第84話 よみがえるもの
南方騎士団ミトレア支部所属、戦艦《アンバー号》が母港ミトレアに帰港したのは、太陽が中天に差し掛かろうかという頃だった。
鱗皮鳥により前もって大まかな報告を飛ばしていたため、港には召集を掛けられた騎士たちがすでに集合していた。彼らは《アンバー号》が入港するとすぐに、荷車を桟橋にまで持ち込むと、《アンバー号》から下ろされた荷物を厳重に布で覆い運び始める。
港を出ると荷車には馬が繋がれ、積荷は早々にミトレア支部に運び込まれた。
「――おお……!」
荷を検めた騎士たちが、思わず感嘆の声を漏らす。長期間海中に沈んでいたせいで傷んでいるものもあったが、それでも見事と言う他ない財宝の数々が、彼らの目を釘付けにした。
「す、素晴らしい……よもやこれほどの財宝を、この目で拝める日が来ようとは……」
まるで引き寄せられるようにふらふらと、支部長のゴルド・ヴァン・コルネリアス一級騎士が財宝の山に近付く。彼にとっての至福の時は、だが長くは続かなかった。
「これはコルネリアス一級騎士、お久しぶりです」
「あ、支部長じゃん。今日はいたんだ」
「……のわぁぁあああぁ!?」
その声を聞き姿を目にした途端、ゴルドは危機を察知した小動物よろしく一目散に退避した。
「……なあルシィ、あん時どういう話したんだよ……」
大の大人のガチな逃げっぷりに、アルヴィーはちょっと引く。だがルシエルとしても反論はあった。
「僕よりむしろ、アルの方に恐れをなしたと思うんだけどね。君、今はもう爵位持ちの貴族なんだよ? 騎士団内ではともかく、一般的な立場としてはあの支部長よりも上なんだから」
「……あ、そうだっけ。忘れてた」
アルヴィーも思い当たって頭を掻く。あれだけぞんざいに扱った相手が爵位持ちの貴族となって再び目の前に現れれば、それは確かに全力で逃げたくもなるだろう。一応騎士団内では階級による指揮系統が優先されるとはいえ、貴族であることを必要以上に誇っていた彼には、手痛いしっぺ返しとなったようだった。
――ひとまず先ほどの一幕はなかったことにして、アルヴィーたちはミトレア支部が予め調べておいてくれた、海難事故の記録を見せて貰った。部屋中に林立する書架とそれを埋め尽くす記録に、アルヴィーは一瞬気が遠くなったが、先に支部の騎士たちが必要そうなものだけ抜き出しておいてくれたので、心は折れずに済んだ。もちろん、心からの礼を述べておいた。
それにより、引き揚げた船の大体の船籍の確認や積荷の照合が完了。例の財宝を積んでいた船は、どうやら七十年ばかり前に大陸沿岸を手広く荒らし回っていた海賊団の船らしい。洋上で騎士団の戦艦とかち合って戦闘になった際、折からの悪天候もあり、双方痛み分けの形で戦闘自体は終了したものの、海賊船の方はそのまま島の近く、当時の“霧の海域”まで流されてしまったらしいと記録にはある。騎士団の攻撃でマストや舵がやられ、海流から脱出できなかったのが原因と思われるとの記述もあった。
他の船も乗組員の私物と思しきものなどをいくらか回収できたが、こちらは持ち主も分からないので、運が良くても船を出した国に返すのがせいぜいだろう。それでもアルヴィーは、せめて生まれたであろう国くらいには帰してやりたかった。
――彼にはもう、帰る故郷がない。
あの日、魔物たちに跡形もなく踏み躙られてしまったから。
土地は残ったとしても、迎えてくれる人も思い出の場所も、何もかもが失われた土地を、もはや故郷とは呼べまい。
だが、この海に眠る人々の中には、その帰りを待っていた“誰か”がいたかもしれないのだ。
とはいえ、引き揚げた積荷は一旦纏めて、国に届け出なければならなかった。ましてや財宝などという代物があるのだ。どれだけがアルヴィーの自由になるのかも分からない。
積荷については現時点では、彼ができることはさほどなかった。
