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第4章 糸の切れた凧(4)


 それから ――零が突然去ってから―― ひと月ほど経ったある日のお昼前。


「どうだ? 眠れるようになったか?」


 モーニングの客が一段落したころ、越崎が木枠の扉を開けてやってきた。カウンターには未亡人の香苗と最近リモート勤務が増えた加納が陣取っていたが、一つ椅子を空けて座る。ちなみに望月はゴルフで来店していなかった。


「ああ。もう、落ち着いたよ」


 越崎のお気に入りのカップを出し、珈琲を淹れてやる。何も聞かなくても頼むものはいつも同じ、ブルマンのブラックだ。


「あれからもうひと月か。早いものだな。連休は店、開けるのか」

「あ? そうだな。カレンダー通りかな」


 カフェ『時游館』は、毎週日曜日が定休日だが、その他にも店長の航留の心次第で休むことが普通にある。それは地域カフェのよいところで、常連たちも『クローズ』の札がかかっていたら、諦めて帰ることにしているのだ。


「連休には実家に顔出さないと。法事がある」

「へえ。おまえんとこでも法事とかやるんだ」

「失敬だな。一応先祖を敬ってるぞ」


 峰家は北関東一体に土地を持つ資産家だ。本家は群馬に豪邸を持つ富豪だが、一族は意外にも地味な仕事に就いていた。父親は地元の高校で教鞭をとり、航留の弟妹たちは普通の会社員や看護士などなど。

 だが、個々の生き方に指図されることはない。航留が長男でありながらカフェのマスターをやり、ゲイであることもお咎めはなにもなかった。


「ま、私も人のことは言えんけどな。親の病院は弟に継がせてるから」


 越崎は小児内科を避け、自分が最も関心のあった心療内科のクリニックを開いた。


「そういうことだ」


 越崎が気を使ってか、明るい調子で航留に話しかけていた。ひと月経ったからと言って、航留の心の傷が消えているわけではない。そんなことは心療内科医でなくてもお見通しだったろう。

 今でも航留はスマホの通知が来ると慌てて見てしまう。日に1度メッセージも送っている。もちろん既読が付くことはなかった。


 零は記憶を取り戻して自分のあるべき場所に帰っていた。その代償として、1年の空白を作って。

 けれど、そう悲観したわけでもない。なにかの拍子でその空白を思い出すこともあるからだ。人の脳は未だに不明なことばかり。だが、越崎はそれをあえて航留には言っていなかった。


「マスター、あの」


 フロアに出ていた真紀が、急いだ様子でカウンターに入って来た。


「なんだ。どうした?」


 眉根に皺をつくり、越崎がいるにも関わらずそのままの声量で話を続けた。


「あそこのお客様が……」

「なんだ、クレームか?」


 と、越崎。


「違うんです。零君のこと聞いてきて」

「え? 零のこと? なんだ。別にいいじゃないか。もういないって言えば」

「そう言ったんですよ。けど、どこに行ったのか知らないかってしつこいんです」


 零のファンがいても全然不思議じゃない。実際、彼がいなくなってからの半月は、毎日のように客に聞かれた。


『あの、イケメンのお兄ちゃんどうしたの?』


 胸に釘を打ち付けられるような言葉に連日晒されながら、最後の方には貼り付けた笑顔で応えられるようにはなった。


『彼は辞めました。私も残念に思ってます』


 抑揚の少ない言い方に、もう2度と聞くなという気持ちを乗せたからか、ここ最近は全く聞かれなくなった。だが、常連とはいえ、月に1度くらいしか来ない客もいる。


「ふうん。誰……」


 客席に顔を向けた真紀の視線を追いかける。その先には、見覚えのある男がこちらを見ていた。




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