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片翼のドラグーン  作者: 八月 あやの
第十二章 レクレウス動乱
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第90話 華やかな戦場

 広大な空間に、華やかなざわめきとグラスの触れ合う澄んだ音が満ちる。吹き抜けの天井は高く、見上げれば天窓越しに、煌々(こうこう)と輝く月が見えた。

 大広間ホールを囲む壁は回廊状になっており、さらに小部屋として仕切られて観覧席ボックスシートとなっている。回廊の柱に取り付けられたランプが柔らかな光を放ち、天窓から射し込む月明かりと合わさって階下のダンスフロアを明るく照らしていた。

 ダンスフロアではすでに、奏でられる音楽に乗って踊り始めるペアが見受けられる。男性は裾の長いダブルボタンのフロックコート、女性は色鮮やかなドレス姿だ。ターンのたびにひるがえるスカートの裾は、まるでフロアに咲き誇る花のごとく。

 ……そんなきらびやかな光景を眼下に見下ろし、アルヴィーはため息をついた。


(――どうしてこうなった……)


 もちろん、こんな場所にいる以上、さすがに騎士団の制服というわけにもいかず、彼もまた慣れない礼服フロックコートに身を包んでいる。制服と似た色合いのダークグレイを基調としつつも、襟や袖口、裏地は鮮やかな深紅。コートの中のドレスシャツと襟元のタイは、肌触りの良いシルクだ。足元も磨き上げられた革靴。無論これらは、有能な執事であるルーカスが張り切ってあつらえたものである。が、正直アルヴィーとしては着慣れないことこの上ないため、何とも落ち着かなかった。

「――この城はエルドバート城というのだがね。王国黎明(れいめい)期に、初代エルドバート侯爵によって建てられたものだそうだ。見事なものだろう?」

「そうですね……」

 隣では、ジュリアス・ヴァン・クローネル伯爵――つまりルシエルの父が、そう説明しながら手にしたグラスを傾ける。当然のごとく、彼も礼服姿だ。

 彼らが現在座を占めるのは、二階にある観覧席ボックスシートの一つだった。小部屋とはいえ十人ほどは入れそうなゆったりとした造りで、内装も豪奢ごうしゃなものだ。ダンスフロアに面した側はテラスのように張り出していて、テーブルセットが据え付けられ、くつろぎながらダンスフロアを見下ろせるようになっている。もっともアルヴィーはかえって寛げていなかったが。何せ部屋が豪華過ぎる。


「あなた、それではアルが寛げませんわ」


 くすくすと笑いながら夫をたしなめたのは、やはり盛装したロエナだった。ロイヤルブルーのドレスがよく似合う彼女は、息子であるルシエルにも色濃く受け継がれた美貌をほころばせ、「ねえ」とアルヴィーに向けて小首を傾げる。確かにその通りだが、うかつに返事もできない。曖昧に微笑するに留めた。

 だが、ジュリアスは軽い酒精で気分と舌の回りが良くなったのか、いつになく饒舌じょうぜつにこの城の来歴について説明してくれる。その説明によると、このエルドバート城はファルレアン王国が建国して間もない頃、まだファルレアン王家の権勢が盤石ばんじゃくでない時代に、当時王家に迫る富と権力を誇った侯爵が建造したものだった。侯爵は歌舞音曲かぶおんぎょくをこよなく愛し、周囲から“舞楽侯ぶがくこう”の異名をたてまつられるほどだったという。そんな彼が建てたこの城は、何と最初から中の大広間ホールで舞踏会や歌劇の上演ができるよう設計されたものだった。この観覧席ボックスシートも、後からの増設ではなく元々もうけられていたものだそうだ。彼はこの城で、夜毎よごと貴族たちを集め、舞踏会や観劇を楽しんだという。

 やがて王家の支配が確立すると、エルドバート侯はこの城を王家に献上し、たまわった領地へと旅立って行った。以来、かつての主の名を冠したこの城は、サンフェリナ城と同じく王家の離宮とされ、こうした王家主催の舞踏会や国賓こくひんの接待などに使用されることとなったのだ。


「――もっとも、エルドバート侯爵家そのものは、百五十年ほど前の王位継承争いに巻き込まれて絶えたのだがね。今はもうこの城のみが、その名を後世に伝えるというわけだ」

「へえ……三百年も前に、あんな天窓造ったんですか」


 天井を見上げ、アルヴィーは感嘆かんたんする。ジュリアスは軽く笑った。

「ああ、あれはさすがに、後で改築されたものだな。築城当時の建築技術では、いくら何でもあれほどの天窓は不可能だ。――あの天窓ができて、月明かりを浴びながらダンスを楽しめるようになってから、この王家主催の舞踏会バル輝月夜ルミナリーズ・バルと呼ばれるようになったのだよ」