「――んじゃま、とりあえずミトレアで羽を伸ばさせて貰いますかね!」
そこで、どことなく雰囲気が浮ついているカイルがそう宣言する。
「どの道、俺ら王都の方で転移魔法陣の実験の結果が出るまで、ミトレア(ここ)にいなきゃなんないわけでしょ? もし失敗してたら、もっかいアルヴィー連れて島に行かなきゃなんないわけだしさ。だったら、その間ちょっとここで羽伸ばしてても、何も問題ないんじゃないですかね?」
確かにその通りだったので、ルシエルも苦笑一つでカイルのその提案を容れた。
今回の転移陣の実験では、まず島に転移陣を設置、ミトレアに戻って王都に連絡、王都で対となる転移陣を起動させる、という手順を踏まなければならない。そしてもし何らかの要因で転移陣が起動しなければ、もう一度島に行ってその原因を調べなければならないのだ。ならばそのまま島にいれば良いようなものだが、それだと今度は王都との連絡が非常に難しくなるのと、アルヴィーが発見した財宝についての報告もあって、やはり一度ミトレアに戻るべきだと判断されたのだった。
そして実験そのものにおいては騎士団の出番などはまるでなく、アルヴィーとルシエルたち一二一小隊は、結果が出るまでまったく何もやることなどないのだ。確かに、多少ミトレアで観光を楽しんでも罰は当たるまい。
というわけで、隊員たちは各々自由行動ということになった。
言い出しっぺのカイルは早々に、綺麗どころのいる店を探して出発。その手の店の発見に関してはやたら嗅覚の鋭い男なので、さっさと見つけ出して目一杯楽しんで来ることだろう。騎士団の制服でなく、持参した私服に着替えての遠征である辺り手慣れている。
クロリッドは騎士団の艦の駆動機関に興味津々で、見学させて貰えるよう支部の騎士と交渉を始めていた。ユフィオは輸入物の珍しい薬種を探しに行き、ディラークやジーン、ユナもそれぞれ、家族への土産物や自分の欲しいものを見繕いに出掛けるという。
「なあ、ルシィはどうすんだ?」
「うーん……僕も何か、土産でも探してみようかな」
私服に着替えながらルシエルがそう言うと、アルヴィーが何か思い付いたというようににやりとした。
「……あ、もしかして例の婚約者とかにか?」
「そうだね、彼女も普段は内陸の領地にいるし、海辺のものは珍しいだろうからね。喜んでくれると思うよ。ただ、手紙に添えて送るから、そんなに大きなものは選べないけど」
「……お、おう。そっか……」
からかうつもりがさらりとそう返されて、アルヴィーは何ともいえない表情でそう言うしかなかった。“婚約者”などという嬉し恥ずかしな単語も、この幼馴染には露ほども堪えなかったようだ。さすがに、政略結婚当たり前、むしろ婚約者が標準装備な貴族社会に生きるだけはあるというべきか。
「アルはどうするの?」
あまつさえ逆に訊き返されて、アルヴィーはそっと目を逸らした。
「……うん、塩とか、あと香辛料とか見てみようかなと。ルーカスに聞いたんだけど、ミトレアだと安く買えるらしいから」
「なるほどね。良いんじゃないかな。良い店が見つかれば、定期的に届けて貰うように交渉すれば良いし。王都で香辛料なんかの値段が高くなるのは、間に何人も商人が入って自分の儲け分を上乗せするからだしね」
「へー……」
なるほどと感心し、その情報を頭の片隅に書き留める。そうした調味料が安定して手に入るようになれば、料理人のネイトも喜ぶだろう。食事も美味しくなるし良いことだ。
ルシエルも出掛けてしまったので、アルヴィーもそろそろ出掛けるべく服を着替える。貴族になったとはいえ、いきなり服の好みまで変わるはずもなく、ごく普通の庶民のような服装だ。執事のルーカス辺りがいればまたうるさく言われそうだが(何しろ彼は年若い主を身分に相応しい人物に育て上げようと張り切っているので)ここは遠く離れたミトレア。好きな服を着ても文句は言われない。
