第94話 天の応酬、地の攻防
王城に迫る魔動巨人は、魔動兵装の集中攻撃で辛くも倒すことに成功した。
「おおっ、やったぞ……!」
「助かった!」
歓声があがる。しかしそれも束の間、
「――見ろ! 別の魔動巨人が……!」
一人の男性が指差した先、倒したものとは別の魔動巨人が、違う方向から王城に肉薄しつつあった。魔動兵装の砲口がそちらへ向けられ、魔法弾が次々と撃ち出されるが、魔動巨人はものともしない。
万事休す、と思われたその時。
『……え? どうして……』
意識体のアレクサンドラが、そのペリドットグリーンの瞳を見開いた。常の彼女が滅多に見せない驚愕の表情に、ヨシュアの脳裏を悪い想像が次々とよぎる。
「陛下……いかがなさいました?」
尋ねたヨシュアに、だがアレクサンドラは向き直ることなく、遠い空の先を真っ直ぐに見つめる。その周囲に風が渦巻き、淡い緑の薄絹のような光がちらちらと翻った。
『――エマ、来るわよ』
アレクサンドラのものではない女性の声に、ヨシュアが思わず周囲を見回した、その瞬間。
びり、と。
世界が震えるような強大な気配が、王都の空を覆った。
「ひっ……!」
誰もが引きつった呻き声をあげ、凍り付いたように動きを止めた。耳が痛くなるような静寂は一瞬で、人々の頭上を巨大な影が通り過ぎていく。月明かりに深紅の鱗を輝かせたその巨躯は、ほとんど王城を掠めるような低空飛行から高度をやや上げて大きく弧を描くと、アルタール山脈のある方角へと消えていった。
「――はっ……!」
影が夜空の彼方へ消えるとほぼ同時、大気を凍て付かせたかのような気配も嘘のように消え去り、ヨシュアは思わず大きく息を吐き膝をついてしまった。それでもまだ体面を保てた方で、周囲の人々の中には今頃になって腰を抜かしたり、それすら通り越してそのまま失神した者もいる。威圧が強大過ぎて、気を失うことさえできなかったのだろう。
「……今のは……」
今になって全身から冷や汗が噴き出してくるのを感じながら、掠れた声で呟く。と、アレクサンドラが鋭い声をあげた。
『――魔動巨人が……!』
ズン、と重々しい足音を立て、魔動巨人が一歩また一歩と近付いて来る。何とか気を取り直した兵士たちが魔動兵装での砲撃を再開するが、魔動巨人は堪えた様子もなくその歩みは止まらない。その両肩の魔動砲がぐるりと前方に回転し、砲身が城壁の上の人々を狙う。
(これまでか……!)
アレクサンドラの風も、至近距離からの魔動砲は相殺しきれまい。ヨシュアは城壁もろとも吹き飛ぶことを、半ば覚悟した。
――だが。
『……大丈夫。――“彼”が間に合ったわ』
アレクサンドラの柔らかな声が耳に届くのと、ほぼ同時。
彼が予想した最悪の事態は、紙一重で彼の傍をすり抜けていった。
突如、一条の光芒が空から奔り、魔動巨人の足下に突き刺さる。さしもの魔動巨人も体勢を崩したところへ、朱金に輝く炎が天から襲い掛かり、その脳天から一直線に魔動巨人の巨体を斬り裂いた。
「……あれは……」
呆然と見つめる先、地面に下り立ったのは、炎の剣を携えた人影。少年から青年へと差し掛かる年頃のその人物を、ヨシュアは知っている。
「《擬竜騎士》……なぜここに……」
ヨシュアの呟きを聞いたわけでもなかろうが、自分の身の丈よりも長い剣で魔動巨人を叩き斬った彼は、何かを探すように城壁の方を見やった。だが、ふと何かに気付いたように頭上を振り仰ぐ。
直後――。
「――《竜の咆哮》っ!」
《擬竜騎士》のものとは違う、少女の声。
同時に、天から一筋の光芒が、彼を目掛けて降り注いだ――。
◇◇◇◇◇
魔動巨人を一撃の下に斬り倒し、アルヴィーは息をついて城壁の上に居並ぶ顔を見渡した。
「……何か、それっぽい人、いないな」
護衛対象の筆頭である外務副大臣ヨシュア・ヴァン・ラファティーの外見的特徴については、事前に説明を受けて頭に叩き込んである。だが、アルヴィーの強化された視力をもってしても、それに該当する顔は見当たらなかった。まあ、城壁の上も人が多いので、少し奥の方にいたらもう人で見えなくなるだろうが。
と、アルマヴルカンの声が聞こえた。
『――主殿、来るぞ。上だ』
訝しく思いながらも、頭上に《竜の障壁》を展開する。
次の瞬間、上空から撃ち下ろされた一条の光が、障壁に遮られて弾け、爆炎を巻き起こした。
(――《竜の咆哮》かよ!? ってことは……!)
