第97話 災厄の夜は明けて
そこは、息苦しい場所だった。
肉体を持つ生物のような“呼吸”という概念はない“彼女”だったが、それでも周囲をどろどろとしたもので包まれているような、そんな居心地の悪さと苦しさを、ずっと感じている。しかし、どれだけ脱け出そうとしても、そのための力すらすぐさまこの空間に奪われてしまうようで、上手くいかなかった。
――くるしい。
何も見えないが、周囲に張り巡らされた術式は、感じ取ることができた。“彼女”ですら知らない、おそらくは旧き術。“彼女”を中心に組み上げられたそれに、漠然とした恐怖を感じていたところ、“それ”は唐突に始まった。
大きな――今まで触れたことのないほどに莫大な力の奔流が、“彼女”に襲い掛かってくる。自分の存在すら掻き消してしまいそうなほどの圧倒的な力を、“彼女”は必死の思いで受け流し、流れるままに送り出した。だがそれはいつまで経っても終わらずに、あっという間に“彼女”をすり減らしていく。
……もう、やめて。
たすけて――!
どれくらい、そう願っただろうか。
不意に、自分を縛り付ける術式が崩れたのを感じた。
自分に襲い掛かる奔流とはまた違う力が、術式をどんどん壊していく。それは火山のように熱い、炎の力だった。
術式をあらかた壊すと、その力は遠くへと去って行く。それを追うだけの力は、今の“彼女”にはまだ戻っていない。
それでも外に出ようとなけなしの力を振り絞れば、今までどうやっても出られなかったのが嘘のように、するりと脱け出すことができた。焦がれていた馴染み深い大地に解放感を覚えつつ、“彼女”は失った力を取り戻すために浅い眠りに落ちることにした。
――あの炎の力を、無意識に探しながら。
◇◇◇◇◇
レクレウス王国王都を襲った災厄から数日。諸々の事後処理を終えたファルレアン王国騎士団は、ようやく本来の任務に戻ることができた。自国の副大臣と文官一同、それに捕虜たちの護衛任務である。
といっても、火竜エルヴシルフトによって拉致同然にここまで連れて来られた彼らは、馬すら持っていなかったため、レクレウス側から馬を借り受けることとなったのだが。
もう二度と訪れないであろう王都を後に、馬の手綱を取りながら、アルヴィーはここ数日のことを思い出していた。
――状況が落ち着いた後、アルヴィーを含めたファルレアンの騎士たちは、ひとまずファルレアン側が戦後処理の拠点としていた邸宅に身を寄せることとなった。魔動巨人の侵攻ルートからは外れていたことが幸いして、館は無傷で残っており、すぐに舞い戻ることができたためだ。レクレウス側としても、被害の調査や差し当たりの復旧に人手が取られるところだったので、ファルレアン側の特使や文官の護衛を騎士たちに丸投げできるということで、有り体に言えば利害が一致したこともある。
だがその災厄の一夜が明けた翌日。その館に密かに使者が訪れた。
貴族議会代表、ナイジェル・アラド・クィンラム公爵の使いの者だと名乗った使者は、だが特使のヨシュア・ヴァン・ラファティー伯爵ではなく、なぜかアルヴィーを招きたい旨を伝えたのだ。場所が場所だけに罠を疑ったが、家の紋章入りの直筆の書状を持ち出されては、それ以上疑いようもなかった。ファルレアン同様レクレウスでも、貴族の名を騙るのは重犯罪となる。
もちろん、さすがにアルヴィーだけで招待に応じるわけにはいかず――忘れがちだが一応彼は国許では爵位持ちだ――ジェラルドが付き添いとして同行することを条件に、彼らはなぜかクィンラム邸に招かれることとなったのだった。
「――君が噂の《擬竜騎士》か。初めてお目に掛かる。貴族議会代表のナイジェル・アラド・クィンラムだ。以後よしなに」
通された瀟洒な館の応接間で、アルヴィーとジェラルドは館の主と対面した。現在レクレウス王国の実権を握る男は、まだ若い。せいぜい、ジェラルドより少し年上程度に見える。蜂蜜色の髪、エメラルドの瞳をした彼は、快活な表情で話しかけてきた。
