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片翼のドラグーン  作者: 八月 あやの
第十一章 傀儡の国
89/136

第88話 うごめく欠片

 王城から呼び出しがあったのは、非番が明けた翌日のことだった。

(早速かよ……)

 げんなりとした表情で、それでも従わないわけにもいかず、アルヴィーは重い足どりで財務副大臣、つまりルシエルの父であるジュリアス・ヴァン・クローネルの執務室に向かった。


「――閣下。ロイ男爵がお見えになりました」

「ああ、入りたまえ」


 取り次ぎの際に呼ばれる自分の名に、何ともいえない違和感を覚えつつ、アルヴィーは副大臣執務室に足を踏み入れる。

「……失礼します」

「すまないが、この書類だけ片付けさせてくれるかね。すぐ終わるから、そこでくつろいでいてくれたまえ」

 そこ、とソファを指されたが、生憎あいにく副大臣の執務室で、しかも部屋の主が仕事をしているのにその目の前で寛げるほど、アルヴィーの神経は太くなかった。戦闘の際にはいくらでも図太く大胆になれるのだが、ここは戦場ではないのだ。まあ、ジュリアスにとってはある意味、戦場かもしれないが。

 すぐ終わる、とは別段誇張でもなかったようで、事実ジュリアスはものの数分で書類仕事に一区切り付けたようだった。


「――すまないね、呼び出したのに待たせてしまった」

「いえ……」


 席を立ち、ジュリアスはソファに座を移す。手振りで促され、アルヴィーもその差し向かいに座った。

 あらかじめ言い付けてあったのか、いつの間にか姿を消していた文官が、紅茶を二人分運んで来てくれる。ジュリアスがそれで一息つくのにならい、アルヴィーもちびちび飲んでいると、ジュリアスはカップを置いて本題を切り出した。

「さて、君が発見し、持ち帰った例の財宝の件だが。さすがに今日明日では対処できない。何しろ海賊に奪われたのがずいぶん昔の話なために、当時を知る者がほとんどいなくてね。それに、被害を受けた貴族は国の沿岸部、つまり王都から離れたところに領地を持つ家が大部分で、連絡を付けるだけでも一苦労になる」

「あ、はい。――それで、その……他の国の人の分は、どういう扱いになるんですか」

「そちらは国内貴族以上に対処が難しいが……まあ、七十年前に失われた財宝が見つかったと聞けば、怒る者はまずいないだろう。希望があれば返還もやぶさかではない。――とはいえこちらも、ただで引き渡すのでは舐められる。それなりの対価はいただこう」

「対価、って……」

「なに、そう無理難題を吹っ掛けるつもりはないさ。だが、外交で多少の譲歩を引き出すことはできるだろう。あちらが呑める程度でな。それが叶わねば、そうだな……君の邸宅の広間サルーンいろどりにでもしてはどうだ。そもそも発見場所は君の所有地である島の沿岸部だ。所有権も君にある」

 やはり法的に、そういうことになってしまうらしい。アルヴィーは頭を抱えたくなった。

「……俺は……できれば元の持ち主に返したい、です。――その財宝だけじゃなくて、他の船のものも、可能なら」

「ふむ……だが、船内の遺品程度ならともかく、財宝は強力な手札になり得る。――君もこの国の貴族となった身だ。その辺りのことは理解して貰いたい」

 貴族という特権階級の仲間入りをした以上、国のために相応の役割を果たせ――そう言われているようで、アルヴィーはわずかに目を伏せた。

 その様子を見ていたジュリアスは、少しの沈黙の後話を変える。


「ところで……君にはもう一つ話があるのだがね」


 何となく嫌な予感を覚えて、アルヴィーはジュリアスの言葉の続きを待つ。思い返せば前回もこんな感じで叙爵じょしゃくを知らされたような気がするが、またそういった頭が痛くなるような話かと、知らず身構えてしまうアルヴィーだった。知らない人間の前に引き出された猫のごとく、警戒感を隠すこともなく話を待つ彼に、ジュリアスは苦笑しながら、

