ、それじゃあ、アクアマリンの次にアンバーを贈るよ』
その約束が果たされることはないが、パトリシアにはガラスでも宝石でもいいのだ。彼がパトリシアを想って選んでくれた物なら、値段なんて関係ない。
彼はずっとパトリシアと一緒だと言ってくれた。熱をだして苦しい時も、苦い薬で涙目になった時も、頭を撫でて褒めてくれた。
『パティはよくがんばってるよ』
『こんな苦い薬をちゃんと飲んでえらいね』
『パティの側にずっといるからね』
そうやってパトリシアに寄り添ってくれたのはスタンリーだけだった。
治療費の工面で外出が多かった両親は仕方がないにしても、養母になった伯母も婚約者になったクリフォードも自分の都合ばかり気にしていた。段々と虚弱さを増すパトリシアの心配はしてくれなかった。
まあ、彼らには都合がいいだけの婚約だったから、仕方のないことだったけれど。
クリフォードは国内貴族なら好きな相手を伴侶に選んでよかった。
側近候補の伝手である伯爵令嬢を望んだようだが、一足遅かった。隣国の侯爵家と縁組みが決定していて、国際問題になるのを懸念して諦めたそうだ。
婚約者選びが再燃した時にちょうどベンソン家で養子に迎えられた幼女がいた。老公の姪が駆け落ちしてできた子供で両親は事故で亡くなり、祖母は病いがちで養育は無理だった。
祖母は兄である老公を頼ってきて、引き取った幼女はまだ五歳で平民として暮らしていたという。
今から教育すれば適齢期までに公爵夫人に相応しく成長するだろうと見込まれて、クリフォードから婚約の打診があったらしい。しかし、孫娘を欲しがっていた夫人に婚約者を決めるのは早すぎると反対された。
老公は代わりに高位貴族の血筋の令嬢がいるとパトリシアを持ち出した。パトリシアの事情を聞いたクリフォードは無駄な正義感に目覚めたようだ。
伯母に冷遇されて、薬を手に入れるための婚約で本意ではない境遇の気の毒な令嬢を救うのだ、と。
何も知らないパトリシアが入学した時にはすでに外堀が埋められた状態だった。
婚約者の家でお荷物になっているなんて誤解だと訴えても、肝心の婚約者が側にいなかったせいで信じてもらえなかった。社交界にバートレット家での養育が筋だと広められてしまい、あまり社交をしないシトリン家では太刀打ちできなかった。
孫娘を手放したくない老公夫妻からの圧力もあってパトリシアは屈するしかなかった。
シトリン家に迷惑をかけたくなかったから、パトリシアの心変わりが原因にした。第三王子が権力を笠にしたなどと陰口を叩かれないようにパトリシアが悪者になるしかなかった。
『お慕いしている方がいる』なんて、嘘は死んでもつきたくなかったのに・・・。
最後に会った婚約者の絶望に塗れた顔を思い出すと、パトリシアは申し訳なくて泣きたくなる。
せめてものお詫びでスタンリーが交換留学生になるようにクリフォードに吹き込んだ。スタンリーは隣国の植物分布に興味があったが、パトリシアを心配して留学を断念していたから。クリフォードの命令で強引な留学ではあったが、スタンリーは期間を延長するほど勉学に励んでいるとか。彼の念願が叶ってよかった。
もう一度だけ会いたかったが、今の体調では無理だ。いや、窶れて見苦しくなった病身なんか見せたくない。
スタンリーは優しいから裏切った元婚約者を邪険にはしないだろうけど、同情で優しくされても虚しいだけだ。
会わないほうがお互いのためだと思い直して、パトリシアはそっと目を閉じた。