「わざわざご足労いただき申し訳ない。これはごく私的な招きだ、楽にしていてくれたまえ。――だが、君とは少々話をしておきたかったのでね」
「話……ですか?」
レクレウス国内でも上から数えた方が早いような身分の大貴族が、しがない裏切り者に何の話か――と自嘲交じりに思ったところで。
「そう。――君がファルレアンへと亡命したことに伴う処遇について、少しね」
ひゅ、と小さく喉が鳴った。
「……処遇、というと」
「そう焦ることはない。何も君の処遇とは言っていないだろう。――この国では領地内で適用される法の制定について、領主の権限が大きいのは君も知っていると思うが」
少し逸れたように思える話に、アルヴィーは訝しげな顔になったが、無論情報の専門家であるナイジェルが、無為に話を逸らすわけもない。
「ご多聞に漏れず、君の故郷の村を含む一帯を治める領主も、自領の領民の移住を認めていない。亡命など言わずもがなだ。そして、それに対する処分など領主の気分次第でいくらでも変わる。そう……本人に係累がいない場合には、村全体に責を負わせるなどということもさほど珍しくはないな」
「…………!」
ナイジェルの言わんとすることを悟り、アルヴィーは唇を引き結んで拳を握り締める。ジェラルドも、わずかに眉を上げた。
ファルレアンも同じく領主たちの上に王が立つ形ではあるが、さすがに領主の気分で処罰が決まるなどということはない。レクレウス王国の身分制は、ファルレアンのそれよりさらに格差が大きいと聞いたことはあったが、聞きしに勝るとはこのことだろう。
と――ナイジェルがふと表情を緩め、肩を竦めた。
「……そう警戒せずとも、もうその領主はいないのでね。処分も何もあったものではないが」
その言葉に、アルヴィーは目を瞬かせる。
「……いない?」
「彼も継戦を支持する強硬派に属していてね。今回の敗戦をきっかけとする政変で、商人たちと癒着して私腹を肥やしていたことを追及され、最終的には爵位を剥奪されて国外追放処分となった。現在は、奥方の伝手を頼ってリシュアーヌに渡ったと聞いている」
「なるほど。そして空いた席には、閣下の派閥のどなたかが座られた、というところですか」
ジェラルドの指摘に、ナイジェルは小さく笑う。
「まあ、傍目からはそう見えても仕方あるまいな。だが、ファルレアンとの国境地帯に据えるならば、我々の側より人を出すより仕方あるまい。そもそも、強硬派であった家はすでに、大半が爵位の大幅な降格か、家もろとも取り潰しの憂き目を見ている。辺境伯の役目に耐える人材は、なかなかいなくてね」
言葉は困った風であったが、ナイジェルの表情はそれを裏切っている。彼自身もそれを自覚しているのだろう、エメラルドの瞳に稚気に溢れた光を乗せた。
「……正直なところ、わたしは君に感謝しているところもあるのだよ。君の存在がこちらを引っ掻き回してくれたおかげで、わたしが政権を握り、この国は新しく生まれ変わることが叶った。それがなければ、この国は泥沼の戦争の挙句に、もっと悲惨な道を辿っていたかもしれないのでね」
ナイジェルの賛辞に、だがアルヴィーは目を伏せた。
「……感謝、なんて。――俺はただ、自分勝手に選んだだけです」
故郷の村が魔物に滅ぼされた、その裏で軍が糸を引いていたと知った時。アルヴィーは一度、自分が依って立つべき場所を見失った。そしてその時そこには、かつて幸せを祈って手を放した親友がいたのだ。彼が敵国の魔法騎士であっても、差し伸べられた彼の手を拒もうとは、もはや思わなかった。
アルヴィーは、自分の意思で選んだのだ。祖国やそこに暮らす人々よりも、敵国に仕える親友を。
彼にとって大切な、たったひとりを。
「俺がそうしたことで、出なくていい犠牲が出たかもしれない。俺がこの手で殺した、レクレウスの兵もいます。俺の素性を知ってる人には、裏切り者と呼ばれても仕方ないとも思っています。――でも」