「そう身構えることはない。――以前にも言ったと思うが、沿岸部の領主から航路の設定の要請が次々と来ていてね。君は任務に出ていたから、ひとまずこちらで話を預かっていたのだが……いつまでも据え置いているわけにもいくまい」

「ああ……そういえば」

 危惧きぐしていたようなとんでもない話ではなく、以前にも打診があった話だったので、アルヴィーは内心胸を撫で下ろした。その件については、転移陣設置の際の手持ち無沙汰な時間に、シュリヴやマナンティアルにも確認を取ってあるので、まだしも気兼ねなく答えられる。


「シュリヴとマナンティアルは、必要以上に島に近付きさえしなきゃ船が行き来するのはどうでもいいってことだったんで……余裕を持って、島から十五ケイルくらいかな。その外側なら、航路を設定しても大丈夫だと思うんですけど」

「十五ケイルか。想定よりも広く航路が取れそうだ。有難いな」


 ジュリアスは予想が良い方に外れて笑みを見せる。何しろ精霊やら竜やらの人外種族が相手なのだ。どれほどを人間の領域として使わせてくれるかは、まったくの未知数だった。だが島から十五ケイル以遠を航路として設定できるなら、今まで制限せざるを得なかった大型船も制限なしに航行できる。それは貿易でより大きな利益をもたらしてくれるだろう。

「では、航路はそれで良いとして、通行料はどうするかね。領主の中には民間船に対して、航路の通行料を徴収している者もいる。領主にとっては重要な収入になるし、港などの整備にも金は必要なのでね。大体は港に入港した際、入港料という形で徴収しているが、あの島に入港はできまい」

「いや、別にそんなの取る気はないですけど……」

 航路を通るだけで金取るとか何それ怖い、と内心でおののくアルヴィー。もっともジュリアスの言うところによればそう高額ではないそうだが、それでも近海を行き来する船の数を考えれば、それなりの金額にはなるだろう。海を行く以上、どの領地にも入港しないというのは不可能なのだし。

「そうかね。あれだけの好条件の航路ならば、多少高くとも通る船は多いと思うがね」

「貴族年金だけでもあり過ぎて恐ろしいんで……」

 男爵位での貴族年金は、栄誉爵の中ではもちろん一番低いのだが、それでもアルヴィーからすれば魂が口から飛ぶかと思うような額だった。屋敷の維持費や使用人の給与などもそこから出るそうなので、それなりの額はあるのが当然だとルシエルには説明されたが、それにしても金銭感覚が一般人のままのアルヴィーにはとんでもない巨額であることには変わりない。しかも彼の場合、まだ金融ギルドに持つ倉庫に、魔石の代金やらワーム素材の売却益やらが眠っているのだ。正直生きている間に使いきれそうな気がしない。

「まったく、欲のないことだ」

 呆れ半分といった様子で、ジュリアスは苦笑した。もっとも、貴族が最も金を取られる“社交”という活動の大部分を、アルヴィーは免除されている。彼は貴族である以前に、ファルレアン王国が抱える最大戦力なのだ。下手に社交界に入り浸らせるわけにもいかないというのが、国の意向でもあった。そのため、貴族年金だけでも充分余裕ができるのだろう。

「まあ、通行料を取らないというなら、船主たちは喜ぶだろう。――では、航路の方はそれで設定するとしよう」

 これでこの話も片付いたと、アルヴィーがほっとしたのも束の間。


「では、君が不在の間にわたしが代理で預かっていたものだが、持ち帰ってくれるかね」


 ジュリアスが文官に何やら目配せすれば、心得た文官が山のような荷物を抱えて戻って来る。恐る恐る尋ねるアルヴィー。

「……あの、これは?」

「なに、沿岸地域の領主が航路設定の要請の際に、“心ばかりのものだが”と君宛に贈ってきたものでね。まあ、航路が設定されれば彼らにとっても利益となる。そのために多少“心付け”を渡すくらいは必要経費ということだ」