その主に思い当たるのと、ほぼ同時。
「アルヴィー! こんなとこで会えるなんて、あたし今日ツイてるかも!」
喜色もあらわに眼前に飛び下りてきた少女――メリエに、アルヴィーは頭を抱えたくなった。
「……メリエがいるってことは、今回のこれもクレメンタイン帝国絡みか……どうせ、後ろで糸引いてんのはシアなんだろ?」
「そーだよ」
割と核心に迫る情報をあっさりと吐き、メリエは異形の左腕を振りかぶる。
「でもま、とりあえず――せっかくだから相手してよ、アルヴィー!」
「ちっ――!」
放たれた《竜の咆哮》を《竜の障壁》で防ぎ、アルヴィーは地を蹴る。魔法障壁の足場を複数展開、空へと駆け上がった。
(……街中で《竜の咆哮》ぶっ放しまくるわけにはいかねーからな!)
ちらりと見やると、メリエもまた、アルヴィーの誘いに乗る形で空中へと駆け上がり始めていた。
「【メリエと接敵。これから戦闘に入る】――伝えよ、《伝令》!」
ジェラルドに《伝令》を飛ばし、アルヴィーは下方から迫るメリエを迎え撃つ。魔法が変じた白い鳥の行方を目で追う間もなく、メリエが放ってきた《竜の咆哮》を宙を蹴ることで躱した。
(あいつはバカスカ撃ってくるからな……街に被害を出さないためには、俺が上空を取るしかない)
上空か、最低でもメリエと同じ高度を保たなくては、《竜の咆哮》の射線が街に向いてしまう。幸い、メリエはアルヴィーに執着しているので、こちらが街に下りなければ街の方が狙われることはないだろう。
地上から数十メイルほど上昇したところで、アルヴィーは腰を据えてメリエの相手をすることにした。
「――これくらい上がれば、いいか」
「あは、もう追いかけっこは終わり?」
とん、と空中に“下り立った”メリエの足下から、光の波紋が小さく広がる。上空は地上よりも風があり、彼女の長い髪と上着の裾が大きく翻った。
いつ仕掛けてくるか分からないので警戒はしながらも、まずは情報を探るために口を開く。
「……そもそも、シアは何しにレクレウスまで来たんだよ。あの馬鹿でかい魔法陣が、何か関係あるんだろ?」
「さあ、詳しいことはあたしも知らないけど。シアにはここで騒ぎを起こせとしか言われてないし」
メリエは小首を傾げ、そしてにい、と笑った。
「……でも、あたしと一緒に来れば多分、シアは教えてくれるよ!」
「やなこった!」
メリエが左腕で空を薙ぎ払い、眩い光が目を焼く。それを跳んで躱すと、アルヴィーは《竜爪》に炎を纏わせ、彼女に斬り掛かった。その切っ先はメリエの《竜の障壁》に阻まれたが、炎が弾けてその視界を奪う。
「わっ……!」
思わず怯んだ彼女の隙を突き、アルヴィーは障壁を蹴って後方に跳ぶ。
「――《竜の咆哮》!」
アルヴィーが放った一撃を、メリエは障壁を張りつつ飛び退いて躱したが、光芒は障壁を貫き、灼熱の余波がメリエの長い髪の先を掠めた。
「んもう、やだ!」
焦げた臭いに、メリエは顔をしかめる。
「やっぱ竜の力は、アルヴィーの方が強いのかあ……ま、しょうがないか。あたしのは力だけだもんね」
毛先を弄りながらため息をつくメリエ。
「っていうか逆に、竜の魂そのまんまで取り込めるアルヴィーの方が普通じゃないんだけど。ねえ、何で平気なの?」
「……相性が良かったんだろ」
アルヴィー自身にも、何が明暗を分けたかなど正確には分からないのだから。ただ単に、竜がアルヴィーを気に入った、多分それだけなのだ。
そしてそれが叶わず、狂気に呑まれた僚友たちの姿を思い出し、アルヴィーの表情が苦く歪む。左手が知らず、制服の胸元を掴んでいた。その下には鎖に下げられた識別票――彼らの残した唯一のよすががある。その中には、眼前の少女のものもあった。