顔を上げ、その双眸に宿るのは、静かに燃える炎の色。
「そういうの全部、背負うって決めたので」
この手に掛けた命、《擬竜兵》を生み出すために積み上げられたであろう骸たちを背に負い、それでも前に進むと決めた。
たとえそれが、ただの自己満足だとしても。
それは誰のためでもない、アルヴィー自身が決めた、彼の心の在り方だ。
「……ふむ。それが君の選ぶ道というわけか。結構。君は君の道を行きたまえ。正直君の存在は、この国では扱いが難しい」
「それは……分かる気がします」
今では“元”が付くとはいえ、敵国に寝返りそこで立身を遂げた人間など、確かにいられても扱いに困るだろう。苦笑と共に頷くと、ナイジェルはそうではない、と言いたげにかぶりを振った。
「“それ”ばかりが理由ではないのだがね。――確かに、君の経歴はこちらでは糾弾の的となってもおかしくはない。だがそうなると、こちらとしても困ったことになるのだよ。正確には、前政権が残した“負の遺産”というべきものだが」
「負の遺産……ですか?」
「そうだ」
ナイジェルは頷くと、短く告げた。
「君の故郷が滅びた事件の、真相だ」
国土を守るべき軍、そして国の上層部が、国民の戦意を煽るために村を一つ魔物への生贄にくれてやった――それは現政権にとっても、絶対に表に出すわけにはいかない事実だ。だが、アルヴィーを糾弾するとなれば、何かの拍子で明らかにされかねない事実でもあった。
「貴族議会も、それなりに国内で支持を得ているとはいえ、未だに足下が盤石とはいえなくてね。そこへこんな爆弾を抱え込むのは、正直遠慮願いたいところだ。表沙汰になれば、たとえ前政権のしでかしたこととはいえ、国は国民を軽視していると捉えられかねない。――幸い、《擬竜兵計画》は軍でも限られた者しか知らない、機密性の高いものだった。ならば、“それが存在した事実”ごと闇に葬り、口を拭っているのが最も面倒のない道だということだ」
その意味するところに思い至り、アルヴィーの瞳がすっと細くなる。
「……“なかったことにする”ってことですか。俺も、俺の故郷も家族も」
「納得がいかないかね? だが、君にとっても利はあるだろう。個人的な感情を別にすれば、だが」
「俺はっ……!」
食って掛かりかけたアルヴィーを、肩を掴んで制したのはジェラルドだ。おそらくわざとだろう、その手に込められた力の強さに、無言ながら諌められた気がして、頭に上りかけた血が少しずつ引いていく。
ナイジェルはそれを咎めるでもなく、苦笑と共に両手を組んだ。
「気持ちは察するが……君はもう我が国の人間ではない。こちらの政策に口を挟まれる謂れはないと思うがね。――国を捨てるというのは、そういうことだ」
「…………」
ナイジェルの言葉に、アルヴィーは言い返すことができなかった。反射的に握り締めてしまった拳から、やがて力が抜ける。
確かに、アルヴィーは自らの意思で、生まれ育った国を捨てた。
だがそれは逆に、自分がかつての祖国に関わる権利をも失うということなのだと――今さらながらに、それを理解する。
(……これも俺が選んだ道の先……ってことなのか)
彼が落ち着いたと見て取ったか、ナイジェルは表情を緩めた。
「……記録上はそうなるが、時代が下れば真実が明るみに出ることもあるかもしれない。願わくばその頃には、足元が揺るがぬほどに盤石であって欲しいものだが。――生き残った村人たちは、ほとんどが同じ領内の別の町や村に身を寄せている。ファルレアンの情報があまり伝わらないよう、領主には良く言っておこう」
「……人質か何かのつもりですか」
「とんでもない。――わたしは、こういった“情報”を軽く見ているつもりはない。本来ならば秘匿する類のものだ。それをこうして開示しているのは、わたしなりの誠意と感謝のつもりなのだがね」
そう言って、ナイジェルは立ち上がった。