「……ってそれ、いわゆる賄賂ってやつじゃ……」

 アルヴィーの顔が引きつった。だがジュリアスは涼しい顔だ。

「要らないならば返せば良い。それで航路を通さないというならともかく、そうではないのだから、相手も怒りようがあるまいよ。金や目先の利で動かないと示すことは、君にとっても悪いことではないだろう。もっとも、気に入ったものがあればその限りではないがね」

「…………」

 アルヴィーは何ともいえない気分で、その“心付け”とやらの小山を見やった。別に偏見ではないが、正直貴族が贈ってきたものとなると、自分の金銭感覚とは絶対に噛み合わない気がする。

 だが、だからといってジュリアスに預けっ放しにするわけにもいかず、仕方なくそれらを魔法式収納庫ストレージに詰め込むアルヴィーだった。

 ……後でルーカスに知恵を借りつつ、何とか返品しようと思いながらのことだったのは言うまでもない。



 ◇◇◇◇◇



 王都に戻って来て数日。ルシエルは少々憂鬱ゆううつな気分でため息をついた。

「……どうかなさいましたか? 隊長」

「いや……もうすぐ社交時期シーズンだろう」

「ああ……」

 気が乗らない顔の隊長に、ディラークも苦笑する。妾腹とはいえ伯爵家子息として公式に認められ、しかも騎士学校魔法騎士科を首席で卒業、二十歳前にしてすでに二級魔法騎士の地位にあるルシエルは、社交界では年頃のお嬢様方になかなか人気が高かった。“氷の貴公子”などと呼ばれるほどの冷静沈着な物腰と容貌も、それに何役も買っている。もっとも、小隊員にしてみればその氷は、とうの昔に溶けてなくなっているのだが。

「ですが今年は、隊長にも婚約者がいらっしゃることは周知の事実ですし……妙なちょっかいを出すご令嬢は、さすがにもういらっしゃらないでしょう」

「だと良いんだが」

 ルシエルは肩をすくめる。

「そもそも、騎士団に所属している以上、騎士団の任務が優先では?」

 シャーロットが首を傾げる。確かに、騎士団に所属している貴族の子弟は、社交よりも騎士団の任務を優先することが常識と化しており、舞踏会や夜会の出席を見送る者も多かった。ルシエルも以前はそうだった、のだが。


「……これからはそうもいかないさ。伯爵家の後継者となれば、どうしても顔を繋ぐ必要が出てくる。社交時期シーズンは絶好の機会なんだ」

「ああ……そういえばそうでしたね」


 うっかり忘れていた事実に、シャーロットは納得の声をあげた。

 騎士団に籍を置く者でも、家を継ぐことが決まっている者は話が別で、そういった者たちは人脈を作るため、むしろ積極的に社交界に参加する傾向があった。騎士団だけでは関わりを持てない相手も少なくないのだ。しかもルシエルは婚約したばかりと来ている。婚約のお披露目ひろめも兼ねて、今度の社交時期シーズンは参加することになるだろう。

「だけどまあ……それも悪くはないと思ってる。少なくとも、家を継ぐことは決まっているわけだし。――ただ、気乗りがするかどうかは話が別というだけだ」

 何しろ、今までそんなことは考慮もせずに騎士としての道を邁進まいしんしてきたのだ。社交界にはさほど詳しくないし、同じ騎士団出身者ならともかく、社交をメインに活動しているような貴族とは、話を合わせるのも一苦労だろう。だがえてしてそういう相手が意外な情報通だったりするので、無視するわけにもいかない。

 今さらながらに、“家を継ぐ”ということに付随ふずいしてくるものが多いことに気付き、ルシエルは苦笑する。

(……それでも、その程度は軽くこなせるくらいでないと、領地運営などできないんだろうな)

 伯爵家たるクローネル家はもちろん、それより家格が下の子爵家や男爵家でも当たり前に行われてきたことだ。子爵・男爵家と伯爵家以上では領地の広さは比べるべくもなく、それに比例して業務も多いのだが、共通する部分がないわけではない。社交時期シーズンは、それらの経験を持つ現役の領主たちや、今まさにそういった教育を受けている後継者たちとも顔を合わせることのできる、貴重な場でもあった。気乗りがしないなどと言っている場合ではない。