とてとて駆け寄って来たフラムをいつもの通り肩に乗っけて、アルヴィーは部屋を出た。
「……あ、あの」
と、背後から声をかけられる。
「シャーロット?」
振り返り――アルヴィーはぽかんと立ち尽くした。
「……な、何かおかしいですか」
そこに立っていたのは、確かにシャーロットだ。だが、彼女も自由行動のためか、私服に着替えていた。ブラウスに脛辺りまでのスカート、髪型もいつもとは違って一部の髪を下ろしたハーフアップにしている。常とは印象が違っていて、面食らってしまったのだ。
「いや……普段と雰囲気違うなって」
「そ、それは……まあ。貴重な自由行動ですし。――ではわたしも、ちょっと出掛けて来ますので」
彼女は会釈し、先に建物を出て行った。アルヴィーはしばらく突っ立っていたが、
「……俺らも行くか」
「きゅ……」
というわけで、フラムをお供にシャーロットの後を追った。
そして。
「――ねーキミ、可愛いじゃん」
「ちょっと付き合わない?」
「間に合っています。それでは」
支部からいくらも行かない内に、早くも絡まれているシャーロットに追い付くこととなった。
「つれねーなあー。ちょっとくらい付き合ってくれてもいいだろ」
「急いでいますので」
伸ばされる手を振り払い、先を急ごうとするシャーロットの行く手を、二人組のナンパ男はニヤニヤしながら阻む。さすがにイラッとした彼女だったが、犯罪行為をしていればともかく、ナンパで通行を妨害してくる程度では、身体強化魔法を使ってぶちのめすわけにもいかない。ふつふつと苛立ちが高まった時。
「――悪いけど、俺の連れだから」
その声と共に、肩を引かれる。
急に参戦してきたアルヴィーに、シャーロットも面食らったが、ナンパ男たちも目論見が外れて見るからに不機嫌になった。
「何だよ、男連れかよ……」
「いいじゃん、そんな奴放っといて行こうぜ?」
しかし諦め悪く、なおもシャーロットの腕を掴もうとするナンパ男の手を、アルヴィーが跳ね除ける。もちろん、極限まで手加減してだ。だがそんなことは、逆上したナンパ男にとってはどうでも良いことだった。
「テメェ、割り込んで来といてふざけんじゃねーぞ!」
あるいは、軽くあしらわれてなけなしの矜持が傷付いたのかもしれない。片方がアルヴィーに殴り掛かり、もう片方もそれに触発されたように、掴み掛かってきた。
「あっ……!」
「こいつ頼む」
思わず声をあげたシャーロットに肩のフラムをパスし、アルヴィーは少し身を低くすると、
「よっ、と」
掛け声一つ、ナンパ男たちの攻撃を難なく躱し、その腹に手を回して、二人同時に軽々と肩に担ぎ上げた。
「なっ、なぁぁっ!?」
「うおおっ!?」
見た目自分たちより年下の、しかも細身の少年にしか見えないアルヴィーが、自身の倍以上はあるはずの重量――つまり自分たちを苦もなく担ぎ上げたことが信じられずに、ナンパ男たちは狼狽の叫びをあげる。だが生憎、彼らがさらなる衝撃に襲われるのはまだまだこれからだったのだ。
「よっ」
「――ぎゃあああ!?」
アルヴィーは男二人を担いだまま、手近な家の屋根へと跳んだ。二人分の絶叫がこだますが、アルヴィーは意にも介さずすたんと屋根に下り立つ。屋根の上、しかも他人に担がれてという安定感のなさに、男たちが冷や汗をかいたのも束の間、今度はそこからひょいと飛び下りる。またしても、魂切れるような悲鳴が響いた。
「……こんなもんか」
精根尽き果てたという風情のナンパ男たちを道端に下ろし、アルヴィーはシャーロットのもとに戻って来た。途端に飛び付いてきたフラムをキャッチ。
「直接ぶん殴ったりしてないし、問題ないよな?」