 ジュリアスの説明に相槌を打ち、アルヴィーは視線を下方に向ける。何十ものペアが階下で優雅に舞っているが、アルヴィーの視力でさえ、ルシエルがどの辺りにいるのか良く分からなかった。何しろ男性側は誰も彼も同じく暗い色合いの服ばかりで、金髪というのも数が多くてさしたる特徴にはならない。

「……何か、みんな似たような色の服ばっかで、ルシィがどこにいんのか分かんないな」

 そうぼやくと、それを聞き付けたのかジュリアスが苦笑した。

「それは仕方がない。こういった舞踏会バルでは、男は着飾った女性を引き立てる添え物に過ぎんよ。だから、男性の礼服コートは皆、落ち着いた色合いのものだろう」

 言われてみれば、アルヴィーのそれも派手なのは裏地や襟などの一部分だけで、ベースは暗い灰色だ。フロアで踊る数多のペアも、男性側はほとんどが黒や灰色グレイ、紺色を基調とした礼服ばかりだった。その分女性は華やかで、色や装飾に工夫を凝らしたものばかりである。

「こうした礼服にも決まりというか、不文律があるものなのよ。あなたはあまり社交界には出ないそうだけれど、覚えておいて損はないわ、アル」

 ロエナの優しい声に、アルヴィーはこくりと頷いた。

「うん、そうするよ。ロエナ小母おばさん。――でも、そういうのはルーカスが詳しいかな」

「彼は良くやってくれているかしら。セドリックが気に掛けていたわ」

 アルヴィーの家の執事・ルーカスは、元はといえばクローネル家の執事であるセドリックの伝手つてだ。

「あー、うん……仕事できると思うよ。でき過ぎてたまにちょっと怖いけど……」

 手回しが良過ぎて時折引いてしまうこともあるアルヴィーは、遠い目で乾いた笑いを浮かべた。

「まあ」

 ロエナもこちらはおかしげに笑う。

 と、


「――おや、最初の曲が終わったようだな」


 ジュリアスが気付いたように呟き、ロエナも「そうですわね」と頷いた。だがアルヴィーの耳にはまだ音楽が聞こえるので、首を傾げていると、

「最初の曲は、舞踏会バルに参加するペアが必ず踊るものなの。ここから先は、そのまま踊っていても良いし、最初のパートナーと別れて違う相手を誘って踊っても構わないのよ。もちろん、お友達や顔見知りの人と会話を楽しんでいても構わないわ」

「そうなのか……何か、ややこしいな」

 こういった舞踏会の流れなどまったく知らないアルヴィーには、何だかまどろっこしいとしか思えないのだが、こういった舞踏会は貴族同士の交流会のような面も持つため、ダンスにばかり明け暮れているわけにもいかないのだそうだ。

「それと、爵位を持つ貴族は最初の曲が終われば、女王陛下にご挨拶申し上げるのが慣例でね。君も来なさい」

「うぇっ」

 いきなり振られて妙な声をあげてしまったが、行かないわけにもいかない。ジュリアスにならって席を立ち、観覧席ボックスシートを出た。

 ――ダンスフロアとなっている大広間の最奥、主催者が座すために仕切られた席に、女王アレクサンドラと王妹アレクシア、そして彼女たちを守る近衛騎士たちが陣取っている。すでにその前には貴族たちが列をなし、丁重に挨拶の言葉を述べていた。

「挨拶は高位の貴族から行うものでね。君の場合は大分後だな」

「…………ハイ」

 厳然たる身分の壁に、アルヴィーはがくりと肩を落とす。できれば参考にさせて貰おうと思っていたのだが。

 それなりに掛かるであろう待ち時間を潰そうと、アルヴィーはそそくさと壁際に移動する。少しでも目立たないように――と思っていたのだが、どうやら逆効果だった。


「――おお、これはこれは。噂の《擬竜騎士ドラグーン》殿ではないですか」

「このたび叙爵じょしゃく、まことにおめでたく」


 あちこちに顔を繋いでいるのであろう貴族の子息たちや、


「まあ、ロイ男爵ではなくて?」

舞踏会バルや晩餐会にはあまり参加なさらないと伺っておりましたから、残念に思っておりましたのよ。お会いできて光栄ですわ」


 婚約者候補を物色――もとい吟味していたのであろう令嬢たちが、わらわらと近付いて来たのだ。


(うわああああ)

