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麗しの高嶺の花は変わり者の侯爵をどうにかしたい!  作者: 青柳朔


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第12話

 ――男の人でも唇はやわらかいものなのね。


 コリンナはどこかぼんやりとしながらそんなことを考えたあとで、口元をかすめる髭の感触とか首の後ろにまわされた大きな手とか、そういったものを意識した瞬間にカッと全身が沸騰するかのように熱くなった。


 反射的にリヒャルトの身体を突き飛ばす。寝起きのリヒャルトはコリンナの力でも簡単に引き剥がすことができた。


(い、いま、今のって……!)


 口元を押さえて声を噛み殺す。リヒャルトはソファに沈んだ身体をのっそりと起き上がらせながら、前髪の奥の瞳でコリンナを見た。


「ん……あれ……?」


 寝ぼけた低い声にびくりと肩を揺らす。

 じわじわと湧き上がる恥ずかしさとかいたたまれなさとか、無性に逃げ出してしまいたくなる気持ちにコリンナは唇を震わせて、


「こ、この不埒者ーーーー!!」


 手近にあったクッションを思いっきりリヒャルトに投げつけてそのまま逃げたのだった。





 ずるり、と顔面にあたったクッションがずり落ちていく。痛みはないが、目を覚ますには十分な衝撃だった。


「……あー……」


 もしかしなくても寝ぼけていた。いや、完全に寝ぼけていた。夢と現実の区別がつかなくなるなんて失態以外の何ものでもない。


 幸福な夢だった。

 そのまま夢に微睡むことを望んでしまいそうになるほど。


「……どうするかな」


 くしゃりと前髪をかきあげながらぽつりと呟く。これは予想外の出来事だった。自分でやらかしたことに驚いてすらいる。自分はもう少し自制心も理性もあると思っていた。寝ぼけていると判断力が鈍るらしい。


 だからちゃんと寝なさいって言っているのよ!

 と、そんなコリンナの声が聞こえるようでリヒャルトはくすりと笑みを零す。


「次に彼女が来たときにとりあえず謝らないとな」


 今から追いかけても逆効果だろう。追い込まれた猫に引っ掻かれに行くようなものだ。

 リヒャルトはそう暢気に考えていたが、コリンナの訪問はぱったりと途絶えてしまったのだった。





 グレーデン侯爵家での事件から三日。

 コリンナはすっかり家に引きこもっていた。


 別に怖気付いたとかそういうことじゃない。あれこれとリヒャルトの世話を焼いていたけれど、コリンナだって建国祭には参加するのだ。かねてより準備していたドレスの最終確認も、それに合わせた装飾品選びも、やることはたくさんある。


(だから別に、侯爵と顔を合わせにくいとかそういうんじゃないんだから……!)


 そう言い聞かせながら、ふとした時にあの人ちゃんと食事はとっているのかしら……なんて考えてしまう。すっかり世話焼きが身に染み付いてしまった。


 コリンナは社交界の花だ。

 指先に、手の甲に、贈られてきたキスの数は数えたことなんてない。あれは挨拶のようなものだ、いちいち覚えてなんていられない。


 しかし当然、唇は特別だった。

 どんなにたくさんの紳士をばっさばっさと切り捨てて高嶺の花となったコリンナであっても、そこへのキスだけは誰にも許したことがない。だって唇への口づけは恋人や夫婦でするものだ。淑女として当然の貞淑さはあった。


「お姉様? 何か嫌なことでもありましたか?」


 首を傾げて問いかけてくるエミーリアに、コリンナはぱっと笑顔になる。


「いいえ、何もないわ。大丈夫よ」

「そうですか……? なんだか少し、悩んでいらっしゃるような気がして」


(悩んでいる……? 私が?)


 ――何を?


 エミーリアの指摘に、コリンナから笑顔が消える。

 悩むようなことじゃない。そりゃ唇へのキスは特別だし、未来の婚約者未来の夫とするものだと思っていたけれど、あれは事故みたいなものだ。リヒャルトは寝ぼけていたから、誰かと間違えたんだろう。


 ――誰と?


『……なんだきみか』

『いい子だから、もう少し寝かせてくれ』


 寝ぼけてかすれた低い声が、今思い返せばとても甘い響きを持っていたことに気づく。


「いるんじゃないのちゃんと相手が!!」

「ひゃっ!?」


 怒りにまかせて声を上げると、突然の怒声にエミーリアは小さく悲鳴を上げた。手に持っていた刺繍を落としてしまっている。


「お、お姉様……?」

「ごめんなさいエミーリア、違うのよあなたに怒っているんじゃないわ。気にしないで」


 にっこりと怒りを堪えながらコリンナは微笑む。エミーリアは落とした刺繍枠を拾いながら「そうですか……?」と困ったように微笑み返してくれた。

 大丈夫だ、エミーリアは今日も可愛い。私はいつも通り、とコリンナは深呼吸をする。


(もともとお互いに時間稼ぎのためのお見合いだもの。もういいわよね。十分でしょう。どこのどなたか知らないけどちゃんと相手がいるなら私があれこれ世話焼く必要なんてないもの。もしかして身分が低いとかそういうことでまだ結婚してないのかしら……いえ、私には関係ないわよね)


 唇へのキスだって、あんなものお互いに忘れてしまえばいい。何もなかった、それでおしまいだ。コリンナはあれは犬にでも噛まれたようなものだと思って記憶の彼方に吹き飛ばすことにした。


 くすり、と笑う声がした。

 エミーリアだった。


「なぁに? 何か面白いことでもあったかしら?」


 エミーリアの笑顔は魔法のようにコリンナの心を穏やかにする。しかし今日の笑顔は、どこか大人びていた。

 針をちくちくと刺しながら、器用に薔薇の花を刺繍している。その薔薇に、またリヒャルトを思い出した。あの人が生み出そうとしているのは、どんな色の薔薇だろう。難しい話は苦手だけど、それくらい聞いてみてもよかったな、と。


「お姉様が、先ほどからずっところころと表情を変えていらっしゃるから」


 兄のルドルフなら遠慮なくおかしな百面相だと言うところを、エミーリアはやさしい言葉で言い換える。


「まるで、物語の中の恋するヒロインみたいだなと思ったんです」


 ――恋?


 社交界の花、高嶺の花、ばっさり男たちを切り捨ててきたコリンナ・シュタルクが。

 あのどうしようもなくだらしなくて、髪も髭もボサボサで、服なんてしわくちゃで、まして寝ぼけて恋人とコリンナを間違えるような、あのリヒャルト・グレーデンに恋?


 ありえないわ、と声に出そうとして、コリンナは唇が動かなかった。ありえなくなかったのだと気づいて、らしくもなくいとけない少女のように顔を真っ赤に染め上げた。


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