「……いっそ、直接殴られた方がまだ、精神的ダメージは低かったかもしれませんが……ともかく、ありがとうございます。こちらから手を出すわけにもいかないので、助かりました」
先に殴り掛かってきたのは向こうだし、確かに怪我一つさせていないのだから、問題視されることはあるまい。もっとも、男二人を担いで屋根に飛び乗ったり飛び下りたなどと喚いたところで、ナンパ男たちの頭の方を疑われて終わりな気もするが。
「あの二人が気を取り直す前に、さっさと行きましょう」
「そだな。――また絡まれてもあれだし、その……途中まで一緒に行くか?」
「え……」
シャーロットは一瞬言葉に詰まったが、
「……そ、そうですね。どの道市場の方に行くなら、行き先は同じですし……」
「そ、か。じゃあ、そういうことで……」
何となくぎこちない雰囲気になりつつも、それから逃れるように、シャーロットは先に立って歩き始める。その髪に、以前アルヴィーが贈った銀と紫水晶の髪飾りがしゃらりと揺れた。
「…………」
何だかむず痒い気分になりつつ、彼女を追ってアルヴィーも心持ち足を早めた。
◇◇◇◇◇
新たに《薔薇宮》の住人として加わった前レクレウス国王・ライネリオ。彼は宮殿内に居室と世話役の使用人が与えられ、面食らいながらも新たな生活を始めていた。
(クレメンタイン帝国か……確かに、あのダンテとかいう男が使った転移用アイテムなど、現在の魔法技術では不可能な代物だ。その技術の一端でも手にできれば……)
無論、祖国を思っての考えではない。あくまでも彼自身のためだ。
貴族議会――というよりナイジェル・アラド・クィンラム公爵との権力闘争に敗れ、幽閉されて不遇を託っていた彼だが、そのままで終わるつもりなど毛頭なかった。
(あの忌々しい貴族議会とやらに、必ずや一泡吹かせてやる)
百年前のクレメンタイン帝国の魔法技術が、現在の最先端すら凌駕したものであったことは有名だ。それを一部でも我がものとできたならば、その力をもって堂々とレクレウスを取り戻そうと、彼は考えていた。そうすれば、貴族議会も競って自分の足元に平伏すであろう――そんな甘美な想像に心地良く酔っていた時。
「――失礼致します」
控えめなノックと、涼やかな女の声が聞こえた。
「入れ」
入室を許すと、彼の世話役として付けられた侍女が礼儀に則って入室してくる。表情に乏しいが、美しい容貌と淑やかな振る舞いは、ライネリオの気に入るところだった。
「何用だ」
「お寛ぎのところ、まことに失礼致します。我が主が、ライネリオ陛下との会談を所望しておりますので、何卒お出ましいただきたく、お声掛けに参りました」
「会談……?」
そういえば、この宮殿の主とやらにはまだ会ったことがなかったと、ライネリオはふと思う。
「ふむ、良かろう。此度の件について礼も言わねばな」
何しろ、あのダンテという青年が現れなければ、未だ王城の奥で幽閉されたままだったに違いないのだ。あのままであればライネリオは、二度と日の目を見ることもなくあそこで朽ちていただろう。
ライネリオの了承に一礼して謝意を示し、侍女が両手を打ち鳴らす。と、衣類や装身具を持った侍女たちが数名、部屋に入って来た。
「では失礼ながら、お召し物をお持ち致しましたので、どうぞお召し替えを」
「うむ、確かにこれではな」
今のライネリオは、幽閉されていた時の部屋着のままである。もちろんそれでも、下手をすれば一着で平民の半年分の収入ほどの値が付くが、仮にも一国の主と面会するには、いかにも不足だった。
彼は恥じる様子もなく、侍女たちに着替えを任せる。そもそも彼の身分であれば、身の回りのことなど使用人にさせるのが当たり前なのだ。いちいち恥ずかしがってなどいられない。
だが、自分の周囲でまめまめしく働く侍女たちをよくよく見て、彼は眉を寄せた。
(……何だ? この者ら、妙に見た目が似通い過ぎていないか……?)
