畑道しか知らぬ娘、王城の前で思案する
「リーマ、そういえば」
ジョゼフィンお母様が少し首を傾げて、静かに口を開いた。
「どんな動物でも手懐けられる、と聞いたけれど……本当なの?」
そんな気まずい雰囲気―――少なくとも私にとっては―――の中で、ジョゼフィンお母様が話しかけてくれた。
よかった、この空気から解放される。
「鳥やウサギくらいなら大丈夫ですが、虫とか蛇とかは全然ダメなんです。
昔、蜂に刺されたこともありますし、蛇に咬まれたこともあって……」
「へ、蛇に咬まれた!?」
全員の声が、驚くほど息ぴったりに重なった。
「だ、大丈夫だったのか!?」
カイテルさんがかなり動揺した様子で言う。
うん、大丈夫だったよ、カイテルさん!
「はい。毒のない蛇でしたから、特に問題はありませんでした」
あのとき、咬まれて大号泣し、死を覚悟していたことは黙っておこう。恥ずかしいもん。
「そうだったんだね。それならよかった……」
「ホワイトウルフのことは、お父様たちもご覧になった通りですが、リーマはドラゴンも平気でしたよ。
トレストのドラゴン小屋で、ドラゴンたちとじゃれ合っていました。あんな光景、初めて見ました」
マーティスさんが叔父様たちに説明する。
「ドラゴンと……じゃれ合っていたのか?」
マーティスさんのお父さんが、信じられないという表情で私を見る。
「はい。初めてドラゴンちゃんを見ましたが、みんなおとなしくて、とても可愛かったです」
「俺たちからすると、全然おとなしくないけどな。ドラゴンはドラゴンだ。
おとなしいドラゴンなんていない」
ジルさんが苦笑しながら言った。
「他の動物はどうなんだ?」
マーティスさんのお父さんは、再び私に尋ねる。
「えっと……熊ちゃんとか、鹿ちゃんですね。村の近くに住んでいる熊ちゃんと鹿ちゃんたちがいて、
毎日一緒に遊んだり、仕事を手伝ってもらったりしていました」
「仕事を?熊と鹿に?」
マーティスさんが首を傾げる。
「はい。水や薪を運んでくれるんです。それに熊ちゃんは体が大きいので、
村を守ってくれたり、大雨で木が倒れたときには道を片づけてくれたりしました。
それから、遠くまで歩くときは、鹿ちゃんたちが背中に乗せてくれて、目的地まで運んでくれたんです」
「み、水と薪を運ぶ……?道を片づける……?しかも乗り物にもなる……?」
言葉を失ったように、ファビアンさんはしばらく間を置いた。
「一体どうやって手伝うのか、この目で見てみたいものだな……」
「熊ちゃんは普通に、両手でバケツを持って歩きますよ。二足で歩く姿がすごく可愛いんです。
鹿ちゃんに乗ると、ゆらゆらしてとても楽しいですよ」
「……そ、それは普通なのか?確かに想像したら、可愛くて楽しそうだけどさ」
「鹿は、水をどうやって運ぶんだ?」
カイテルさんはそう聞きながら、私の皿に料理を取り分けてくれた。
「ありがとうございます。
鹿ちゃんたちは台車を引っ張って、水と薪を運んでくれるんです」
「なるほどな」
「そんなに大人しい鹿と熊って、どんな種類なんだ?
人に慣れている鹿みたいだし、テルディアかな?
確かテルディアはトレスト方面に結構生息していたはずだ」
ファビアンさんは考え込むように言った。
「うーん……確か、フォレストディアちゃんだって、おじいちゃんが言っていましたよ」
「フォレストディア!?あれは人間嫌いで有名だぞ!何度か遭遇したことがあるけど、木の実を投げつけられて逃げられたんだぞ!」
「そうなんですか?すごく大人しくて、いつも水汲みを手伝ってくれる、優しい鹿ちゃんですよ?」
「へぇ……じゃあ、熊は?大人しい熊なら、レッドベアとかかな」
ファビアンさんは、また的外れな推測をしている。
おじいちゃんが言っていた色とは、違う気がする。
「うーん……確か、ブラックベアちゃんっていう熊ちゃんだって、おじいちゃんが言っていましたね」
「ぶっ!」
食卓にいた何人かが、同時に咽せた。
ど、どどど、どうしたの?