 内心絶叫しながらも、アルヴィーは何とか平静を保つ。とはいえ、おそらく良く見れば、表情が引きつっているのが分かるだろうが。腹芸は苦手なのだ。

 何といっても、全員目が怖い。まあ子息たちはまだ、“あわよくば国上層部の覚えめでたい《擬竜騎士( ドラグーン)》に取り入ってやろう”というところだろうが、女性陣はもう目の光からして違った。完全に狩人の目だ。まさか生まれ故郷の森を遠く離れた他国の王都で、狩人に狙われた獲物の気分を味わうとは思わなかった。

 もっともそれも当然といえば当然で、まだ婚約者が決まらない令嬢にとって、爵位持ちながら婚約者どころか浮いた噂すらないアルヴィーは、結構な優良物件なのである。爵位こそ男爵位ではあるが、栄誉爵であれば様々な負担が軽減されるため経済的にはむしろ楽な方であり、何より火竜の加護を受けた高位元素魔法士ハイエレメンタラー。加えてまだ二十歳前ながら数々の功績を打ち立てての叙爵ならば、将来的にもさらなる功績を立てて陞爵しょうしゃく、つまりさらに上の爵位に手が届く可能性も充分にある。狩人の目になって狙うのもむべなるかな。

 アルヴィーは死んだ魚のような目になって、そっと明後日の方向に視線を飛ばしながら中身のない受け答えに終始していたが――そこへ思いがけず、救いの手は差し伸べられた。


「――何だ、てっきり輝月夜ルミナリーズ・バルも欠席かと思ったが。どういう風の吹き回しだ?」


 良く通る声に、アルヴィーの周囲に群がっていた男女が一斉に振り返る。アルヴィーも目を瞬かせた。

「あれ」

 そこに立っていたのは、ドレス姿の美女を伴ったジェラルドだった。アルヴィーの礼服よりさらに暗いグレイを基調とし、要所に控えめながらも精緻せいちに施された銀糸の刺繍ししゅうが見事なフロックコートに、左胸には戦功により賜った《十字剣章オーダー・オブ・ザ・クロス》を始め、いくつかの勲章が輝く。もっともそれはアルヴィーも同様で、リシュアーヌ王国の勲章が着けられていた。ポルトーア砦の事件を解決した時に授与されたものだ。

 侯爵家次男であるジェラルドの登場に、周囲の子女たちはたじろぐ。まだ爵位の継承を受けていない以上、この場での序列を決めるのは生家の家格だ。そしてここには、侯爵家に張り合える家の出身者はいなかった。また、彼に寄り添う美女の存在も、主に令嬢たちに強烈なプレッシャーを与える。いわゆる、“隣に並びたくない”というアレだ。

「……で、ではそろそろ失礼しましょうか」

「またお会いできるのを楽しみにしておりますわ」

 逃げるように立ち去って行く彼らに、アルヴィーは大きく息をついた。

「ああなることくらい見当は付いただろうに、何でまたのこのこ出て来たんだ……というか、おまえ一人か? 舞踏会バルはパートナーが必須だぞ」

 呆れたように言うジェラルドに、アルヴィーは口を尖らせた。

「しょうがないだろ。ルシィの親父さんに招待されたんだよ」

「ああ……なるほどな。観覧席ボックスシートか。確かにあそこなら、ダンスに参加しなくても家族単位で入れるからな」

 納得したように、ジェラルドも頷く。社交界にデビューする前の子女を舞踏会バルの空気に慣れさせるため、観覧席ボックスシートから見学させるのは高位貴族の間ではよく行われる習慣だ。

「……っていうか、大隊長もこういうとこ来るんだ。てっきり、めんどくさいから欠席パスって言うと思ってた」

 すると、


「隊長はわたしに付き合ってくださったのよ。わたしがパートナーを見つけられなかったから」


 聞き覚えのある声。アルヴィーはまじまじと、ジェラルドの隣の令嬢を見やる。

「……セイラー二級魔法騎士?」

「ええ」

 しとやかにそう肯定したのは、確かにジェラルドの副官的存在のパトリシア・ヴァン・セイラーだ。ペールブルーの長い髪を華やかに結い上げ、纏うドレスは胸元から裾に掛けて白から蒼のグラデーションに染まるシンプルなラインのものだったが、余計な装飾がないゆえにかえって彼女の美貌を引き立てる。氷の精霊もかくや、という風情だ。普段と印象がまったく違うので、とっさには気付かなかった。

「うちは子爵家だけど、子供はわたしと妹しかいないのよ。だから、最低限この輝月夜ルミナリーズ・バルは出席しないといけないのだけど……二十歳を過ぎてしまうとね。パートナーに誘える相手も少なくなるの。大体の人はもう婚約か結婚してしまっているから、そういう人をお誘いするわけにもいかないし」