全員が良く似た姉妹だと言われれば信じられそうなほどに、そっくりな顔形。ライネリオは一瞬薄ら寒いものを感じたが、
「……お待たせ致しました」
そこで着替えが終わったので、彼の思考は現実に引き戻される。
「う、うむ」
慌てて頷けば、仕事を終えた侍女たちは一人を残し全員が退出する。世話役の一人だけが残り、ライネリオを案内するために部屋の扉を開けた。
「――こちらでございます」
部屋を出て少しばかり歩くと、ある扉の前で侍女が足を止める。扉の前には門番よろしく侍従が二人立っており、ライネリオの姿を見ると恭しく一礼して扉を開けた。その洗練された動作に満足しながら、彼は扉を潜る。
「――お待ちしておりましたわ」
そして室内に踏み入った瞬間、彼は目を奪われて立ち尽くした。
そこは応接間だろうか、ソファや肘掛け椅子が並び、精緻な紋様の描かれた絨毯が敷き詰められている。壁には肖像画の代わりに、ライネリオには理解ができないほど緻密な魔法陣がいくつも描かれていた。正面の暖炉はまるで小規模な宮殿か何かのように壮麗で、その中央に置かれた少女像は今にも動き出しそうに生き生きとしている。
だが、ライネリオの目を釘付けにしたのはそれらの調度品ではない。そんなものをすべて掻き消すような圧倒的な存在感をもって、“彼女”はライネリオを迎えた。
結い上げすらせずに流した銀髪、白皙の顔は人とは思えぬほどに美しく、その中で群青色の瞳が宝石よりも鮮やかに輝く。身に着けた薄蒼のドレスは、理想的な曲線を描く彼女の身体をしなやかに包み、施された銀糸の刺繍がシャンデリアの光に小さくきらめいた。
(何と……美しい……)
ライネリオとて、王であった頃は短い間といえど妻帯していた。王妃となった令嬢は国でも指折りの名家の出身であり、社交界の華と謳われるような美女であったが、この場に佇む“彼女”を目にした瞬間、その記憶は遥か彼方へと吹き飛んでしまった。
「どうぞ、お掛けになって」
そう促され、操られるようにふらふらと、ライネリオはソファの一方に腰を下ろす。その対面に自らも座し、“彼女”は笑みを深めた。
「お初にお目に掛かります、ライネリオ陛下。わたくしはレティーシャ・スーラ・クレメンタイン。クレメンタイン帝室最後の皇女として、クレメンタイン帝国皇帝の座を受け継ぎました。即位までに百年ほど間が空いてしまいましたけれど……まあ、大したことではございませんわね」
小鳥が囀るような、とはこういうことを言うのだろうと思うような、涼やかな声。ライネリオは数瞬聞き惚れ、はっと我に返る。
「……っ、ライネリオ・ジルタス・レクレウスだ」
「存じておりますわ」
微笑まれ、ライネリオはまたしてもそれに見惚れる。それを誤魔化すように小さく咳払いし、彼は室内を見回した。
「此度のこと、まことに感謝する……それにしてもなかなか、見事なものだ。帝国は百年ほど前に滅んだと聞き及んでいたが、まだこれほどのものを……」
「お褒めに与り光栄ですわ。古いばかりでお恥ずかしいのですけれど」
くすくすと笑うその声すら美しい。装飾品の一つも身に着けていないというのに、彼女はまさに君主と呼ぶに相応しい輝きを纏っていた。
――国を奪われ、幽閉されていた自分など、及びも付かぬほどに。
レティーシャを見つめる彼の目に、苦々しい悔恨と羨望の光がよぎる。彼女は目敏くそれに気付いた。
労わるような表情を浮かべ、囁く。
「――本来自身のものである国を奪われるそのお気持ち、わたくしも良く分かります。正当なる君主を差し置いて国を奪おうなどと……そのような奸臣を、意のままにさせてはなりませんわ。不忠の臣には、それに相応しい処罰を与えなければ」