そう。彼女もまた、あの炎と狂気に満ちた戦場で命を落とした、そのはずだったのに。
「……なあ。――どうやって、また戻って来たんだ」
アルヴィーの問いに、メリエはきょとんとその菫色の双眸を瞬かせる。
「どうやって、って……シアに生き返らせて貰ったから」
「一度死んだ奴は生き返らない。人間も、動物も。――生き返れるんなら、マクセルやエルネスだって、条件は同じだっただろ」
メリエと同じように狂気に染まり、戦いの中で命を落とした、残る二人の《擬竜兵》。彼らも、メリエと状況はそう変わらなかったはずだ。そもそもメリエとマクセルに至っては、遺体すら人の形を失って崩れ落ち、満足に残らなかったのだから。この指の間をざらりと零れ落ちていくあの感触を、アルヴィーはきっと忘れることはできない。
(目の前で見たんだ。――メリエだって、ルシィたちの目の前で)
理屈では分かっている。だが目の前の彼女の存在は、あまりにも“そのままに生きて”いた。
「うーん、それはそうなんだけど……あたしには、欲しいものがあったから」
「欲しいもの?」
「そうだよ。――あたしは、アルヴィーにもう一回会いたかったから、戻って来れた。後の二人はそういうのなかったし、もう魂が壊れてた? とかで、引き戻せなかったんだって。シアがそう言ってた。しょうがないよね」
かつての仲間の末路をそれだけで終わらせ、メリエはにこりと笑った。晴れやかな、だがどこか歪んだ笑み。
「だから――あたしは今度は、欲しいものは全部手に入れるの。だって、せっかく生き返れたんだもん!」
同時に撃ち放たれた《竜の咆哮》を、アルヴィーは《竜の障壁》で辛くも防いだ。
「んー、やっぱ不意打ちもダメかあ。ま、手強い方が落とし甲斐あるよね!」
戦場にはまったくそぐわない、少女らしい明るい笑みを浮かべたまま、メリエは次々と《竜の咆哮》を撃ち放ってくる。アルヴィーは眼下の街を巻き込まないよう注意を払いながら、それらの攻撃を捌ききった。
「あっは、やっぱアルヴィーは戦うの上手いね! レクレウス軍だった時からそうだった!」
「……戦争が上手くたって、自慢になるかよ!」
メリエの弾んだ声にそう吐き捨て、アルヴィーは《竜爪》に炎を纏わせて振るう。
レクレウス軍の《擬竜兵計画》において行われた火竜の体組織の移植手術で、最初に生還した被験者となったアルヴィーは、“成功体”とされた四人の内でも最も適合率が高く、その力を早くから使いこなしていた。元々、森で獣を狩ることを生業としていたこともあったかもしれない。ゆえに、彼は四人の中でも最も、研究者たちの期待が大きかったのだ。
“生ける戦略兵器”として。
(……だけど、それじゃ多分、竜に喰われてたんだ)
アルヴィーが竜の魂の侵食に打ち勝てたのは、親友を守りたいと願うがゆえだった。そして一度狂気に呑まれたメリエが再びこの世に舞い戻ったのは、アルヴィーへの執着ゆえ。
人を超えた“兵器”であれと改造された彼らをこの世に繋ぎ止めたのは、自分ではない“誰か”を求める、“人間”としての強い願いだったのだ。
「ふーん。アルヴィーはそう思うんだ。――でも、あたしは上手く戦いたいし、弱いのは嫌。だって、弱かったらすぐ死んじゃうじゃない。前のあたしみたいに、さ!」
「……っ!」
メリエが放つ《竜の咆哮》を、アルヴィーは炎を纏わせて伸ばした《竜爪》で逸らした。その切っ先に吸い寄せられるように軌道を変える光芒に、メリエが「うそ!」と目を見張る。その隙を逃さず、アルヴィーは《竜爪》を振りかぶり、斬り下ろした。
「っ、この――!」
メリエも自身の《竜爪》を恃みにそれを受けるが――止まらない!