 別に婚約者や結婚相手がいても、舞踏会のパートナーとして踊る程度なら浮気とは見られないが、やはり普通は遠慮してしまうものだ。婚約したてだとか、新婚だとかいう相手だと特に。

「まあ、相手を見つけられなかったのは騎士団の方が忙しかったせいもあるしな。うちの親父殿もたまには顔出せとかうるさかったし、都合が合ったんだよ。それに、変に声をかけられる頻度も減って、こっちはこっちで有難い」

 ジェラルドが肩をすくめる。彼は彼で、娘の婿に欲しいという声掛けが多いのだという。長男の“控え”として次期領主となるための教育もそれなりに受け、現在は魔法騎士団第二大隊長としてエリートコースまっしぐら、おまけに精悍せいかんで容姿も上等。家柄も侯爵家となれば文句の付けようもない。確かに、娘しかいない家からは引く手数多(あまた)だろう。


「……それにしても、わざわざおまえを引っ張り出すとはな。クローネル伯も意外と、あざとい手を使うもんだ」

「へ?」


 近くのウェイターを呼んで飲み物のグラスを受け取りながら、ジェラルドが漏らした一言に、アルヴィーは首を傾げる。

「あざとい、って?」

「基本おまえは、こういう社交界への参加は王家公認で免除されてるようなもんだ。それを呼び出すことができて、なおかつ同じ観覧席ボックスシートで歓談するまでに親しいってことを、この場で見せびらかしに掛かってるんだよ、クローネル伯は。周囲まわりに対する牽制けんせいってとこだな」

「牽制、って……」

「手っ取り早く言やあ、“もうウチと親しいんだから要らんちょっかい掛けるなよ”ってことだ」

「えええ……」

 アルヴィーはおののいた。

「……俺、ルシィが出席するから一度顔を出したらどうか、くらいしか聞いてねーよ……観覧席ボックスシートなら踊らなくていいってことだったし」

「おまえな。ああいう策略家の親切が、額面通りの意味なわけがないだろうが」

「……貴族怖え……」

 自身も今は貴族の端くれであることは遠い棚の上に放り上げ、アルヴィーはがくりと項垂うなだれた。


「言っといてやるが、舞踏会バルが単なる貴族の交流会だと思ってたら大間違いだぞ。剣も魔法も出ちゃ来ないが、ここも立派に戦場だ。礼服、ドレスに宝石は鎧、家柄と言葉は武器。下手すりゃ剣や魔法より効きが良いから始末が悪い。ここで要るのは《竜の咆哮( ドラグ・ブレス)》みたいな一撃必殺の魔法じゃなくて、言質げんちを取られずに相手をかわす話術だな」


 ニヤリと笑い、ジェラルドはグラスを傾ける。パトリシアも手近なウェイターから飲み物のグラスを二つ貰うと、片方をアルヴィーに渡してくれた。

「あなた、お酒は平気よね? もっともこれは、お酒といっても申し訳程度だけど」

「あ、ありがとう……うん、俺多分、酒は強いよ。田舎の酒って意外ときついんだよな、王都こっち来て思ったけど」

 まだ故郷の村にいた頃、狩りの時に持ち歩いていた酒は、身体を温めたり傷の消毒用も兼ねていたため、酒としては結構きつめだった。少量しか持ち歩けないので、余計に酒精が強いものだったのだろう。それに耐性があるアルヴィーは、実はそこそこ酒に強い。

「そう、それなら良かったわ」

 パトリシアも楚々とした所作しょさで飲み物に口を付ける。もちろん彼女も、この程度では酔いなどしないのだろう。

 そうしてしばらく歓談していると、挨拶の列を見たジェラルドがアルヴィーを促した。

「――子爵位の挨拶に入ったみたいだな。そろそろ並んでおけ。挨拶は前の奴のを適当に真似れば良い。どうせ誰も彼も似たようなことしか言わんしな。おまえの視力と聴力なら充分見聞きできるだろう」

 アドバイスを有難く拝聴して、アルヴィーは挨拶の列に並びに行く。ジェラルドがそれを見送っていると、隣のパトリシアがそっと囁いた。


「……よろしいんですか? 彼はもう、ある程度クローネル伯爵の派閥と看做みなされていると思うのですが。下手をすれば、侯爵家の横槍と取られるのでは……」

「元々あいつを従騎士エスクワイアとして取り立てたのはカルヴァート侯爵家(ウチ)だぜ? 大体俺の家もクローネル伯爵家も、そもそもは同じく《女王派》だ。ここは一つ、《女王派》の結束の盤石さを見せ付けといてやろうってのさ。ギルモーア公爵家の一件で、今はおとなしくしてるしかない《保守派》の連中にな」