「まあ、せいぜい勉強させて貰うさ」

「そういったことならば、第一三八小隊のイリアルテ小隊長にお話をうかがうのも良いかもしれませんな。あちらは元々、イリアルテ伯爵家のご嫡男ちゃくなんでしょう」

「ああ、そうだな。良いかもしれない」

 ディラークの提案に、目から鱗が落ちる心持ちでルシエルも思わず声をあげる。第一三八魔法騎士小隊を率いるシルヴィオ・ヴァン・イリアルテ二級魔法騎士は、旧ギズレ領で共同作戦をったこともあり、知らない仲ではない。それにいきなり嫡子に据えられたルシエルとは違い、彼は伯爵家長男として生まれ、最初から嫡子として育てられてきた。ルシエルより社交界に馴染みもあるだろう。

 近い内に話をしてみようと思いながら、ルシエルはその話を切り上げた。


(社交界……か。わたしたちには到底、縁のない話だけど)


 そうした華やかな世界の話に、シャーロットは小さくため息を零す。と、左右から肩を叩かれた。

「どうしたのよ、シャーロット」

「何か、あった……?」

 女性陣の追及に、シャーロットはかぶりを振る。

「いえ、別に。ただ、わたしたちには縁遠い世界だと思っただけです」

「確かに。ちょっと憧れるわよねえ。まあ、中に入ればそんなに甘いもんでもないんでしょうけど」

 ジーンが苦笑する。どの世界にも、それなりの苦労はあるものだ。

 それで終わるかと思われた話は、しかしユナによって予想外の方向に蹴り飛ばされた。


「でも、アルヴィーは貴族になったから、そういうところにも行くんじゃないかと思うの。パートナーも」

「……ユナ。それをどうしてわたしに言うんですか……?」

「だって、ロットも候補じゃないの?」


 ことん、と猫のように首を傾げる同僚にして友人に、シャーロットは額を押さえる。

「あり得ません。もう身分が違うでしょう、文字通り……」

「でも、平民でも貴族にお嫁入りはできたと思うけど」

「ああ、そういえばあったわよね、そういうの。確か、下級貴族の家に養女に入るんだったかしら? 高位貴族との結婚はさすがに無理だけど」

愛妾あいしょう制度ってのもあったぜ、確か。旦那の貴族が嫁さん一筋で五年以上愛人を作らないで、なおかつ旦那との間に子供ができりゃ正式に夫人と認められるってやつ」

 そこへ物知り顔でカイルが乱入し、にやにやしながら爆弾を放り込んだ。ジーンとユナが詰め寄る。

「ちょっと何それ」

「詳しく!」

「お、おお? いいけど」

「ちょっと、カイルさん……!」

 頬を紅潮させて止めに入ろうとするシャーロットに構わず、カイルが説明を始める。女性でもない彼がどこでそんな知識を仕入れて来たかは……まあお察しというやつだろう。何しろ色街を庭のごとく歩き回る彼である。

 少し離れたところでそれを眺めつつ、ルシエルの顔にも苦笑が浮かぶ。

「……よろしいので? 隊長」

「昔からある制度なんだから、別段(しゃべ)っても咎められはしないさ。――それにアルも確かに、そういうことはそろそろ考えておかないといけないだろうし。今や、見合い話が束で持ち込まれても不思議じゃない立場だしね」

 そう言って、ルシエルは目を細める。


「……でも、本当に好きな人と家族になってくれたら良いと、僕は思うよ」


 アルヴィーの両親は仲が良かった。ルシエルも覚えている。そんな両親を傍で見て育った彼は、自然に自身も愛する相手と結婚するものだと思っただろう。貴族社会の政略結婚とは、いささかそぐわない形だ。

 もちろん、政略結婚でも互いをいつくしめる幸福な例は多い。だが友として、彼が心から愛する女性と結ばれてくれることをルシエルは望んだ。家族も故郷も失ってしまったアルヴィーが、せめて新たな家族を愛せるように。