「さて、忙しい時にこうして時間をいただけたこと、感謝する。――先ほども言ったが、君は君の道を行くが良い。ご両親も、それを咎めはすまいよ。子供というものはいずれ、親元を巣立つものだ」
握手を求められ、アルヴィーは右手でそれに応じた。深紅の肌をした、人のものとはかけ離れた異形の右手。ナイジェルは臆する様子もなく、それを握り返した。
「――俺は、忘れませんよ」
たとえ記録上からは抹消され、一文字も残らなかったとしても。そこにいたひとたちの記憶は消えない。
どれほど厳重に覆い隠そうとも、アルヴィーの中の記憶は語り続ける。
彼らは確かに、そこに生きていたのだと。
「……アル」
親友が自分を呼ぶ声に、アルヴィーはふと回想から現実に舞い戻った。
「ルシィ」
「ちょっとぼんやりしてたみたいだけど……調子でも悪い?」
「いや、違うよ」
ルシエルの心配を微笑で打ち消し、アルヴィーは少しだけ振り返った。
「……たださ、ここも見納めだな、って」
「ああ……そうだね」
ルシエルにとっても、かつて暮らした国の王都だ。興味がなくはなかった。アルヴィーに倣って振り返る。後にして来た王都レクレガンは、遠くから見れば王城の威容はそのままで、確かに王都に相応しい佇まいに見えた。無論、その足下では復興のために忙しく立ち働く人々がいるのだが、もはやアルヴィーたちがそれに関わることはない。
彼らはもう、他国の人間なのだから。
「……行こう、ルシィ」
振り切るように視線を外し、アルヴィーは心持ち馬の足を早める。ルシエルもまた、それに倣って歩みを進めることにした。
馬の歩みに連動して、アルヴィーが胸元に下げた袋も軽く弾む。と、それがもそもそ動き、フラムがひょこりと顔を出した。
「きゅっ」
「ああ、悪い。揺れたか?」
「きゅー」
今まで散々戦場やら飛竜の上やらまでアルヴィーにくっついていたこの小動物は、今さら馬の揺れくらいでは動じもせず、前足も出してしきりに袋から出せとアピールしている。今回は戦闘中ユナに預けられたままだったので、余計に甘えてきているのだろう。だがさすがに馬上で肩などに乗せて落ちたら洒落にならないので、そのおねだりは黙殺する飼い主。
と、
「――きゅっ!?」
いきなりフラムが、その緑の双眸を丸くして硬直した。ぶわわ、と袋が心持ち膨らんだのは、長い尻尾の毛を逆立てたのだろう。
『ふむ。来るぞ、主殿』
さらにアルマヴルカンまでがそう言ったので、アルヴィーは思わず手綱を引いて馬を止めた。
「アル? どうかした?」
「分かんねーけど……何か来る!」
警戒して、とりあえずすぐに動けるよう地上に下り立った、その時だった。
『……いた』
つい、と地面を走って来る黄白色の光。それはアルヴィーの眼前で人の形を取り、飛び込むように抱き着いてきたのだ。
「どわぁ!?」
勢いに負けてよろめいた彼の首元に、齧り付くように抱き着くのは、まだ幼い少女に見えた。だが、全身が黄白色に淡く輝き、地面から飛び出してきた時点でただの少女でないことは明らかだ。
「ぷきゅー!」
二人の間で押し潰された状態のフラムが悲鳴をあげるが、それどころではなく、アルヴィーはますますぎゅうぎゅうと抱き着いてくるどう見ても人間ではない少女を、困惑と共に見やるのだった。
◇◇◇◇◇
災厄の去った王都レクレガンでは、現在目覚ましい速さで復興作業が進んでいた。人々は理不尽に自分たちの街を襲った惨禍に愚痴を零しながらも、あの災厄の夜に命を長らえたことを感謝しつつ、一日も早く元の暮らしを取り戻そうと復興に励んでいる。
そんな中、王城に程近い一画は、そんな明るい喧騒とは無縁だった。兵士たちによって厳重に警備され、どこかピリピリした空気さえ漂っていそうなそこには、巨大な体躯が横たわっている。
「――結局、残ったのはこれ一体か」
それを見上げ、少し無念そうにため息をついたのはユフレイアだ。
「わたしが取り置いてあった方は、見事に消えていたからな」