 人の悪い笑みを浮かべる上司に、パトリシアはため息をついた。

「……アルヴィーもだしに使われて、気の毒なこと」

「人聞きの悪いことを言うなよ。むしろそれを上手く利用するくらいじゃないと、貴族社会なんぞ渡って行けんだろうが。――それに、宮廷は今の膠着こうちゃく状態が一番都合が良い。《女王派( こっち)》に付け入る隙があるなんて邪推されちゃ面倒なんだよ」

「それでアルヴィーを介して、侯爵家と伯爵家の関係の円満さを印象付ける、と?」

「何なら後でクローネルとも話しておくか? もちろんアルヴィー(あいつ)を交えてな。次世代の交流ってやつだ」

 ぬけぬけとそううそぶく上司は、どう見ても面白がっている。パトリシアは知らぬ間に宮廷の権力闘争に巻き込まれつつある後輩を、気の毒にと嘆息しつつ見やるしかないのだった。



 ◇◇◇◇◇



「――あー、疲れた……」

 見よう見真似ながら、何とか女王アレクサンドラへの挨拶を済ませたアルヴィーは、一気に気疲れした心持ちで彼女の前から退出し、大きく息をついた。

(……にしても、女王陛下の妹姫がお忍びでひょいひょい城下に出てるとか、どういう国だよ、ここは……)

 何だか頭が痛くなったような気がして、こめかみを揉んでみる。というのも挨拶の際、アレクサンドラの隣にちょこんと座っていた王妹アレクシアが、彼を見るなり少々はしたない声をあげたからだ。


「――あーっ! あの時の! 馬と力比べして勝った平民!」


 思わず跳ねるように立ち上がった彼女は、しかし次の瞬間、お付きと思しき黒髪の女性騎士によって速やかに椅子へと戻されたが。ついでにアレクサンドラにもそっと窘められ、しおしおと小さくなっていたのはちょっと気の毒だった。

 もっともアルヴィーとしても、驚いたのは同様だったのだが。何しろ彼女は、アルヴィーが初めて王都の街中に出た日、危うく暴れ馬に蹴られそうになっていたあの少女だったのだ。あの時はアルヴィーがその暴れ馬をほぼ力尽くで止めて、何とか事なきを得たのだった。

(まあ、これであの時アルマヴルカンが言ってたことも納得いったな)

『ふむ、確かに。あの風の娘の身内であったのなら、火系統に突出していながら風の精霊を纏わり付かせていたのも説明が付く。おそらく、あの風の娘が妹の身を案じて付けていたのだろう』

 アルヴィーにしか聞こえない声で、アルマヴルカンがそう言った。思えば、こうしてアルマヴルカンと“会話”することに慣れたおかげで、先ほど醜態を晒さずに済んだのかもしれない。

 ともあれ、何とかボロを出すこともなく挨拶をやり過ごし、アルヴィーは観覧席ボックスシートに戻ろうとした。

 その時。


「――アル!」

「ルシィ?」


 横合いからかけられた声に振り返ると、一人の令嬢を伴ったルシエルが小さく手を振っている。もちろん、一も二もなくそちらに方向転換した。

 濃紺を基調に、彼自身の瞳のようなフロスティブルーの糸で刺繍が入ったフロックコート姿のルシエルは、少し意外そうな表情で親友を迎える。

「アルも輝月夜ルミナリーズ・バルに出席してたのか。てっきり出ないと思ってたよ」

「へ? ルシィの親父さんだぜ、観覧席ボックスシートに招待してくれたの」

 きょとんとするアルヴィーに、ルシエルは苦い顔になった。

「あの人は……」

 その様子から、ルシエルに話が行っていなかったことは容易に推察できて、アルヴィーは苦笑する。

「でもまあ、いい経験になったよ。こういうとこって縁がないからさ、俺」

 肩を竦めると、ルシエルの隣に寄り添う令嬢に目を向ける。その意を汲んで、ルシエルが紹介してくれた。

「紹介するよ。彼女は僕の婚約者のティタニア」

「ティタニア・ヴァン・メルファーレンと申します。どうぞお見知りおきを」

 オレンジブロンドの髪を結い、ローズドラジェのドレスを纏った令嬢が、スカートを軽く摘んで淑女の礼を取る。アルヴィーも慌てて挨拶を返した。

「ええと、俺はアルヴィー・ロイ……あ、今はアルヴィー・ヴァン・ロイか。何かまだ慣れなくて」

「ええ、存じていますわ、ロイ男爵。ルシエル様とは一番の親友と伺っております」

 にこり、と微笑んだその表情に、だが何となく隔意のようなものを感じて、アルヴィーは内心首を傾げる。

(……初対面だよなあ?)