その言葉は、乾いた砂が貪欲に水を吸い込むように、ライネリオの心に急速に染み通っていった。
「……そうだ。わたしは、あの反逆者どもから、祖国を奪い返さねばならぬ……!」
その双眸に力が宿り、表情が憎々しげに歪む。ライネリオの裡の憎しみを巧みに掻き立て、レティーシャはそっと唇の端を吊り上げた。
「ええ、その通りですわ。――そしてわたくしには、あなたにそのための力を授ける用意がございます」
レティーシャの言葉に、ライネリオははっと顔を上げた。
「し、しかし……なぜそこまで」
「お気になさらないでくださいな。わたくしとしても、レクレウスが今の状態にあるのは好ましくないのです。歴史ある大国というものは、正当なる君主のもとに治められるべきものですわ。王が傀儡となり、臣下が政をほしいままにするなど、あってはなりません」
「う、うむ、その通りだ」
レティーシャの笑みに底知れないものを感じつつも、彼女の言葉は耳に心地良く、ライネリオは熱心に頷く。彼の心を絡め取りつつあるのを感じながら、レティーシャは言葉を継いだ。
「ですが、一旦不条理がまかり通ってしまった以上、それを正しい状態に引き戻すにも“力”が必要になります。わたくしが差し上げるのもそのための“力”。――ライネリオ陛下がお望みならば、それはすぐにあなたのものになりましてよ」
その一言は、ただでさえ彼女の話に傾倒しつつあったライネリオの背を、簡単に押した。
「ならば。――その力、有難くいただこう」
レティーシャはその言葉ににこりと笑い、テーブルの上の小さな銀のベルを取り上げて鳴らした。すぐにドアがノックされ、侍女が紅茶と湯のポット、それにカップを二人分、ワゴンに乗せて運んで来る。その香りは豊潤で、口にする前から質の良いものだと分かった。
「これは……?」
「お出しするのが遅れて申し訳ありません。こうしてお話をするのに、喉の渇きを潤すものは必要ですわ」
「なるほど。――良いものだな」
紅茶もさることながら、それを注いだ茶器も名品だ。王族というこの上ない立場に生を享け、その中で育ったライネリオは、こうした高級品に目が利いた。
供された紅茶を、まずはレティーシャが優雅に口に運ぶ。ライネリオもそれに倣った。
「――――!?」
そして二口、三口と飲み下した時。それは訪れた。
(……何だ……? 頭が、急に重く……)
くらくらと眩暈のような感覚が彼を襲い、目の前が霞んでくる。取り落としたカップから零れた紅茶が、足元の絨毯を汚したが、もはやそれに気付く余裕もなかった。
ソファに倒れ込むライネリオを、レティーシャは薄い微笑みを浮かべたまま眺め、紅茶を飲み干すとカップを置いた。
「……せめてもの救済措置ですわ。意識を保ったままの“施術”では、正気を失ってしまいますものね。――ついでに精神の方にも多少手を加えさせていただきますので、“その後”のことはご心配なく」
すでに意識を失った彼にそう囁くと、レティーシャは再びベルを鳴らした。今度は男性の侍従たちが入室して来る。
「彼を地下研究施設へ」
レティーシャの命令を一礼して受諾し、彼らはライネリオを部屋から運び出して行く。それを満足げに見送ると、レティーシャも立ち上がって部屋を後にした。残された侍女が黙々とカップや絨毯の後始末を済ませ、ワゴンを押して立ち去る。
扉が閉ざされると、灯っていたシャンデリアも光を失い、誰もいなくなった部屋は静寂と暗闇の中に沈んでいった。
◇◇◇◇◇
前王ライネリオ行方不明の一報は、すぐさま貴族議会に届けられ、王城内はくまなく捜索された。しかし数日が経つ現在も、その足どりは一向に掴めていない。