「他のものは皆、突然再起動して撤退して行ったそうですし、おそらくオルロワナ公が確保していたものも、そうだったのでしょう。正直、これ一体が残っただけでも、僥倖かと」
隣に立つナイジェルの言葉に、彼女は軽く肩を竦めた。
「分かっている。――こんな状態ではあるが、それでも内部構造の解析には役に立つからな」
彼女が見つめる先、地面に伏す魔動巨人は、見事なまでに真っ二つにされていた。もっとも、そのおかげで再起動しようもなく、こちらに残されたのだろうが。
彼女たちは、今回の騒動において唯一残された魔動巨人の回収を視察するため、この場に立っていた。あの事件の際、王都を襲撃した魔動巨人のほとんどは、一度沈黙したにも関わらず再起動して撤退して行ったのだが、アルヴィーが脳天から叩き斬ったこの一体だけは、ほぼそのままの形で残されたのだ。おそらく、アルヴィーの一撃により、再起動するための機能が損傷したためであろう。もう一つ、同じくファルレアンの魔法騎士によるものだろう、上半身を潰されたものも残ってはいたが、そちらは状態が状態なので解析の役にはあまり立ちそうもない。
「……《擬竜騎士》には、感謝しなければなるまいな。おかげで最新鋭であろう魔動巨人が手に入った」
「左様ですな」
「情報操作の方は?」
「抜かりなく。ファルレアン側にはまだ、この魔動巨人の情報は洩れていません。こちらとしても、すべてにおいてファルレアンに先を行かれることは、避けなければなりませんので」
ライネリオが討たれ、事態が収束してすぐ、ナイジェルは密かに人を動かし、この魔動巨人を隠蔽していた。といっても、あの状況でできたことは、保護と称してファルレアン側の人間を城壁から退去させ、魔動巨人に覆いを掛けて目立たないようにしたことくらいだが。覆いを掛けた魔動巨人は瓦礫として報告し、ファルレアン側の人間を一ヶ所に集めてその出入りも管理することで、何とか魔動巨人の存在を隠し通すことに成功した。もとより、魔動巨人が謎の再起動を経て自力で撤退して行ったところは、ファルレアンの騎士や文官たちも目撃しているのだ。すべての魔動巨人が撤退したとレクレウス側が発表すれば、少なくとも表向きはそれを信じるしかない。
「――閣下。そろそろお時間です」
「もうそんな時間か」
補佐官の声掛けに、ユフレイアは嘆息した。
「お忙しそうですな」
「仕方ない。それに、公も人のことが言えた義理か?」
「確かに」
切り返されて、ナイジェルは苦笑する。彼こそ、この事態の後始末のために最も奔走すべき人間の一人であった。
二人して視察を切り上げ、護衛の兵と共にその場を後にする。だが、しばらく歩いたところで、ユフレイアは彼らに声をかけた。
「わたしの護衛はここまでで良い。後はあの者に引き継いでくれ」
「はっ」
彼女が示した先の人影に、兵たちは足を止めて敬礼する。建物に背を預けるように、楽な姿勢で待っていた彼――だがその青年が、この場の人間が束になって掛かっても敵わない実力の持ち主であることは、すでにそこそこ知れていた。
彼――《剣聖》フィランにユフレイアの護衛を引き継ぎ、兵たちは現場の警備に回る。彼らと入れ替わりで一行に加わり、フィランはため息をついた。
「……俺、別にあの人たちの上司ってわけでもないんだけどなあ」
「敬意の表れだ。気にするな」
「だってさあ、俺別にこの国に仕えるってわけじゃないんだし」
「分かっている」
いずれ気が向けば、彼は猫のようにふいと、剣の腕を磨く旅に出るのだろう。それを止めることは、ユフレイアにはできない。
……だが、その日ができる限り遅ければ良いと、そう思っている。
「――そういえば、フィラン。《擬竜騎士》と知り合いだったのか」
「ん、ああ。前に一回、会ったことあるよ。まさか貴族になってるとは思わなかったけど」
ユフレイアに尋ねられ、フィランは少し面食らいながらも頷く。つくづく、謎の交友関係を持つ男だ。今回も、事件が収束した後、少しばかり話をしていたようだった。