 だがその違和感を掴みきる前に、


「――きゃあ!」


 短い悲鳴が聞こえたかと思うと、近くにいた令嬢が自分のドレスの裾でも踏んだのかよろけた。彼女は偶然近くを通り掛かったウェイターにぶつかる。そして彼は間の悪いことに、ワインのグラスを運んでいるところだった。いきなりぶつかられ、その勢いで弾き飛ばされたグラスはワインを撒き散らしながら、ちょうどその先にいたティタニアに降り掛かる――。


「ティタニア!」

 とっさに動けない彼女を、ルシエルが抱えるように庇う。

 そして、まさに彼に降り掛かろうとしたワインの飛沫しぶきは、彼の服を汚す直前に、見えない障壁に弾き散らされた。


「――よっ、と」

 宙に舞ったワインのグラスを床に落ちる直前でキャッチし、アルヴィーはそれをウェイターが持つトレイに返す。

「も、申し訳ございません!」

 床にひざまずきそうな勢いで平謝りするウェイターをなだめていると、


「……もう、あと少しだったのに!」


 かすかに耳を掠めた少女らしき声に、アルヴィーは眉をひそめた。だが、その声の主はもう人の間に紛れ、影すらも見当たらない。

 とりあえずウェイターを帰し、ルシエルにそっと問う。

「……ルシィ、大丈夫か?」

「ああ、さっきの障壁、アルだろう? ありがとう」

「いいよ、そんなの。――けど、さっき誰かがウェイターにぶつかったの、あれわざとかもしんないぜ。“あと少しだったのに”って、誰かが悔しがるのが聞こえた」

 小声でそう告げると、ルシエルは鋭く目をすがめた。

「……分かった。――そういえば、父上は観覧席ボックスシートを取ってるんだったね。アル、悪いけど案内して貰える?」

「ああ。こっちだ」

 アルヴィーが先に立って歩き出し、ティタニアを伴ったルシエルが続く。大広間ホールを出て二階の観覧席ボックスシートに上がると、ジュリアスとロエナはまだ戻っていないようで姿がなかった。おそらく下の大広間ホールで知己と話しているか、テラスで月夜を楽しんでいるのだろうとルシエルが言うので、捜しに行くのは止める。

 エスコートされて椅子に座ると、ティタニアはようやく落ち着いたようだった。

「……ありがとうございます」

「落ち着くまでここにいると良いよ。お父上には僕から言伝ことづてをしておくから」

 ルシエルが部屋から顔を出して伝言を頼んでいる間、アルヴィーはさっきウェイターにぶつかったとおぼしき令嬢を捜して階下を眺めたが、やはり人が多過ぎて分からない。ため息をついていると、


「……もう、大丈夫です。――先ほどの件は多分、わたくしを狙ったのですわ。ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」


 ティタニアが細い声で、だがはっきりとそう言った。アルヴィーは振り返る。

「……何か、心当たりでも?」

「いえ、その……」

 言葉を探すように視線をさまよわせる彼女に、伝言を済ませたルシエルが歩み寄った。


「僕の婚約者だから……か?」


 問われて、ティタニアは顔を伏せる。アルヴィーも遅ればせながらピンと来た。

「あ……あー……そういうことかよ!」

 ルシエルは容姿も良く騎士団のエリート、おまけにこの度伯爵家の継嗣けいしとして正式に認められた。令嬢たちにとっては憧れの的だ。だが自分たちがアタックするより早く、ティタニアが早々に婚約者に決まってしまった。そのためルシエルに憧れる令嬢たちの中の誰かが、思い余って――といったところか。

「うわあ……貴族社会怖えー」

 げんなりとぼやいたアルヴィーに、ティタニアがなぜか申し訳なさそうな目を向けた。

「……でも、わたくしもその気持ち、分かる気がしますの。――わたくしも、ロイ男爵が羨ましくて、ちょっといてしまいましたから」

「……へ? 何で?」

 首を傾げる彼に、ティタニアは爆弾発言を投下する。


「だって……ルシエル様からいただいたお手紙、必ずと言っていいくらい、ロイ男爵のお名前が出て来るんですもの」


「え、」

「はあああああ!?」

 驚いたようなルシエルの声は、アルヴィーの声に掻き消された。


「あのなあルシィ、婚約者への手紙に俺のこと書いてどーすんだよ? もっと他に色々あるだろ、仕事のこととか、今日何があったとかさ!」

「騎士団の任務のことなんか書けるわけないだろ! どこに機密事項が転がってるか分かったもんじゃないんだから! それに特筆するような任務の時は、大体アルと一緒じゃないか! 名前が出るのは仕方ないよ!」