 ……問題は、親友本人が未だにそういった気配を欠片も感じさせないことだが。

「まあ、火竜の加護の件もあるし、そういう話は周りも慎重になるだろうけど……アル本人にも、注意はしておいた方がいいかもしれないな」

 そう結論付け、ルシエルはそろそろ騒がしくなりだした部下たちを落ち着けるため、一歩を踏み出した。



 ◇◇◇◇◇



 ヴィペルラート帝国帝都・ヴィンペルン。その中枢たる《夜光宮》の謁見えっけんの間では、諜報員が密かに調べ上げてきた情報が、皇帝ロドルフ・レグナ・ヴィペルラートに奏上されていた。


「――では、くだんの地精霊は、かつてエンダーバレン砂漠を呪った精霊で、ほぼ間違いないと?」

「は。調査の結果、その可能性が高いと思われます」

「ほう。ならやはり、《擬竜騎士ドラグーン》は我が国にとって、知られざる恩人というわけか」


 どこか楽しげに、ロドルフはその紫水晶の瞳を光らせた。

「呪いは解かれ、我が国は広大な領土を取り戻した。かの地には再び植生が戻りつつある……そうだな、ユーリ?」

「うん、まだちょっとだけどね。畑とかじゃなくても、草が生えるようになってきたよ」

 砂漠に水を呼び戻すという難事業を見事成し遂げた帝国の高位元素魔法士ハイエレメンタラー、ユーリ・クレーネが首肯しゅこうする。そして顔をしかめた。

「けど水引くの、俺も大変だった」

「そうむくれるな。褒美はちゃんとやる。そうだな、皇帝直轄領からいくらか領地でも」

「要らないよ、めんどくさい。そもそも俺が領主とかできると思ってんの、陛下」

「そうだな。愚問だった」

 皇帝直轄領ということは、すなわち皇帝その人が手放したくないほど旨味があるということと同義で、少なからず条件の良い土地である。それを“めんどくさい”の一言でいともあっさり蹴ったユーリは、だが何か思い付いたのか今度は碧混じりの蒼い目を輝かせる。

「じゃあ、こないだのお菓子が良い。あの、陛下が執務中につまんでたやつ」

「ああ、あれか。安上がりで良い……というか、そういえばやけに減りが早いと思っていたが、あれはおまえか!」

「だってあれ美味しいし」

「だってじゃない! 仮にも皇帝おれのものを勝手に摘むな!」

 よりにもよって皇帝その人の間食オヤツを盗み食いなど、下手をすれば処罰の対象だが、幸か不幸かユーリは水の高位元素魔法士ハイエレメンタラーにして帝都の水を握る、ある種帝国の至宝だ。与えられた権限や自由も大きく、宮殿内でははっきり言って野放し状態だった。といっても暴虐ぼうぎゃくを尽くすわけでもなく、単に権力者(皇帝が筆頭)に対して態度がぞんざいなだけなので、皆普通に看過かんかしている。そんなことで腹を立てるような狭量な器では、そもそも帝国上層部の職務など務まりはしないのだ。