(あたしの《竜爪》じゃ……受けきれない!)
即座にそう判断したメリエは、《竜爪》で攻撃を受けながら、斬撃の軌道から身体を逸らす。瞬間――メリエの《竜爪》を斬り折ったアルヴィーの《竜爪》が、彼女の鼻先を掠めるように空を薙いだ。
「きゃ……!」
体勢を崩したメリエが、足場を展開する間もなく墜落しかける。
(やべ、やり過ぎた)
このままメリエが市街地に墜落すれば、面倒なことになる。彼女を追おうとしたアルヴィーは、しかし眼前を掠めた巨体に、反射的に飛び退いた。
それは、翼を持つ巨大な蛇だ。その姿に、アルヴィーも見覚えがあった。
(あの蛇、ダンテって奴が乗ってた……!)
翼ある大蛇は落ちていくメリエに追い付くと、翻る長い上着の裾をぱくりとくわえる。そして上昇に転じた。
「――ちょっとー! どういう持ち方してんのよ! 下ろしなさーいっ!」
メリエの叫び声が聞こえたが、大蛇は意に介さずといった様子で悠々と飛んで行く。
「……何だあれ……」
アルヴィーはぽかんと見送ってしまったが、はっと我に返った。
「……って、あー! メリエ逃がした!」
『今さら言っても始まるまい。――それより主殿。あの陣をどうにかした方が良いかもしれん』
「陣?――って、外にあったあれか? そういやアルマヴルカン、あれ知ってるっぽかったな」
魔法陣を見た時にアルマヴルカンが“覚えがある”と言ったことを、アルヴィーは思い出す。そして首を傾げた。
「……けど、エルヴシルフトは特に何にも言ってなかったな」
『単に知らなかっただけの話だろう。あれは旧い術式だ。たかだか数百年程度しか生きておらん若造では、知らぬのも無理はない』
「へえ、竜同士って見ただけでどれくらい生きてるとか、分かるんだな。俺にはさっぱりだけど」
右肩の翼に魔力を集め、宙を蹴って飛行を始めながら、アルヴィーは感心した。何しろ見た目が人間と違い過ぎるので、アルヴィーの目からでは違いがさっぱり分からないのだ。もっともそれは、竜から人間を見ても同じなのかもしれないが。
しかしアルマヴルカンがエルヴシルフトの年齢を知っていた理由は、アルヴィーの予想とは違っていたのだ。
『ふむ、それもなくはないのだがな。――エルヴシルフトは、わたしの兄弟の子に当たる。もっとも、わたしが生きている内に会ったのは、あれが生まれたての雛であった頃だがな』
間。
「……って、えええええ!? じゃあエルヴシルフトって、アルマヴルカンの甥っ子ってことかよ!?」
『人間ではそう呼ぶのか。我ら竜の間では、子は等しく子でしかないが』
「つーか、エルヴシルフトは何にも言ってなかったぞ!?」
『覚えていなかっただけのことだろう。生まれたばかりの雛の頃に一度、それもごく短時間見えただけの相手を、その後数百年も会わずに覚えていろという方が無理な話だ。覚えていなくとも不思議はあるまい』
アルマヴルカンの声からは少なくとも、血縁の者の記憶に残っていないことへの寂寥などは感じられない。自身の血を残すことに興味がなかった、と以前彼が語ったことを、アルヴィーはふと思い出した。
(……なんか、寂しいな)
すでに肉体の死を迎えているアルマヴルカンは、もう自身の子を持つことは望めないのだ。それが、ひどく悲しいことに思えた。
『……別に、わたし自身が何とも思っておらぬことで、主殿が心を痛めることはなかろう』
「そういうのが寂しいんだよ。――アルマヴルカンがそれを何とも思ってないってことがさ」
『ふむ……人間はそう考えるものか。やはり、我ら竜とは心の在りようが違うものだな。興味深い』
そんなことを語り合っている内に、アルヴィーはレクレガン郊外の、巨大魔法陣の上空に辿り着いた。眼下に広がる魔法陣は光を湛え、月下にも鮮やかに浮かび上がっている。
それに目を奪われたアルヴィーに、アルマヴルカンはあっさりと、
『よし、主殿。あの魔法陣にとにかく《竜の咆哮》を撃ち込め』
「――は!?」
素っ頓狂な声をあげる彼に、アルマヴルカンは噛んで含めるように続ける。
『良いか、あれは地脈の力を集め、凝縮して放つための術式の一部だ。わたしのような昔から生きていた竜や精霊の知識の中にしか、もはや残っていないであろう術式だが……あれの標的がどこに設定されているかなど、我らには分からん。その向かう先が、主殿が守る国でないという保証もない』
「――――!!」
息を呑んだアルヴィーは、急いで《竜爪》を魔法陣へと向けた。右肩の魔力集積器官で、周囲に漂う魔力も片っ端から掻き集める。
(――ファルレアンに、手出しなんかさせてたまるか……!)