「何か話をしていたようだったが」
「ああ……まあ、今どうしてるかとか、そんな他愛もない話だよ。――あ、でも、一つ訊かれた」
「何を?」
ユフレイアは軽い気持ちで尋ねただけだ。だが返された答えは、想像だにしないものだった。
「人を斬るのは、嫌じゃないのかって」
思わず、絶句した。
「……それ、は」
「多分、気遣ってくれたんだと思うけどさ。俺、剣振る時にそんなこと考えないんだよね。“そういうもん”なんだよ、ウチの一族って。余計なこと考えずに剣を振れる奴が、一番強い」
こき、と肩や首筋を解しながら、何でもないことだと言わんばかりのフィランに、ユフレイアの方が慄然とした。
だが彼女が何かを言おうとする前に、待たせておいた馬車のところまで辿り着く。客車の扉が恭しく開けられ、エスコートを受けたユフレイアはそのまま乗り込むしかなかった。フィランは平民なので馬車には乗れないが、彼女の護衛という立場を鑑みて、特別に騎乗する許可を得ている。というわけで、これも待たせていた馬に歩み寄ろうとした。
「――すまないが、少し良いかな」
が、ナイジェルに呼び止められて足を止める。
「……何か?」
「何、遅くなったが礼をと思ったまでのことだよ。――君のおかげで、公が曲がりなりにも肉親の血で手を汚すなどという事態は避けられた」
「ああ……けど姫様、あれは自分に責任があるって宣言しちゃってるよね?」
「名目上はそうなっても、実際に手を汚すのとそうでないのとは大違いだ。実際に自分の手を血で汚すなどということは、公ほどのお立場の方のなさるべきことではない」
「その言い方、外では止めた方がいいと思うんだけど……身分が低ければ良いって言ってるみたいに聞こえるから」
フィランの意外な返答に、ナイジェルともあろう者が一瞬言葉を失くした。
「……失礼。気に障ったかな」
「別に。その程度でうじうじ悩むようじゃ、ウチの一族じゃ早々に病むしなあ。ただ、公爵様みたいな立場の人が外でそう言うのは、良くないと思う」
「忠告痛み入る。肝に銘じよう」
前半はともかく、後半は確かにその通りであったため、ナイジェルは頷いた。
だがフィランは、別段彼を言い負かす気はなかったようで、ふうん、と気のない様子で短く声を漏らしただけだ。
「まあ、適材適所ってやつだよ。あの時も言ったけど、姫様の力じゃ物理的に無理だったし。半端に斬られる方が痛いんだよね。だったら一思いにバッサリやった方が、相手に対しても慈悲ってもんだと思うけど」
「…………」
ナイジェルは沈黙を守った。彼はあくまでも、心情的というより物理的な面からユフレイアには無理だと判断したのだと言いたいらしい。もしかしたら、彼女に可能であれば止めなかったのだろうか。恐ろしい。
深く訊くのはさすがに怖いので、ナイジェルがそのまま口を開かないでいると、フィランは話は終わりだと判断したのか、軽く一礼して歩き出す。だがその足が、ふと止まった。
「……あの姫様も、公爵様も、自分で剣なんか握らなくても、言葉で人を殺せるから。それ、覚えといてね」
んじゃ失礼しまーす、とその場をさっさと後にし、フィランは騎乗してユフレイアの馬車を追いかけて行く。ナイジェルはしばしそれを見送ったが、やがて自分も仕事に戻るため、クィンラム家の馬車へと乗り込んだ。
(言葉で人を殺せる、か……確かに、その通りなのだろうな)
彼やユフレイアだけではない。身分が高いほど、権力を持つ者ほど、その言葉には責任を持たなければならないのだ。時に彼らの望むことは、何を置いても叶えられてしまうのだから。
同乗者もいないため押し黙る彼を乗せ、馬車は王城への道を辿り始めた。
◇◇◇◇◇
「――以上、レクレウスでの潜入調査の結果をご報告します」
「ああ、分かった。ご苦労」
現地に潜入していた諜報員の報告に、ロドルフ・レグナ・ヴィペルラートは短い労いの言葉を返した。遠くレクレウス王国王都での災厄は、予め現地に人員を派遣していなければ、詳しい情報を集めることは叶わなかっただろう。それほどに、今回の一件は唐突だったのだ。