「あー……じゃあ詩でも書いてみるとか!」

「君、何か変な本でも読んだ? っていうか僕にそういうこと求めるなよ、そもそもそう言う君の方はどうなのさ」

「無理だ!」

「開き直るな! 君の方こそ切実じゃないか! 自分の立場を考えなよ!」


 何だかだんだん話の論点がずれていく上、どんどん子供じみていく言い合いに、ティタニアがついに笑い出した。

「ふ、ふふっ……ごめんなさい。でもおかしくて……」

「…………」

 我に返り、決まり悪げに目を逸らす二人。

「……あー、そんでとりあえずどうすんだよ、今回の件。そのままにしとくのか?」

「相手が分からない以上、追及しようもないからね……とにかく、今日は僕が気を付けておくよ」

「だよな、ぶっちゃけそれしかないし」

 この人数の中からくだんの令嬢を捜し出すなど、ほぼ不可能である。何しろ声を聴いただけで、ドレスの色すら見えなかったのだから。

 とりあえずティタニアから感じた隔意の正体が分かり、彼女が打ち解けてくれたことだけでも収穫だったと自分に言い聞かせて、先ほどの子供じみた言い合いを努めて忘れようとするアルヴィーだった。



 ◇◇◇◇◇



 ファルレアン王国王都・ソーマで、輝月夜ルミナリーズ・バルが華やかにもよおされている頃。

 レクレウス王国王都・レクレガンでもまた、年に一度にして最大の社交行事である大舞踏会グラン・バルが、王城で開催されていた。

 敗戦の痛手を受け、例年より幾分いくぶん質素ではあるものの、精一杯盛大に開かれたそれには、国中の貴族が集まって来る。それに先立ち、王都の服飾専門店には礼服やドレスの注文が多数舞い込み、店は嬉しい悲鳴をあげることとなった。

 そして大舞踏会グラン・バル当日。会場となった王城の大広間ホールには明るいざわめきと音楽が満ち、フロアの中央ではダンスに自信のあるペアが華麗に舞っている。それに歓声をあげるのは、今宵社交界にお目見えした新たな淑女(デビュタント)たちだ。

 その一人である、自らの婚約者となった少女に、ナイジェルは尋ねた。


「君も踊りたいのなら、お供しようか、オフィーリア?」

「いいえ、最初の一曲をお相手いただきましたし、わたしはダンスより音楽の方に興味がありますの」


 微笑みながら緩やかにかぶりを振ったオフィーリア・マイア・オールトを伴い、ナイジェルは壁際に設えられた長椅子のところに向かうと、礼儀にのっとって彼女の手を取り、そっとそこに座らせた。

「立ち通しでは疲れるだろう。ここで休んでいると良い」

「ありがとうございます」

 にこりと微笑み、オフィーリアはプルシャンブルーのドレスの裾を整える。対外的には父を亡くしている彼女は、本来ならまだ服喪の期間内ではあるが、今回の大舞踏会グラン・バルはレクレウスの国力の回復を誇示する側面もあり、出来うる限り出席するよう王家から内々にではあるが通達が出されていた。また彼女はナイジェルの婚約者であり、半分はクィンラム公爵家の人間と見ることもできる。そのため彼女は、できる限り色目が派手でないドレスを纏い、最低限の義務である最初のダンスだけ参加したのだ。

 彼女と自分のために飲み物を都合すると、ナイジェル自身も喉を潤して一息つく。会場を見渡しても、出席者の数は例年より少なかった。言うまでもなく、戦争責任を問われて取り潰された家が少なくないからだ。それもあって、名目上の主催者である王家も、理由如何(いかん)に関わらず極力出席するようにと、通達を出したのだろう。もっとも、オールト侯爵家は末娘のオフィーリアを出席させて、現当主たるローレンスは父の喪に服すべく欠席したし、戦争で子息を失った家はまだその傷が癒えず、夫妻共に欠席というケースも散見された。

(……まあ、無理もあるまいな)

 その気持ちは分からなくもない。ナイジェルは息をつき、グラスを大きく傾けた。

 と、こくこくとグラスを空けていたオフィーリアが、ウェイターを呼んで空のグラスを手渡しながらナイジェルに勧める。


「わたしはしばらくここにおりますから、ナイジェル様はどうぞ、他の方ともお話をしていらしてくださいな。お仕事の関係の方もいらっしゃいますでしょう?」

「それは有難いが、君は一人で大丈夫なのか」

「ご心配なく。王家のお召しでここにおりますけれど、本来わたしも服喪中の身ですのよ。無理にダンスにお誘いになるような無粋な殿方は、いらっしゃいませんわ」


 涼やかな声はよく通り、彼女にじろじろと不躾ぶしつけな視線を浴びせていた若者たちが、ばつの悪そうな顔で離れて行く。それを見て取り、ナイジェルは頷いた。

「そうだな。では、そうしようか」

「それに」

 にこやかな笑みのまま、オフィーリアは声をひそめる。

「……わたし一人の方が、思いがけないお話を聞けるかもしれませんわ。だって、女は何も分からずにこにこ座っているだけだとお思いになる殿方も、意外といらっしゃいますのよ」