湧き上がる焦りと怒りも乗せるように、アルヴィーは魔法陣目掛けて全力で《竜の咆哮》を撃ち放った。
◇◇◇◇◇
月明かりの下、二振りの魔剣がきらめく。
刃を合わせること十数合、フィランとダンテは互いに一歩も引くことなく、互いの身を穿つべくその牙たる剣を振るい続けていた。
「――なるほど。ずいぶん修練を積んだらしいね」
「いんや、まだまだ! たかだか百年じゃあ――ねっ!」
互いを突き放すように、跳び離れ距離を取る。仕切り直しというように呼吸を整えた時――“それ”は来た。
「――――!」
ざわ、と全身を走り抜けた戦慄に、二人はほぼ同時に空を仰ぐ。その視界を横切るように夜空を横切る、翼を広げた巨大な影――。
「……《上位竜》……!? 何でこんなところに……!」
戦いの最中でさえ穏やかな表情を崩さなかったダンテの顔が、驚愕に彩られる。と、
「――そこの二人、退けえっ!」
頭上からのいきなりの声に、二人は竜が振り撒く威圧をものともせず、素早く跳び退いた。そのど真ん中目掛けて、上空から人影が降ってくる。もちろん、普通に飛び下りてきて無事に済むはずはないので、魔法の補助もあるのだろうが。
その遥か上空、月光に深紅の鱗をわずかに輝かせた竜は翼を翻し、アルタール山脈の方へと向かおうとしていた。ダンテの表情に焦りの色が混じる。
「そっちは――!」
急いで転移用の水晶を取り出し、転移しようとするダンテ。
しかし、
「――おっと、逃がすかよ! 貫け、《雷槍》!!」
声と共に、その眼前に突き立つ稲妻。そしてそれを追うように、風を纏った人影が地上に下り立った。それも一人ではない。次々と下り立つ彼らが纏うのは、レクレウス軍の制服ではなく、ダークグレイを基調としたファルレアン騎士団のものだった。
「……ファルレアンの騎士団は、ずいぶんと遠くまで出張って来るものですね。ここはレクレウス国内ですよ。無許可であれば国境侵犯ですが」
「成り行きだ。文句はさっきの火竜に言って貰うさ。――もっとも、レクレウスの役人にそんな度胸があるとは思えんがな」
そう肩を竦めたのは、無論ジェラルドだ。彼は愛剣《オプシディア》を抜き、励起するが早いかダンテ目掛けて斬り掛かる。
「圧し潰せ、《超重斬刃》!!」
「ちっ――!」
放たれた一撃は、魔法も交えた超重量級だ。いなすのでさえ、片手では無理だと瞬時に判断したダンテは、転移用水晶を放り出し、両手で柄を握った。黒と銀の刃が激突し、次の瞬間黒の刃は滑るように、銀の刃に受け流される。
轟音と共に地面を少々陥没させた一撃に、フィランはドン引きしながら呟いた。
「ええー……魔法込みの攻撃ってエグいな……」
「便利だろ? それはそうと、何でここにいるんだ、《剣聖》」
「いやあ、ちょっとした縁で」
一旦距離を取ってこちらに目を向けたジェラルドに、フィランは肩を竦める。面識は一度だけだが、互いに顔は覚えていた。何しろ共に関わった一件は少々強烈だったので。
「――隊長!」
「お怪我は!?」
そこへ駆け付けようとしたパトリシア始め部下たちを、ジェラルドは手を挙げて押し留めた。
「俺はここでこいつの相手をしてる。おまえたちは先に王城へ向かえ。ラファティー伯がご無事なら、そこに避難してるはずだから、捜し出して警護しろ。そうだな、特にイリアルテは何を置いても王城へ先行だ。魔動巨人を城に近付けさせるな」
「了解しました」
シルヴィオは敬礼し、護衛にカシムを連れてその場を離れる。彼の得手は弓による超長距離射撃だ。国境戦で魔動巨人を仕留めた実績もある。城の防衛に回すのならば、これ以上ない人選だった。
「パトリシアとセリオも、ラファティー伯と文官たちの護衛に回れ。パトリシア、そっちの指揮は任せる」
「畏まりました」