「しかし、まさかそんなことになっていようとはな……レクレウスにとってはとんだ厄日だったな」
他国のこととはいえ同情申し上げる、と軽く肩を竦める。
「……だが、おまえの勘は当たったな、ユーリ?」
「勘じゃないよ。精霊がそう言ってたんだってば」
相変わらず玉座にもたれるという、彼以外がやれば処罰間違いなしの不遜な姿勢で、ヴィペルラート帝国が誇る水の高位元素魔法士たるユーリ・クレーネは口を尖らせた。
「精霊は、“地脈が動いた”って言ってたけど」
「地脈……?」
「地面の中の、強い力が通る通り道みたいなもの。水は地面の中も通るからね、無関係じゃない。精霊が騒いでたのも、それでだよ」
ユーリは玉座から離れ、一段低くなっている床にぴょんと飛び下りた。
「ディラエ川はレクレガンからはちょっと離れてるけど、そこから伸びた地脈が掠ってる可能性はあるから。それが変われば、水の精霊にも何かあったって分かる。――詳しいことは、地精霊にでも訊かないと分かんないけど」
「地精霊か……」
ロドルフは唸った。ヴィペルラートにはかつて地精霊がいたが、今はいない。それがつくづく悔やまれる。
「――で、他に何か分かったこと、ある?」
問うユーリの平坦な声に、ロドルフは思考の海から現実に舞い戻った。
「は……実は、レクレガン周辺を調査していた際、巨大な魔法陣を発見致しました。あまりに巨大過ぎて、地上からでは一部しか確認できませんでしたが……これが、その部分を図に起こしたものです。今回の一件に関係するものかどうかは、現在調査中でありますが」
「見せて」
諜報員の差し出した紙を、ユーリが広げる。ロドルフもどれどれと覗き込んだが、描かれた複雑な紋様に眉間を揉んだ。
「……これの巨大版か。作る手間を考えただけで、気が遠くなってくるな。そういえば、巨大と言っていたが、どれほどだ」
「おそらく、直径数ケイル単位はあろうかと」
返答に、ロドルフは呻いた。
「……これを作った奴は、よほどの暇人か、そうでなければ変人だ。そうに違いない」
「暇人でも変人でも、作る理由があったから作ったんでしょ。――ちょっと訊いてみるから、陛下、これ俺が持ってていい? あと、飛竜一騎貨して」
紋様をまじまじと見つめ、いきなりそう言ったユーリに、ロドルフは眉をひそめた。
「陣は構わんが、飛竜は日程を調整しないことには」
「じゃあ調整させて」
早速紋様が描かれた紙をごそごそと仕舞い込みながら、ユーリはにべもなくそう言う。仮にも皇帝その人に対する敬意が欠片ほども感じられないが、いつものことなので諜報員すら突っ込まなかった。
「……仕方ない。調整はさせるが、飛竜まで使ってどこへ行く気だ」
すると、ユーリはその碧が入った蒼い瞳で、ロドルフをひたと見据えた。
「――俺が育った泉。“母さん”に訊きに行って来るよ」
ロドルフは息を呑む。
ユーリが“母”と呼ぶ相手――それは、彼に母の愛と水の加護を与えた、泉に住む高位精霊に他ならなかった。
「俺も正確には知らないけど、大分長いこと生きてるから。この陣のこと、知ってるかもしれない」
「……そうか。ならば、頼む」
かの精霊に目通りが叶うのは、ロドルフが知る限りユーリしかいない。ロドルフ自身、その姿を見たことさえないのだから。
「分かった。じゃあ、ちょっと準備して来るね」
そのまますたすたとその場を後にするユーリを、ロドルフは無言で見送った。
(ユーリがわざわざ、水精霊にまで意見を求めに行くとなると……その魔法陣とやら、よほどのものなのか)
そういった方面にはあまり明るくないロドルフは、ユーリが情報を持ち帰るのを待つしかない。――いや。
(……とりあえず、飛竜を一騎空けさせるか)
少なくとも自分にできることをするために、彼は飛竜の管理を司る人間を呼びに、人を走らせるのだった。