上がってくるのははかばかしくない報告ばかりとあって、代表たるナイジェルの表情も苦々しいことが多かった。
「――まさか、王城の最奥から逃げられようとはな……」
「現在も、範囲を王都全体に拡大して捜索が続けられておりますが……未だ、それらしい目撃情報の一つすらも出て来ておりません」
「そうか……前王陛下自体にはさほどの重要性もないが、彼が“幽閉されていながら痕跡一つなく失踪した”というのは大いに問題だ。その方法が分からん限り、本人を見つけたところであの建物を引き続き使うわけにはいかん」
無論、建物内もつぶさに調べ上げられたが、隠し通路や部屋らしき仕掛けは何一つ見当たらなかった。そもそも人を閉じ込めるための建物だったのだから当然の話である。だが、実際にこうしてライネリオが消えている以上、何かしらの仕掛けが存在したには違いないのだ。それが建物に付随したものなのかそうでないのか、はっきりと解明されない限り、あの建物を再び本来の用途で使うことは難しいだろう。
部下の報告に厳しい表情を崩さないまま、ナイジェルは彼に退室を命じた。そして別室から通信用のマジックアイテムである鏡を持って来させる。
キーアイテムの魔石を嵌め込んで待つことしばし。
『――珍しいな。卿の方からわたしに連絡を取って来るとは』
聞こえてきた若々しい声と鏡の向こうの姿に、ナイジェルは慇懃に一礼した。
「突然の連絡申し訳ありません、オルロワナ公」
『構わない。何があった?』
こちらを見据えてくるユフレイアの異彩の双眸に、ナイジェルは苦い表情を浮かべた。
「こちらの失態を申し上げねばなりませんが――前王陛下が、行方を晦ましました」
『何だと?』
ユフレイアの表情が険しくなる。
『どういうことだ? あの馬鹿は、王城の奥に幽閉されていたと聞いているが』
「その通りです。しかし数日前、忽然と姿を消しました。その後現在に至るまで、それらしき目撃情報の一つすら上がっていません」
『……その建物に、何か仕掛けは?』
「調べましたが、まったく」
『そうか……』
ユフレイアも思案気な表情を見せたが、
『――では、立ち回りそうな先は?』
「そちらもはかばかしくありません。そもそも彼は、王城以外の世界をほとんど知りませんので」
『ああ……そういえばそうだな』
王太子として早くから王城内で専門の教育を受けていた彼は、周囲の環境もあいまって順調に差別主義者に育った。彼の知る“国”はせいぜい王都までであり、地方領主の領地はどこか遠い別の世界、領民たちは雑草と大差ない取るに足らぬもの、という認識しか根付かなかったのだ。ゆえに彼は、王都の外については何も知らないと考えて良い。
ゆえに、独力で脱出を果たしたのであれば、少なくとも王都内に留まっている可能性は低くないと考えていたのだが、ここ数日の情報のなさぶりに、ナイジェルはその考えを改めざるを得なくなった。
「……おそらくは、協力者がいたものと思われます」
『だがそれにしても、その協力者すら目撃証言が上がらないというのは、妙なものじゃないか? 少なくとも王城に忍び込んだんだぞ?』
ユフレイアの言がもっとも過ぎて、ナイジェルは頭を抱えるしかなかった。
と、
『――なあ姫様、俺、ちょっと思い付いたんだけど――』
いきなり飛び込んできた第三者の声に、ナイジェルは面食らい、ユフレイアは鏡の中で鋭く振り返った。
『フィラン!? おまえ、声を出すなと!』
『え、駄目だった?』
『当たり前だ!』
鏡の向こうで勃発した騒動に、ナイジェルは軽く咳払いする。
「失礼ながら――オルロワナ公。彼は一体?」
『ああ……』