「残りは魔動巨人を足止めしつつ向かえ。ランドグレンとオルコットはクローネルの指揮下に入れ。異存はないな?」
「はっ!」
「りょ、了解致しました!」
名指しされた二人は弾かれたように敬礼する。特に、以前からルシエルに私淑していたウィリアムなどは、いっそ感激に打ち震えんばかりだ。
「了解しました。ではご武運を、隊長」
「当たり前だ、誰に言ってる?」
ルシエルににやりと笑い、ジェラルドは駆けて行く部下たちにはもはや目もくれず、ダンテに向き直る。
「待たせたな。――というか、俺が言う筋でもないが、よく律義に待ったな?」
「しょうがないでしょう。転移用の水晶、あなたの攻撃に巻き込まれて地面ごと吹っ飛んじゃったんですから。――せっかく我が君から賜ったものだというのに」
ヒュ、と剣を一振りし、ダンテは目をすがめる。穏やかな表情を崩してはいないが、そのエメラルドの双眸には隠しきれない不機嫌がちらついていた。
「そりゃ悪かったな。だがまあ、どうせならもうしばらく付き合っても罰は当たらんだろうさ」
「ええ、そのつもりですよ!」
ダンテが《シルフォニア》を振り切る。生み出された不可視の刃が、ジェラルドとフィランをまとめて襲った。ジェラルドは地魔法で相殺してやり過ごし、フィランはほぼ勘で叩き斬る。その常人離れした芸当に、ジェラルドがもはや呆れたような目を向けた。
「大した腕だが……見えないもんまで斬るかよ、普通」
「斬れるんだから問題ないよ。――それより、あいつどうすんの?」
「できりゃ生かして取り押さえたいが……手加減できる相手かっつーとなあ」
「ああ……確かに」
正直、二人掛かりでも手加減できない相手である。ちょっとげんなりしかけたが、これが滅多にない好機であることも確かだった。
「――ま、これを逃す手はないがな。行くぜ、《剣聖》!」
「だからその呼び方止めて!? こっ恥ずかしいから!」
《オプシディア》を地面に突き刺し、ダンテ目掛けて魔法を発動させたジェラルドに合わせて、フィランが踏み込む。対するダンテも、《シルフォニア》の一振りでジェラルドの魔法を相殺し、その勢いのままフィランの一撃を受けた。両者の顔に、抑えきれない高揚が笑みとなって浮かぶ。刃を合わせる音が音楽のように響き、その両足はダンスより荒々しく流麗にステップを刻む。
剣士たちの命を賭した演舞の夜は、まだ始まったばかりだった。
◇◇◇◇◇
「……そろそろ、良い頃ですわね」
レティーシャはすべての陣の稼働と地脈の変化を確認し、転移を用いて四つの陣の中央――アルタール山脈北東部の荒野に敷かれた魔法陣へと転移していた。術が正しく発動していれば、四ヶ所の魔法陣によって流れを変えられた地脈の力が、この陣へと集まっているはずだ。
「ここが真ん中なのか?」
周囲を見回し、すぐに興味を失くしたらしいゼーヴハヤルが、唯一光を湛える魔法陣を眺める。魔法陣の光を受け、その金の瞳が複雑な色に輝いた。
「ええ、周囲の四つの魔法陣で地脈の流れを変えて、この魔法陣に集まるようにしてありますの」
「ふーん……でも、何でわざわざ四つとも、街の近くに陣を置いたんだ? 誰も来ないとこだったら楽なのに。公国は街中みんなフヌケにしてあるからいいけど、レクレガンは違うんだろ?」
ゼーヴハヤルの意見はもっともだった。レティーシャは褒めるように微笑む。
「そうですわね。ですが地理的な条件で、陣はどうしても、その四ヶ所の至近に敷くことが必要だったのです」
「条件?」
ことんと首を傾げるゼーヴハヤルに、レティーシャは微笑んだまま説明を続ける。
「地脈のように“流れる”力は、力あるものや場所に引き寄せられるものなのです。土地に魔力が宿っていたり、強力な魔物や幻獣が長い間住み着いていたりという場合ですわね。そして、多数の人間が定住する場所でも、同じことが起きるのです」