「……これは頼もしい」

 思わず苦笑し、ナイジェルはしばしそこを離れた。従者の少女たちがいれば付き添わせるところだが、生憎あいにく彼女たちは平民であるため、この会場には出入りできない。まあ、オフィーリアは機転も利くし話術も巧みなので、しつこく付きまとう男どもも角を立てずに追い返してしまえるだろう。何しろ、父の葬儀で出会ったというナイジェルとの馴れ初めに、不謹慎だと年配の貴族が眉をひそめたところ、


「きっと、父がわたくしの将来ゆくすえを心配して、引き合わせてくださったのですわ」


 と儚げに微笑むだけで、瞬く間にちょっとした美談に仕立て上げてしまったのだから。彼女とはきっと、上手くやっていけそうだ。

 そんなわけで未来の妻の傍を離れてすぐ、ナイジェルはその姿を見つけた。


「オルロワナ公」

「ああ、クィンラム公か。婚約が決まったそうだな。お祝い申し上げる」


 左目の色に似たウィスタリアのドレスに身を包み、ユフレイアは小さく手を振った。

「ありがとうございます。――ラファティー伯も、よくおいでくださいました」

「いえ、こちらこそお招きにあずかり光栄です。ご婚約、お祝い申し上げます」

 ユフレイアをエスコートするのは、ファルレアン側の特使であるヨシュア・ヴァン・ラファティー伯爵だった。講和もまとまり、和解の一環として、戦後処理のファルレアン側責任者として残った彼が、正式に招待されたのだ。

「これはご丁寧に。――この大舞踏会グラン・バルが終われば、本国に戻られるそうですな」

「ええ。戦後処理の方も一応の目途は立ちましたし……そろそろ戻れと、国の方からもせっつかれましてね」

 ヨシュアは苦笑した。

「しかし、最後にこのような場に招いていただいて、良い土産話ができましたよ。しかも、こんな美しい方をパートナーにしていただいて」

「お世辞がお上手だ」

「とんでもない」

 にこりとヨシュアが微笑みかければ、今度はユフレイアが苦笑と共に肩を竦めた。

「まさかこの年でデビュタント扱いされようとはな。ダンスなど縁がないと思っていたんだが」

「これからはそうも参りませんよ」

「だろうな」

 嘆息し、ユフレイアは主催者席に座す王家の面々を一瞥いちべつした。

「……まさか、あの連中の前でダンスなど踊ることになろうとはな。前を通った時の顔、見物みものだったぞ」

「それはそれは」

「凄まじい目でにらまれたな」

 ユフレイアはこの上なく楽しげな笑みを浮かべた。

「……そういえば、公の婚約者もここに来ているのか? もし良ければ、わたしたちにも紹介して貰いたいものだが」

「もちろんです。こちらへ」

 二人を案内するべく、ナイジェルは先に立って歩き出した。



 そんな舞踏会バル喧騒けんそうも届かぬ、王都の上空。

 そこにたゆたう翼ある大蛇の背に、二つの人影があった。


「――へえ、レクレガンって上から見るとこんな街だったの」

 興味深げに夜景を見下ろすメリエに、ダンテはふと尋ねる。

「君はレクレウス出身だろう? 王都には来なかったのかい?」

「そんな暇なかったわよ」

 肩を竦め、メリエは顔を上げて空を仰ぐ。視線の先には、冴え冴えと輝く大きな月。

「……明るくて良いわね。良く見えるし」

「そうだね。――だが、満月にはまだ少し早いかな」

「満月なんて待たなくて良いから、さっさとやっちゃおうよ」

 はやるメリエを制するように、ダンテはかぶりを振った。


「まだだ。――満月も重要な条件なんだ。我が君の“実験”を邪魔するわけにはいかない」


「……“実験”、ね」

 さほど興味もなさげにぼやき、メリエは口を尖らせる。

「じゃあ何で今、レクレガンなんかに来たのよ」

「下見は重要だろう? 昼と夜とじゃ条件も印象も、全然違うんだ。あと何日かくらい、我慢しなよ」

「分かったわよ」

 ため息をついて、メリエは大蛇の背に腰を下ろす。ダンテがコツンと鱗を叩くと、彼の使い魔(ファミリア)はゆっくりと身体をくねらせるようにして空中を泳ぎ、夜の闇へと消えていった。


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