「ブ、ブラックベア!?本当に!?」
ファビアンさんがあまりにも驚くものだから、私もつられて驚き、料理を口に運ぼうとした手が止まってしまった。
いきなりどうしたんだろう?
「えっ?た、確かそんな名前だったと思いますけど……大きくて、真っ黒な熊ちゃんで……」
「だ、大丈夫だったのか!?村は無事だったのか!?」
「??はい。熊ちゃんがいつも村を守ってくれていますから、大丈夫ですよ。
昔は村が強盗に襲われることもあったみたいですけど、
熊ちゃんが近くに住んでくれるようになってから、強盗がまったく来なくなったって、
村のおばあちゃんが喜んで話していました。
熊ちゃんのおかげで、村はいつも安全です」
「俺が言った“大丈夫”の意味とは、ちょっと違う気もするけど……。
まあ、村が無事ならそれでいいか」
「よく私を肩に乗せてくれたり、抱っこしてくれたり、おんぶしてくれたりするんです。
いつもデレデレしていて、可愛くておちゃめな熊ちゃんですよ」
「…………」
食卓に、重たい沈黙が落ちた。
「へ、へぇ……ブラックベアが……おちゃめ、か。
デレデレしているブラックベア、ぜひこの目で見てみたいな」
「ブラックベアっていうのはな、リーマ。凶暴で、何でもかんでも破壊する動物なんだ。
体も大きいし、普通の人間なら遭遇したくない存在だよ」
ジルさんが、やや疲れた声で説明してくれた。
「デレデレして、おちゃめなブラックベアなんて、この世にいないから」
「それもおじいちゃんから聞いたことはありますけど……。
実際に、そんな凶暴なブラックベアちゃんを見たことがないので、あまり想像できないです」
「ブラックベア"ちゃん"、ねぇ……」
「あ、そういえば……」
少し間を置いて、マーティスさんのお父さんが話題を変えた。
「リーマは、王都で何か仕事をしたいと、カイテルから聞いたけど本当かな?」
「はい」
「それなら、動物を懐けるのが得意みたいだし、城で動物の飼育員になるのはどうだ?」
マーティスさんのお父様は、とんでもない職業を勧めてきた。
……ファビアンさんと、まったく同じことを言っている。
「動物の飼育員ですか?王城に、そんな仕事もあるんですか?」
「あるよ。城では、いろいろな動物を飼育したり、訓練したり、教育したりしている。
飼育員はいくらいても足りないくらいだ」
「そうなんですか……。でも、私はあまり動物に詳しくないです……」
「君ほど詳しい人はいないと思うけどね。自信を持ちなさい。
ぜひ飼育場で働いてほしい。何なら、俺が推薦しようか?明日からでもどうだ?」
ファビアンさんは、相変わらず積極的だ。
うーん……王城で動物の仕事か……。
動物は大好きだし、一緒に働けたら楽しそうだけど、私が知っているのは熊ちゃんや鹿ちゃん、鳥ちゃんくらい。
飼育場には、どんな動物がいるんだろう……。
今までずっと薬師になることしか考えてこなかったから、いまいち実感が湧かない。
「最初はみんなそんなものだよ。心配しなくていい。
まずは、飼育場がどんな場所か、カイテルに連れて行ってもらって見てくるといい」
マーティスさんのお父さんは、穏やかにそう言った。
そうなの……?
王城って、もっと近寄りがたい場所だと思っていたけど……。
名前からして、すごく厳しくて堅苦しい場所だと思っていたのに。
意外と、平民でも気楽に行ける場所なのね?
知らなかったな……意外だ。
「リーマは、薬草にも詳しいんです」
カイテルさんがそう付け加えた。
「薬草にも?それなら、王城の医療部はどうだ?」
マーティスさんのお父様は、またしてもとんでもない職場を勧めてきた。
なんだか、ものすごく分不相応な気もするけど……。
でも薬の仕事だし、働けるなら働きたい。王城で仕事ができたら、将来も安泰だろうし。
「そういえば、今年の保健省の医療部の採用試験が三か月後にあるな」
ジルさんのお父様が、思い出したように言った。
「その試験を受けてみたらどうだ?