「ふーむ……? つまり、住んでる人間が多いところにも、その地脈ってのが寄っていくのか」
「その通りですわ。そして国の中で最も多くの人口を抱える場所は、大抵の場合王都や首都となります」
「ふーん、なんか色々めんどくさいな」
「ですが、そのままでは地脈の力はあらぬ方向に流れて行ってしまいますから、その流れがこちらの思い通りになるよう、導かなければなりませんの。四つの魔法陣は、そのためのものですわ」
「……じゃあ、この魔法陣は?」
ゼーヴハヤルは眼前で稼働する魔法陣を見つめる。心なしか、先ほどより光が強くなったように思えた。
レティーシャも彼に倣い、陣に目を向ける。
「それは――」
その瞬間。
「――――!!」
ゼーヴハヤルが不意に、野生の獣のように目付きを鋭くし、手にした大剣を構える。同時に、辺りの大気がびりびりと震えるかのような、そんな強烈な気配がその一帯を襲った。
「これは……!」
レティーシャが笑みを消し、弾かれたように頭上を振り仰ぐ。その白皙の美貌を影が覆い、深紅の輝きに縁取られた巨大な影が月を背に翼を広げた。
『――ほう。人間がこれほど大規模な術式を扱えるとはな』
大気そのものが震えているかのような、声。ゼーヴハヤルは大剣を取り落としてしまわないよう、強く握り直した。こめかみを冷や汗が伝う。
だが、それほどの威圧感を浴びせられながらも、レティーシャは平然と淑女の礼を取った。
「御機嫌よう、火竜の方。少々騒がせておりますが、ご容赦くださいませね」
『ふん、わたしを前にその度胸は大したものだな』
「《上位竜》とは以前にも面識がございますもの。――それであなたは、わたくしの邪魔をなさるためにいらしたのですか? そうであれば、わたくしも相応の対応を取らせていただきますわ」
『人間風情に何ができると?』
火竜はつまらなそうに鼻を鳴らし、レティーシャを睥睨する。彼女はにこりと笑い、そして謡うように詠唱を始めた。
詠唱が進むにつれ、魔法陣の光はさらに増していく。それに呼応するように、中心に刺さった剣からぱちぱちと火花のごとく光が弾け出した。
『む……』
術の思わぬ出力に、竜は小さく唸る。レティーシャの唇が、三日月のように弧を描いた。
そして――詠唱が完了した、次の瞬間。
一筋の光が地上より生まれ、天を貫いた。
『――これは……っ!』
魔法陣全体が輝きを増し、光の柱を形作るその直前、竜は何とか翼を翻し、その上空から退避していた。そこに留まっていれば、間違いなく巻き込まれていただろう。彼が背に負った仔竜ともども。
そして、“彼”は感じる。
『……空に、穴が開いた……だと……?』
人間より遥かに魔力や自然界の力に敏感な、彼ら竜種だからこそ気付いたこと。
この空のずっとずっと高み、竜の翼でさえ辿り着けるかどうか怪しいほどの高度には、この世界を包み込む“何か”がある。果ても厚みも分からない“何か”――この光がそれすらも貫いたのを、“彼”は力の流れから感じ取ったのだ。
地上から伸びた光は上空のまばらな雲を蹴散らし、星はおろか満月さえ掻き消しそうな明るさで、ひと時その一帯を照らし出した。しかしものの数分も経たず、それは消えてしまう。後には光を失った魔法陣と、その中心でぼろぼろになった一振りの剣だけが残された。
レティーシャはその剣に歩み寄り、引き抜――こうとしたが、剣身からぼっきりと折れてしまったせいで、それは叶わずに終わった。彼女は苦笑し、取れてしまった柄を無造作に捨てる。
「……さすがに消し飛んでしまったようですわね。あれだけの力を集めれば、無理もないのでしょうけれど」
彼女はもはや剣や魔法陣に対して、それ以上の興味を失ってしまったようだった。ただの線となった魔法陣をためらわず踏み、ゼーヴハヤルのもとへと戻る。