 半分以上が皇帝と高位元素魔法士ハイエレメンタラーのじゃれ合いについやされた謁見を終え、部下を退出させると、ロドルフは息をついた。

「まったく、仮にも俺の執務室に、余人をほいほい通すとは……」

「いいでしょ、別に。俺が宮殿どこでも出入り自由なのは、今に始まったことじゃないんだし」

 しれっとそう言って、ユーリはうかがうように首を傾げた。


「……で、確定したわけだけど。呼ぶの? 《擬竜騎士ドラグーン》」


 その問いに、ロドルフも表情を引き締めた。

「ああ……叶えば、だがな。ファルレアンがそう簡単に、《擬竜騎士ドラグーン》を国外に出すとは思えんが」

「貴族になっちゃったみたいだしね」

 玉座の肘掛けにひょいと腰掛けて、ユーリがそう指摘する。もちろん、他の者がやらかせば即処分の暴挙である。

「まあ、それがなくとも難しいさ。――だが、呪いの件を抜きにしても、一度話してみたくはあるな」

「そうだね、話は合うんじゃない? 陛下、即位する前はあちこちうろうろしてたもんね」

「はは、懐かしい話だ」

 しばらくは叶いそうにない放浪の旅を思い出し、ロドルフは小さく笑った。

「……ともあれ、外交ルートを通じて打診はしてみるさ。何事にも万が一はあるものだ」

「そう。まあ、頑張って」

 ユーリは肘掛けから下りると、トコトコという擬音が似合いそうな足どりで扉の方に向かったが、ふと思い出したように振り向いた。


「そうだ、陛下。いっぺんレクレウスの方調べるように言っといて」


 唐突な進言に、ロドルフは眉をひそめる。

「何か気になることでもあるのか?」

「うん。こないだディラエ川の方に行って来たんだけど」

「ディラエ川?――ああ、水脈の調査か」

 一瞬怪訝(けげん)な顔になったロドルフは、だがすぐに思い出す。水の高位元素魔法士ハイエレメンタラーたるユーリは、帝都周辺の水の管理と共に、国内の主要な水脈を年に数回の頻度で調査するのも仕事だった。かつて帝都を襲った水問題を受けてのことだ。常にとまではいかずとも、一定の頻度ひんどで状態を把握しておけば、異常事態にも比較的すぐ対処できる。

 ロドルフの言に、ユーリも頷いた。

「うん。その時に川の精霊に聞いたんだけど。何か最近上流の方から、変な力を感じることがあるんだって。ディラエ川の源流ってレクレウスの山でしょ。だから調べといて欲しいんだけど」

「なるほど……分かった。すぐに調べさせる」

「よろしく」

 言質げんちを取って用は済んだとばかりに、ユーリはさっさと出て行く。彼はもう気楽なものだろうが、ロドルフはそうはいかなかった。


(レクレウスで何かが起こっている……? いや、必ずしもそうとは限らんが。水に関して、あいつの情報は疑いようもないからな)


 水精霊に愛される彼がそう聞いたということは、それは事実なのだ。それを聞き流すほど、ロドルフは暗愚あんぐな君主ではない。

 彼は早速、謁見を終えて立ち去った部下を呼び戻すため、人を呼んで宮殿内を走らせるのだった。



 ◇◇◇◇◇



 暗闇から引っ張り上げられるように、目覚めは唐突にやってくる。

 ライネリオ・ジルタス・レクレウスはふと、眠りから覚めた。

(……どこだ、ここは……)

 目覚めてもなお暗いそこは、ずいぶんと広い部屋のようだった。周りから聞こえる水音は幾重いくえにも反響し、空間の広さを物語る。よく見ると部屋は完全な暗闇ではなく、ところどころに魔法によるものであろう照明がもうけられ、青白い光を放っていた。

「――む……う」

 妙に声が喉に絡むのを感じながら、とりあえず横になっていた身体を起こそうとする。と、新たな水音。彼はそこでようやく、自分がほぼ全身、液体の中に沈んでいることに気付いた。

(一体どういうことだ、これは……わたしは、確か――)

 彼が顔以外のほぼすべての部分をひたしている液体は、体温よりわずかに高い温度を持ち、そのせいで皮膚の感覚もやや鈍っていたようだ。ライネリオが自分の身体を支える腕もなぜか動きが鈍く、確かに彼自身のものだというのに思うに任せないそれに苛立つ。それでもさまよわせたその手が、ふと固いものに触れた。

(これは……石、か……? どうなっている)

 懸命に辿った記憶は、レティーシャ・スーラ・クレメンタインとの会見を最後に途絶えている。そこまで思い出し、ライネリオは唸った。

(そういえば……あそこで茶を飲んだ辺りで、記憶が……これは、彼女が仕組んだことなのか……?)