辞令次第だけど、合格すれば国内の病院や診療室、王城の医療室、あるいは保健省で働けるよ」
「ほ、本当ですか?ぜひ受けてみたいです。どうすれば、その試験を受けられるんですか?」
「ちょっと待った!」
突然、ファビアンさんが割り込んできた。
「君はまず飼育場に来い!薬より動物のほうが、絶対に楽しいぞ。
想像してみろ。一日中、可愛くて大人しくて、おちゃめな動物たちに囲まれて働くんだぞ?
これ以上の天職、そうそうないだろう?」
ファビアンさんは、身振り手振りを交えながら熱弁を振るう。
「可愛くて賢い牛ちゃんたちに乗ってみたくないか?
元気な馬ちゃんたちに乗って、あちこち走り回るのも楽しいぞ。
君が一言言えば、鳥ちゃんたちが歌を歌ってくれて、仕事をしながらその歌声を聞けるんだ。
そんな職場に一日中いられるなんて、幸せじゃないか?」
そして、最後に余計な一言を付け足した。
「医療室みたいな、陰気で暗くて、つまらなくて、楽しい要素もない職場はやめたほうがいい」
「…………」
ひどすぎ……。
動物の話については、確かにその通りなんだけど……。
でも、薬の仕事をそんな言い方しなくてもよくない?
ひどいよ。失礼だよ。
素敵な植物たちに謝ってよ。
「確かに飼育場は楽しそうですけど……
仕事じゃなくても、畑や森ならどこでもできますし。
鳥の歌声なら、さっきもこの庭で歌ってもらいましたし。
わざわざ仕事にしなくてもいいと思います」
「……王都には、畑も森もあまりないぞ。この屋敷の近くにもない」
「それに、ファビアンさんの言葉の裏に、何か隠されている気がして怖いです。
……まあ、信用しないほうがいい気がします」
「あぁ?今、なんか言ったか?はっきり言え」
「ファビアンさんの言葉は、わざとらしくて全然信用できない気がします。
ここで引き受けたら、一生後悔しそうだと思いました……って言いましたが?」
優しいお兄さんのファビアンさんに「はっきり言え」と言われたら、
優しい妹の私は、言わないわけがない。
なので、頼まれた通り、正直な気持ちをそのまま伝えてあげた。
私、いい子でしょう?
「ふふふっ」
他のお兄さんたちは、吹き出した。
「……初めて会ったときから思ってたけどさ。君、本当に生意気だよな」
「聞かれたから答えただけなのに……どうしてそんなひどいことを言うんですか?」
「君みたいな子を育てたクレスおじいさんは、大変だっただろうな」
「大変どころか、おじいちゃんは毎日、楽しく幸せに元気に過ごしていましたよ」
「口答えも達者だしな」
「それも、おじいちゃんはいつも褒めてくれましたね~。懐かしいです~」
「褒めてねぇよ!絶対に褒めてねぇからな!」
おじいちゃんのことを思い出すと……やっぱり私は、おじいちゃんに教えてもらった薬の仕事がしたい。
「……その試験、受けてみたいです」
私はチラッと、カイテルさんにお願いするような視線を送った。
さっきのお母様の時は、私の視線の意味がちゃんと伝わらなかったけれど、今回は、どうだろう。
……今度こそ、ちゃんと伝わってくれますように。
「はぁ……まあまあ。一度でいいから飼育場にも来てみて。本当に楽しいからさ。明日、連れて行こうか?」
……また勧めてくる。
この人、意外と諦めが悪いな。さすが。
「ファビアンさんって、暇なんですか?」
「長期任務の後の休暇だよ!暇じゃねぇ!」
「ふふ。採用試験の手続きは、俺がやっておくよ。任せて。飼育場は、俺が連れて行くね」
カイテルさんは、いつもの優しい笑みを浮かべて、私の頭を撫でた。
……うわ、やっぱり落ち着く。
もはや、撫でられない日のほうが少ない気がする。
お兄ちゃんができたみたいで、ちょっと嬉しい。
「ゲホゲホっ!」
「食事中だぞ」
「人前なんだから、少しはわきまえなさい」
マーティスさんとお父様、ジョアンナお姉様が同時に反応した。
……え、頭を撫でただけなのに?
食卓マナー違反とか、何とかなのかな……?
「ありがとうございます」
試験の応募方法も分からないし、ここは素直に甘えることにした。
王都に来て、こんなにも歓迎されて、こんなにも優しくされるなんて。
……私、本当に幸運に恵まれてるな。




