10 まさかの・・・
*前話の後書きの注意喚起をご覧になってOKな方だけお進みくださいませ。
エピローグにしては長くなったので二つに分けます。次話で本当にラスト、10分後に投稿します。
「きゃあああっ、お嬢さまあ!」
リディアの悲鳴が屋敷中に響いた。スタンリーが慌てて子供部屋に駆けつけると、リディアが布巾で幼児の顔を拭っていた。
サナトリウム近くに建てたスタンリーの屋敷だ。裕福な庶民向けの家族で暮らせるくらいの小屋敷で、リディアはお嬢様つきの侍女である。
卓上にひっくり返ったインク瓶が転がっていた。端から溢れてカーペットに点々と真っ黒い染みができる。子供部屋には三人の子供がいたが、皆顔や手足がインク塗れになっていた。
リディアが構っているのは最年少でスタンリーの愛娘ティファニーだ。三歳のティファニーは顔を拭かれてむぐむぐと口を動かした。
「おとーしゃ、ぺたぺた」
「おじちゃま、みてみて!」
えへんと得意げに黒い手形がべたっとついた紙を見せてきたのは一つ上の従姉のセシリアだ。兄のセシルがそおっとその場から離れようとしていてリディアに捕まる。
「坊っちゃま、お嬢さまたちに何を教えたのですか?」
「え、えーと、お絵描きしてたら、真似したいって言うからさあ」
六歳のセシルは絵の端っこに画家のようにサインを入れたらしい。文字を習い始めたばかりで名前を書いて見たかったのだ。妹たちが真似っこしたがったが、まだ字は書けない。それで指印をさせた結果がこうなった。
妹たちはお絵描きの代わりにベタベタと手形を押すのに夢中になってしまったのである。
「申し訳ありません。わたしが目を離した隙に」
リディアが頭を下げるが、ドア付近に放置されたワゴンを見るに、おやつの支度でそばを離れた隙の強行だったのだろう。
「怪我をしたわけじゃないから、気にしないでいいよ。やんちゃなお年頃だしね」
スタンリーが苦笑して肩をすくめた。
リディアは一番被害の少ないセシルに布巾を渡す。
セシルは頬に一跳ねと両手が汚れたくらいで、自分で拭くと自立心がしっかりと育っている。セシリアもティファニーと同じくらい真っ黒で、リディアが気合いを入れて布巾で拭う。
「おとーしゃあ」
愛娘が抱っこをねだって両手をあげてきたから、スタンリーはひょいと抱きあげた。
「ファニー、楽しかったかい? ああ、でも髪にまでついてるね。インクの汚れはなかなか落ちないから・・・」
にぱあっと笑顔になる娘はとても可愛い。天使級で最高の愛らしさである。
手足や顔の汚れは拭きとったが、髪にまでインクがついているのには困った。洗えば落ちるのかと不安になる。
ティファニーは母親似で薄ピンクの髪も水色の瞳も受け継いでいる。もし、落ちなかったら、切るしかないがもったいなくて泣ける。本気で大泣きできる自信しかない。
セシルとセシリアはセリーナの子供で父親の色を継いでいる。二人とも黒髪でインクが落ちなくても目立たないかもしれないが、姉の見解はどうだろうかとつい遠くを見る目になってしまう。
セリーナはサナトリウム内で薬処『緑の我が家』を開店していた。セリーナが仕事中は子供たちの面倒はスタンリーの屋敷でみていて、ティファニーも一緒でいつも三人仲良く遊んでいた。
「騒がしいけれど、何かあったのかしら?」
ひょこっと顔を覗かせたのは妻のフェリシアだ。身体の弱いフェリシアはサナトリウムの医師のところに定期検診に通っていて、ちょうど帰ってきたところだった。
「おかーしゃ!」
ティファニーがぱあっと顔を輝かせた。
「奥様、お帰りなさいませ。申し訳ありません。わたしが目を離してしまったばかりに・・・」
「リディアのせいではないわ。
あらあら、ファニーったら、真っ黒ね。お洋服も汚れてしまったわよ?」
母の指摘に洋服をひっぱってみたティファニーがうるっとなった。お腹のところに真っ黒い染みがついているのに気づいたのだ。
「まっくろお・・・」
「大丈夫です、お嬢様。よく洗い落としますから。
もし、落ちなかったら、濃い色に染めればわからなくなりますから大丈夫ですよ」
本格的に泣き出す前にリディアが力強く請け負った。くすんとなる愛娘の頬をフェリシアが撫でて慰める。
「ファニー、リディアに任せておけば大丈夫よ。リディアはなんでもできて凄いもの」
「まあ、奥様。過大評価すぎますよ」
「あら、正当な評価だと思うわよ?」
「僕の奥さんはリディアを頼りにしているから」
羨ましげにスタンリーがぼやいた。
リディアはもともとフェリシアの侍女で子供が生まれてからはお嬢様付きになった。フェリシアの絶大の信頼があってのことだ。
「まあ、旦那様ったら、相変わらず奥様が大好きすぎますねえ」
リディアが呆れたように言えば、フェリシアがくすくす笑いをこぼす。
「ふふっ、スタンったら、いじけないでくださいな」
「・・・いじけてるわけじゃ」
「おとーしゃ、おやつう」
ティファニーに服を引っ張られて、スタンリーは廊下から漂う美味しそうな匂いに気がついた。ぽんとフェリシアが手を打つ。
「そうね、皆綺麗にしたら、おやつにしましょう。リディアが美味しそうな焼き菓子を用意してくれたのよ」
にこりと微笑むフェリシアの髪にはアクアマリンの髪飾りが輝いていた。
「綺麗に落ちてよかったよ」
スタンリーがほおっと安堵の息をついていた。
ティファニーの髪をお湯と洗剤で洗い流したところ、インクは綺麗に落ちた。髪が傷まないようにヘアオイルまで持ち出した夫のあまりの過保護ぶりに妻は呆れ顔になる。
「落ちなかったら切ればよかったのよ。先のほうだけだったのですもの」
「切るなんてとんでもない! ファニーは君に似て、綺麗な桃色の髪をしているんだ。このまま、長く伸ばして結べるようになったら色々な髪型ができて可愛いだろう。
可愛い娘の姿を拝む機会が失われるなんて耐えられないよ」
スタンリーは本気で苦悩していた。
フェリシアはハーブティーを淹れて苦笑を漏らした。愛娘を寝かしつけて、夫婦二人で過ごすゆったりとした時間で侍女に任せることなく、いつもフェリシアがハーブティーを淹れてくつろいでいる。
スタンリーはハーブティーを口にすると少し落ちついたようだ。
「あの子の髪は手触りも君と似ているんだ。切るなんて、もったいなくてできないよ」
夫は妻の髪を一房手にとって愛おしそうに撫でてくる。大切そうに触れる彼の指には小さなアクアマリンをあしらった結婚指輪がある。フェリシアの指輪にはアンバーで、お互いの色を用いていた。
フェリシアはふふっとくすぐったそうに微笑んだ。
「アクアマリンの髪飾りの後にもらったのは結婚指輪とお揃いのネックレスとイヤリングだったわ。スタンはいつもわたくしの願いを叶えてくれるわね」
「君と約束したからね、パティ」
スタンリーは照れくさそうに頷いた。
すみません、続きます。次でラストです。