 ともかくも、まだ少し思うに任せない身体を何とか動かし、彼は身を起こそうとした。派手な水音が響き、単調な水音ばかりの静謐せいひつさを乱す。するとややあって、また異質な音――人間の足音が聞こえてきた。


「――ああ、お目覚めになりましたか」


 ひょこりと顔を覗かせたのは、まだ十代の半ばかと見える少年だ。彼もまた魔法によると思しき明かりを持っており、その光に照らされて深い青の瞳がわずかに輝く。

 少年は片手に明かりを掲げ、もう片方の手に籠と靴を持っていた。

「……誰だ……」

 掠れた問いに、少年は籠と明かりを手近な台に置き、靴を床に並べて一礼した。

「僕はオルセルと申します。この地下研究施設の管理人を務めさせていただいています」

「管理……人、だと」

「はい。ここは陛下がお使いになる場所ですが、陛下はお忙しいので、まだ未熟ではありますが僕が管理を。――といっても、ほとんどは勉強をさせていただいていますが」

 そう答え、オルセルと名乗った少年はライネリオに手を差し伸べる。

「陛下からは、あなたが目を覚まされたら身支度をお手伝いするようにと。動けそうですか?」

「む……」

 ライネリオはまだ少し力の入らない腕に力を込め、何とか上体を起こすことに成功した。そこへオルセルの手が添えられる。常ならば無礼だといきどおるところだが、今は介助が要るには違いないので、身分をわきまえない振る舞いを黙認することにした。

 だが、残念ながらライネリオの体力はまだ戻りきっていないようで、彼は自前の足で立つこともしばらく無理そうだった。ぬるい液体がちゃぷんと音を立てる。それを見て、オルセルはライネリオの状態を察したようだった。

「まだ、あまり動けそうにないですね。でもこのままだと風邪をひいてしまいそうですし……ひとまず、身体を拭いて着替えだけでも」

「……この、水は」

 ライネリオは自分の身体を浸す、ぬるい液体を見下ろす。オルセルはどう言ったものかと思案したようであったが、


「……陛下は、魔力集積器官マナ・コレクタの手術を施術したと仰っていましたので。その術後の回復を早めるためのものと聞いています」


 聞き慣れない単語に、ライネリオは眉をひそめる。

「何だ、それは……」

「僕も施術していただきましたが……周囲の魔力を取り込んで、自分の魔力として使えるようにするものだそうです。僕も元は魔法なんか一切使えませんでしたが、今ではそれなりに使えるようになりました」

「ほう……」

 そういえば彼女はライネリオに“力を与えてくれる”と言っていた。それがこのことなのかと、心中で納得する。周囲の魔力を取り込めるということは、すなわち自身が保有する魔力以上の魔法も使えるということだ。魔法士としては大きな有利アドバンテージである。

(しかし、国を奪い返すためには、もっと大きな力が要るのではないか……? それとも、まだ他に――)

 ライネリオの思索しさくは、オルセルが鳴らしたベルの澄んだ音で途切れた。

「……何をしている?」

「とりあえず身支度を、と思ったんですけど、僕一人では無理そうなので人を呼びました」

 その言葉の通り、程なく数人の侍女たちが現れた。例によって顔立ちはそっくりだ。

 彼女たちの手により、ライネリオは身体を拭かれ、衣服や靴を整えられて、何とか人前に出られる風体ふうていになった。体調はまだ戻らないが、それも時間の問題だろう。身支度を終える頃には、ライネリオは少なくとも自力で立っていられる程度には回復していた。

 彼の支度が終わったのを見計らい、オルセルは一人を残して侍女を下がらせるとライネリオを促した。

「では、お部屋の方へご案内しますね。施術の傷は塞がったと思いますが、体力の方はまだ追いついていないでしょうから」

 確かに、まともな寝床で休息が取れるのは有難かったので、案内を受けてあてがわれた部屋に向かう。オルセルは施設の管理人ではあるが、常駐していなければならないわけでもないらしく、先に立ってライネリオを導いていく。

「――ああ、ここですね。どうぞ」

 やがて一つの部屋に到着し、オルセルは扉を開けるとライネリオを招じ入れた。

「では、僕は失礼します。何かありましたら、そちらの彼女にお願いします」

 ぺこりと一礼し、オルセルは部屋を後にした。あの施設に戻るのだろう。

 部屋はすでに客人を迎えるべく整えられ、差し当たって侍女に命じることはなさそうだった。ライネリオは彼女を一旦下がらせ、ベッドに横たわる。彼の身体はまだ、休息を必要としていた。