「――実験はどうやら成功したようですわ。もうここに用はありません。戻りましょう、ゼーヴハヤル」
「お、おう。分かった」
ぽかんと口を開けて空を見上げていたゼーヴハヤルは、その声にはっと我に返った。レティーシャが転移用の水晶を取り出している間、上空の竜を警戒するように剣を構えていたが、その姿もレティーシャと共に光の中に消える。後には、空に舞う火竜――エルヴシルフトだけが残された。
『……人間がこれほどの術を扱えるとは……いや』
そうひとりごち、そして彼はその黄金の瞳を鋭く光らせる。
ついさっきまでここにいた“人間”。
――それは、エルヴシルフトが知るもう一人の“人間”と、どこか気配が違っていた。
火竜の力や加護の有無などといった次元ではない、もっと根本的な“どこか”が。
その姿が消え去った地上をひとしきり睨み、そしてエルヴシルフトは大きく旋回すると、彼方へと飛び去っていった。
◇◇◇◇◇
王城周辺で閃く、魔動兵装や魔動砲が炸裂する光を遠目に、ライネリオは遅々としか進まない歩みに歯噛みしていた。
「――ええい、何をしている! 早く王城に向かうのだ!」
彼がいくらがなり立てようとも、彼を乗せた魔動巨人の足下は一歩進むごとに砂に変わり、その歩みを妨げる。それはユフレイアの頼みを受けた地の妖精族の仕業だったが、ライネリオがそんなことを知る由もなかった。
「おのれ……! これでは、わたしの華々しき帰還が果たせぬではないか……!」
と――魔動巨人が唐突に歩みを止めた。その肩の魔動砲がくるりと前方に回転し、展開。
「……な、何を……?」
ただならぬ雰囲気を感じてライネリオが息を呑む中――魔動巨人は魔動砲を発射した。
閃光――そして一拍の後、轟音と爆風。
「うっ……!」
ライネリオは姿勢を低くし、腕で頭部を庇った。爆風はひとしきり荒れ狂い、そして遠く消える。
再び彼が目を開けた時――眼前の光景は一変していた。
「――おお……!」
ライネリオの声がかすかに震えたのは、感嘆か、それとも恐怖か。
だがそれも当然ではあった。
何しろ、数瞬前までは確かに存在していた街並みが、一直線に消滅していたのだから。
「素晴らしい……そうか、これが、魔動巨人の力か……!」
譫言のように呟く彼を乗せ、魔動巨人は再び歩き始める。今度は、その足下が砂に変わることもなかった。妖精族たちは魔動巨人の砲撃で消し飛ばされることを恐れ、干渉を諦めて退避したのだ。
「ははははは! そうだ、このまま王城まで進め! このわたしの――真の王の帰還だ!!」
歓喜の叫びと共に両手を掲げるライネリオ。その両腕から、鮮血が散った。
「……む?」
さすがにそれには、彼も気付いて眉を寄せる。おそらく、先ほどの砲撃で飛び散った瓦礫の破片か何かで傷付いたのだろう。しかしライネリオには、わずかな痛みすらも感じられなかった。そればかりか、血を流す傷口は見る間に塞がり、ものの数秒で痕すら残さず消えてしまったのだ。
瞠目してそれを見つめるライネリオ――だが、
「――ふはっ」
その口から洩れたのは、哄笑だった。
「ふはっ、ははははは! 素晴らしいぞ! これで何人たりとも、わたしを殺すことはできんというわけか!」
“傷が数秒で跡形もなく治る”という、本来であれば異常である事態を、彼はすでに異常とは判断できなくなっていたのだ。
「そうか……これもまた、彼女が与えてくれた“力”というわけか! 良かろう、有難くいただこう!! これで、わたしは不死身だ!!」
けたたましく笑いながら、ライネリオは食い入るように、次第に近付いてくる王城を見つめる。再びその玉座に自身が座を占めることを、もはや疑いもせず。
……その背中が、彼自身の意思によらず蠕動し始めていることに、ライネリオは気付かなかった。