ユフレイアはどう言ったものかという様子で迷っていたが、やがて諦めたように息をついた。
『……“これ”はフィラン・サイフォス。――今代の《剣聖》だ』
『ちょ、“これ”って酷くね!?』
鏡の向こうで抗議するのは、金茶の髪をした二十歳そこそこに見える青年だ。なるほど彼が――と思いつつ、ナイジェルはそれをおくびにも出さずに自己紹介する。
「ほう、噂に高い《剣聖》殿に見えることが叶うとは光栄だ。わたしはナイジェル・アラド・クィンラム。公爵位をいただいている」
『あ、ども』
仮にも国内で上から数えた方が早い身分の相手に、フィランはそう言って軽く会釈しただけだ。狭量な人間ならば激昂するところだが、幸いナイジェルはそういった狭量さとは無縁だった。もとより彼は、“どこの国にも属さない”人間なのだから。
「それで……どういった事情で、《剣聖》殿が公のお側に?」
『……実は、この間少々厄介事があってな』
ユフレイアがざっと説明した領主館に対する襲撃事件に、ナイジェルは内心舌打ちしたい気分で顔をしかめた。
(まさか、“別口”で襲撃があるとは……クリフを呼び戻したのは、少々早計だったか)
『それで一応念のために、フィランを傍に置いている。物理的にも魔法的にも、フィランなら対応できるからな』
「なるほど、そういうことでしたか。それでは、クリフを呼び戻したのは失敗でしたな。公には申し訳ないことを――」
『……いや、それで正しかったと思うよ』
謝罪を述べかけたナイジェルは、だがフィランの意外な言葉に眉をひそめた。
「正しかった、とは?」
『あいつ強かったから。正直、クリフがいても下手したら、虫ごとぶった斬られて終わってたよ。元々の腕がおっそろしく立つ上に、魔剣持ちだ。――でさ』
フィランが何となく言葉を選ぶように、ゆっくりと言葉を継いだ。
『……そっちの元王様攫ったのって、あいつなんじゃないかな』
『なに……?』
ユフレイアが眉をひそめ、ナイジェルも困惑した。
「……それは、どういう?」
『いや、理由までは分かんないんだけど。“この国の王族”を攫うつもりでここ来て、姫様攫うのに失敗したから、んじゃ次ってんでそっち行って元王様攫った可能性も、無くはないんじゃないかなーと。――それにあいつ、空飛べる使い魔持ってたし、クレメンタイン帝国関係者なら転移とか使えてもおかしくないんじゃない? 痕跡残さずに人を連れ去るくらいはできそうだと思う』
「ふむ……」
思いがけない切り口の意見に、ナイジェルは小さく唸った。
「……だが、使い魔はともかく、転移術式は……そうやすやすと使える術ではないはずだが」
『クレメンタイン帝国時代には、転移術式を込めたマジックアイテムもあったっていうし、そういうの使えば素養がなくても多少魔力があれば転移魔法は使えるよ。それに』
「それに?」
『何だ、フィラン。まだ何かあるのか』
『んー……いや、確定じゃないんだけどさ』
二人にせっつかれ、フィランは一旦切った言葉の続きを吐き出すことにしたようだった。
『……あいつ、クレメンタイン帝国――それも“前”の方に関係あるんじゃないかな、と』
「“前”というと……滅亡する前の、ということか」
『なぜそんなことが分かる?』
『いや、それがさ』
頭を掻きながら、フィランは“それ”を告げる。
『あいつ、ダンテ・ケイヒルって名乗っただろ? それって、俺のご先祖が従騎士として仕えてた騎士の名前なんだよね。――百年前、クレメンタイン帝国最後の皇女に仕えた、“本物”の《剣聖》だよ』
――その言葉は、なぜか不吉な響きをもって、二人の大貴族の胸にそこはかとない不安を呼び起こしたのだった。