 ――そうして、彼が再びの休息を手に入れた、同じ頃。

 同じ《薔薇宮ローズ・パレス》の別の一室では、宮殿の主たるレティーシャが、まさに彼の目覚めの報告を受けたところだった。


「そう、分かりましたわ。お下がりなさい」


 報告をもたらした侍女を下がらせ、レティーシャは淡い笑みを浮かべたままティーカップを取り上げる。

「彼が目を覚ましたそうですわ。想定より少し早い目覚めですけれど、悪いことではありません」

「それはようございました、我が君」

 瀟洒しょうしゃな肘掛け椅子に身を預け、香り高い紅茶を楽しむ主に、彼女の騎士は微笑んだ。彼自身は窓辺に立ち、主の休息を見守っている。

「今は部屋で休んでいるそうですわ。――まだ、自分が何を植え込まれたのかは分かっていないようですけれど」

 くすり、とレティーシャは笑う。カップをもてあそぶ彼女に、ダンテが尋ねた。

「……オルセルには、彼の身分は伏せておいたそうですが」

「あの子のことですから、王族だなどと聞いたら必要以上に委縮してしまいますわ。謙虚は美徳ですけれど、行き過ぎると弊害へいがいになり得ますものね。出身を考えれば、仕方がないところもありますけれど……わたくしの臣下となったからには、もう少し堂々として貰わなければ困りますわ。――何なら、貴族の名と身分を与えても良いかもしれませんわね」

「そうですね……ですが、先に程良い地位と部下を与えてもよろしいかと。地位が人を育てることもあります。昔の僕のように」

「ああ、そうですわね」

 ダンテの言葉に、彼女は懐かしい記憶を思い出すように目を細める。

 ……その様子を、ベアトリス・ルーシェ・ギズレは主の給仕をしながら見つめていた。

 レティーシャの臣下たちの中でも、ダンテは一種特別な地位にある。彼とレティーシャはベアトリスの知らぬ過去の記憶を分かち合い、たまにこうして彼女を置いてきぼりに、懐かしく笑い合うことがあるのだ。それはベアトリスの心に小さいながらもちくりととげを刺した。

(……また、わたしの立ち入れないお話)

 わずかに悄然しょうぜんとしながらも、彼女は貴族の娘として、そして女帝に仕える侍女頭として、給仕の手を淀ませることはない。

(仕方がないわ。事実お二人とも、わたしなんか入り込めないほどに以前から、共にいらっしゃったのだもの)

 自らにそう言い聞かせ、ベアトリスはレティーシャの傍に控える。

 だが、レティーシャは程なく休憩を切り上げた。


「もうよろしいですわ、ベアトリス。下げてくださいな」

かしこまりました、陛下」


 カップやポットを傍らの小さなワゴンに回収し、ベアトリスは一礼する。

「では、失礼致します」

「ええ、ご苦労様」

「それでは我が君、僕も少しお側を離れさせていただきます。実は、ゼーヴハヤルと手合わせする約束がありまして。どうやら、この宮殿の中だけでは少々退屈なようです」

「そうですわね、ある程度の広さはありますけれど、子供には少し手狭かもしれませんわ。構いませんわよ、ダンテ」

「ありがとうございます。では、御前失礼致します」

 騎士の礼を取り、ダンテは退室する。それに続いて、ベアトリスも部屋を後にした。一人部屋に残り、レティーシャは唇に笑みをく。それは臣下たちに見せていたものとは異なる、冷たいものだった。


(使えるかどうかはともかく、駒はできたわ。――後はどれだけ良く踊ってくれるか……)


 彼女の目的のために、ライネリオはどれほど役に立ってくれるだろうか。

「……期待しておりますわ、前王陛下」

 笑みと共にそう呟いて、レティーシャはたおやかな挙措きょそで立ち上がると、振り返らずに部屋を出て行った。


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